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日蓮正宗の御本尊は、
「十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり」
と御書にもあるように、十界すべてが揃っていなければならないはずです。
それにも関わらず、日寛上人の御本尊は、八界しか書かれていません。
これは、どうしてでしょうか?
たとえ、二乗を略しても功徳に変りがない(理屈では変りがある)にしても、わざわざ二乗だけ略した意味が分りません。
この略した理由が明確になければ、かえって、御書との整合性がとれず、御本尊への疑いが生じ、功徳が薄れると想います。
道理と証文をお願いします。

なお、創価学会の日寛上人御本尊は、
http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/html/souka_4.html
日寛上人の御本尊を書写したものであり、
もともと、日寛上人の御本尊には、二乗がない(ものがある)と推測できます。
これは、日蓮正宗でも、この点に関して批判がないことでも判明しています。

A 回答 (3件)

No1ですが、 すみません。

 自己紹介もしないで いきなり哲学的な(t知的厳密性を求めてのということです。)補足要求質問をしたら、 びっくりしてしまいますよね。

わたしは、 たぶん幼い頃何度も死にそうになったことから、物事を徹底して考える癖、真実を求め続ける癖がついたようなそんな人間でもあるんですが、  肉体労働者として生きてきまして  本も哲学も好きなんですがあまり読めないできました。

現在、とてもかわいそ~~~~なワーキングプアーをやっております^^。(このPCも 会社のです^^)

手相では億万長者の手相なので、 あまりにそのユトリがあるため 逆にワーキングプアになりたくてなりたくて、 それでなってしまってるっつう感じです^^。 か、どうか^^^^。

ともかく ただの一庶民哲学者です。



昔の創価学会の折伏戦というのには、あきれてしまうようなことが多かったですね。

座談会に連れられていって、わたしが何か言おうとしたら反論があるのかとおもったらしく 偉そう顔をした幹部の方がいきなり

黙れえええ!!!  裂ぱくの気合で叫ばれたのです。^^?

まあ そんなこともたしかにありましたが、

ほんとうの幹部の上の方では その頃から、哲学を大切にしていましたね。  疑って疑って疑いぬいて真実を求めるという姿勢とか、 あのえばった幹部とは逆の意味に気迫を持ってる人たちだったと思います。

友達がかなりいたこともありかなり さまざまな座談会とかに呼ばれたのですが、

ある時に、副会長だとかいう人 森田副会長だったかな。 そういった名前の人がその地区にやってきて、狭い会場にはたくさんの人があふれていたんですが、

この時には、わたしは疑問がすでにあったので まず御本尊について それは基本的には音声統一言語として その深い意味を探る必要があるんじゃないですか。 たとえば、 これこれこういうふうに、 と青二才の分際でかなりなまいきな 論法で質問してみていたんです。

そうとう怒られることを覚悟で質問したんですが そうしたら、その副会長はわざわざわたしに握手してきて「若い人の新しい観点は 勉強になる」と言ってくれたんです。

とんでもない、ことなんですけど、  それで 私の中には、 そのまわりでの鈍ちゃん騒ぎとは別の真剣な哲学路線が はじめから考えられていたんだなと 理解することができました。

その時は その後はさらにあきれるようなことがありましたけどね。なにしろ副会長様と握手してしまったもので、  何百人というご婦人がたがこの 痩せた青年の手を押しくら饅頭のようにおしよせてさわりまくりだしたんです。^^。



そうそう、そちらの質問文には>功徳<という言葉も語られていてかつ、日蓮正宗でも、この点に関しては 云々とあるのですから そちらは質問するまでもなく創価学会員ですよね^^。  そのつもりで書きますが、

当時 ある会場にて、池田氏が来るということで、 殺人の前科のある人が会場に入ろうとしてるのを青年部の人たちが勇気を出して止めようとしていたらしいのですが、  そこを池田氏に目撃され 大目玉をくったという話を聞いています。

