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聖書の本文は改竄されているということをしばしば見聞きしますが、具体的なことが分かりません。
聖書の原典及び翻訳等について具体的に教示して頂ければと思います。

A 回答 (5件)

聖書に関して言えば意図をもってその内容がゆがめられたという意味の改竄は存在しません。



新約聖書からお話をしましょう。
新約聖書に関してそのように言い切れるのはその圧倒的な数の写本の存在によります。新約聖書の写本はもっとも古いもので1世紀後半から2世紀前半のものと考えられています。2世紀から3世紀にかけて写本の数は爆発的に増え、現存する写本の数は5000以上になります。
このような写本には、筆写途中で誤りが含まれたりしますが、これらの多大な資料のおかげで、どの時点で間違い(改竄)が発生し、どこが間違いなのかを簡単に見つけることができるのです。ちょうど、DNAを比べて生物間の進化の系統樹を作る作業と似ています。

その結果、現在復元されている新約聖書は、少なくとも内容的・教義的には100%原本のままだと自信を持っていうことができます。(細かい語句などはその限りではなく、現在でも細心の注意を払って学者たちの議論が続けられています。)

旧約聖書の場合はそれより少し話がややこしくなります。状況証拠をもとに考える必要があります。
旧約聖書は紀元前15世紀ごろから書かれ始めたと考えられ、それまで最古の写本は9世紀のマソラ写本というものしかありませんでした。
しかし、有名な死海文書が発見されて一世紀の写本が発見されました。
この二つを比べると、旧約聖書の内容がほぼ完璧にコピーされていることがわかりました。
つまり、旧約聖書は、少なくとも9世紀の長きにわたり完璧にコピーされていたのです。
そして、それ以前はどうかというと、口承文学の出番です。ユダヤ教のラビは、現在でも旧約聖書を全文暗記することで有名です。
暗記の方法は色々ですが、大事なことは、集団全体で、暗記の内容をチェックするようなシステムが働いているということです。
聖書の内容を朗読するとき、それが間違っていたら、皆から指摘をされ、それをあらためるというシステムが働いています。つまり、聖書の内容は、ユダヤ人全員により相互チェックされ、文書(写本=現存していない)と口承の両方で受け継がれてきたのです。

このように考えると、旧約聖書に関しても改ざんや間違いなどというものはほとんど存在しないだろうという結論に達することができるのです。

おそらく、巷で改竄といわれるのは、新約聖書の、マルコ伝やヨハネ伝で、最後が作者の文体と少し変わっているように見えるため、改竄だと疑う人がいるということではないでしょうか?
これに関しては、改竄ということはできないでしょうね。なぜなら、おそらく、この二つに関しては最後に文章をまとめる編集者のような人がいたと思われるのですが、そのことはマルコやヨハネ自身が承知していたと考えられるからです。(作者の生存時期とその公にされた時期を考えると、無断で編集したということは考えられない)

つまり、結論を言うと、聖書の改竄はないということです。
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grayzoneさんはご存知でしょうが、現在われわれの手元にある「聖書」


に対する問題は、高層批評(higher criticism)と本文批評(text-
criticism/ lower criticism)の2種類に分けられます。前者はいわゆる
聖書の原典(ヘブル語・アラム語とギリシャ語)がどのような変遷を
たどって出来あがったか。後者はその原典がどのように写筆されて
きたかを扱う。grayzoneさんの質問と回答の仕方だと、「本文」が
前提になってるので基本的に後者を扱うのかと思ってみてたんですが、
そうでもないみたいですね。

