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「存在」について、少しだけ問います。
チワワは犬である。のように、集合的には、主部よりも述部が大きく広いことが一般的ですね。
善は、存在である。
悪は、存在である。
物質は、存在である。
反物質は、存在である。
時間は、存在である。
空間は、存在である。
存在という風呂敷は、あらゆる事物を包み込み、
存在よりも広い風呂敷など外にないと思うのです。

では、存在は善である。はどうでしょう。
存在を意図的に(恣意的に)随分矮小化してませんか?
存在の性質を余す事無く表現していないでしょう。
つまり、言及が部分集合的だと思うのです。
「存在は善である。」は、ちっとも、一般的でも普遍的でも
ありません。
「存在には、善という性質もある。」 ならば、納得ですが・・・。
だから、何なのだとも思います。取り立てて言うことか?

さらに、『善先悪後』、『善主悪従』という性質があるでしょうか?
これらのように限定化、特殊化すると、やはり、一般的でも普遍的でも
ないように思うのです。特殊命題ではないかと。

皆さんは、どのように思われましたか?
「存在は善である。」には、納得でしょうか?

A 回答 (8件)

謹賀新年。



>善は、存在である。悪は、存在である。物質は、存在である。反物質は、存在である。
>時間は、存在である。空間は、存在である。

全て当然に問題ありません。

>存在は善である。(と同時に存在は悪である。)
括弧内と対であれば、問題ありません。前段の単独は論理が破綻すると思います。

>『善先悪後』、『善主悪従』という性質があるでしょうか?
ありません。ものを見る方向こそが善と悪だからです。
例えば、「殺人」についてさえ、善であるか悪であるか
確定することはできません。しかし、方向である以上は、
善が単独で成り立つことはありません。
原理的に対(ペア)で同時発生します。

>皆さんは、どのように思われましたか?
>「存在は善である。」には、納得でしょうか?
存在は善であるなら、同時に存在は悪でなければ、納得は出来ませんね。善と悪はなにがどうあれ単独だと消失します。
磁石のN極が絶対に単独では、「存在」しないようなものですよ。
善の「存在」に悪の「存在」が不可欠ということです。
ということで、「存在は善である。」の単独定立は、「善」の意味を消失させます。

この回答への補足

少しだけ、お礼欄の追加説明をさせていただきます。

善と悪をそれぞれ単一の存在として見る「素朴な二元論」では、かなり幼稚な哲学水準で、21世紀の現代哲学の成果を無視しているようです。

相互依存的な対立概念として、「共存在」あるいは「対存在」という一元化された存在と見るべきなのではないでしょうか。ただし、さらに、善悪を超越した存在をも包摂して、存在の範疇は、広大なのだと言うべきなのでしょう。そして、存在を善悪の価値判断可能領域に限定するようでは、狭小に過ぎると言うべきなのだと思います。

『存在の矮小化反対!』そう叫びたい気分です。

補足日時:2009/01/01 14:50
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この回答へのお礼

丁重なるご挨拶、恐縮します。
そして、ご回答には、全く同感です。
明晰なるご回答、ありがとうございます。

>原理的に対(ペア)で同時発生します。

そのとおりだと思いました。
そして、善と悪という存在は、おそらく、「共存在」あるいは「対存在」なのだと思いました。先後ではなく、同時であり、主従ではなく、対等なのだとも思いました。賛同意見があって、安心しました。

お礼日時:2009/01/01 14:21

追伸まで:


[しかし、同時に公害「bads」も生み出しているとすると、一面しか捉えていないのではないでしょうか。]

上記、ご指摘はそのとおりですね。でも、創るときはあれもこれも考えるでしょうが、最後は「これでいいのだ」と思わないとできないんですね。決断でしょ。その決断は「良いもの」としてですね。結果は副次的に公害や事故やいろんなことでますけどね。人間が作る存在は所詮そんなものですが、宇宙や太陽や全ての存在物は人間が作ったものでもないし、また人間が存在しようがしまいが存在しているので、まあ「存在は善でいいか」ということでしょうね。
いいかげんになりましたが、「そうとしかいいようがない。=そうであると言い切りたいが言い切る論理は無いのでやけくそ的につかっている。」というのはカント批判によく出てきますから、そのへんでご勘弁ねがいます。

