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宇治拾遺物語の中で、「これも今は昔、田舎の児の比叡の山へ…(中略)…うたてしやな。」という古文の、最後の「うたてしやな」は、誰の立場にたっての見解でしょうか?作者でしょうか、僧でしょうか?

それと、その文中にある「桜のめでたく咲きたりけるに」の現代語訳は、「桜が見事に咲いているところに」でよいのでしょうか?
それとも、「桜の立派に咲いているところに」でしょうか?

どちらでもよいので、わかった方は、教えてください!

A 回答 (2件)

語り手のように思います。


宇治拾遺物語の全体に、生き生きとした語りが感じられます。とりわけ助詞のつかいかたなどにです。
うたてし・やな(情けないことよなぁ/嘆き) もそうですし、咲きたり・ける・に(咲いていたのだったが/回想または伝聞) もそうです。
叙述がナレーションでできあがっているのですから、登場人物である僧つまり三人称の気持ちが「うたてしやな」のように表されているとしたら、自由話法になってしまいますが、全体としてそういう話法の傾向のない素直な書物と思っています。
めでたしは愛でるべきであるの意味だそうですから、
立派にでも見事にでもすばらしくでも美しくでも良いのではないでしょうか。
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すみません、あくまで素人考えということで・・・



「うたてしやな」はいろいろ意味があるようですが、この場合『気にくわない、情けない』といったやや否定的な意味にとるようですね。
僧が期待していた風流な答えではなく、現実的な答えが返ってきてがっかりといったところでしょうか。ですから僧の感想ですね。

「桜のめでたく咲きたりけるに」は「桜が見事に咲いているのに・・」でいいのではないでしょうか。
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