前者で有名なのはvon Radの様式史批評がありますね(調べればすぐ
出てきますがJEDPというやつです)。彼は聖書本文が口伝によって
伝わってきたという前提の下、本文にあらわれてきている口伝の変遷を
たどって、大きく4っつのソース(JEDP)から出来上がったものと
いう理論をうちたてました。初版は1955年だったかと思いますが。
当時はかなりセンセーショナルな理論でしたが、今はそのまんまの
方向性でいっている人はあんまりいないんではないかと思いますが。
考古学的発見、例えば(死海写本に次ぐ20世紀最大の発見とも言われる)
宗主権条約(大王契約suzerainty treaty)の発見なんかによって、
様式史批評で後期の付け足しや改訂によるものと考えられた部分が、
実はかなり初期に書かれたであろうことがはっきりしてきたからです。
例えばラッドがヨシア王の改革の時代の産物とした申命記部分などは
(確か26章あたり)、モーセとヨシュアの時代の大王契約の形式から
考えれば違和感のない内容だったということが言われるようになり
ました(メンデンホール、キッチンなどが有名)。
さらに宗主権条約の存在が意味するのは、我々が原始的とか未発展の
時代と考えられてきた時代からすでに、重要なことは文書化されており、
改訂されずに保存されてきたということです。

別な話題ですが、最近わたしが見たのは(といっても2006年出版)、
本文批評にあたるもので、Bart D. Ehrmanの翻訳ものが本屋にありま
した。なんであんなマイナーな内容のものが一般の本屋にあるのか
不思議だったんですが、よっぽどキリスト教の嫌いな店主だったのか。

バート・D. アーマン、「捏造された聖書」(翻訳 松田 和也)

流し読みしただけですが、要するに新約聖書は写本の写筆の段階で
どうしようもないくらい改竄されてしまった、というものです。
アーマンが以前は比較的保守的な立場のクリスチャンで、本文批評
でもそれなりに活躍していたため、英語圏のその分野では
それなりな話題になったようですけど、同じ本文批評の学者
(例えばMetzgerとかD. B. Wallaceとか)がかなり説得力のある反論を
いくつも出してるんですが、反論部分は日本に入ってこないんですよね。
(本書にはあと、著者が「悪の存在」の問題からとてもキリスト教に
懐疑的になったということも記されています。ただこれは読んでると、
ずいぶん乱暴な聖書の解釈にのっとっているなぁという印象でした。
例えば彼のヨブ記の解釈なんかは、ヨブ記の散文部分を最初から
付け足しと考えていて、「本文」にのっとって解釈することを最初から
放棄しています。)

全然具体的じゃないし質問にも答えてませんね。すみません。
いちおうこんな具体的な批判がありますよ、ということで。
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kigurumiです。




>写本という断片しか現存していない中で、様々な写本を検討・校訂して纏められたもの以外に考慮すべき原資料がありませんので

今のような印刷技術が無かった古代の人は、手で写していたわけです。
写字生という職業がありまして、文字が綺麗なら誰でもなれるかというと、神学に詳しくないと書けない。

ご存知かどうかわかりませんが、古代のヘブライ語は子音のみです。
その文字を言葉にするとき、母音をつけなければ、音声化できません。
子音を読んで文字を音化するとき、母音をつけ間違うと、別な意味になってしまうという危ういものだった。(恐らく現代のヘブライ語も子音のみの文字でしょうけど)

例えば、、、一つの文字があって、その文字は3つの言葉を意味するが、どの母音をつけるかは読み上げる人次第で、神学に詳しければ、間違わない。

一つの文字から「死者のための祈り」という語彙と、体を喜ばせる酒という語彙が連想されて、どっちかを判断して、母音をつけて読み上げた場合正しが、母音を間違うと、例えば、葬式の日に「死者のために祈りましょう」のはずが、「みんなこの人が死んだことを喜び酒を交そうぜ。」ってことになってしまう。

写すとき、ヘブライ文字には点がつく、点をつけたかつけなかったか、または原本から点が消えてしまったりしても、別の意味になってしまう。
例えば、 湖の上を歩いた 、 水の際を歩いた。 
たった一つの点があるかないかで、違う意味になってしまう。

