創造主なる神は存在するか?
身内も友達もいない自分は神を信じたいと思っています。
一人で私は神との交流を試みましたがうまくいきませんでした。
やはり神を信じるには既成の宗教に頼るしかないのでしょうか?
神は既成の宗教からではないと返事をしてくれないのでしょうか?
既成の宗教に入らずに創造主なる神を一人で信じている方がいましたら
信じれる理由をお聞かせ下さい。
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回答(13件中1~10件)
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No.13ベストアンサー10pt
僕はキリスト教を信じていました。しかし今は教会から、神から離れています。
自分の精神にはどうしても聖書を読むことや神を賛美し礼拝すること、
牧師のメッセージ等々が苦痛で耐えられないものであったからです。
僕は宗教をやって失敗した人の一人に過ぎません。現に宗教をやって
精神的な安らぎを得ている方々も多数おられます。
ですが宗教というものはその人の価値観、思考を間違いなく規定します。
そして人生というのは一度きりであります。
ですから宗教をやって「人生を棒に振ってしまう」可能性だってあるのです。
質問者様の文面を浅はかながら拝見しますとどうも、軽い気持ちで
神を求めている印象を否めません。
ですが前述のように宗教というのはその人の考え価値観、そして人生を規定するものです。
ですから何の宗教にせよ、それ相応の必死の覚悟を持って始めてください。
決して「人間関係が疎遠だから宗教」のように逃避的な理由で宗教を選択するとそれは動機としてどうか、と思います。
辛口になりましたがこれにてお暇させていただきます。
この回答へのお礼
回答をありがとうございました<(_ _)>
神は、脳で思考しても理解できません。なぜかというと、脳、自我と神、無我、大自然は対立しているからです。脳の思考を、休ませると、神に通じて、心が癒されます。幸い日本の伝統文化、和風文化は、脳を休めて、心を癒す事を目的にしています。座禅、茶道、日舞、日本画、演歌、能、落語、太極拳などがあります。
この回答へのお礼
回答をありがとうございました<(_ _)>
No.11ベストアンサー20pt
信じれる理由というか、神にしろ仏にしろ創造主にしろ、その表現は様々であっても、あるものを言い表しているかと思われますが、それはおそらくは『大いなる存在』かと思われます。この存在を能動的に探求するものが哲学であり、受動的に信じようとするものが宗教かと思われますが、学問と信仰、あるいは積極、消極の違いはあれ、その志向するものは同じでしょう。
結局、十人十色、立場や価値観等が異なっても何らかの『大いなる存在』を探し、信じ求める者にとっては哲学や宗教は一種のツールであることは間違いないでしょうが、それ以外でもその『大いなる存在』を我々に感じさせるものは色々とあるかと思われます。
例えば、地球と太陽の配置距離、今より近い、あるいは遠かったりしたら一体どうなっていたでしょうか。我々が存在するに適したこの絶妙の距離は偶然でしょうか。また、大気中の雲の量は、ほぼ常に地球の表面積の50%に保たれているのはどうしてでしょうか。あたかも窓のブラインドのように太陽光を調節しているみたいなのですが、これは偶然の産物でしょうか。
私の観るところ、世の中には偶然という言葉で片付けて仕舞っている必然がかなり多いように感じられます。それらの必然の背後には、どうしても何らかの力が働いている、つまり、『大いなる存在』があっても何ら不思議ではなく、それを否定する方が非合理的ではないかと思っています。
ですから、表現は違えど『大いなる存在』の存在は疑う余地のないものと確信しています。
この回答へのお礼
回答をありがとうございました<(_ _)>
既成の宗教組織に入らずにも キリスト教でもキリストを信じている人がいます。 ちょうど、あなたの次の質問の方(brageloneさん)もその一人です。 「ゲッセマネとは?」という質問をしていられます。
私の場合には、うまく言えないですが、キリストについては無限に信頼してるという感じです。 それをbrageloneさんは《信仰》と評してくださっています。
内村鑑三という有名は無教会主義者の方も、既成宗教に入らずに創造主なる神を一人で信じている方のうちの一人でしょう。
