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こんにちは。


以前読んだ本(たぶん仏教関連の本)に、
「他人に深く傷つけられても、その人に感謝する。その感謝によって怒りや恨みを掻き消す」
みたいなことが書かれていました。

自分のことを考えてみると、
傷つきも浅く、相手も親密な人であれば、そのような感謝はいくらでも思いつきます。

しかし、傷つきが深く、相手も疎遠な他者となると、なかなか思いつきません。
どんな人でも何かしら感謝に値する存在だとは思うのですが、
怒りや恨みを掻き消すほどの感謝となると、なかなか思いつきません。

自分を深く傷つけた疎遠な他者に対する怒りや恨みを掻き消す程の感謝とは、
具体的に、どのようなものなのでしょうか?

それは、自分を傷つける人の何に対する、どのような感謝なのでしょうか?


宜しくお願い致します。

A 回答 (13件中1~10件)

文章を読んでて、他の方の返事でそうだなーと思ったんですが、


なので以降の文章は、他の方々の文章の焼き直しのようなもんです。

でもいくつか思いつくこともあったんで、書きますね。
たいして自信はありません。

すべてに感謝する、というのは、人が持って生まれたものです。
愛、だと思います。赤ちゃんならだれでもやってます。
というか、人は本来、そうしたい、そうありたい、と本音では思ってるはずです。理想論としては。
なので、これは、勇気を出して自分に正直に生きる、と訳してもいいかなと思います。
僕自身は、残念ながら感謝という言葉は違和感あるんですが、それは僕のキャラクターの問題で、
愛という言葉だと全くぴったりなんです。

元々すべてに感謝し愛したかった子供が、身内と他人は違う、ということを覚えさせられ、
質問文で書かれている、疎遠な他者と、親しい親密な人、と言うような違いを、自分の本音とは裏腹に作り出します。(というか僕もやってしまいましたー)
それがスタート地点になります。僕自身も、こちらを傷つけてきた人も、同じスタートです。
一度この自他分離の地点を踏んでしまっては、もうあと何があっても不思議ではありません。
機械のような感情の仕組みに逆らうことなどできないからです。

それは、発想や直観、感情を司る、人格のメカニズムと関係ありますが、細かいところは僕も考え中なので、ごめんなさい。

どっちにせよ、今の2次的な自分人格を本当と思うのは変ですし、
本音に立ち戻って、元々抱いていた愛と感謝は思い出したいところです。
確か~~、唯識の本で、書いてありました。有名な話で、
自分の右手が大けがしたら、左手は急いで傷の手当てをするだろう、とか何とかです。
自他同一の状態では、発想はそうなりますし、小さい子や、感謝できる人においては、それが自然な発想です。

>傷つける人の何に対する、どのような感謝
その人が、ただあること、存在してることに対する、形のない抽象的な感謝、と無理に訳せばそうなりますか・・・

「論理的に正しい」ということは、全く正しいことではありません。
それはその人の人格の枠と土台のなかでおいてのみ成立する、狭い正しさです。言い換えると、経験則、でしょうか? あるいは「現実」とも言えると思います。

自分を傷つけた相手に感謝なんて実にばかげた発想と、今の僕の人格では、思ってしまいます。
でも、人格が変われば、自然な発想は変化します。
その視点だと、この感謝は、人格の組み替え(無駄なものをそぎ落とす)、の方法論の一つ、といえないでしょうか?
ある種の自己暗示、といってしまうと、何ですが。
そういう方法もあります。

すべてに感謝している状態、という一つの目標に対して、感謝できる、という受け身の状態と、感謝する、という能動的状態が対峙します。
そして、受動か能動、どちらのルートをたどってもいいわけです。
というより感謝している状態、というのは、まさにこの感謝できる、というのと、感謝する、というものが2つ同時に成立しています。
なので、中心である、感謝状態に持っていくのに、
主体的に感謝する、という行為をするのは間違いではないと思います。
ただそれのみでは、自然に感謝している状態ーつまり恨みが無くなってる状態、というのは、一つの極限の到着点といえます。それは無限の遠くにあり、普通に考えて、着けません。
この辺りが微妙で、僕は考え中です、ごめん。

それは、ただ感謝に集中して、集中の度合いが上がることによって起こる人格や発想の変化、として捉えてはいます。
以前こちらで、リラックス=集中、という質問をしたのですが、
感覚の極限を超える現象は、自分の意志で直接起こすわけにはいきません。と言って受け身で起きるわけでもありません。やはり両方がそろうときに、哲学で言うところの止揚、のようなものが起こることで、始めて極限の壁を越えるかなー、と想像します。つたない経験上。
そのあたりは、いろんな宗教書にありますが、
自分をあきらめる無にする~~仏教など。
自分で解決することをあきらめ神にゆだねる、~~キリスト教など、

今の自分、つまり2次的に成長過程で作り出した自分の人格をうそだと気付いて、本当の本音に立ち戻ること、の方法論は、どんな宗教でもたくさん説かれているところです。この感謝の行に限らずですが。

