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太平洋戦争での日本の経済は
どこで道を誤り多くの犠牲を出してしまったのでしょうか。
また、そこの点をどのようにしていればこのような結果にならずに済んだのでしょうか?
皆さんの意見を教えてください。
お願いします。

A 回答 (2件)

 大東亜戦争中に企画・推進された経済システムですが、戦後復興の原動力となっております。


 昭和18年、日本経済は大きく舵を切り替えました。企業の統廃合、生活必需品の統制です。
 前者は有限会社法の制定が行われます。後者は食管法の制定です。これらにより国民は最低限の食い物が保障され、起業しやすい環境が整備されました。このシステムが廃止されたのはこの10年です。また、戦後の工業技術革新は、陸軍主導による軍需物資の規格化が要因の一つです。現在のJIS規格はそのベースに軍需物資の効率化と統一化があります。

 戦前日本経済の行き詰まりは、第一次世界大戦にあります。世界大戦特需を迎えた日本と米国ですが、米国がインフラ整備に投資したのに対して、日本はバブル化しました。1919年、戦争が終わると米国はヨーロッパの復興事業に関わりますが、日本はバブルが弾けて不況に突入します。10年後、米国経済破綻による世界恐慌が始まりました。
 1930年代、ドイツはナチス主導による公共事業経済を実施、米国はルーズベルト主導でニューディール政策を実施します。英仏は保護貿易に走ります。植民地を持たず大きな土地を持たない日伊は海外に市場を求めねばならなくなったのです。それが日本の満洲であり、イタリアのエチオピアです。日本は満洲事変とその後の支那事変で長期の戦争に突入しますが、失業者対策と経済活動の活況には貢献します(但しツケは後世に押し付けるものですが…)。イタリアは残念ながら失敗します。米国は最初の1年目は良かったのですが、翌年から失業率が増え始め、1940年には元に戻ってしまい、ニューディール政策は大失敗という結果になります。ドイツもアウトバーンや軍備増強で何とか仕事を与えますが、1938年には限界に達してしまい、戦争の道を選択します。こうして戦争が世界に拡がっていきます。

 日本に話しを戻しますが、1937年から本格化した戦争で国家予算は陸軍優先で割り振られました。海軍としては面白くなかったのです。陸軍としては中国との戦争がだらだら続けば公共事業として成り立つと考えていたのです。海軍は予算を削られていましたので面白くありません。そこで日米交渉をダシに使うのです。陸軍は中国との戦争は止められないが、米国とは戦争したくない(太平洋の諸島は海軍の防衛管轄であるから米国と戦争になった場合、どのように戦ったらよいか分らない)。海軍は軍事予算を確保するには艦隊を動かすしかないが、中国戦線では運用する方法がない。日米交渉で海軍は妥協せず、16年11月末までに交渉が纏まらなければ攻撃を行うという形で艦隊を出撃させます。出撃させた艦隊を呼び戻すのはほぼ不可能ですからこの段階で陸軍が対米交渉でどんなに妥協しても戦争を行うということでした。こうして対米戦が始まります。
 対米戦が始まると海軍は東西で圧勝し、オーストラリアを屈服させるべく、ニューギニア・ガダルカナルへ進出します。ここらに飛行場を作り、空襲で相手を屈服させようと考えたのです。これに対して米軍はガダルカナルの飛行場には防衛用の海軍陸戦隊がいないことに気付き、奇襲をかけます。この一寸前には日本海軍自慢の空母部隊が油断していたため全滅してしまいます。これにより太平洋域の情勢が日本海軍主導から米国海軍主導になるのです。海軍は陸軍に泣きついて支援を求めます。陸軍としても横から米軍に攻撃されてはたまらないので、支援に乗り出します。ですがその支援先はふざけた距離の補給線(陸軍では25キロ毎に補給所を置くのですが、千キロ単位で設置されていた)、作戦地図無し(ガダルカナルの地図は教科書の地図と同じ物で、ただの点…地形図はありませんでした)という有様でした。何とか体裁は整えましたが、海軍は軍艦ばかり攻撃して敵の補給鑑を攻撃しないため敵の戦力は増すばかりでした。一方の日本軍は海軍は輸送船の護衛をしないため途中でほとんどやられてしまいニューギニア・ガダルカナルは餓死せねばならない状態になるのです。ここに日本の後退が始まります。
 昭和19年、マリアナ攻撃近しとなったため、陸軍に海軍が防衛しているサイパンや小笠原諸島への援軍派遣が決定します。しかしいざ行ってみると、米国との戦争が2年も経とうとしているのにどの島にも防衛陣地は築かれてはいませんでした。陸軍は慌てて建設を開始します。ですが時既に遅し、米軍は攻撃してきてサイパンは全滅します。こうして敗戦の道を歩むのです。

 先の戦争の敗因にほとんどの人が日米の工業力の差や陸軍の暴走を掲げますが、これは歴史をちゃんと見てない人の主張です。米国は軍事費の30%を対日戦に回しただけであり、衝突した戦力も大きな差はありませんでした。日本の敗因は
1・武器の非共用(弾丸だけで7種類もある)
2・部品の悪品質(手作りのため統一規格ではなかった)
3・海軍の無策(攻撃しか考えておらず防衛が疎かであった)
です。米国は全て逆でした。
 1945年、米軍は日本陸軍と本格的に衝突しますが、フィリピン・硫黄島・沖縄で甚大な損害を出し、B29による本土空襲も1/3が未帰還という散々な結果となります。国債も売れず、爆弾も底を突いた米軍が苦肉の策で提案したのがポツダム宣言です。戦争を止めねば米国は破綻してしまいますので、日本に戦争を止める判断が出来る環境を与えたのです。

 歴史にIFはないのですが、日本軍が弾丸を統一(三八式小銃弾のみに統一)し、開戦より海軍が輸送船団の護衛や島の防衛陣地建設を進め、無謀な補給計画をしないでいたらまだまともに戦えたのだと思います。

 日本兵200万の戦死者の内、140万人が輸送中に沈んだか島に補給船が来なくて餓死したという事実が全てを証明しています。
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この回答へのお礼

日本だけではなく外国の状況や、日本のとアメリカの違いを教えていただき勉強になりました。
貴重な情報ありがとうございます。

お礼日時:2009/03/01 16:15

国力差が当初から大きいのに戦争をはじめたことです。


ポール・ケネディ「大国の興亡」でも軍備がある程度準備してあれば、勝敗の帰趨を決めるのは経済力、国力であったと述べています。
 日本国内でもアメリカとの戦争に反対するひとは沢山いました。
いまNHKで放送され始めた「白洲次郎」をみられても納得できるとおもいます。海軍には英米との戦争に反対するひとが少なくなかったのですが、陸軍が軍刀をちらつかせて戦争までもっていったのです。
 覇道による支配よりも、王道による支配を目指すべきでした。
西郷さんははじめ丸腰で朝鮮に開国をせまる覚悟でした。この初心に帰って韓国、中国とともに協調していれば、これほど恨まれなかったでしょう。
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この回答へのお礼

やはり戦力差・国力差の点が大きかったのですね。
詳しいところまで教えていただき勉強になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/01 12:27

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