この回答への補足

>まあ「存在は善でいいか」ということでしょうね。

というよりも善であってほしいのでしょうね。願望でしょう。切望でしょう。それって、自己愛、エゴイズムに通じていませんか?つまり、御都合主義なのであり、動機において、すでに悪ではないかと思われます。または、思考停止であり、開き直りなのでしょう。そこまで、はっきりと言ってしまうと角が立ってしまいますが、存在は善なのだと執着する発言者は、善に偏執(へんしゅう)的だと思います。逆に言うと、余程後ろめたさがあって、強い反動として善を希求しているのではないしょうか。いかがでしょうか。

補足日時:2009/01/02 01:43
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この回答へのお礼

分かりました。いろいろとお手数をかけました。
そうですね。総括として、カントの場合、「存在」を事物存在的に実体の様相で見ていて、その意味で随分と存在の範疇を狭めているとハイデッガーは指摘しているらしいですし、意思や主観の及ばないア・プリオリな存在も含め、最広義の「存在」を、人間的な価値判断に基づいて善のみと断定するのは、やはり、越権だと思うのです。人間的な価値判断と無関係な範疇が大きく広がっているだろうと推察するのですが・・・。ゆえに、「存在は善である。」には、普遍性はなく、部分的な真理なのだろうと思います。

お礼日時:2009/01/01 13:13

追伸:


「なぜどちらか一方を選択するのでしょうか。
何ゆえに、善のみ、善だけとするのか、今ひとつはっきり分かりません。」
「存在には善も悪も別々に両方ある。」ではいけないのでしょうか。

:普通に考えるときは善も悪も両方あると考えていいんです。「存在=ある=あるもの}として「存在」自体を「ある種のもの」として作ったと考える場合に、一番最初のものとしての「あること=存在」はどのような思いで創られたかを論じてるのです。いろんな言葉やことわざがありますが、例えば「四面楚歌」はどうしようもない状態のことですがこのことわざが作られた思いや歴史的事実があるわけですね。「存在」も同じようにできた時の思いや経緯があると考えるのです。
例えば、「自動車」を「存在」に見立てます。みんなで自動車作るわけですが、「こんなの売れなくてもいい、事故を起こしてほしい:悪意に分類」と考えてつくるか「みんなに喜んでほしい、事故はないように:善意に分類」と考えてつくるかということなのです。当然何らかの意思があるから「動車ができるわけで偶然でも、「なんにも考えない」では作れれないわけです。
さて、「自動車」と同じように「存在」ができたときの思いや経緯を推測すればということなんです。自動車の製造と同じように「善意か悪意」があるわけですが、どちらかであって両方ではないですよね。
だからどちらかを選ぶしかないのですが、其の選ぶ理由や基準をどこにもってくるかということですね。
前に戻って人間には思考が存在する。思考という存在は、存在があるゆえ存在するのだから、存在を思考で判断することはできない。ゲーデルの不確定論理つかってもおなじ。
だから、存在「=作られたもの」を通して判断するしかない。見えるものすべて宇宙や銀河、草花の一本まで、結果としてその「存在=作られたもの」が悪意に満ちているようにはみえない。故に「存在」は「善意」で作られたのでしょう。と考えるわけです。
ややこしいですが、「存在」という新語を作った時の意味や思いは何であったかといいたいだけですね。言葉あそびのようですが。

この回答への補足

なるほど。大変分かりやすい例えだと思いました。
自動車の製造だけを考えると「goods」として善を連想しますから、
そのとおりだと思います。
しかし、同時に公害「bads」も生み出しているとすると、
一面しか捉えていないのではないでしょうか。
単一存在というよりは、複合存在を想定すると、
やはりどちらか一方という単純モデルではなくなりそうです。
また、大麻草は善かもしれないが、悪用の種を孕んでいませんか?
そんな風にも考えたのですが・・・。