とはいっても、私はイエスの水上歩行は、創世記の天地創造の部分を借用していると思えるので、点のうち間違いじゃあないとは思いますが。


神はレビ人のみ聖職者であるようにとしたとされます。
ですが、後にレビ人以外が、聖職者になりだした。
聖職者(レビ人)の娘と結婚すれば、聖職者になれるってわけです。
ヨハネの父親もそういうわけで、聖職者になりましたし。

長い間詳しく教わって秘伝を伝えられてきた種族じゃない人が、宗教的リーダーになった場合、どうなるでしょう。
ゆがめられますよね。

特に政治的リーダーの家から大祭司がでてしまったら、支配に都合によい解釈にされてしまいますよね。

ソロモン。
彼の時代が一番栄華を極めたとされます。
神から祝福されたから?
はい、彼は神殿に以降の神の偶像を設置して信仰していました。
頭いいです。 
異教徒の神を大事にしていますと示して仲良くして貿易を盛んにしたから、交易の中心地は文化が花開いたわけです。
そのソロモンの政治的手腕が高かったから、栄華を極めた。
(といってもソロモンが実在の人物だったかは疑問ですが。)
だから異教の神に愛されたわけじゃあないんですが。


死海文書が現存する最古の写本ですが、まだ解明しきれていません。
ヘブライ語は2000年ほど前に一度この世から消えたんです。
20世紀になり復元されたわけですが、古代のヘブライ語ではない。
古代聖職者が使っていたヘブライ語とか、一般人が使っていたヘブライ語とか、いろいろあり、日本語もそうですが、意味が変化しているということを考慮しながら、翻訳しなければならないんです。


古代の宗教者が使っていたヘブライ語をわかる人。 
いるんでしょうか・・・・
で、結局、コイネー語やアラム語やコプト語を話す人は現在もいますので、そっちの人に翻訳の手助けをしてもらったんじゃないか と。
ちなみにコイネーはギリシャ語の古語で、そんなに変化していないそうです。


>変化したと言うより時代的・文化的・宗教的背景があるのでは、と思います。

いえ、間違いじゃあないです。
女神は自らを産み出したから処女。
他と交わらずに自らを一人で産み出した者だから処女。
そういう概念が古代にはあった。
だからマリアは、ギリシャ方面、インド方面の、自らを産み出した初源の女神という概念が当てはめられたので、処女を意味する語彙が翻訳の際に使われた。
こう私は考えました。

アヴェマリアのアヴェ さかさまにするとイヴです。
ヘブライ語に戻すとと、エウアとかそういう言葉になり、これは女、生命を意味します。


>誤訳とは思えないので、具体的な論拠を教示して下さると有り難いです。

前回紹介した本の中で解説されています。
抜粋しますね。

その前に、訂正します。
[救いを追い求めるものは幸いである] でした。


うっ、、、長い。がんばります。
本のその部分の解説、長すぎるので、短くしていきますね。

『マタイ5・10には4つの誤訳がある。
まず、ここで迫害すると訳しては誤りで、「追い求める」とすべきである。
第二に、「義」は英語では不適切な訳である。「救い」あるいは「贖い」がもっと正確である。
第三に、「彼らのもの」はやはり間違えた印象を残す。私たちは王国を所有することはできない。正しい訳は、「彼らより成る」、あるいはルカ18・16で「幼子を私のところにくるままにしておきなさい、神の国はこのような者の国である。」とあるように「彼らのような者の」である。
第四に、天の国は未来にやって来るのではない。
イエスは、第八の祝福で迫害について議論しているのでは全く無い。
神が世界を救済してくださることを熱心に主に願っているような人々のことを語っているのである。
マタイ6・33と同じ響きである。
イエスは「神の救いを先に求めよ(つまり、他の全てに優って欲せよの意)」と私たちに命じている。
失われた者を救うこと、これはイエスの第一優先事項であった。
イエスは言っている。人の子が来たのは、失われた者を探し出して救うことである(ルカ19.10。