ただ、いまいち厳密性、論理的緻密さに欠けるんですよねー。あとはやって見ろ、という投げだしの様な・・・
そのあたりが気に入らなくて考え中です。
ではでは失礼します。おもしろかったです!
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

参考になりました。

お礼日時:2009/05/19 18:17

初めまして^^


仏教や宗教はあまり詳しくありませんが祖父が亡くなってからは
お経をよむようになりました。
あるお経には
「他人(ひと)をも我と知るならばこれぞ菩薩の浄土なり」
ということばがありました。
とても深いことばだと思います。

ご存知かもしれませが、目の前に広がる世界は自分の心が作り出す
鏡の世界であると聞いたことはありませんか?
鏡に映った自分の服が乱れていてそれを直したいと思えば
当然自分の着ている服を整える。
すると鏡に映る自分の洋服も整う。
これは非常に深い内容ですが、今は単純に聞いてください。
目の前にいる嫌な人間は鏡に映った自分自身であるということ。
その人を通して自分自身を見ているのです。
例えば目の前の人間のだらしがないところが嫌だと感じるのであれば
あなた自身は自分自身のだらしなさが嫌だと感じているはずです。
自分自身の問題に気づかせる為に自分自身がそういう人を
引き寄せているのです。
嘘みたいな話、あなたの心がその人を引き寄せたのです。
自分の抱える問題に気がつくことが出来たら
あんなに嫌だと感じた目の前の人は
自分にとって良い人間に変わるか自分の前からいなくなるはずです。
原因は解決したら結果は変わるしかないのです。
その法則に気がつける様になったらきっと感謝できるはずです。
世の中にはそういう見えない仕組みが存在するんですって
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

そのように考えるとイイなぁ、と思いました。

お礼日時:2009/05/19 18:17

1.>「他人に深く傷つけられても、その人に感謝する。

その感謝によって怒りや恨みを掻き消す」
2.>自分を深く傷つけた疎遠な他者に対する怒りや恨みを掻き消す程の感謝とは、具体的に、どのようなものなのでしょうか?
3.>それは、自分を傷つける人の何に対する、どのような感謝なのでしょうか?

えっと、私は釈迦とか宗教の難しいことは判りませんが、1.は生きてる経験上、そういった考え方だと楽に生活ができることを知りました。

私や友人の経験を例にしてお話します。

まず、2.と3.ですが、具体的には人それぞれ、状況それぞれで違うでしょう。

以前、私はバイクで交通事故を起こしました。
たまたまヤクザが運転するBMWで飛ばされたそうです。
そして彼らは逃げました。

最初は賠償金、保険は降りなかったです。
記憶喪失にもなりました。片目の視力もなくなりました。

ま、こんな感じで被害を上げたらキリがないですが、
心配をかけた親、友達には申し訳ありませんが
今の私は非常に感謝しています。(頭打って可笑しくなりましたが、それとは関係ないです。爆。)

理由は無くなった記憶を思い出したからです。
その記憶があったらどう生きていいかわからなかった。人生に絶望していました。
事故後の私は180度性格が違うそうです。お喋りになり、屈託無く笑い。日本社会ではよく怒られました。
事故る前は無口で笑っても笑いの裏に別の笑いがあったと言われました。
一番大きい違いは、前は自分が大嫌いでした。自分の姿を鏡で見ることさえもできませんでした。今は自分が好きなのかな?それ以上に人が大好きです。

あの時、生きる目的を失ってどう生きて良いかわかりませんでした。
死に場所を探してたのかな?
たまたま轢いてくれたのがヤクザさんで良かったです。一般の方だと申し訳ないです。
たとえヤクザでもごめんなさいという気持ちでいっぱいです。
ありがとうございます。

退院後、通院途中に電車の中でナイジェリアのサッカー選手に会いました。
彼に、こういった事情で英語を忘れたから思い出したいんだ(事故る前は自分は英語ぺらぺらだったと勘違いしてました。笑)と話すと”その事故は良かったね。”と言われました。”え?”と驚きましたが、後にキリスト教の本を読むと”良いことはおめでとうと神様の思し召し。悪いこともそれを乗り越えろという神様の思し召し。”と書いてありました。

今から思い出すととてもシリアスFunnyでした。体は大人だけども精神年齢は0歳。一生懸命に日本社会を学んで大人に相手にされながら生きようとしていましたから。いつも、彼の言葉を思い出しながら”あの事故は良かったんだ。”と泣きながら自分に言い聞かせてました。

記憶が戻るのに10年かかったかな。まだすべてを思い出せたとは思いません。
でもあの頃の感情などを思い出すと、あぁ、事故って良かったんだ。
ありがとう。
と思います。

それまで勉強してきたすべては失われましたが、生きる糧を得るための活力を得れました。


他にも友達の例を出します。
彼女・彼氏はどんなにパートナーと上手く行っていても不安で不安でたまりません。
その不安から余計なお節介やパートナーに何度も何度も確認してしまいます。
それでパートーナーが怒ることはよくありました。