そのような方たちの方が、私には考えが深いと思えます。
おそらく 鵜呑みにして考えることなく 自分で悩み苦しみ考え抜いた結果その信仰にたどりついた人たちだからです。
そこでも 私は回答していますが、キリストについてはそれを読まれてください。
しかし、私は 神と新約聖書とは別に考えています。
キリストについては、 神を唯一正しく深く説明しきった人で、それは言葉だけで説明したのではなく 身をもって説明した人だと考えているのです。
だから、私なんかよりはるかはるか 神の愛を知っていたかたと信頼できるということです。
たとえ話として、それは≒キリストを信じているということなのかもしれません。
それはそうなのですが、 私は神は私たちをいっさい助けてくれるという存在ではなくて、 わたしにとって神が全知と言う意味は、 どんな誰のことも、たとえば、あなたのこともすべて解かっているということをいみするだけです。 わたしには、そちらの短い文で そちらの人生のなにがしかすらも解かりません。 神はすべて解かっているということです。
わたしには、どうして>一人で私は神との交流を試みましたがうまくいきませんでした。<のかについて、 ほとんど想像力すら働かせることは出来ません。 神だけしかほんとうのことは知らないんです。
だから、まず私に解かることは 神にとってはすべて、どんな認めがたい悪人でも許してるにきまってるということです。 つまりキリスト教のいう原罪なんて 人間が秩序のためにかってに想像力をたくましくして考えたことにすぎないということです。
宗教のはじめを想像して 深く考えたらわかります。 社会秩序のための創作です。 しかし、もちろん、存在が どうして、こうしてたった今ここに存在してるのか たった今 こうして私がこれを書きあなたがこれを読んでいるのか? その存在が人間の力でなく 与えられた何かであることは解かると思います。
それを贈り物として理解できるまでに 感性が熟さないと残念ながら自然には神を信じられないと思います。
それでも神はあなたを助けてはくれません。
まして、信じれば救われると言って組織にさそう人たちの自然な信仰への目ざめは たぶんおくれるだけなのを、救ってなんてくれません。 へんてこな言い方ですけどね^^。
質問していいですか? プラボックス8さんのような誠実な文を書かれる方が なんで友達がいなかったり、身内がいなくても新たに身内が作れないでいるのかの 理由を何かご自分で知っているでしょうか?
この質問重荷でしたら 無理にとはいいませんが、 気になったものですので。
助けてなんかくれないのに、信じれる理由は、 私の場合、 神をのろって何十年たってからのことですので、 ひとことでは言えないのですが
…。
何も答えてはくれないと知ってても、 心では今ではいつも話してるようなものですけどね。 つまらないはなしばっかですが、(おそらく神にとってはです。)
確かに、さびしい時にさへさびしくないという感じはありますね。
青空にしても雲にしても 全部贈り物として感じますから。…。
私の場合のそう感じれるようになった方法の道筋にても、やはり友達をこっちから大切にしたり、身内もこっちから大切にしたりすることは大事なのですが、
この回答へのお礼
回答をありがとうございました<(_ _)>
知っている概念を書いてみますね。
何か参考になれば幸いです。
『創造者がいるなら、皆創造者の作品でしょ。ならば作品である自分や他の一切の生命あるものに怒りをもつのは善いことでしょうか。それこそ創造者に対する冒涜ではないでしょうか「あんたの作品嫌なんだよ、駄作だよこんなもん」と言ってるようなものでしょう。貪りの心を持つと怒りも生まれますから、貪りも抑えなければいけませんね。無知があると怒り貪りが生まれますから、智慧を働かせなければいけません。智慧を持って無知を滅して、怒りと貪りを制する人が、唯一冒涜をなさぬ人といえるのではないでしょうか。まずは一切の生命に慈しみを持てるように自分を改善してみてはどうでしょう』
と言うものと
『創造者がいるなら物質・精神もその流れるシステムによって起こることは創造者責任になる。善いことも悪いことも。そうなると道徳が成り立たない。完全なものが創ったなら完全でしょ。創ったものが不完全なら創造者も不完全でしょう。などなど…。。創造論は成り立つんでしょうかね?』
と言うものです。
何かの参考になれば幸いです。
幸福でありますように。
では失礼いたします。
この回答へのお礼
