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以前別のカテゴリで私が拙い回答を試みたときに
20世紀の言語観について聞きかじったことをつなげてみたら
次のような疑問が浮かんできました.

1.言語と概念は,別々に存在していたものでその間に対応がついている
  のではなく,名前をつけることによってはじめて概念が存在する.
  (ソシュール?構造主義?)

2.したがって「人間が世界を認識すること」とは
  「世界を言語で記述すること」と同値である.

3.なので,人間が記述に成功したものが世界のすべてである.
  なぜなら記述されてないものは,存在しない,としか言いようがないから.

4.ところが人間には「分からないからもっと知りたい」という気持ちがある.
  知らないことなのに(=存在していないのに),どうして知りたい
  (そこに何かがある)と思えるのか?

私がぼんやり考えてみたところ,知らないことは言語になってないから
他人と話す限りは存在しないのだが,自分の中では
(言語になってないから他人には通じないけど)存在する,
ということかな,と想像してみました.

どなたか4.に現れた疑問を解消していただきたくお尋ねいたします.
私の理解は非常にあやふやだと思いますので,
「この部分がぜんぜん違うんだよ!」とかこてんぱに指摘してください.
ただし,私は哲学や思想史などについては素人ですので
勝手なお願いですがなるべく分かりやすい言葉でご説明ください.

ちなみに私が回答を試みた質問は
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=281646
です.

A 回答 (5件)

ちょっと質問がはっきり理解できないところもあり、ご質問のポイントからずれているかもしれませんが、アドバイスとして若干の誤解を訂正します。



まず、質問者氏の使う真理という言葉に関して。
例えば「愛」というものについてどんどんと考えを進めていった時に、しばしば議論は、では「本当の愛」というものは何なのか、ということになります。つまり“愛の本質”だとか、“愛そのもの”、とは何なのか、という問題です。

こういう時の考え方、つまり本当の愛、愛の本質というものがどこかに存在して、それを言葉でもって適確に表現する(即ち記述する)ことが、「愛」を理解できることである、という考え方のスタイルがいわゆる形而上学です。つまり理解とは、ものごとの背景にある「真理そのもの」に言葉で達することをいうのであって、逆に言えば「真理」があるからこそ私たちはそれを認識できるのだ、という考え方です。
ここでは当然、言語は理性がものごとの後ろにある「真理」を露わにする時に使う無色透明な手段である、という風に理解されます。

しかし、ソシュールは言語についてそういう理解をせずに、人は言語によってしか概念を把握できないということ、その言語のせいで概念というものがあたかも実体のように誤解されてしまうこと、さらに言語は差異の体系である、ということを述べたのです。

例えば、心のある多様な状態を捉えて「愛」という時、それは「愛」という概念の本質、実体が先にあるからそう示せるのではありません。逆に、「愛」という言葉があって初めてそのような状態をいろいろな心情的態度から切り離して独立的に扱えるのですし、それを私たちは認識と称しているのだ、というのがソシュールの主張です。

言ってみれば、心の中の世界全体に言葉による網がかぶせられていて、本来連続したカオスというべき世界がその網によって「嬉しい」「悲しい」「嫌い」などといった大小さまざまな網の目に切り取られたように見えるのですが、そうすることで、われわれはひとつひとつの網の目をあたかも固定的な「概念」のように言葉で操作することができる、というわけです。

ちょっと固く言うと、ソシュールの言語観では、「愛」というものはその本質とか実体が常に自己同一性を持った確固たるものとして存在するのでなく、言葉の持つ反復性によって、あたかもそれらの概念が常に同一であるように私たちが錯視しているに過ぎない、ということになります。

同様に、私の「頭」とあなたの「頭」、人形の「頭」、魚の「頭」、曲の「頭」、これら全く別個の存在群を同じグループに分類し得るのは、実は「アタマ」という言葉が存在するからであって、普遍的な「頭」の実体が先にあるから言葉の名前がつけられたわけではありません。言葉の大きな機能のひとつはカテゴリー化能力ですが、同質のものをまとめることは、異質なものを分類していることでもあります。
ソシュールはこのようにして、言葉によってある体系の中から差異が切り出されることを認識プロセスの本質に位置づけたのです。

その言語そのものも差異の体系である、というのは、言葉の意味は言葉どうしの相互関係の中でしか決定されない恣意的なものなので、そのものをつきつめても見出せるものでない、という意味です。例えば、通電しなければ濃い緑でしかないブラウン管も、CMの中では真っ黒な髪を表現できますが、それは「黒」という絶対的なものが映し出されているのではなく、私たちがある色群の関係性の中においての「黒」を見ているからに他なりません。

