A 回答 (15件中1~10件)
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No.15
- 回答日時:
<<自利利他は中道であり、自我がある以上、自利と利他のバランスが大切…、自利にも利他にも、かたよった考え方は、正しいとは言えない、ということでしょうか。
>>ですね。
個人的には、大乗であろうが小乗であろうが、他教であろうが、「自己の見解にしがみ付かず、理性的で論理的で道徳的で実証的であるなら、、、」パーリ語の仏典で語られる
生命の関係性である道徳としての十善十悪。
十善十悪を道徳と知る智慧を生む八正道。
この道徳と智慧の二つで心の汚れを拭い去る清浄道。
この道を支援する七つの支援。
に納得できるのではないかという憶測をしています。
道徳たる十善とは
1:殺さない
2:与えられていないものを取らない
3:欲に対して間違った行為をなさない
4:悪口は言わない
5:無駄話はしない
6:嘘はつかない
7:粗暴な言葉を使わない
8:激怒しない
9:強欲にならない
10:邪見を持たず、正見をもつ
智慧を生む八正道とは
1:正見(正しい見解)
2:正思惟(正しい思考)
3:正語(正しい言葉)
4:正業(正しい行為)
5:正精進(正しい努力)
6:正命(正しい仕事)
7:正念(正しい気付き)
8:正定(正しい集中力)
二支を足して
1:正知(正しい智慧)
2:正解脱(貪瞋痴によらぬ目的である解脱)
智慧と道徳によって落とすべき汚れ
貪欲:見・貪・慢
瞋恚:嫉妬・物惜しみ・後悔・瞋
無知:眠気・だらけ・混乱・凝
この道を最初から最後まで支援する支
1:善友性(他者からの手本となる声)
2:戒具足(道徳的な生き方)
3:志欲具足(知識真実に意欲があり、よく行なおうとする)
4:我具足(自己を修習しようという決意)
5:見具足(因縁・物事の法則に納得する)
6:不放逸具足(念を持って不注意無く維持する)
7:如理作意(理にかなった思考・真実を知る・あるがままに知る)
それぞれに詳細な解説と実践法までとかれてます。
この道が中道であり超越道だと私は理解しています。この道に対して「論理的で理性的で道徳的で実証的な視点を持った納得がいく批判反論」に、私は未だ出会ったことがありません。
自利利他の教えであり。慈悲喜捨の教えであり。悪因悪果善因善果の因果応報・自業自得の教えであり。自己の幸不幸を他者の責任にして自己の責任を放棄するものではなく。現実に心を調御し、幸福・苦の滅に向かう道を示すものであると感じます。
参考になれば幸いです。
幸福であれノシ
ありがとうございました。初期仏教はパーリ語の経典に説かれた教えに最もよく表されている。その内容は十善十善、八正道、二支、等であり、
No.14
- 回答日時:
こころからそれを望むならば、誰もが解脱して円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至ることができる。
それが法(ダルマ)であり、それがつねにそのように人の身に体現される(され得る)ということを述べた教えが大いなる乗り物(=大乗)である。それは、「真実のやさしさとは何か」ということを真実に理解することによって体得されるものである。 けだし、真実のやさしさを知った人はやさしい行為しかできなくなるからであり、それが仏に他ならない。 それゆえに、教えは次のように説く。
真実にやさしい人は必ずあなたの身近に現れる それを自らの明知によって発見せよ!
***
ありがとうございました。『誰でもニルバーナに至ることができる…、ニルバーナは真実のやさしさ…、それが大乗の意味』と、ご主旨を理解致しましたが、真実にやさしい人が現れる。明知によって発見せよ…、とはどういうことでしょうか?