回答をありがとうございました<(_ _)>
☆・神との交流☆、というお言葉は独自のご表現ですか。
私も一人で、そういうことを試行しますが、そういう表現をとる信仰団体もありますね。
☆を信じるには既成の宗教に頼るしかないのでしょうか?☆
そういうことはないと存じます。
しかし、神というものをどう位置づけているかの勉強はためにはなると存じます。つまり入信すると否とに関らず、勉強することは。
入信しても、その団体や教義、指導におんぶに抱っこでは、何もなりません。宗教って結局他力本願通底してますが、自力も通底です。自分で信仰という認識の道を歩くしかありません。他力の中で。
何の宗教も関係なくできるはずです。でも勉強はすることです。
☆既成の宗教に入らずに創造主なる神を一人で信じている方がいましたら、信じれる理由をお聞かせ下さい。☆
これにご回答される方は私も、関心します。
しかし、日本人はいや人間が自分という存在だけで、生きているという、存在しているという人はいないでしょう。
自己の存在を、自分や世界ににとことん問い詰めないで、無神論とか何とかは、認識している、失礼ながらおへそのお茶です。
論理不徹底です。そういう意味では人は依拠するものに依拠して存在している。
だからみな信じている。しかし、宗教の言葉を使わないでいえる人が居たら、私は関心(感心ではなく)です。面白いです。
しかし仮にいたら、この回答に登場はしてくれないでしょう。
でも多くの信仰者の本物は、そもそもそういうことが下地で、信仰に入っているのでしょう。
ご質問者とともにご回答を見守りましょう。
明確にいえば、その質問がでるなら、自分の信仰でいけばいい。
信仰があれば、神という名乗りはなくても、交流はありえます。
これは私自身の経験です。
この回答へのお礼
回答をありがとうございました<(_ _)>
唯我独存 ~ わが心の外に神や仏は実在しない ~
わたしは、身内も友達もいますが、神は存在しないと思っています。
既成宗教の神々は、なぜ同じような人間を創造したのでしょうか。
むしろ同じ種の人間が、さまざまの神を創造したにちがいありません。
あなたが知ってる神々は、あなたが創造したわけではないのです。
だれかが創造して、みんなに紹介しただけです。わたしも、何人かの
神々を紹介されましたが、自己紹介する神には会えませんでした。
わたしの友人・知人・恩師には、聖職者や宗教学者や教育者がいます。
彼らは、一度たりとも、わたしには神を紹介してくれませんでした。
だからこそ、いまも友情が存続していると、わたしは考えています。
犬や猫を観察すると、彼らは遺伝の法則どおりに生れ、さほど不満や
不安もなく、喜怒哀楽を経験します。それぞれの生涯で、生命の原理に
したがって朽ちていきます。われわれは他に何を望むべきでしょうか?
この回答へのお礼
回答をありがとうございました<(_ _)>
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」って聖書に書いてありますよね。
求め続けることが大切ですね。
唯一の神がいるなら、唯一の教えもあるはずですよね。
それにめぐり合えるように、求め続け、祈り続ければいいと思いますよ。
私は、めぐり合えましたよ。
人はときどき、神様を自分の都合に合わそうとしてしまいがちです。
そうではなくて、神様に自分自身を合わさない限り、
独りよがりな信仰になってしまいます。
とりあえず、聖書を独自でちゃんと読んでみてはどうでしょう?
仏教が好きなら、その経典を勉強すべきでしょう?
この回答へのお礼
回答をありがとうございました<(_ _)>
われわれの日常生活の経験からは無から有は生まれません。そのように思える場合でもその存在に気がつかなかっただけと後で分かります。われわれの自我意識にしても例外ではないと思いますが、何につけてももとになるものが必要というのは人間の頭がそのように考える以上、必要なのではないでしょうか。そのもとになるものを何と呼ぶかは別にして私も何かもとになるものはあると思います。しかしそのもとになるものも何か別のものから作られているのだろうとも思います。次々と行って根源的なものがあるにしても、そのれがどういうものなのかはは少なくとも私にはわかるものではないと想像します。
この回答へのお礼
回答をありがとうございました<(_ _)>
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