「愛」という言葉も同じことで、仮にこの言葉が存在しなくとも、その感情は「恋」という別の言葉が意味を拡大することで受け持ったかも知れません。それはつまり認識される世界像が小さくなるのではなくて、単に網の目が粗くなるだけで、その全体の広がりは同じなのです。外国語を学べば、母語に対応する言葉が存在しなかったり、概念のあてはめ方がずれているという経験はよくすることでしょう。

このように、真理の存在を言語の関係性の中に葬ってしまったソシュール言語学を煎じ詰めて「認識は言語である」と表現していますが、それは名前をつけることで概念が生まれるという意味ではなく、また言葉にしないと認識できていないことになるのでもありません。認識がもう言葉の作用そのものだ、というわけです。極端に言えば、失語症などを疾患していない正常な人間であれば、目をあけている時に見えるものごとは全て、意識しようとしまいと、既に言葉を見ているのだ、ということすらできるでしょう。

さて、「知りたい」という欲望について。
これはソシュールというよりむしろ丸山圭三郎氏の見解になりますが、「知りたい」というのは「意味づけたい」ということと同義で、これは言葉をもったが故に発生した人間の本質的な欲望だと言えるでしょう。
例えば、動物はその種の身体的能力に応じて知覚できる範囲の世界を切り取り、分節して意味づけをしています。それぞれの生態学的な状況に適応して、それぞれ統一的な世界を持っているわけですが、しかし、彼らは世界を「概念」として意識することはないはずです。

それに対して人間は、言葉を持ったことで世界を抽象的にシンボル化する能力を持ったわけです。ただ問題なのは、このシンボル化能力を持ったがために従来の身体的な知覚の世界を失ってしまいつつあることです。
人間は、身体的な知覚が欠如していたために言葉による世界の認識で補完しているのではなくて、言葉によってむしろ意味の過剰を抱え込み、フェティッシュな文化を生み出す“病める存在”になってしまった、とも言えます。過不足ない意味の世界に安住できない、意味過剰の世界を生きざるを得ないのです。

人間が根本的に「知りたい」欲望を持つことと、人間が「言葉」を持つ存在であることは背中合わせで、不離不ニのものだということが言えます。本能は生きるためのエネルギーと、その現れの形態の2つから成りますが、人間はそのエネルギーを(ソシュール的な意味での)言葉の世界に吐き出している、と言えるかも知れません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます.

言語になっている世界と,それを含むように
言語になってない世界が存在する,と思っていたのですが,
そうではない,ということがわかりました.

>認識がもう言葉の作用そのもの

なので

>「知りたい」というのは「意味づけたい」ということと同義

といえるのですね.

なんだか世界が小さくなってしまったようで
すこし悲しいのはイデアの存在をどこかで期待する
ナイーブな人だからでしょうかと思ってみたり...

お礼日時:2003/02/07 01:27

>ロゴスを支えていたものは


イデアです。
例えば目の前に美しい花があったとします。多くの人は「美しいな~」などと思う一方で「美しい、とは一体何ぞや?」といった抽象概念、あるいは形而上概念を求め始めますよね。このような、美なら美の「本質」「理想」「究極」のような形而上概念を「イデア」といい、「イデア」を「ロゴス」によって捉えようとするのが「形而上学(Meta-physics)」です。

ただし、こういった解釈よりも、ご質問の場合は歴史的な把握をされた方がイイのかな?と思うのです。

ソシュール等は、決して「真理は存在しない」などと言っているのではないのです。そうではなく「真理に到達するために、これまで我々が当然のように採ってきた方法論に、問題がある」と言っているのです。

西欧が世界に先駆けて近代化を成し遂げ、現代まで世界をリード出来た背景には、形而上学が発達したことと、そして宗教(イスラエルの神)があります。形而上学は「この世は神がつくった」などといったことを盲信せず、自分で考えようとします=「科学的態度」を芽生えさせます。イスラエルの神は唯一絶対人格であり(ここでは細かい説明はしませんが)唯一絶対人格との対話は「論理的思考」を要求し、ここから「論理学」が発達します。西欧は他の地域に先駆けて「科学」と「論理学」が発達したことから18世紀にはすっかり世界をリードしたわけです。彼らは「科学」と「論理学」を「近代理性」などと呼び、自分たちの近代的な「理性」を信じて疑わないようになったわけです。ところが、20世紀に入り、反省、というか反論が出てくる訳です。簡単に言えば、自分達の信じる「科学」と「論理」に支えられた「近代理性」なるものは、決して「絶対的」なモノではないぞ!といった戒めを始めたのです。

