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徳川家茂上洛にともない、将軍警護のために浪士組が
結成されたとき、なぜ旗本らは異議を申し立てたり
自ら相当する組織を結成したりしようとしなかったのでしょうか?

そもそも、旗本は将軍の親衛隊とでもいうべき存在であり
このような警護こそ、本来の任務だったはずです。

太平の世が続いて、もはやそのような意識すら失せてしまっていたのか、
あるいはもっと政治的に、将軍が旗本を引き連れて上洛することで
尊皇攘夷派を刺激することを避けるために、あえて彼らに
任せたのでしょうか?

A 回答 (2件)

・徳川家茂上洛にともない、将軍警護のために浪士組が


結成されたとき、なぜ旗本らは異議を申し立てたり
自ら相当する組織を結成したりしようとしなかったのでしょうか?

いや、浪士組(新選組)ができる前に、既に将軍護衛隊である奥詰衆が
組織され、現に将軍を護衛して上洛したのは、浪士組でなく、彼らなんですけど(@^^)/~~~

 奥詰衆は、文久元(1861)年四月に創設された、将軍警護を預かる親衛隊。役料2百俵。
 総員60名とも58名とも云われ、講武所の教官を務めた武芸名誉の旗本・御家人が中心。なぜか、元沼津藩士の道場主・桃井春蔵先生も入っている。(男谷下総守信友あたりの推薦?)
  時の将軍家茂の信頼は厚く、設立以降は必ず将軍の上洛に随行した。長州征伐でも、奥詰は小姓・小納戸と云った将軍の身の回りの世話をする者と共に近侍しており、其の信頼の厚さは数多い武官の中でも群を抜いていた。 慶応(1866)年以降洋式編成に切り替えられ、3個小隊に改編され、「遊撃隊」となる。

 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/03/10 19:40

旗本は官僚組織で、江戸幕府を運営していかないとならないし、将軍の警護は「会津藩」が1800~2000名ほどをつれていましたし、浪士組は234名。


http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme14d.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AA%E5%A3%AB% …

浪士組が売り込んで、勝手について行ったって感じじゃないかな。
で、内輪もめして、浪士隊になったのは24名だし。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%9F% …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/03/10 19:40

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