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なぜ奥州藤原氏は滅亡したのでしょうか?
藤原氏の武力は奥州17万騎といわれていましたが、これほどの軍勢がなぜ抵抗らしい抵抗をせずにあっさり敗れ去ったのしょうか?
後三年の役より約100年。
戦の仕方を忘れてしまった奥州藤原氏の軍は、保元・平治の乱を戦い抜いた源氏軍の敵ではなかったのでしょうか?
また、奥州藤原氏が滅び去った後の陸奥・出羽はどうなったのでしょうか?

A 回答 (4件)

俗に奥州17万騎と言われる兵力は、あくまで農民の延長線上にある数で、いつでも戦える武力ではなかったと思われます。



頼朝の奥州攻めの中で、最もキーポイントとなるのは「阿津賀志の戦い」ですが、この戦いが行われのは8月8日~10日の3日間・・・この8月8日というのは、もちろん旧暦で、しかもこの年は4月に閏月があったため、この日を太陽暦に換算すると1189年9月28日となり、東北の刈り入れ時期とぴったり重なります。(もちろん頼朝の計算です)

結局、現実に動員された人数は1万~2万ほどではなかったかと言われています。
かたや、鎌倉側は24万4千騎と発表してますが、その前の源平での戦ぶりを見ると、実際には数万騎くらいではなかったか?と思います。

それでも奥州の2倍~3倍はありますが、もちろん、この米の収穫時期を狙ったのが頼朝の計算である事は藤原泰衡も承知しています。

倍以上の兵力を少ない人数で迎え撃つためには、山中のゲリラ戦か、一点集中の防御かになると思いますが泰衡は後者を選びます。

それが、阿津賀志に柵を設けての合戦です。
もし、ここでゲリラ戦に挑んでいたら勝てたかも知れませんが、それは、この後の結果を知っているから言える事で、少なくとも、この時点では、どちらをとっても一か八かの賭けのようなものだったと思います。

もちろん、泰衡も、「もし、ここが破られたら・・・」というその先の計画も考えていたでしょう。

それが、ここを破られたら、あっさりと北へ逃げる事です。
鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』では、この泰衡の行動を、敵に背を向ける臆病者呼ばわりしていますが、それはあくまで鎌倉側の言い分で、おそらくは、泰衡は、時間をかせいでいたのではないか?と思います。

東北の冬は、早いですから、もう少しだけでも時間を稼げば、農期は終わり、あたりに雪が降り始めますから、そうなると、例の奥州17万騎がフルに活用できる上、雪中での戦いにおいて、彼らは鎌倉武士よりはるかに有利です。

しかし、残念ながら、泰衡は、その冬が訪れる前に、信じていた家臣からの騙まし討ちで命を落します。
さすがに、これは計算できません。

いや、逆に頼朝側から見れば、この戦いを冬にまで持ち込まれてしまっては、負ける確立大ですから、それこそ、騙まし討ちであろうが何であろうが、泰衡を討ってしまう事を最優先にした可能性もアリですね。

よって、
>なぜ奥州藤原氏は滅亡したのでしょうか?
の回答としては、泰衡が家臣に殺されたから・・・と考えます。

雪の季節まで彼が生きていたら、巻き返しがあったかも知れないという期待を込めて・・・以上は、あくまで私見ですが・・・参考にしてみてください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

「冬を待っていた。」

なるほど。全然気づきませんでした。
とても参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2009/02/11 22:29

国力の差によるものです。


当時の東北(陸奥と出羽)の人口は約60万人と考えられます。   鎌倉幕府時の全日本の人口は684万人と推定されており、その10分の1です。(江戸時代は人口調査が行われ、10分の1をすこし切る数字が出ています)
「吾妻鏡」の平泉軍17万騎はまったくの虚構ですね。(老人と子供を除いた壮年全男子数くらいです)
頼朝の方は関東、東海、東山だけで、約220万人で、近畿以西の西国の助けは必要ありません。
戦国時代の30人に1人の軍役より、平泉軍2万、頼朝軍7万の軍兵と思われます。
昭和12年12月号の「軍事史研究」では頼朝軍9万と推定しています。   軍兵に食糧など運送の人夫を加えた人数でしょう。
阿津賀志山では頼朝の本隊5~6万と平泉軍2万が激突したわけですが、平泉軍の半数は戦う前に逃げ1万位が必死に戦ったのでしょう。
地の利があるので善戦はしたでしょうが、多数の荒武者達には勝てませんでした。
頼朝軍の磐城筋と羽越筋の別働隊は抵抗は受けなかったようです。  磐城筋の隊は本隊と合流して戦ったかも知れません。
兵力の差と平泉軍が一枚岩でなかったので勝敗は明らかでした。
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<また、奥州藤原氏が滅び去った後の陸奥・出羽はどうなったのでしょうか?



頼朝の家臣団で、その地域での戦功者に与えられたようです。
すぐ思い出せるところで、


 最大の激戦地と言われる福島北部 阿津賀志山の戦いでは、藤原泰衡
の有力な郎従・信夫佐藤庄司(佐藤基治・山形南部から福島北部鉱山帯
を支配)を石那坂にて、鎌倉方の常陸入道念西(伊達朝宗)の子息4人
(為宗・為重・資綱・為家)が討ち取りました。このとき戦功
あっった伊達氏がその地(福島県伊達郡)に封ぜられ、また同じく
戦功あったとされる大江氏が出羽(山形南部)に封ぜられました。
 ちなみに伊達氏9代伊達政宗(儀山正宗・一般が知るところは17代
で貞山正宗)のとき、父と共に大江氏を滅ぼし、拠点を山形県高畠に
移しました。枝葉末節なところでは,最近女性ファンが増えている
「片倉小十郎」を輩出した片倉家は,山形県川西町上小松に封ぜら
れています。山形中部の出羽は,どちらかと言いますと群雄割拠
頼朝と共に来た安達氏(柏倉)白鳥氏(中山町)足利泰氏が紫波に
封ぜられ名の由来となった斯波氏(のちの最上氏 山形市)全部鉱山
持ちです。

 陸奥は,仙台北部が斯波氏からでた大崎氏ですが,南部氏や佐竹氏
は前九年の役で戦功を上げた源頼義の子孫 こちらは存続したようです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

頼義・義家の宿願が100年の時をおいて達成され、
陸奥は源氏のものになってしまったんですね。。。

とても参考になりました。

お礼日時:2009/02/11 22:34

頼朝の知略に負けたのでしょう。


頼朝は奥州を欲しがっていました。
天皇を味方につけ、義経をかくまったことを理由に藤原を賊軍に仕立て上げました。
結局内紛を起こさせ見事に打ち破りました。
戦は必ずしも数ではありません。士気と統率でしょう。

頼朝の恫喝に負けて3代目が2代目の遺言を破ってしまったのですから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>頼朝の恫喝に負けて3代目が2代目の遺言を破ってしまったのですから。

というのは、中立を守って中央の政治には関与しないという、
清衡・基衡の方針を秀衡が破って、源氏の御曹司を匿い、つけいる隙を見せてしまったということでしょうか?

お礼日時:2009/02/11 22:32

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