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TVを見ていて気づいたのですが、F永井の歌う『有楽町で
逢いましょう』の歌詞の中に“ビルのほとりのティールーム”
と出てきます。
普通、“ビルのほとり”という言い方はしませんよね。
“お堀のほとり”というのなら自然だと思いますが。
ところが大字泉には最初に

>その付近。近辺。あたり。そば。「道の―」

と載っているので、ますます驚いてしまいました。

http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E3%81%BB%E3%81 …

すると、私が知らないだけで“ほとり”はそのような意味で
よく使われているということでしょうか。
あるいは、昭和30年代まではそういう言い方が一般的だった
のでしょうか。

http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/Yura …

A 回答 (6件)

三点ほど述べます。



(1) 藤村の「小諸なる古城のほとり……」くらい知ってると思う。「古城のほとり」があるなら「ビルのほとり」もあるだろう。有楽町や銀座の華麗なビルは、現代の城ってことか。「ビルのほとり」、しゃれた表現だと思わないだろうか。

> 普通、“ビルのほとり”という言い方はしませんよね。

失礼だが、ここで「普通」とおっしゃる意味が分からない。まず、歌詞ってのは、ありきたりの表現ばかりだったら面白くもない。また、どうにもこうにも日本語として変だったら困るが、「ビルのほとり」は誤用ではなかろう。聞いてすぐ腑に落ちる表現である。

(2) 国語辞典の伝統

> ところが大字泉には最初に(中略)
> と載っているので、ますます驚いてしまいました。
> すると、私が知らないだけで“ほとり”はそのような意味で
> よく使われているということでしょうか。
> あるいは、

(本格的な)国語辞典は「現在最もよく使われる意味」を最初に持って来ず、「昔のもともとの古い意味」を最初に挙げることが多い。有名な『広辞苑』を引くと、特にそのことを感じる。
一方、『大辞林』はその伝統を破ったことで有名になった。『大辞林』で「ほとり」を引くと最初に出てくる、「川や池などの水際。きわ。ふち。」(これを(a)とする)は現在最もよく使われる意味である。「あるもののかたわら。そば。」という意味(これを(b)とする)は、鴎外や平家物語の用例が示されている。現在は(a)ほど使わないだろう。つまり古い意味である。

(3) Googleで青空文庫を検索

明治・大正・昭和前期の言葉遣いが分かる。たとえば、Googleで「ほとり site:aozora.gr.jp」を検索してみよう。「表示設定」で「100件ずつ表示する」にしておくと便利。600件ほど出てくると思う。(a)の用例が多いが、(b)などの用例も珍しくないことが分かる。
青空文庫などで調べてみることだ(ただし、青空文庫は著作権の関係で昭和前期くらいまで)。
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この回答へのお礼

ご丁寧にありがとうございます。

大辞泉の凡例に『藤村』とありますから、少なくとも戦前までは
一般的(普通)に使われていたんだろうなと思いました。
そこで、昭和30年代でも(あるいは現在でも)一般的(普通)に
そういう使われ方をしているのかなと疑問に思った次第です
(そこで藤村が出てくるのに、小諸なる、に思い至らなかった
自分のおろかさにあきれております)。

>ここで「普通」とおっしゃる意味が分からない

“ビルのほとり”は普通の言い方ではない、と書いたのですが
「分からない」と言われるほうが(失礼ですが)分かりません。
事実、「ビルのほとり」は(普通ではなく)「しゃれた表現だと」
お考えなんでしょ?


>青空文庫などで調べてみることだ

辞典のこと、青空文庫のこと、勉強になりました。

とまれ、結論としては

>現在は(a)ほど使わないだろう。つまり古い意味である

ということですよね。
お答えを拝見して、違和感があったのは“ビルのほとり”ではなく
“ビルのほとりのティールーム”と、ティールームという言葉が
続くからだと気づきました。
“ビルのほとりの数寄屋橋”だったりすれば、すっと入ってきた
のかも知れません。

お礼日時:2009/03/02 22:22

「道のほとり」「古城のほとり」


 詩的表現としては今でも古臭くはありません。
 詩人が「ビルのほとり」という詩的表現を採った真意を、「『有楽町で逢いましょう』が歌われた当時の状況を知ろうとしない人が理解することは難しいでしょう。
 当時はまだ東京の都心が戦災で焼け野原になって20年もたっていません。江戸の「しにせ」大丸の東京駅への復帰、上方の「そごう」の有楽町への進出。ビルの建設は「大東京」復興のシンボルでした。「ビル」といえば、ビルの谷間、都会の片隅、を連想するようになるのは戦後一世代以上を経過してからです。

この回答への補足

>詩的表現としては今でも古臭くはありません

言い換えると、(それは「詩的表現」なので)“普通の言い方”
ではない、ということでよろしいんですよね?

