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第2次大戦で、壊滅的な敗北を喫したことはありますが、それでも徹底抗戦を選ばなかったのは、国を焦土にするよりも、やがて英米の力で解放されるだろう琴を予見して講和したのでしょうか?それとも腰砕けだったのでしょうか?

A 回答 (6件)

英米による解放を予見していたわけではありません。


その逆であり諦めです。
ドイツ軍との戦いでフランス軍が大敗し、パリ防衛が危うくなってきた6月6日には総司令官であるウェイガン大将は、レイノー首相にドイツ軍との講和を進言します。
これをレイノー首相は拒否、以後、徹底抗戦派のレイノー首相と、講和派のウェイガン大将の対立が増していきます。この時、第一次世界大戦の英雄であり副首相のペタン元帥も、その軍事的経験からこれ以上の抗戦は無理だと判断し講和派になります。
この二人の軍事的専門家が講和派になった事で、政府の他の閣僚も徹底抗戦か講和かで大きく揺れ動きます。
その間にも戦況は悪化していき政府はパリを放棄し南部に避難します。
この間、イギリスの援助がありましたが、フランスとしては満足のいくものではありませんでした。イギリスとしてもフランスから撤退してきた自軍の建て直しや戦力増強に追われており、フランスの要求通りに援助を送る状況にはありませんでした。
こうした、あまりに悪化した戦況と講和派が力を増してきた事に対し、レイノー首相は6月14日にアメリカのルーズベルト大統領に参戦してくれるよう要請します。
しかし、中立主義をとっていたアメリカはこれを拒否し、レイノー首相の望みは絶たれ他の閣僚も落胆し政府内の空気は一気に講和に傾きます。不満足なイギリスの援助とアメリカの参戦拒否は講和派の力を増しました。
そして、レイノー首相は辞任し、後継者に副首相のペタン元帥を指名しました。ペタン元帥はすぐにドイツとの講和にとりかかりました。
ペタン元帥が講和を唱えたのは、国家を救える唯一の策だと考えたからです。このまま抗戦を続けても敗北は避けられず、国土は全てドイツ軍に占領されフランスという国家がこの地上から消えてしまうと考えたからです。実際、そうした考えを政府の閣僚会議で述べています。

停戦したのは6月22日ですが、その時のフランス軍の状態は酷い有り様でした。またドイツ軍も、すでにフランス南部のサンエチエンヌ、クレルモン、アングレームに到達しており、ボルドーのすぐそばに迫っていました。
開戦してからフランス軍は予備役を招集し、戦力を増強し兵力は約224万人以上ありました。
しかし、ドイツ軍の電撃戦に散々叩かれ、約10万人が戦死し、約14万人が負傷し、約150万人がドイツ軍の捕虜となっていました。さらには前線から遠く離れた(約250キロ)北部のアルザス・ローレーヌ地方で、第3、第5、第8軍が包囲されており、その兵力は10万を超えていました。
また、イタリアが6月10日にフランスに宣戦布告をし、6月21日に攻撃を開始してきており、これを防ぐためにオルリー将軍率いるアルプス軍約10万がイタリア軍と抗戦していました。
つまりドイツ軍との前線には30万人ほどしかいない計算になります。
しかも、逃亡兵などもかなり出ていたと言われ、実数はもっと少なかった事でしょう。さらには装備や車両もかなり失われ、士気も低下していたと言われます。
これに対し、開戦時、ドイツ軍の兵力は265万人であり、その後の戦闘での死傷者の数は20万人でした。
その後の戦闘状況の推移により、ドイツ軍はシェルブールやブレストなどにも兵を送り、さらには北部でフランス軍を包囲している部隊もありますから全軍が南部の戦線にはいないとはいえ、ドイツ軍兵力はフランス軍に対し圧倒的なものがあったでしょう。
その為、ペタン元帥とウェイガン大将は戦争での勝利を諦め、講和を求めました。
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この回答へのお礼

戦力差はなくても、作戦面での完敗というものはどうしようもないものんです。こういう完勝完敗の歴史っていうものもあるのですね。

お礼日時:2009/02/21 15:43

基本的に、第一次世界大戦で、もう戦争はこりごり


となっていたんですね
開放を予想していたわけではなくて ただ単に
いやだったんでしょう

戦争に懲りなかった 英 独 ソの方が変わっているのかも
しれません

(日米は どちらかといえば おいしい思いをしたから
懲りてなかったと思うけど)
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この回答へのお礼

厭戦感というものも生きていました。ただ、それだからこそ、防戦しなければという脅迫も強い。しかし、作戦の不備でしょうね。英は厭戦、独はやり直す動機が十分、ソは必要性でしょう。

お礼日時:2009/02/21 15:45

徹底抗戦しても意味がないと判断したからです。


ヨーロッパ人は合理的な考えを好みます。
自殺をキリスト教徒がタブーにしていることも影響しているかもしれません。
ドイツ革命の1918年キール軍港水兵の反乱で、ドイツ兵が出撃を拒否したのも無駄死にを嫌ったからです。
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この回答へのお礼

