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昭和二十年八月、終戦時の関東軍司令部に、副官部は置かれていたのでしょうか。参謀部の参謀は陸軍大学校卒業の大尉以上でしょうが、もしや副官部(副官)には学徒兵出身の中尉、少尉でも配属されたのでしょうか。

1.関東軍司令部条例(大正8年軍令陸第12号)第五条によれば、「関東軍司令部ニ左ノ各部ヲ置ク、一参謀部、二副官部、三兵器部、四経理部、五軍医部、六獣医部、七法官部」と、参謀部と別に副官部が置かれています。副官部は昭和二十年(康徳十二年)八月の終戦時まで組織として存続しているのでしょうか。
2.関東軍副官部の定員、編成はどのようなものだったのでしょうか。
3.黄白襷掛けの副官懸章はとても目立ちますが、関東軍副官部所属の副官は全員、常に副官懸章を付けていたのでしょうか。
4.学徒兵出身の士官で、終戦時に新京(通化)の関東軍司令部に配属されていた方はいるのでしょうか。

A 回答 (2件)

 関東軍総司令部は、1945年(昭和20)8月12日から13日にかけて新京から通化に移動しました。


 
 関東軍総司令部が作成した「軍司令部本部人名表」(昭和20年8月31日付)という史料は将校の人名しか記載されていないので不十分ではありますが、名前があるのは五名です。このうち高級副官泉大佐は、管理部長を、次級副官落合少佐は管理部高級部員を兼務していました。副官部の業務は省略しますが、基本編制は高級副官以下次級副官、総軍司令官付副官、総参謀長付副官、副官部員、副官部付からなっていました。管理部はいわゆる総務・庶務を担当し、たとえば総軍司令官が視察する際の計画および乗用車や護衛などに任じました。終戦時には独立自動車第64大隊の二個小隊が配属されていました。

 副官部の副官は懸章をつけていたかについては、集合写真がないので判りませんが、支那派遣軍の集合写真を見ると副官は着けていますからそれに準じていたと考えられます。着けない理由を探すほうが難しいと思います。

 学徒兵出身というと甲幹とか特甲幹、軍医予備員などの下級将校を指すと思いますが、総司令部付には十数名の予備役兵科将校の中・少尉、そのほか数名の主計・軍医・獣医の予備役将校の中・少尉。参謀部付には二名、管理部付にも数名の予備役中・少尉の名がありますからその可能性はあります。しかし予備役将校にも色々ありますから断定は出来ません。
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この回答へのお礼

浅学無知のトンチンカンな質問に対し、真摯にご対応をいただき、恐れ入ります。感激しております。貴重な史料をもとに、詳細にご教示をいただき、まことにありがとうございました。

お礼日時:2009/02/26 01:45

 終戦時の関東軍の動きをみますと、高級副官・泉可畏翁大佐が山田総司令官に随行していろいろ動いていた記録があります。

(6/4の大連における山田総司令官と梅津参謀総長の会談、8/10の山田総司令官の溥儀訪問)少なくとも副官部は置かれていたのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

早速にご回答をいただき、ありがとうございました。

お礼日時:2009/02/26 01:26

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