> 詩人が「ビルのほとり」という詩的表現を採った真意を、
>「『有楽町で逢いましょう』が歌われた当時の状況を知ろう
>としない人が理解することは難しいでしょう。

すると、当時の東京だからこその表現ということになりますから
やはり一般的な言い方ではないということですよね?

>「ビル」といえば、ビルの谷間、都会の片隅、を連想するように
>なるのは戦後一世代以上を経過してからです

誰がどう連想しようと自由ですが、私にはそのような連想は
できませんので、なにを仰りたいのかさっぱりわかりません。
そもそも「戦後一世代以上を経過し」た人たちがそのような
連想をするという事実があるんですか?
 

補足日時:2009/03/04 00:05
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確かに最近そういうふうに使いませんね。


ただ私はフランク永井のその唄でなんとも思わなかったという事は昔は一般的だったんだろうと思います。

この回答への補足

お礼でのカッコ内は、ほかのお方の回答を受けてのもの
なのですが、その部分が削除されてしまったため意味の
ないものとなってしまいました。
あなた様の回答に対応しているわけではありませんので、
カッコ内はどうぞ無視してくださいネ♪

補足日時:2009/03/04 08:03
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この回答へのお礼

的確な回答をありがとうございます。
自分が(日本人的ではないかも知れないけれど)常識的な
人間であることが確認でき、うれしく存じます。

お礼日時:2009/03/03 00:26

 「有楽町であいましょう」は「そごう」の東京進出にあわせた歌です。

それ以前は有楽町で待ち合わせをするとしたら野暮用でしょう。
 (一番の)ティールームの、(二番の)「小窓」から雨に「けむる」そごう「デパート」が見えています。デパートは有楽町駅の北側、今の千代田区有楽町1丁目11番地の三角地帯に建っています。(一番の)「ビル」はその向かい側の10番地か12番地となります。
 当時のデパートの印象はかなり鮮明ですが、その周辺がどうだったか鮮明ではありません。あの界隈で「ビルのほとりの ティー・ルーム」というと、「大きいビルの隣の平屋か2階建ての木造の喫茶店(木造は2階建てが限度)」か「ビルの1階に通りに面して、客が(ビルの中からではなく)表から入れる喫茶店」という感じがします。「恋の花」を「咲かせ」たい「あなたと私の」待ち合わせ場所は、「ビルの谷間」というイメージではありません。
 
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この回答へのお礼

回答していただいたことには感謝いたしますが、期待した
お答えとはちょっと異なるようです。
そもそも『有楽町で逢いましょう』が歌われた当時の状況
を知りたいわけではありません。それはわかっていると
“TVを見ていて気づいた”と、言外にほのめかしたつもり
ですが、それじゃほのめかしになっていませんよね。
失礼しました。

お礼日時:2009/03/02 22:48

>普通、“ビルのほとり”という言い方はしませんよね。


:そうですね。
私の場合、あの歌詞は、都会のビルの谷間にひっそりと存在しているティールームというイメージで受け取っていました。
都会の人の流れの隙間に落とされたかのような小さな存在、とでも言いましょうか。
つまり、「流れのほとり」という感覚があったように思います。

「近辺」という意味があることは今回のご質問で初めて知りましたが、個人的には、あくまで「流れの縁に存在する」というニュアンスで使うのが本来であるような気がします。

「ほとり」は「辺」あるいは「畔」とも書くようですね。
「畔」は「あぜ」でしょうし、お示しになったヤフー辞書によると、
・1 水田と水田との間に土を盛り上げてつくった小さな堤。水をためるとともに、境界・通路とする。くろ。
・2 敷居や鴨居(かもい)の、溝と溝との中間にある仕切り。
のように解説されています。