No.13
- 回答日時:
大乗仏教徒が小乗を貶す場合というのは、心の狭さを批難するためです。
例えば、教団の中で信仰に基づく布施によって生活しながら、慈悲をもた
ない人、自分に執着し他を責める、
そのような心の態度は「小乗」と呼ばれて当然です。
インドで仏教が盛んになり、教団が大きくなると、そのような過ちを正す必要
がでてきたのでしょう。
だから、教えによって分けられるのではなく、行者によって分けられます。
我執を離れれば、その道は自然と広大なものになります。
インドにおいて仏教が後期になると様々な教えが統合され、一つにまとまって
いたようです。
アティーシャの教えを理解するとそれが分かるでしょう。
チベットには、後期のインド仏教が伝わって、今もその伝統が残っています。
仏教というのに決まった形があるわけではなくて、一切の真実を見抜いた人の
教えを仏教といっているだけです。
釈尊はこの真理を言葉で伝えるのは難しいだろうと考え、最初は説法をためら
われました。
大切なのは、教えの真髄を得ることです。
大乗と小乗、自と他、といったものに凡夫はとらわれていますが、
ブッダの境地では、そういった全ての戯論を離れています。
ありがとうございました。ご主旨、批判されたのは自分にとらわれる心であり、仏教に大乗、小乗というかたちがもともとあるわけではなく、私達がそう区別しているに過ぎない…ということでしょうか。ご指摘のアティーシャの教えとは、どういう教えなのでしょうか。
No.12
- 回答日時:
<<批判されているような自利主義は、もともとなかった…。
>>当時の部派には何かあったのかもしれませんが「自利主義!!!」とまではいかなかったのではと憶測します。もう少し緩やかなものへの批判だったと思うのですが、時代の変遷のなかで肉付けされていき「われこそ正しい」という宣伝文句として使われるようになったのだと理解しています。
現在はその部派自体もありませんね。どのようなものかも解りません。現在は矛先が上座仏教・パーリ語の仏典に向いてますが、検証された結果向けた矛だとは私には思えません。
<<大乗、小乗は相対的なことで、大乗がなければ小乗もなく、小乗がなければ大乗もない…。>>
こっちのほうが正しいんだと「あっちは「小」でこっちは「大」だ!!」
と言っていた人がいたとして、比べるものがなくなったところで「大」とは名乗れないと個人的には思います。
ただ漠然と「私こそは正しい!!」と言う意味での喧伝としての「大」としては使えるでしょうが…。伝統的に使っていると言うのが実際だと思います。
<<『利他』が正しい教えであるという認識に違いはない…。>>
もちろん。しかし自我のあるままに「自利」を無視してもバランスを崩しますよねと言うか自我があるなら「自利」の視点があるわけですかね。バランスを崩せば怒りと欲と無知を育みますから、バランスよく「自利利他」をなしながら、自我の錯覚を解くことに徐々にチャレンジしていかなければ問題が生じるでしょうね。
何事も中道ですね。
パーリ語の仏典。
梵語漢文の大乗経典。
共に「自利利他」「三業」「慈悲」「在家と出家の具体的な実践」を調べ検証し、事実に沿っているか問題は無いか調べれば人生にとって良い学びになると思いますよ。
では幸福であれノシ
ありがとうございました。自利利他は中道であり、自我がある以上、自利と利他のバランスが大切…、自利にも利他にも、かたよった考え方は、正しいとは言えない、ということでしょうか。
No.11
- 回答日時:
<<パーリ語の初期仏典が、本来のお釈迦さまの思想を近く表している>>
そう感じます。
<<現在の方が、むしろ、身近にある。そういうことでしょうか。>>
当時は手に入りませんでしたからね。
私の見解をまとめると↓
