プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

勉強ぶそくなのでいろいろ調べたのですが、みるものによって少し違っているのでわかりませんでした。教えてください。
太平洋戦争あたりで、日本がフィリピンにいきましたよね、それ以外にもアジアへ出て行っていますが、植民地にしようとしたわけではなく、アメリカや他の外国に植民地化されたり、アジアを食い物にしているのから助ける感覚だったというのをきいたのですが それはちがいますか? フィリピンでも地元のひとはアメリカ兵より日本兵の方が親切にしてくれたといっていあっときいたのですが・・・ おしえてくださいおねがいします

A 回答 (8件)

日本が東南アジアへ進出したのは欧米の支配からアジアを開放し世界の平和と平等を実現し、アジアに地上の楽園を建設するためでした。


アジアは今も日本に感謝し多くの国にはアジアの開放のために戦った日本兵への慰霊碑や記念館があります。
中国や朝鮮は日本のおかげで豊かな国になりましたが、日本による解放を支配と呼び日本と日本人を非難するための施設が今もずっとあります。
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 回答番号:No.5補足(結論提案めいてしまいますが):


 歴史の認識の難しさ、そして多様さは、一定評価やと意味づけという編集がない、歴史記述は不可能に近いからなのかもしれません。
 しかも当時の選択や行為も多様な要素が働き、後世はそういうことの多くを捨象せざるをえない。
 さらには当時の思潮や激動をのなかの思いへの正当な評価が難しい。 絶大な苦悩と労苦の中での、ゲルマンの大移動とそれに伴う侵略・略奪。それは大航海時代においても同じであり、アメリカ大陸進出も同じでありましょう。
 そういう一連の流れを切り離して、どこからどこまでを別個に考えることができましょう。
 日本帝国主義、再分割参加。ということは歴史の中で言語(用語ではなく)として使われるが、それは今の時代のことなのでしょうね、当然。
 当時の歴史選択や行為をどう評価するかは夫々の見解と哲学なのでしょうが、そして同情は是認ではないのはよく理解するが、私は日本の過去、そして先輩の真剣な人生を少しも罪に思いはしません。
 もちろん当時も今も、許せないことは多々あるにしても、日本の歴史は世界史の中では、こうべをうな垂れる必要はどこにもないとぞんじております。国事犯や、反体制の思想や活動に残虐なことをしてきたことは、つらい思いではありましても、そしてその他のことも在りましたが。私は日本の誇る歩みの時間だと存じます。
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 歴史を見るときには、その時の経済を知っていなければなりません。

現在も、経済が大きく変動しているので、経済によって政治が動いているのを新聞やテレビニュースで実感できるでしょう。

 どの国も、国の利益を考えて動いているので、経済の動きを知らないと、政治や外交について、間違った結論を出してしまいます。

 日米開戦までの経緯が分からないと、日本軍がフィリピンに送られた意味が分かりません。説明が長いですが読んでくださいね。

 明治維新頃から第一次世界大戦がはじまる前までは、「帝国主義」の完成期です。(1877年、イギリスがインドを完全に植民地化。)
 世界は、大きな植民地を持ったイギリスやフランス、領土が広大なアメリカ(中南米も経済圏としていました。)が、それぞれ自国の工業製品を自国の植民地や経済圏で売りさばいて、経済的な商業圏と政治的な支配地が一致していました。このように政治力+軍事力で自国だけの経済圏を強国が支配する形を、歴史では帝国主義と呼んでいます。

 この頃、イギリス・フランス・アメリカに次いで工業化で国力を伸ばしてきたドイツや日本・イタリアは政治的支配地が狭く、工業生産品を売るのに十分な支配地がありませんでした。
 また、工業化が遅れ、強国から滑り落ちかけていたロシアや、元強国で広い支配地を持っているものの、弱体化したトルコや中国が絡んで、第一次世界大戦が起きます。