ここで注目したいのは、何か(水や戸板)が外れないようにするためのしきりである、という点です。
「外れる」ということは、動くこと、つまり何らかの流れが前提にあるはずです。
水に限定する必要はないでしょうが、たとえば「道」であってもよいでしょうし、「塀」などでもよいと思います。
これらは人の流れを想定できるからです。

さらに、「一本松のほとり」などという表現があってもよいと思います。
この場合は,人の流れる街道沿いにあることが前提条件になるでしょう。
逆に、家の庭にある松に対して、「ほとり」という表現は使わないような気がするわけです。

全くの独断なのですが、あたかも天から「ほとり」という音と共に静かに舞い降りて着た境界。
といったような感覚があります。
堅固で、高く、向こう側も見えないようなものではなく、触ろうと思えばいつでも触れるほどの、言ってみれば曖昧性を含んだ境界。
相手を隔てるためではなく、筋の流れ道を確保するためだけの境界。
それを「ほとり」という語感で表現したような気もします。
それが敷衍されて、流れ以外のものにも適用されるようになった。
強引にこのように推測してみましたが、実際のところはどうなんでしょうね。

「ビルのほとり」が(「立ち並ぶビル」あるいは「都会の雑踏」などという)流れを意識していたのか、そうではなかったのか、はわかりませんが、前者のほうが歌に深みが出るような気もします。
 
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この回答へのお礼

やさしいお言葉でお答えいただきありがとう存じます(手厳しい
回答の後なので、ほっといたしました)。
ほかの方へのお礼でも書きましたが、“ビルのほとり”ではなく
“ビルのほとりのティールーム”という表現が(今でも)しっくり
きません。
ティールームって、私にはビルの中の一室というイメージがある
ので、(ティールームの入っている別の)建物の一角がことさら
強調されているようで、違和感があるのでしょう。
2番の“今日の映画(シネマ)はロードショウ”なんて、馬から
落ちて落馬して、に近い表現ですよね。とにかく目新しさを
出そうと外来語をちりばめ、カタカナ語を古くからある
“ほとり”でつなげたので不自然さを感じるのかなと今では
思っています。
作詞者は“数寄屋橋のほとり”と書いた後でビルに直したのかな
と、質問したあとでふと考えたりもいたしました。

お礼日時:2009/03/02 23:42

ほとりとは漢字だと「辺」と書きます。


あなたは、「ほとり」とは水と関係あるものだというように考えていますがそうではありません。
単に、なにかの「近く」という意味です。ただ、「ほとり」という言葉の語感がどことなく優雅な感じがあるので、あまり生々しい物の近くにあることと思いたくないというあなたの主観です。
「ビルのほとり」であろうが「浮浪者のほとり」であろうが、日本語の表現としては問題ありません。
「そのあたり」という雅語ですね。雅語の対象として適切でない場合は「浮浪者のほとり」は問題表現となるでしょう。
このあたりが日本語の微妙なところです。外国人には説明できません。

この回答への補足

質問の中の「大字泉」はむろん「大辞泉」の間違いです。
失礼しました。

補足日時:2009/03/02 00:53
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>あなたは、「ほとり」とは水と関係あるものだというように
>考えていますがそうではありません。

ほとりが辺であることは大辞泉でわかった、と書きました。
「自分が知らないだけ」だったと。

>あまり生々しい物の近くにあることと思いたくないという
>あなたの主観です。

え~っと、どこからそのようにお感じになったのでしょうか。
それこそ「あなたの主観」です。ついでに申し上げれば、
“あたり”が格別「優雅な感じがある」とは思いません。

>日本語の表現としては問題ありません

ですから、現在でも「ほとり」は辺として一般に使われている
のでしたら、「浮浪者のほとり」が出てくる文例があればぜひ
紹介してください。

>「そのあたり」という雅語ですね。雅語の対象として適切で
>ない場合は「浮浪者のほとり」は問題表現となるでしょう。

このお説が正しいとすると、先ほどまでの説明とは矛盾して
くるのですが・・・。

お礼日時:2009/03/02 01:38

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