大乗とは現在はゴータマ・釈迦の教えから分裂分派し変化した、違う教えを説く宗教である祖師宗教のグループネームでもあり、それぞれに大乗と言う言葉にも違う解釈があるでしょう。そして小乗と批判していた当時の部派が無いので、こちらの教えこそと言う意味での大乗は相対的な言葉なのでもう使えない言葉と思いますが(大きい乗り物だと言っても対照する小さい乗り物が合ってこそ使える言葉ですよね)、現在の多くはその批判の矛先を大元のゴータマの教えであると定評の高いパーリ語の仏典に記された仏法に、根拠無く研究検証をなさらずに向けてきた先人の伝統(?)を信仰(無根拠に信じ仰ぐ)し「我こそ正しい大乗。その教えは間違っていて小乗だ。」としているように私には感じられます。
伝統的な信仰である大乗小乗論(?)が一般にもなんとなくでしみこんでいて、多くの大手の出すような書籍でもそれが見て取れると思います。
各祖師宗教の大乗のなさる小乗批判の内容がパーリ語の仏典にあるのか調べてみてください。そして批判する側の経典が語る我こそ優れているとする点について、パーリ語の仏典よりどのように多種多彩な切り口で論理的に穴無く詳細に語られているか調べてみてください。
よく聞く批判で「自利主義で利他が無い」というのがありますから、「慈悲」「心口意の三業」「在家・出家のあり方」について両者がどのように語っているのか調べて比較するのも有意義かもしれませんよ。
では幸福であれノシ
ありがとうございます。批判されているような自利主義は、もともとなかった…。大乗、小乗は相対的なことで、大乗がなければ小乗もなく、小乗がなければ大乗もない…。ご指摘は、そういうことでしょうか。『利他』が正しい教えであるという認識に違いはない…。
No.10
- 回答日時:
<<パーリ語の仏典といわれるのは、初期仏教の教典ということでしょうか。
>>そうですね。初期仏教つまり、ゴータマの教えであると定評の高い経典のことです。
<<初期仏教の精神は、自利利他の精神だったということでしょうか。>>
ですね。自利利他の精神を詳細に具体的に解りやすく何回もいろいろな切り口から語られていると思いますよ。
<<仏教は変化、分裂を繰り返し初期仏教から離れ初期仏教に批判的なものも現れた、ということでしょうか。>>
そのように思います。
本人達は批判しているつもりは無いかもしれませんが、結果的にブッダが論破して、成り立たない邪見だとしているような物になってしまっているものも多くあるように感じます。
部派時代に生まれた批判の質とはまったく違うものと憶測します。
また現代は昔と違ってゴータマの教えとしての仏教を知ることが出来る時代ですね。各日本大乗仏教の祖師たちが求めても得られなかったものが容易に学べる環境にあります。
日本語訳も注釈もたくさんありますし、きちんと学びたければパーリ語も学ぶことも出来ますし、パーリ語三蔵もすぐに手に入る環境です。教えてくれるような専門家のお坊様方もいらっしゃいます。
しかし、「私は正しい」「伝統で次いだものは尊い」「変化したくない」という思考は科学的思考のさびになり、「自分の信仰する論」を徹底的に壊す論に気付いたとき、見ないふりをしたり、その論から離れて学びを止めてしまうことがあるでしょう。
そのような人間の弱みである心の声にに負けずに学んでいくことをオススメします。
共に精進いたしましょう。
幸福であれノシ
ありがとうございます。パーリ語の初期仏典が、本来のお釈迦さまの思想を近く表している…、現在の方が、むしろ、身近にある。そういうことでしょうか。
No.9
- 回答日時:
何事もこういう基本的なものは、出発と立脚であり、修行のプロセスであり、目指す目的を教えています。
自分というのを何だと思うか、世界を何と思うか、自分と自分のいる世界とは何なのか、どういう関係か。
それをしっかり考えれば、自分とは世界だ、世界は自分だ、万物だ、万人だということになりましょう。ならない人もいるでしょう。
我と万物、万人との同一性を認識すれば、我のための修行も、万人のための修行も同じことになるのでしょう。そしてそれが出発であり、進行させていくプロセスであり、目指す目的でしょう。
No.8
- 回答日時:
<<『小乗』と比較して、自己と他者の対象の違いと優劣、『大乗』の言葉の意味…ということでばかりではなく、『大乗』の価値というか、実体というのか、本来の意味は何かというようなことを教え頂ければと思い質問致しました。