どうして「追い求める」という語を「迫害する」という語と取り違えることが起こり得たのか。
ヘブライ語を知っていれば、どうしてそんなことが起こったのか、すぐ理解できる。
「迫害する」のヘブライ語ラダフは、二つの意味を持っている。 一、追い求める、または追跡する。二、迫害する。
例えばイザヤ書の51・1を訳するのに、「私に聞け、義を迫害する(ラダフ)人よ・・・」では意味を成さない。文脈に添って「義を追い求める人を」と訳するべきである。このラダフの語彙がマタイ5・10の誤訳の原因になっている。』


ゼエゼエ 自分の思考はサクサク・パコパコ打てるのですが、写字は苦手。

まあ 思考する上での参考までにどぞ。


>これって、当て字ですよね。

じゃあ、、、 目の見えないものを癒したって話。
ヘブライ語では<目がいい>というのは、目利きであるという意味。
日本語でもありますよね。「あんさん お目が高い」逆だと「あんさん めくらどすか。これは秦の時代の・・・」。

いいもの 悪いものの分別がつくかどうかであって、視力がいいとか、盲目とかいう意味では無い。

イエスは良いもの、悪いものの区別がつかなかった人に知恵を与えて、分別がつけられるようにしたって表現です。

マタイはコイネーに直訳している。 意訳じゃあない。
何故直訳したかというと、一字一句変えてはならないとされたから。
だから、ストレートに慣用句をそのまま別の言語に翻訳した。

以前信者さんがこのサイトだったかで、聖書にある文を読んで、昔は労働の始まりが違ったんですか?とか聞いていた。
古代のヘブライ人が3時としたものは、現代の3時じゃあないんですね。
聖書ではそのままの時間を書いてあるので、ピラトは夜中たたき起こされ、イエスを裁判にかけたようになっている。
で、夜中中行われ、ペトロが明け方 鶏が朝をつげる声を聞いたことになっている。
違う違う 笑
ペトロの否認の箇所は、ギリシャ方面に伝わっている神話を使っているだけ。
このように 新訳聖書は、異教の神話がもりだくさんなんです。
だってギリシャ方面で作られた創作文学だから。
え? ユダヤ人が作ったのではないか?
そうですよ。 ギリシャに生まれ育ったギリシャ市民であるユダヤ人が作った物語なので、当然 ギリシャ方面に伝わる神話を軸に作られているんです。

この回答への補足

前回に引続き長文の回答有り難うございます。

前回への補足
BHSの本文
ヘブライ語(一部アラム語)聖書の本文は、紀元前後頃までには標準的なものがほぼ定まりつつあったが、2世紀頃まではなお流動的で、写本により本文が異なります。これを受けて標準的な本文を基にして5世紀から9世紀頃にかけて活躍したマソラ(伝承の意)学者たちによって最終的に本文が確定され、その際に複雑なシステムにより発音の仕方が示され、母音符号(ニクダ)が付された。こうして確定された本文を「マソラ本文」と呼び、マソラ本文の種々の写本のうちサンクト・ペテルベルグ図書館所蔵の「レニングラード写本」に基づいて校正されたもの(葬祭はBHSの欄外の異読、註等参照)。


写本は写字生による癖などがありますから、判読、解読するにはそれなりの学識が必要とするものです。それに間違いやすい文字として
?(ベート)≠ ?(カフ)
?(ギメル)≠ ?(ヌン)
?(ダレト)≠ ?(レーシュ)≠ ?(語尾のカフ)
?(ヘー)≠ ?(ヘット)≠ ?(タウ)
?(テット)≠ ?(メム)≠ ?(サメフ)≠ ?(語尾のメム)
?(ザイン)≠ ?(語尾のヌン)≠ ?(ヴァヴ)
?(スィン)≠ ??(シン)
??(アイン)≠ ?(ツァディ)
等がありますね(ヘブライ語文字の表記ができてるかな??)(死海写本とBHSの書き違い参照)。それにヘブライ語聖書を翻訳するときの注意としてケティーブとケレーにも注意が必要と思いますが、いかがでしょうか。