補足日時:2009/01/01 11:53
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この回答へのお礼

そうですね。
補足の続きになりますが、

自動車の例だと、やはり、「存在」の意味を「実在」に限定して使用しているのかもしれませんね。
つまり、「実在する存在」の例示だったと言い換えてもいいかもしれません。
しかし、僕が質問欄で例示したのは、実在の有無に関係ありません。
むしろ、想定概念とか観念とかのように、実在しないもの・ことの方を問題にしています。
ですから、大麻草の例示は不要でした。忘れてください。

お礼日時:2009/01/02 05:34

皆さんは、どのように思われましたか?


「存在は善である。」には、納得でしょうか?

[存在批判」ですね。カントの「純粋理性批判」とにてますね。
[存在」の根拠は、[存在=かくあれ=ある」そのものをつくった際の意識を大きく大別して「善意」と「悪意」に分けて考えると、「善意」であるという帰着ですね。それを「存在は善である。」といってるのでしょう。これには私も同意ですね。なぜならすべての世界が「悪意」で満ちている様には見えないからですね。「悪意」でなければ「善意・しか・」ないんですね。
批判:
1・ 偶然性はない。理由:偶然に事象やすべてもものができたのであれば、そこに「意思=考え」の介在する余地はない。それ故、すべてのものを構成する要素、ちりあくたに至るまで「意思」はない。故に「存在=ある、非存在=ない」などという思考さえ存在しない。故に偶然性はない。
2.中立性はない。 例えば、「我思う故に我あり」の「我」を「存在」に置き換えると「存在・思う故に存在あり」であるから、「存在」があるためには「思い」があった。ではその「思い」とはどういう思いであったか? 「思い」を善意・悪意の二分法で考える。註:ここでどちらでもないという「思い」は「考えなかった」と捉え「ない」つまり「非存在」とする。つまり「「どちらでもないという思い」は「ある=存在」の根拠にはなり得ないゆえ。 故に中立性もない。
3.「あるという思い」の発生時の意思を善意・悪意に分けると、
「存在は善である。」「存在は悪である。」の二通りの答えがある。
まず、「あるという識別思考」が悪意に満ちているかどうかということですが。「ある」は「かくあれ」からきてますからすべての「ありてあるもの」宇宙から生物、人間、ちりあくたまで鳥瞰すると悪意に満ちている様には見えない。故に「存在は悪である。」とはいえない。故に「存在は善である。」といわざるおえない。
まあそんなんじゃなかろうか程度です。

この回答への補足

なぜどちらか一方を選択するのでしょうか。
「存在には善も悪も別々に両方ある。」ではいけないのでしょうか。
何ゆえに、善のみ、善だけとするのか、今ひとつはっきり分かりません。
鈍くて申し訳ありませんが、ご解説いたかけたらと思います。

補足日時:2009/01/01 09:58
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
デカルトですか?
独我論の系譜なのでしょうか?
独我論だと、ちょっと古いというか、アレルギーがあります。
独我論の超越の方に僕の関心は傾くのですが・・・。

なお、上の補足欄の「ご解説いたかけたら」を訂正します。
「ご解説いただけたら」でした。申し訳ありません。

お礼日時:2009/01/01 10:12

頭の中の存在か外の世界の存在かで話が変わってはこないでしょうか。

善とか悪とかは頭の中の世界の話だと思います。存在という言葉は外の世界でも使える言葉です。しかし頭の中の世界が外の世界より狭いわけではないので、私にはどちらとも言えないように思いました。

この回答への補足

No.1の補足と同じなのですが、『善先悪後』、『善主悪従』という善優先・善優位の状態を願望する心情は理解できるのですが、実際問題としては、そんなに甘くないと思うのです。この点はいかがでしょうか?

