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ニーチェに関して、善と悪”good and evil"の道徳の解釈はなんですか?

またなぜニーチェはこれを奴隷道徳と呼んだのですか?

教えていただけると幸いです。
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

ニーチェといっても、時期により語る内容はやや変質しています。


もちろん、その根幹はゆらいではいないのですが。
有名な『ツァラトゥストラ~』は別の内容について語られており、
道徳については『反キリスト』『素晴らしき知識』の中で
痛烈な批判が展開されています。



ニーチェの道徳批判は2つに大別できると思います。



まず一点目。
『神は死んでいた』と唱えたニーチェですが、神ではなく
まず僧を嫌っていました。僧とは誰か?神の考えを自分の考えとして
他人にも強制する人のことです。これがニーチェの思想の根幹を
成す部分でもあるので、題意とは異なりますが少し掘り下げて見ます。


『キリストは十字架の上で死んだ』とニーチェは事実を指摘しました。
この時点でキリスト教徒はただの政治犯となり、迫害の対象であったのです。
この状況下で、それ以後のキリスト教徒が勢力を拡大するのに使用した方法論は
『死んだイエスが生き返った』『イエスは血をワインに変えた』
のような、明らかな嘘・妄想・詐欺で人を騙していくことでした。



キリスト教徒は自らの言葉をキリストの言葉と同じ『福音』であると
称し始めました。ですが、これは人類にとって『禍音』であったと
ニーチェは分析します。


こういった、嘘でキリストを賞賛する行為自体、本来のキリストの考えでは
戒められていたはずなのです。ですが、自分の権益を確保するために、
『キリスト以後のキリスト教徒』はこういった嘘を嘘で塗り固め、
教義を広めることで真摯に詐欺師を再生産していきました。

このように道徳を広める段階においては、およそ道徳的でない方法が
取られていました。『道徳的で在るべきだ』という強制は、
もはや道徳的ではないと言えるように、
キリスト教はキリストの死の時点で明らかに変質したのです。
愚者であるキリスト教徒如きが、超人であったキリストの考えを理解した、
とするのは、もはやキリストへの冒涜以外の何者でも在りません。




他者は他者のことを完全には理解できないのです。
『俺の心に土足で踏み込むな!』とニーチェは主張します。
ここでニーチェは『キリスト教的』ではない、新しい善悪を提示します。


劣悪な人間とは―――他人に羞恥を与える者
人間的であるとは―――他人に羞恥を与えないこと
達成された自由の証とは―――もはや自分に対して羞恥を覚えないこと


これこそが、ニーチェの『素晴らしい知識』でした。
この道徳からの開放により、ニーチェは真の自由を手にしたのです。











この観点から二点目の批判が展開されます。質問者さんの指摘する奴隷の道徳です。


ニーチェはキリスト教的な『弱者を保護する』道徳を『病気の力』であると
考えていました。つまり、多くの人間はお互いを高め、競い合うことで向上して
いきます。ですがキリスト教では『弱者を保護することが美徳である』と説きます。
さらに『強者は心が汚いが、弱者は心が綺麗である』と説きます。
このときに何が起こるか?


単に弱者は弱者であることを武器とするのです。それはもはや強者ですが
道徳の信奉者からは、彼らは弱者でありかわいそうな人、のままです。
弱者のこういった行為は最も卑劣な行為であり、
道徳自身が内包する矛盾でもありました。
ですが道徳は『弱者とは高潔な人間である』という嘘をつきつづけることで
その体裁を守ることに終始しました。


この問題は道徳においての最大の問題
『何故道徳を守らなければいけないのか?』に帰結します。
道徳の信奉者は『こういった問いをしてはいけない。する人間が低劣である』
と逃げ出すことしかできませんでした。




ニーチェは先の思想に則り、この問題に解答を用意しています。
『弱者は徹底的に落ちぶれるべきである』という究極の答えです。

つまり、他者は他者に介入してはいけないのです。
相手は弱者であるから親切に保護をしよう、という発想は
相手の主体性を踏みにじり、相手に羞恥を与える最も愚劣な行為です。



キリスト教徒として高潔なシスターが、道端でのたれ死ぬ老人を抱き上げた時に
『私は孤独に誇りを持って生きてきた。私の人生において最も崇高な時間を
あなたの温もりとやらで汚さないでくれ』と宣言される寓話があります。



もし相手のことを考えるならば、相手を理解した振りなどせず
お互いの距離感を保つべきだ、とニーチェは考えたようです。










以上が私の解釈です。ただし注意していただきたいのは、
以上はニーチェの僧である私の意見であることです。

同じくニーチェの僧であるエリザベート・ニーチェが力への意思という方法論で、
後のナチスドイツの正当化(ニーチェはアンチ・ユダヤをごろつき集団であると
嫌悪していました)に使われたことを考えると、やはり他者が他者の意思を
完全に理解することは不可能なのであると思います。
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ニーチェが肯定したのは、「生きる力への意志」「生命の歓喜」です。



否定したのは、この意志への束縛・必然として意志を拘束するもの
つまり「生命の歓喜」を否定する、キリスト教で、これを奴隷道徳と呼びました。
キリスト教が『悪』だとした、我欲・性欲・支配欲をすべて肯定し、
「私はそれらが、人に良いものであると、示して見せよう」と言った。
(「ツァラトゥストラ」第3部『三つの悪』)

キリスト教は、必然に甘んじて生きろ、と教え、やっと救済されるのは「生きる力」を失う時、つまり死ぬ時だ。
『キリスト教はエロスに毒を飲ませた。エロスはそのために、死にはしなかったが、退廃して淫乱になった。』
(「善悪の彼岸」ちくま学芸文庫、143頁)
『教会は、現世の厭離・官能の滅却・高級な人間、これら三つを一つの感情として溶け合わせてしまったのだ。』(同114頁)

『キリスト教の信仰とは、犠牲をささげること。あらゆる自由・矜持・精神の自己信頼を犠牲に供して、奴隷となること。自己の嘲笑、自己破壊である。』(同93頁)

ニーチェは時々誤解されて、虚無(ニヒリズム)賛美とされます。『虚無=神の否定』と定義すると、こうなってしまいます。
「生命への意志」に背き逆らうもの、人類の大いなる危機、としての虚無を、ニーチェは否定しています。
(「道徳学系譜」序章、同書366頁)
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道徳の基本が「君主道徳」と「奴隷道徳」の二種類あって君主道徳のいう傲慢で偽善的で偏見的な尺度でとらえる善悪を、ニーチェの善と悪は奴隷道徳のいう慈悲的で実用的な善悪によって反論した道徳だと思います。


これは従来の独裁政治や君主制を打破しようとする民主主義を強調した思想であるといえます。
つまりニーチェのいう奴隷道徳とは自由と平等をキリスト教の観点から説いた民主政治の表明といえるでしょう。

  
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