『大乗』とは何か!ということ…>>事実として、もう小乗といわれた部派は一つも残ってません。どのようなものかもわかりません。大乗も当時のそれとまったく違う形になっているでしょう。当時の大乗もどのようなものかわかりません。
わかってることと言えば、「ゴータマシッダッタ・お釈迦様の教え」の「解釈」という範囲からはみ出し、教えに変化を加えて、ゴータマの否定するところまで進んでいってしまった教えは「お釈迦様の教えではない」とはいえるでしょう。
大乗仏教は、お釈迦様も使われた、当時の公用語のひとつのパーリ語のわかりやすい説法から、知識人にしか読めないサンスクリット語で教義も難解で解りにくいものにして奥伝・秘法・秘教的に伝えるものにしていきましたね。
大乗といっても相反する教えも中にはあるのではないでしょうか。多くの宗派があってさらに分派してますから。なので現在「大乗」といったら「お釈迦さまの教え自体を変化・変更を繰り返していった祖師宗教」のグループネームに当たるのだと僕は思っています。宗派は祖師宗教の名前ですよね。
「大乗」の内容を一言で言うのは不可能でしょう。多くの祖師が語った違う宗教の教えですからですから。前記しましたが反するものもあるでしょうし。祖師ごとに違った回答はあるかもしれませんが。
<<大乗の価値>>については人それぞれ自由にやれば良いと思います。
個人的には大乗の批判するところは「パーリ語の仏典」に見当たらないと感じるので特に価値を感じはしません。
では、幸福であれノシ
重ねてご回答を頂きありがとうございました。パーリ語の仏典といわれるのは、初期仏教の教典ということでしょうか。初期仏教の精神は、自利利他の精神だったということでしょうか。ご主旨、仏教は変化、分裂を繰り返し初期仏教から離れ初期仏教に批判的なものも現れた、ということでしょうか。
No.7
- 回答日時:
回答番号:No.6
つまり、我と他者、そしてこの世界、いわゆる三重の世界は我だという認識に始まり、修行し、そこに到るのが、本来の『大乗』であろ、その行じ方の秘法てき伝達と修行が、本来の『上座部(用語の使用の間違いとしての『小乗』)』でしょう。
『上座部(用語の使用の間違いとしての『小乗』)』は、そういう意味から、自己の解脱、悟りを主眼とする見え方があるのは当然でしょう。そして熟達すると、『大乗』の姿も顕著になるのでしょう。
自己も夢現(ゆめうつつ)で、迷妄にありながら、誰が人や宇宙のことを心配できましょう。
しかし、一旦発心すれば、大乗の心を抱きながら、小乗的に己の解脱を目指すのは当然ではないでしょうか。
なんといっても宇宙と自分の切り離しはできないのだし、実は自分の思う外界は自分自身のことなのですから。
そういう意味では宗教にはこういう要素がどの宗教にもあるでしょう。
何度もご教示を頂きありがとうございます。ご主旨、外界と自分とが一体であると『さとる』ことが『大乗』ということでしょうか。自分のさとりを求めることは、他者の救済へ進展する…、というようなことでしょうか。
No.6
- 回答日時:
回答番号:No.5 の投稿に、書きましたとおりであります。
『大乗』とは我は宇宙全体(の中にいる)であり、宇宙が(真実の)我である。
だから例えば、
我の悟りは宇宙の悟り、宇宙の悟りは我の悟り。として修行することであると存じております。
上座部はどちらかというと、非常に緊密な教え、奥伝。
秘法、秘教的に伝え、修行するものです。
ですから、『上座部』と『大乗』が対立するものではない。
『小乗』というのはことばの使用の仕方のまやかしであり、使用の仕方の誤りである。
『小乗』と自ら名乗ることはあまりないと存じます。実際はない、というのが本当ではないでしょうか。
そういう意味として先の回答投稿をしてあります。
以上は私の個人的知識と、ここでご回答なされているかたがたのお知識を勉強、解釈してのものです。
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