 第一次世界大戦で、ヨーロッパの強国がお互いに総力戦で戦ったため、イギリス・フランスの植民地支配力が低下し、アメリカや日本の製品がこれらの国の植民地にも供給されるようになりました。

 
 その結果、第一次世界大戦が終了すると、「帝国主義」の崩壊が始まります。
 植民地に独立運動が起きるようになり、植民地支配に大きな軍事費支出が必要となってきました。
 また、政治的・軍事的に支配しなくても、工業生産力が圧倒的に優れていれば、他の地域を経済支配できるということが認識されるようになりました。(アメリカがフィリピンの独立を承認していたのは、そのような背景です。ガンジーのインド独立運動など、植民地独立の動きは顕著でした。)

 また、第一次世界大戦でヨーロッパが戦場となっている間に、大きく工業生産力を伸ばした日本(技術力ではアメリカやイギリス・フランス・ドイツに及ばない)は、すぐ近くにある広大で人口が多く欧米の支配が固まっていない中国を、経済圏として発展することを目指します。
 
 第一次世界大戦後のこれらの動きに対して、1921年からワシントンで開かれた一連の会議によって、4カ国条約・9カ国条約・ワシントン海軍軍縮条約が結ばれ、世界大戦後のアジア・太平洋地域の枠組みが決定され、「中国の領土保全」=中国への軍事的進出の禁止も決められました。

 しかし、日本は戦争に勝った欧米諸国に比べて市場が狭く、資源も少なく、技術力も劣るため、日本軍若手幹部は、この条件のもとでは中国をアメリカやイギリスに経済支配されてしまう可能性が高いと判断していました。

<満州事変>
 日本が持っていた南満州鉄道の警備を担当していた関東軍の参謀、石原莞爾・板垣征四郎が主導して電撃作戦(短期戦)で、満州を占領。日本経済にも悪影響はありませんでした。
 石原莞爾は、日本本土・朝鮮・台湾だけでは狭すぎるが、ほかに石炭などの資源のある満州を支配地にして日本が徹底的に開発すれば、中国をめぐる経済競争でアメリカを凌ぐことができると考えていました。
 そのためには、外交力を総動員して軍事支出を抑え、産業投資を拡大することを第一と見ていました。

<日華事変>
 石原莞爾とは路線の違う現地軍参謀が主体となって、中国本土に対しても満州のような親日政権樹立を目指しました。
 しかし、長期戦となって日本経済は苦境に立たされます。45万だった陸軍兵力が4倍以上となり、労働人口の不足で工業生産が減少、国家総動員法を施行し食糧配給制も始まります。
(アメリカはベトナム戦争でドル危機に陥り、ソ連は10年アフガニスタンで戦って崩壊。今、イラク・アフガニスタンでアメリカが長期戦を戦った影響を世界中で負担しています。長期戦は必ず国益を害します。)

 アメリカは、日本と中国との戦争を中止させるため、日本に対して石油の禁輸を実施します。
 当時の日本の産業の動力は石炭で、陸送・海運も蒸気機関に頼っていて産業にはあまり打撃を与えませんでしたが、日本に輸入された石油の半分は、陸軍・海軍が消費しており、石油がなければ戦えない状況だったのです。

 当時、アジアで石油が手に入るのは、本国オランダがドイツに占領され、支配国している国が事実上存在しないインドネシアしかありません。
 インドネシアを占領して日本に持ってくるには、アメリカの支配しているフィリピン近海を通らなければなりません。

 結局、中国での戦争継続のため、インドネシア占領とフィリピン占領、真珠湾攻撃によるアメリカ海軍の壊滅がワンセットで行われたのです。

<<参考>>
 フィリピンで軍政統治(=占領したということです。)を行っていた時、治安維持を行っていた憲兵隊の将校の多くがB・C級戦犯となっています。
 私の父の知人のように、憲兵隊に所属し戦犯容疑で拘束されたが、現地の人の嘆願で解放されたという方もおられますが少数です。
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>植民地にしようとしたわけではなく、アメリカや他の外国に植民地化されたり、アジアを食い物にしているのから助ける感覚だったというのをきいたのですが それはちがいますか?