思考に限界がある、といったことを言い始め、最初に言語にフォーカスしたのはヴィトゲンシュタインではないでしょうか?「論理的哲学的論考」の最後の一節「7 語り得ないことについては、人は沈黙せねばならない」なんかは有名ですね。次のURLなんかも見てみて下さい。
http://nadeshiko.sakura.ne.jp/~kaigakai/wittgens …

ソシュールやメルロ=ポンティは、もっとフィールドワーク的なアプローチをしたんです。他の国、特に第三世界なんかとの比較論をやったんです。

何か、話が質問から逸れているように見えますが、要するに
>「分からないからもっと知りたい」という気持ちがある
のは確かだが、ヴィトゲンシュタインは「それでも分からない領域は絶対残るし、恐らく本人は分かっていないコトですら分からない筈だ」と言っているのであり、ソシュールは「すでに自分達が使っている言葉というツールが、限界を規定してしまっている」と言っているのであり、あるいは例えばフロイトは「理性(意識)が到達できない無意識という領域があり、しかも無意識が人間の行動に及ぼす影響は大きい」と言っているのです。

現代哲学は「反哲学」などとも言われます。哲学とは「現象の背後に本質(イデア)を見るという営為だった、そして哲学はその実体を如何に言当てるか(ロゴス)、という事を理解する。」(以上、デリダ)ことですが、反哲学は、いわばこれらの流れのなかで、本質主義という予見を捨てるために、根拠の不在を説いている訳です。

これらと連動して、二十世紀の諸科学において、根拠の非在をいうものが同時多発的に起っています。
●E.マッハの時間・空間論(論理学)。19世紀の人だが、ニュートン的な絶対時間・絶対空間を批判し、時間も空間も、光や臭いや音などと同じく感覚所与にすぎない相対的なものだとした。アインシュタインがこれを利用する。
●B.ラッセルのフレーム理論(論理学)。一応ラッセルはパラドックスを解決した気分でいるのかもしれないが。
●K.ゲーデルの不完全性定理(数学)。数学は数学自身の正しさを証明できないことを証明した。
●ハイゼルベルグの不確定性原理(物理学)。原子、電子、光子などは、粒子と波動という2つの側面を見せたり、有と無の間をゆらいだりする。

>最後の行の「つまり」をもう少し解説してくださると
つまり
>3.なので,人間が記述に成功したものが世界のすべてである.
>なぜなら記述されてないものは,存在しない,としか
>言いようがないから.
これが間違ってるのかな?
存在しない、としか言いようがない!というのは
存在していない、ことが分かったのではなく
存在するかも知れないけど、言いようがないんだと。
「7 語り得ないことについては、人は沈黙せねばならない」
それしか今は手段がない、と、そう言っているんだと思います。

最後に、何度も言いますが、ココにあるのは「戒め」なんです。「科学」は万能じゃない、とか、「論理」は完璧じゃない、とか、「理性」は一方的なモノの見方だ、といったコトで、人間が「存在しないのに何かがある」と思う本能を否定するものではないのです。ただ、「存在しない(=見えない)何か」を、多くの人は「神」や「イデア」と呼び、絶対視したがります。そしてそれに近づくことで、自分までが絶対知を手に入れ始めている、即ち「自分は正しい」と錯覚し始めます。これが、さまざまな差別や偏見を生んできた訳です。こういった差別や偏見を戒めるために、反哲学は「相対主義」的な立場を採るのです。
こんな回答で宜しいでしょうか?
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この回答へのお礼

再びの回答ありがとうございます.
しかもこれほど丁寧に教えていただき恐縮です.

未だ頂いた回答のすべてを咀嚼しきれていませんが,
ソシュールらの言語観を
「言葉になってないものは存在しない」
と誤解していたために生じた矛盾であること
が分かりました.

お礼日時:2003/02/07 01:10

本能だからです。


何も無い場所には何も生まれないとするなら、まず物質が生まれない。ということは、生物も生まれない。しかし、実際には私たちもこの宇宙も生まれた。物を生み出すということ、また物が生まれるということはもはや理屈ではないことは明白でないだろうか。人は本能で未知なる物を探り出す。知らないことを知っているというのは矛盾でもなんでもないと私はおもっています。つまり、本能的に感じているということですが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます.