死海写本と言えば、死海写本の内容とは無縁の、空想の産物としかいいようのない説を唱える本があったことを思い出します。邦訳ものでは、M・ベイジェント、R・リー『死海文書の謎』、B・スィーリング『イエスのミステリー』(共にいわゆるトンデモ系で、高尾利数訳であるが、どうして彼がこの種の翻訳をしたのか首を傾げます)等で、それらに共通するのは、死海写本には、イエスや初期キリスト教の実態が記されているという見方がありました。死海写本を調べた範囲では、イエスとその弟子たち、初期キリスト教への言及は皆無ですね。


今回の回答への疑問
>変化したと言うより時代的・文化的・宗教的背景があるのでは、と思います。

に対する回答は、回答になっていません。前回の氏の回答は70人訳聖書におけるものであって、それがなぜか、ギリシア語聖書のマリアの議論に変化しています。70人訳聖書の問題点なのですからそれに言及して下さい。是非お願い致します。


>誤訳とは思えないので、具体的な論拠を教示して下さると有り難いです。

に対する回答は、マタイ福音書がアラム語からの翻訳という仮説の立場による論述と考えます。しかしマタイ福音書のギリシア語写本(含断片)は、UBS版、ドイツ聖書協会版(Nestle)によれば数百にも及びますが、アラム語原本及び写本は全く発見されておらず、存在が確認されていません。確かにマタイにはヘブライ語法が多いのは事実ですが、現在ではアラム語説は仮説の域を出ていません(その意味では、共観福音書のいわゆる「Q資料」も同類ですね)。

それは別としてマタイ5・10に関してですが、引用された本の内容を具体的に検証されたのでしょうか。底本ではどうなっているのか、文の構造はどうなっているのか、直訳はどうなるのか等です。

イザヤ51・1とマタイ5・10は文の構造が異なります。

私訳
イザヤ51・1
「義を追い求める者たち」
マタイ5・10
「義のために迫害された者たち」

イザヤ51・1では「義」は目的語ですが、マタイ5・10の「義」は理由・原因を示す前置詞がついており、目的を表すものではありません。更に「追い求める者たち」は現在能動分詞ですが、「迫害された者たち」は完了受動分詞で、共に名詞化されたものです。マタイ5・10には写本による異読はありません。

著者が何をいおうとしているのかは、気に入ろうと入るまいと、正確に訳し、正確に解説しなければいけないと思っていますが、どうでしょうか。


「兎に角」の「兎」と「角」が当て字ということですが・・・議論がかみ合っていませんね!


「具体的に教示して頂ければと思います」と記したのは根拠の希薄な回答(いわゆるトンデモ系)は避けてほしいからです。

補足日時:2008/12/16 00:07
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何をもっと原文とするか。



考えがまとまらないので、書物を紹介します。

信者でも無い私が、聖書の内容に詳しくなったのは、海外の小説をワクワクしながら読んでいたからと思えるんですね。

その中の聖書関係の書物。

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82 …

膨大な量の書物ですが、スリルとサスペンスで、飽きずに最後まで読むことができます。


つづいて
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83 …
内容はさておき、聖書の成立とかが載っています。


つづいて
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82 …


例えば、メシアというのは、油を注がれた聖別された者という意味でした。
ところが、他民族に支配されるようになると、ヨシュアのように力強い者を、メシアとして待望するようになった。
ヨシュアってヘブライ語ですが、ギリシャ語だとイエスス、イエスです。