日本の意図は、東南アジア諸国の資源を日本の物にする事であり、現地の解放などは、全く考えていませんでした。
欧米からの解放は唱えましたが、日本の植民地にする事のカモフラージュにしかすぎません。
各国ごとの状況により異なりますが、インドネシアではオランダの統治がひどかった事もあり、日本に慣用的な状況でした。
マレーシアにおいては、中国系・インド系は湖畔的である一方マレー系では、それほどといった状況ではありませんが、シンガポールやフィリピンでは完全な反日でした。
特にフィリピンは、完全な反日であり、日系移民の人達や取り残された日本軍兵士などは、日本人である事を隠さないと生きてゆけない状況でした。
フィリピンにおいて、対日感情が好転するのは、バブル期以降に大量のジャパユキさん達が来日するようになってからです。
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同じアジア人同士、そして日本は何層にも亘って環太平洋の沿岸や大陸、カムチャッカなどから渡ってきております。

生活や習慣において、ともに通じるものがあったであろうし、大義名分が大東亜共栄ですからね。
 そして日本人は欧米の騎馬や肉食の人たちよりも温和で同情的、親切ですし、徴兵されて入っている兵は優しく、いい人も多かった。
 欧米の人たちのアジア人への接し方とは違うでしょう。
 
 国も個人も、利益なくして動くことはほとんどありませんが、当然利権も実益の中にあっての、大理想であったのだと存じます。
 歴史は一つの目的、理想、或いは理念だけでは展開はしないと存じます。庶民や学者、教育者はみな大理想だけのことを意識していたと存じます。
 それと違って、商売人って言うのがどうしても居ますね。
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フィリピンに関しては、1934年のタイディングズ・マクダフィ法によって、1946年の完全独立を米議会が定めていました。

日本が『占領』した時点では連邦(半独立)の状態にあったので、独立のため反日ゲリラが多数、発生しました。
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日本の当時の外交の主題は


中国の利権を確保しつつ中国から撤兵する。
というもの、アメリカの主張は
中国の利権を放棄して中国から撤兵せよ
というもの。
中国には英米が支援していましたので、英米の支援が切れれば中国は降伏する。降伏すれば利権を確保しつつ撤兵できる。
と、判断した。

つまり、日米の意見は全く両立しない。
米国の主張を排斥するには、
石油やゴムなどの戦略物資をインドネシアから安全に持ってくること。それによって長期的にアメリカと対峙できる。
安全に持ってくるには、インドネシアを占領するとともに、途中の英米の拠点を無力化することが必要。
その英米の拠点が、イギリス領のシンガポールなどのマレー半島でありアメリカ領のフィリピンです。
なので、海軍の最初の攻撃がハワイであるのに対して、陸軍の最初の攻撃がマーレ半島でありフィリピンになりました。

まとめ、日本もアジアを食い物にするために攻撃した、攻撃の相手が現地にアジア人政権がなにので、英米の軍になった。
それだけの話。
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いわゆる「大東亜共栄圏構想」というものがあり、フィリピンを含むアジア圏を日本を含めた「国家連合」として成立させよう、と言う試みがあったわけです。


しかし実際には、石油や資源の採掘、公用語の日本語化、基地の設立、など「植民地」に近い扱いを現地に強いていたわけです。
ただ、それが欧米列強にくらべ「たがが緩い」ということは、言えるかもしれません。
ただし「助け舟を出した」わけでは決して無く、また、国の自立を図ることも積極的に行ったと言う史実もありませんから、これらを「占領」というかどうか?ということになりますね。

また、このようなサイトでも情報は様々で、なかなか絞りきるのは難しいかもしれません。
結局は現地の人の意見を聞き、そう言った中で自分でまとめあげていくしかないのかもしれませんね。
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