私も「知りたいという気持ち」は自分の存在の実感から
本能的に湧いてくるものだと思います.
ただそれが20世紀の言語観と整合するものなのか,
疑問に思いました.

お礼日時:2003/02/05 01:56

ソシュールの「記号学」は現代哲学、とりわけ構造主義を語るときの


必須アイテムですが
現代哲学なかでも構造主義というのは基本的にそれまでの
西欧中心主義(自文化中心主義)に対するアンチテーゼになっています。

ギリシャから始まる西欧哲学は
近代に至りデカルトによって一旦完成されたと言われますが
19世紀後半になって例えばフッサールあたりが
「それ(=デカルト等)って所詮、自分達(=西欧人)による
一方的なモノの見方でしかないんじゃないの?」と
異を唱え始めます。
これに続いて、言葉で物事を考えることの限界を提示したのが
ソシュールです。

西欧の哲学の根底にはロゴス主義という考え方があります。
ロゴスというのは西欧哲学のキーワードでありながら
日本語に訳しにくいやっかいな概念なのですが
まあ「言葉」とか「論理」などと訳されることが多いようです。
誤解を恐れず簡略に述べれば「目に見えないような真理は
言葉による論理的思考で捉えることができる」といった信念です。

さて、西欧でいう「ロゴス」という言葉に相当する概念が日本にないので
日本人にはロゴスという発想を教わらない、教わらないから
日本人にはロゴスという発想がない、と。
逆を言えば、例えば日本語にある言葉で
英語に訳せない言葉もたくさんあるわけで
それはつまりそういった発想がないからだ、と 
まあ、そんなことを言っているのがソシュールなわけです。

ポイントは「言葉」が先が「概念」が先か、よりも
西欧の文化人は自分達を「最も論理的で真理に近い」と考えがちだが
その論理も怪しいもんだ、というのを「言葉」のレベルで
揺さぶってみた、という感じです。

ちなみに「文化」のレベルで揺さぶったのがメルロ=ポンティで
「知覚」や「認識」のレベルで揺さぶったのがデリダです。

つまり、1~3の文脈と4の文脈は違うんだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます.

ロゴスを支えていたものは,「真理が存在する」という考えで,
いろんな言語を見てみるとそれは怪しいとソシュールは考えた,
という理解でよろしいでしょうか.

4.においては,真理の存在を期待しているとも思えるわけで,
つまり,知りたいという気持ちは真理が存在しないことと
矛盾しないのでしょうか.

今思ったのですが「真理は言語それぞれに存在する」と思えば
いいような気がしてきました.

もしもお暇でしたら,で結構なのですが
最後の行の「つまり」をもう少し解説してくださると
ありがたく思います.

お礼日時:2003/02/05 01:43

たとえば、それは、具体的にいうと、どういうことなのですか。


観察されたものを、何らかの方法で表現するとした場合、まだ生じていない事象を、非観察事象とすると、世界は、観察事象と非観察事象の総和でもってあらわされます。最も優れた方法は、まだ、観察されていないことをなるべく多く取り込んで、理論化されたものと言えるかもしれません。よい理論は、耐久性もありますが、良くないものは、しばらくの間、物事を捉えるのにうまく機能しても、すぐに整合性が取れなくなることがあります。

この回答への補足

具体的には...
非常に要領を得ない答え方になるのご容赦ください.

私がこのようなことを聞いたときに思い出したのは,小さい頃
「宇宙の外側はどうなっているのか」
「ビッグバンの前はなにがあったのか」
ということを思って,それに対する答えが
「それは考えてはいけない質問である」
というものだった驚きです.

これらは「認識できないものはどう認識されるか」
という質問に同じだからでしょう.

質問として成り立たない質問がある,そういう言葉遣いを
してはいけない,と言ってしまえばそれまでなのですが,
一方で「宇宙の外」とか「認識できないもの」というふうに
文法的には意味が通る存在なわけで,認識=言語という理解は
どこまで本当なのだろうか,というのが私の齟齬感というか
疑問かもしれません.
(jun95さんの言葉では,非観察現象と言った時点で
観察された,存在してしまってる事象なのではないか?
という疑問でしょうか)

たぶんこれは,何らかの意味での階層の違いを混同してしまってる
ことに起因するのではないかと思うわけですが,
そのあたりをすっきりさせたいのです.

補足になってませんがお許しください.

補足日時:2003/02/05 01:25
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