抵抗すれば勝てるかどうか、という思考を立てるかどうか、西洋的かどうかの基準かもしれません。

お礼日時:2009/02/21 12:05

「国を焦土にしても徹底抗戦する」という思想そのものがそれまでなかったのだと思われます。

まずそれまでのヨーロッパ諸国間の戦争の歴史を振り返ってみますと、お互いに占領したりされたりを繰り返してきたので、主要な戦闘で敗北したらとりあえず降伏することはごく普通のことでした。ナポレオンは戦争に勝って一時的にオーストリアやドイツ、イタリアを支配下におきましたがそれらの国々を解体したりはしませんでしたし、彼の没落後逆にフランスが諸国に占領はされましたが、やはりフランスは解体されたりはしませんでした。その時点で英米にどこまで期待していたかは分かりませんが、むしろ国が焦土と化すまで戦ってしまったドイツの方が、歴史的にはかなり異質でした。ドイツもヒットラーの暗殺が成功していればもっと早く降伏していたことは確かです。ようするに国家・国民のすべてをかけて徹底抗戦するという思想は、第二次大戦のドイツや日本だけが具現化してしまった行為だったのです。(日本は米軍の本土上陸直前で降伏しましたが、陸軍は狂信的に本土決戦を主張していました)
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この回答へのお礼

勝てないとなれば、すぐ降伏するという合理的理性的な姿勢を貫いていたのでしょうかね。ドイツの例をすぐ引き合いに出してしまうのですが、あれは異常だったのかも知れませんね。

お礼日時:2009/02/18 07:44

あとの方、修正よろしくお願いします。



5月19日に連合国はアラスで、ドイツ軍に反撃します。極めて不徹底な反撃で、物理的効果はなかったに等しかったのですが、英国大陸派遣軍司令官ゴート将軍に、フランスから英国に退却しようという考えがここででます。また、ドイツ軍も英国のマチルダ戦車で所々パニックとなり、ヒトラーが軍の前進を止めさせました。これが重なって、かつゲーリングが空軍だけで追い詰めた連合軍を殲滅できる、と言ってしまったので、ダンケルクに追い詰められていた連合軍は、重装備はほとんどなくしましたが、ドイツの装甲部隊を目の前にしながら、辛くも英国に逃れることができました。よく、フランス軍はへたれ、ともいわれますが、これを成功させたのは後を支えたフランス軍ががんばったこともあります。

この辺で北部にいたフランス軍が壊滅状態となり、6月10日にパリから政府がボルドーに退却します。首相のポール・レノーは
1)海軍がまだ地中海にある
2)植民地軍もある
3)まだパリと北部を失っただけで、南部で抵抗する
4)空軍主力は健在である
と、徹底抗戦を主張しますが、病気だったガムラン総司令官(梅毒といわれてます。この人、ドイツ軍侵攻の一報聞いてから寢てしまうような人でした)を解任し、レノー自身が任命したウェイガン将軍が休戦派に合流してしまい、加えてイタリアがこのタイミング(6月10日)に参戦してきたので、レノー内閣は17日に倒れ、副首相のペタンが首相となり、ドイツ・イタリアに降伏、となりました。ヴィシー政権時代の始まりです。

つまり、政権の内部での混乱が早期講和につながったといえるでしょう。フランスは合法的に降伏したのです。法的にはド・ゴールのほうが、脱走者として有罪、とも言えます。

軍が崩壊というか、抗戦がむずかしくなった理由に、戦前のフランス政界で混乱がつづいたことがあげられます。内閣ができては倒れるのですから、一貫した軍事政策などできません。一応将来は戦争になると考えもしていたので、マジノ線という巨大要塞も作られましたが、お小遣いの範囲で参考書買って勉強しなかった素質はいい受験生みたいなもので、戦車、大砲の性能と数(特に大砲)はドイツより多く強力で、航空大臣にピエール・コットという有能な人物もでて、とりあえずアメリカ製の軍用機も買って行こう、とやったのですが、
・軍全体の指令系統が複雑すぎた
・コミュニケーション手段に欠けた(オートバイで命令書とどけていたので、その命令書がついた時点でなにもかも手遅れ、ということが多発。作家のサン・テグジュペリはこの戦争に偵察機パイロットとして参戦しその経験をもとに、戦う操縦士、を書きましたが、作中で「司令部はこっくりサンでもやとえばいいんだ」と言っています)。
・空軍と陸軍の協力体制の研究がほぼゼロ
・人口が減少していたので兵役適格者が少なかった
・産業界もストライキをくりかえして軍需産業が混乱し、特に航空機産業の国営化を強引にやってしまい、高性能フランス製軍用機の開発が遅れた。という事情もありました。
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この回答へのお礼

アラスは第一次大戦でも戦いに巻き込まれましたね。こうしてみると、ずいぶんフランスの北部は2回もやられているところが多い。
ダンケルク脱出は、案外おっしゃるようにドイツの息切れ的なところを図って成功したのかもしれませんね。大敗北の後、大前進の敵をしぶとく抵抗し撃退する、結構あるパターンです。
第一次大戦後の仏陸軍は、おっしゃるように方々にほころびができるようななにか統一感を欠く存在だったようですね。
為政者の姿勢が大きく歴史を変えるものだと感じます。

お礼日時:2009/02/17 10:21

腰砕けです。



フランスには地下要塞のマジノ線があるのでドイツ軍はフランスには攻め込めないと思っていたが簡単に突破されてなす術がなくなりました。

フランス降伏後はレジスタンスが細々と活動していたくらいです。
ドゴールは国民を置き去りにしていち早くイギリスに逃亡しました。
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この回答へのお礼

マジノ線は確かに強固不落であったのですが、作戦面で上を行かれませした。ドゴールもそういう意味では腰抜けですかね。

お礼日時:2009/02/16 11:37

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