で、ギリシャ方面では、ユダヤ人が本国の8倍も住んでおり、ヘブライ語もアラム語も知らない彼らに伝えるために、ギリシャ語に翻訳された。
70人訳聖書が代表的です。
みんな同じ翻訳だったから、この文章は間違えていないとなったそうですが、実際は翻訳者によって、内容はマチマチだったらしい。
なぜかというと、ヘブライ語にあって、ギリシャ語に無い単語がいくつもあるから。
例えばメシアは救世主を意味するキリストという言葉に翻訳され、「女が子供を産む」が「処女が子供を産む」に変化した。
でも、まあ 優秀な翻訳者が集まったせいか、ある程度共通する翻訳が完成したらしいです。


で、原本は恐らくエルサレム神殿にあったと思えるが、ローマとの戦争で、神殿の図書館も消失した。
聖職者は虐殺された。
それで、復元は70人訳聖書を頼るしかなかったらしいです。

死海文書はほとんどのユダヤ聖書を網羅している。
翻訳し、現代の人が使っている聖書とそれほど大差が無いことに、聖職者はほっとしたそうです。

じゃあ 変えられていなかったのか。
上記に紹介したイエスの古文書の中では、「一節を加えたために、まるでイエスが死者を復活させたようになってしまった。」とある。

他にも死海文書の解説書(題名失念)で、有名な山の上の教訓が、編集されているという指摘がある。
主語が突然変化しているので、他に書かれていた文書を、編纂する際に、こっちに持ってきた可能性があるという指摘。

他にも、上記で紹介した<イエスはヘブライ語を話したか>で、言語に違いによるもの、慣用句を直訳してしまったため、意味不明になってしまっているもの、その意味不明を「こういう意味だ」とか現代は無理やり解釈している とか載っています。

一字一句この世の終わりまで、変えてはならない という意味がわかってきます。
他の言語に翻訳してしまうと、元の意味を喪失してしまう。
日本語にも英語にも慣用句があるように、ヘブライ語にも慣用句がある。
例えば<兎に角>。 
ウサギに角はないがどういう意味か といっくら考えても、わからないですよね。
無理やりこういう意味だとするより、日本語ではとにかくはanywayの意味だとわかればいいわけです。

「義のために迫害された人は幸いである」は間違い。
「義を追い求めたものは幸いである」が正解。

前の文章になってしまうと、迫害されて殺されると天国にいけるぞ と暴動を起こして社会不穏を起こしてつかまったり自爆テロをした人は、天国にいけるかのようになってしまう。
当然皇帝は鎮圧に乗り出しますよね。

ネロがキリスト教を迫害した?
ネロが社会を乱すテロリストを鎮圧したってことじゃないかと。
なのに、今じゃネロは悪だって伝わっている。
もともとは誤訳が原因で、とんでもない事態になったわけです。

カトリックのプロテスタント信者の大虐殺など、痛ましい事件が起こったし、自分たちこそ正しいって思いこと自体間違いなのに。

そういうわけで、知恵を持たないで読むと、とんでもないことをしでかすことになる諸刃の刃が聖書です。

この回答への補足

>何をもっと原文とするか。
現段階では、写本という断片しか現存していない中で、様々な写本を検討・校訂して纏められたもの以外に考慮すべき原資料がありませんので、
 ヘブライ語聖書は ドイツ聖書協会版(BHS)
 ギリシア語訳ヘブライ語聖書は ゲッティンゲン研究所版(Rahlfs)
 ギリシア語聖書は UBS版、ドイツ聖書協会版(Nestle)
をそれぞれ前提にしています。

>「女が子供を産む」が「処女が子供を産む」に変化した。
変化したと言うより時代的・文化的・宗教的背景があるのでは、と思います。この箇所の「女」は、原語では単に女性を指すのではなく、「結婚適齢期の女性、未婚の若い女性」を指し「若い女性、娘」の意で使われています。ですから、宗教的に、純潔を重んじ、純潔であることが背景にあるれば、当然「結婚適齢期の女性、未婚の若い女性」は「処女」であり、「処女」の意の言葉に訳すのはごく自然だと思います。いかがでしょうか。対応語がないわけではないと思いますが・・・