補足日時:2009/01/01 08:23
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
とても共感します。
存在という言葉は、「頭の中の世界」にある観念を悉(ことごと)く網羅していますし、「頭の外の世界」にある空間・宇宙の事物や人々の行為も残らず収めています。
大変、広い概念で、これよりも広い言葉はないのではないかと思われます。
ただし、どちらかに限定する必要はないのです。
全体で考えましょう。
そうすると、善である場合もあるし、善で無い場合もあり、善かどうか分からない中立の場合もあるから、存在は善であると断言できないと直ぐに分かると思うのですが・・・。

お礼日時:2009/01/01 06:12

納得です。

「存在には、善という性質もある。」という意味を短くいっているのだとおもいます。

この回答への補足

No.1の補足と同じなのですが、『善先悪後』、『善主悪従』という善優先・善優位の状態を願望する心情は理解できるのですが、実際問題としては、そんなに甘くないと思うのです。この点はいかがでしょうか?

補足日時:2009/01/01 08:18
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
そういう意味ならば、僕も納得しています。
短縮表現ということならば、成立するようですね。
ただ、その短縮化は、一般的なのでしょうか?
ちょっと疑問が残ります。

お礼日時:2009/01/01 02:48

チワワは犬である


この場合はチワワ=犬なんで、大きい集合の犬の中に小さな集合のチワワがあって正しいと思いますが、
存在は善である
この場合は「存在」も「善」も概念ではありますが、性質が違うと思います。文章的には、「存在」に一定の性質「善」を与えているという構造なんで、「存在」という集合にどんな色をつけるかというもので、どっちがどっちに包含されるかという見方ではないと思います。
眠たい頭で回答しました。しょうもないことでしたらごめんなさい。

この回答への補足

No.1の補足と同じなのですが、『善先悪後』、『善主悪従』という善優先・善優位の状態を願望する心情は理解できるのですが、実際問題としては、そんなに甘くないと思うのです。この点はいかがでしょうか?

補足日時:2009/01/01 08:16
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この回答へのお礼

なるほど。
文の構造の違いですね。納得しました。
「善」は、性質語であると見るのですね。
つまり、「存在は善的な性質である」と書くべきなので、
集合の包含関係ではないと言いたいようですね。

そのことを意識していませんでしたが、
>「存在には、善という性質もある。」 ならば、納得ですが・・・。
と書きました。
つまり、「存在は善的な性質『のみ』である」が間違いかどうかを
考えています。よろしかったら、また回答してください。

貴重なご指摘、ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/01 02:44

>善は、存在である。


>悪は、存在である。
>物質は、存在である。
>反物質は、存在である。
>時間は、存在である。
>空間は、存在である。
まずこれが成り立ってるでしょうか?
日本語的には無理があるし、
哲学的に捉えるのであれば存在の定義があいまいです。

この回答への補足

『善先悪後』、『善主悪従』という善優先・善優位の状態を願望する心情は理解できるのですが、実際問題としては、そんなに甘くないと思うのです。この点はいかがでしょうか?

補足日時:2009/01/01 08:12
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この回答へのお礼

早速のご回答、ありがとうございます。

>日本語的には無理があるし、哲学的に捉えるのであれば存在の定義があいまいです。

なるほど、そうですね。日本語的に無理がありそうです。
「存在」の定義次第のようですね。少し言い換えて見ましょう。

>時間は、存在である。
>空間は、存在である。
は、「時間や空間という場がある」という意味で、
「場として在る」という言い換え方だと思います。

>物質は、存在である。
>反物質は、存在である。
は、「物として存在する」という意味で
「物として在る」という言い換え方だと思います。

>善は、存在である。
>悪は、存在である。
は、No.2で善悪は性質語だという指摘がありますから、
「性質として備わって存在する」という意味で
「性質として在る」という言い換え方だと思います。

このようなニュアンスかなと思います。
そのようにして「在ること」を抽象名詞として「存在」と表現しています。
ゆえに、「存在の一部である」という方が適切なのかもしれません。
さらに変でしたら、ご指摘ください。

お礼日時:2009/01/01 03:16

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