「おまえたち、それでも仏法者か!  こういう人たちを折伏しないでなんのための仏法なんだ! そんな無慈悲なやつこそ出ていけ!」 

いえ、くわしいことは知らないのですが、いかにも彼らしい気迫がそこにあったことは想像できます。

彼は ただのオルガナイザーとしてすぐれただけの人間ではないとわたしは思っています。

つまり、わたしは、これだけの行動を起こした最初のエネルギーには それだけの哲学があったと理解しているのです。



しかし、 公明党の場合は、逆に最初は作られたエネルギーだったと思います。  友達の関係で応援選挙カーに内側から手を振った人間の一人として^^そう思います。 

最初は わたしの質問にも答えられないような不勉強なところから出発していたのですから。  でも いまは、    勉強の点ではすばらしいですよね。   実践力やその知恵の点では まだまだと 私は思うのですが、 そのへんはここに書いてもしかたないで笑。



ともかく このような庶民感覚を持った思索家です^^。



では、そのようなわたしの方からの回答となります。


御本尊こそ、道理や証文を越えて実証ですか ともかく実際の生命力という功徳を生み出す実践(唱題)の根本ですよね。

(そこを池田氏は 帰納的にも演繹的にも煮詰める路線が創価学会なんだとの自覚で出発したわけです。)

で、 その御本尊に十界のうち 二乗が略されていることにそちらは気がつかれた、とのこと、

曼荼羅には、十界が揃って始めて、輪円具足ともなり、功徳も生まれるというふうに御所に書かれているのに、?

その曼荼羅である御本尊に 八界しか書かれていない??


この疑問についてですが、 ここで、まず確認しておきたいことがあります。


南無妙法蓮華経 という一文字にこそ意味がある点をです。 そこに力もあり そして実はすでにそれだけですべて十界一界もかけず具足してる力があるという点をです。 つまりそれ以外の文字に関らす すでに輪円具足しているとうことをです。

その上で、その意味を現す他の文字にも がゆえに意味や功徳の力も出てくるというふうにです。 

八界しか書かれていなくても それは絶対条件ではなく  その道理を知っていた日寛上人が そこで熟慮されて 時代に合わせたということは考えられないことではないということなんです。

このへんはどうお考えなのでしょう?  

もし、それが絶対条件であるとするならば、日寛上人自体を疑うことになります。 その必要のあるようなことなのでしょうか?

どうでしょう?



一応は これで八界しか脇に書かれていなくても 本質的には輪円具足されている御本尊である点は 確認できることかと思うのですが、 その上で、 では何故、日寛上人は、二乗を略したのか?    そういう議論としてよろしいでしょうか?

そうでなかったら、 直接に聞くしかなくなり、それは今となっては 誰に聞いても答えの見つからない問題となってしまうと思うのですが?



これは 余計なことかもしれませんが 一般に創価学会の 現世利益ということは、=功徳というふうに誤解されてるかと思います。

しかし、実際にはもちろん、 生命力自体が功徳であり、それによる地道な生活や心の進化が 現世利益という実益(実際に心身に役立つ現実的な利をともなうのだ)ということなのですよね。

そのへんは そちらには、確認する必要はないかと思いますが、 ここをたまたま訪れて読んでいる方が 誤解しないように付け加えておきました。



略したのは おそらく 当時にて、折伏の意義を考え、 いわゆる二乗の複雑な思考回路が じゃまだと考えたからだと思います。  脇の文字も御本尊の本質に力があるならば、力を帯びてきます。 深い 実証感覚からの何か 深く考えられたご配慮があったと考えられるということです。

庶民の知恵がやがて、二乗の世界を上回る時がやってくるまで もし日蓮が現代のこの時にて生きておられたらどうするだろうかと、 真剣に苦悩されてその上で決断されたことなのではないかと 思うのです。(すみません、私は知恵には自信があっても学者では無いのでその証文を示せませんが たしか時こそ仏法といわれていて 「時」はとても大切な日蓮仏法の要素となっているはずです。)

つまり、わたしの考えはこうです。  証文はすでに、そちらの掲げられた御書につきる。  が、 これは それでは御書との整合性がとれない問題だというのであれば それは南無妙法蓮華経の本質の力、それ自体の輪円具足性を理解していないということになるのだ ということが まず一点。

したがって 日寛上人を疑う問題でもなく、 むしろその苦慮を推理すべき問題というのが二点め、

そして、その苦慮には 次の道理があった。(これが3点目です。) 抜苦与楽の実際の心は十界互具からも 学者のように頭で考えすぎる問題ではない、 考えすぎてそこからいつまでも出てこないのを実際上の二乗というのであれば、 藝術の面も学者の面も、 一度庶民の知恵の革命の前段の「時」にて もし日蓮が生きておられたら脇の二乗は この時代にてはずすのでは、  と考えに考えた末の 道理だった というふうにです。