>「義のために迫害された人は幸いである」は間違い。
>「義を追い求めたものは幸いである」が正解。
マタイ5:10ですよね。誤訳と言うことですが、誤訳とは思えないので、具体的な論拠を教示して下さると有り難いです。

><兎に角>
これって、当て字ですよね。

書籍の紹介有り難うございます。

補足日時:2008/12/12 23:42
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何を本文といい、改竄というかで変わってくると思いますが……。



例えば、旧約聖書の詩の部分は元々口伝であったものを、文章化したものです。また、福音書はキリストについて弟子が書いた(古いものは語った)もので、幾つもあるうちから採用されたものが聖書としてまとめられたものだ、といえます。
ダヴィンチコードで聖書の会議が開かれたみたいなことが書かれていたように思いますが、教授に質問してみたところ、そう断言できる証拠はなく、あくまで可能性の話だといわれました。結論、原典がどれということはできないのではないでしょうか。

翻訳について。
ヘブライ語が一番最初であり、同時にギリシャ語あたりも使われていたと思われます。それから、キリスト教の広まりと同時に様々な言語に翻訳されていくこととなります。
改竄といって良いのか分かりませんが、当然、言語によって指し示す範囲の違う単語が使われていたり、その土地の風俗として嫌悪感が抱かれる単語が元々あった場合は別の単語に置き換えられたりすることは、今も昔も変わりません。その意味でなら、改竄しているといえます。

また、蛇足ですが、聖書は元々口伝であり民衆に伝えられたものであるので、現在日本語で見ることが出来る聖書よりもずっと優しい言葉であった、という説もあるそうです。関西弁訳聖書、などというのも出ているそうなので、見てみると面白いと思います。

去年ぐらいに受けた授業の知識から引っ張ってきたので、記憶違いがあったら申し訳有りません。また、質問と回答がずれていたらすいません。
参考になれば幸いです。

追記。
改竄って、もしかしてこれのことでしょうか?↓

参考URL:http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/deuteron …

この回答への補足

聖書本文とは、口伝や資料を集め、またそれに手を加えて編まれ、成文化され、ユダヤ教乃至キリスト教の正典として認められた文書群を前提にしています。成文化され、正典とされた聖書本文が改竄されているということをしばしば見聞きしますが、具体的なことが記されていることないので質問してみました。もちろん誤訳があるのは承知しています(ラテン語訳ウルガータ聖書の誤訳に基づいて製作されたミケランジェロの「モーセ像」の角は有名ですね)。

改竄とは、ある意図をもって不当に改めること、と理解しています。

翻訳ということは本当に難しいものです。翻訳について、七十人訳ギリシア語聖書にこういう一文があるのを思い出しました。
私訳ですが、

「あなたたちにお願いします。善意と気配りをもって精読して下さい。わたしたちは翻訳に懸命に骨折りましたが、語句の幾つかは不十分であると思うので、御容赦下さい。というのは、元来ヘブライ語で言われていることが他の言語に翻訳される時、同じにはなりません。しかも、これらだけでなく、律法それ自体さえも、預言や他の書物も、少なからず元来言われているのとは相違してきます。」(Sir Prolog:15~26)

どうでしょうか。聖書自体が翻訳の難しさを述べています。意味内容をどう他の言語に置き換えるか、これは改竄ではないでしょう。但し、解釈が入り込んでしまって意味内容が原文とは全く違ったものとなってしまうなら、これは改竄になるかもしれませんね。

「ケセン語訳聖書」も出版されていますよ。暖かい訳の聖書ですね。(註:「ケセン語」宮城県気仙沼地方の言葉)

参考URLは以前からしばしば閲覧していました。有り難うございます。

補足日時:2008/12/12 23:31
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