* 

もちろん、この事自体については推理にすぎませんが、その道理(二乗をはずした道理)自体についてなら、  裏づけとなる考えならいくらでも私は持っていますよ。   

 
たしか 日寛上人のお写真は見た記憶があります。 間違いかもしれませんが目が輝いてる方ですよね。   哲学者と思いました。 あの方ならば、おそらく そういうことなのだろうと思いますよ。  まさか ふと書き忘れたとか^^考えられませんしね。

どうでしょうか?
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日寛上人の御本尊が八界なのは、なぜですか?



哲学としての回答:
天台大師・智顗がとなえた一念三千(十界互具×十如是×三世間=三千世間)の意味するところを最澄(伝行大師)さんがまったくわからなかったのでしょう。それゆえ、後代の日蓮上人にもわかるはずもなかったんでしょうね。日蓮上人にわからないことが弟子筋にわかるはずもないですね。
日蓮上人は「十界互具」といわず「十界具足」といってるのですね。でもこの意味わかってないから「十界具足」でも「八界具足」でも「六界具足」でもなんでもいいんじゃないですかね。

一念三千の意味を理解していた弘法大師は「秘密曼荼羅十住心論」を書にしてますから弘法大師であれば「十界心論」とでもいったかもしれませんが。
つまり、何をいいたいかといえば、「十界互具」さえ理解できていないのだから何を使おうとかまわないということでしょう。
先の回答にも指摘がありますが、本尊論がおざなりなので智顗の修行の単なる「心がけ」を本尊と取り違える愚挙が横行するのではないかと思います。現在、霊界では日蓮さんもこの点の間違いについは勉強が不足であったと深く反省してますよ。ただ、日蓮さん以上にもっと反省すべきは最澄(伝行大師)さんであることはまちがいないですね。これは特に付け加えておかないとね。
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この質問のままでは、どんな哲学家でも^^、一般の人間(日蓮正宗や、創価学会員とかでない人間)には、回答が難しいと思うのですが、



かなり客観的な文(洗脳されていない人の見方)で書かれている質問文でもあるとお見受けしますmattandesuさんの質問文を それでは そのへんご自分ではどうお考えでしょう?(質問文自体の質問意図にかかわる謎?について^^なのですが)

おそらく学会や正宗以外の 哲学家(物事を深く考え抜く人)の意見を求めているかにも推測されるのですが?

二乗とは、どういう学者や藝術家たちのことお考えですか?

そういう人たちの考えも 求めていたりする質問なんでしょうか?



それと、 これは補足要求質問ではないですが、 一般的に考えるとそちらはそれらの宗教組織に属しておられるかたと判断される質問文ですが、そう考えてよろしいでしょうか? これは 差し支えなければ、お答えいただけるとありがたいという程度の質問です。

しかしながら 客観的な回答を求めておられることは明白な質問文ですので規則違反とは一切考えていませんので そのへんは安心してください。(この回答者にかぎってはですが^^)

内容に関しても 補足要求質問があります。

1、mattanndesuさんは 御本尊という存在をどう考えておられますか? これは個人的な考えでけっこうです。

2、>道理<というのは、 一般的な「道理」にも通じるところの科学性(実証できるものとか 仮説検証が可能のものとか、統計的なうらづけのあるものとか、論理性があるとみとめられるもの)のことを意味しているのでしょうか?

3、>証文<というのは、宗教批判の原理?として日蓮大聖人が掲げられている 証文が道理には勝てないものであり、道理は実際の証拠には勝てないものというような理論があったかと思いますが、 その中のご自分(日蓮)の書かれた文のことを言われているのでしょうか?

私は 個人的に十界互具については、いろいろ考えてきた人間です。

あのめちゃくちゃに荒削りに見える6道輪廻のあたりの表現も、今よりはるかにきびしい想像もぜっする過酷さもあったかもしれない時代にての、だからこそ深くありえる表現だとも解釈しています。

そちらは、それも、二乗の技に過ぎない考えとご判断されますか?

ならば、わたしには回答してほしくないで笑。

一般庶民を馬鹿にしていないならば、私という哲学家にも回答させてみてください。

初回は こうして補足要求質問のみとなってしまいましたが、 よろしくお願いいたします。
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