つまり、目の前に起こる事象はすべて自分の思考、概念からおきます。
”感謝・喜び・安心”などのプラス思考はすべてを良い方向に持っていく作用があります。
逆に”不安・心配・疑い”などマイナス思考はどんなに上手く行ってようがすべてを悪い方向に持っていく作用があります。

そんな意味から、どんなに深く傷つけられても感謝することは大事なのではないでしょうか。

「どんなにショックなことがあっても、毎日、夜寝る前に、最低3つショックな事、嫌な事でも挙げて無理やり理由をこじつけて感謝すると良いよ。
すべてが上手く行くようになるから」と誰かが言っていた言葉を思い出しました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

参考になりました。

お礼日時:2009/05/19 18:18

こんにちは、



『逆縁の仏』で色々検索してみてください。

ご参考までに
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この回答へのお礼

ありがとうございます。


検索してみました。参考になりました。

お礼日時:2009/05/19 18:17

>感謝の理由



 感謝の理由はありません。無条件の感謝であって、なぜはありません。

>「他人に深く傷つけられても、その人に感謝する。」
 
 その人に対して感謝するのではなくて、相手を感謝してしまうのです。
これは、単純に「怒りや恨みを掻き消す」ことが目的であって、理由付けや具体性などありません。それに、怒りの消失と感謝は同じことです。
でも、間違ってはいけません。目的が正しいかどうかは別の話です。

決して、秋葉原無差別殺人事件の犯人加藤に感謝の意を表することではありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/19 18:17

宇宙間には、自分が発した想いや行為は、時を経て必ず自分に帰還するという基本法則があります。


自分が発した想いと行為が原因となり、いつか必ずそれが自分自身に帰ってくるわけです。
これはカルマの法則とも業(ごう)償還の法則ともいいます。

他人に深く傷つけられたということは、
その原因(その人あるいは他の人を自分が深く傷つけた)が
この人生上において、あるいは前世において、自分が忘れてしまっていたとしても必ずあるわけです。
(輪廻転生しながら人間は進化するということをまずは公理的に肯定しないと理解できません。)
ですから、そのような業(ごう)を持たない人は決して人に深く傷つけられることはありません。

他人に深く傷つけられて、その分の自分の業(罪ともいえます)が償還され、消滅するわけです。
いってみれば、背中に背負った業の荷物がその分、軽くなるのです。
だからその人に「感謝」するわけです。

もしここで、相手を憎んだり、仕返しをしたりすると、また業(ごう)を背負うことになります。
これでは永久に自身の心(魂)が進化しないのです。

自分を傷つけてくれる相手は、その人自身の業(ごう)を増やしてまでも、こちらの業(ごう)を取り除いてくれる、「かわいそうな恩人」なのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/19 18:17

いきなりは難しいかもしれませんね。



なので徐々に自己の心にある感謝・慈悲の念を育んでいけばいずれ怒りや恨みをかき消すほどのものに成長すると思いますよ。

まず自分に対して
「幸福でありますように」
「悩み苦しみがなくなりますように」
「願い事が叶えられますように」
「智慧が現われますように」

と自分の希求を認めること。
案外これも出来てないものですから

次に傷つきも浅く、相手も親密な人で「親しい人々」に上記の希求を認める。次に、「一切の生命」。

たまに成長度合いチェックで「私が嫌いな人々」「私を嫌っている人々」にも。

このように日々念じていると心には慣れというものがありますから、徐々に本当にこのように思えるようになっていくと思います。

一円もかかりませんw
よかったら実践してみてください

「現代人のための瞑想法」という新書もあります。

「感謝」でというのは難易度高そうですねw
「慈悲喜捨」のほうがすんなりいくと思います。


参考になれば幸いです。
生きとし生けるものが幸せであれノシ
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この回答へのお礼

ありがとうございました。


>「感謝」でというのは難易度高そうですねw

ですよね。

お礼日時:2009/05/19 18:16

お邪魔します。



>「他人に深く傷つけられても、その人に感謝する。その感謝によって怒りや恨みを掻き消す」

文中の気になる語句は「感謝」「怒りと恨み」でした。
実は私自身「怒り」と言う感情をなかなか感じないのです。

>傷つきも浅く、相手も親密な人
>自分を深く傷つけた疎遠な他者
両方ともに対して怒りを本当になかなか持ちません。
だからと言って「感謝」するのか?と言うとそれともちょっと違う。。。
ひたすらに「悲しみ」を憶える事が大半です。

例えば、「理不尽な目に遭った時」。。。
私はひたすら「悲しみ」を憶えます。
どんな目に遭っても(なかなか酷い目にも遭っている、と思うのですが)、「ああ、私は今怒っているんだ」と思う事がありません。

自分に対する「反省」、
相手に対する「想像」、
すれ違いに対する「無念」、
相手に悪意を抱かせてしまった事に対する「哀しさ」。。。等しか、自分の中に見つけられません。

こんな「反省/想像/無念/哀しさ」を抱える自分に対して「何故?」と問いかけ自問自答を繰り返すうちにそれらが「消化/昇華?」されるようにして「感謝」に辿り着く事は多いです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/19 18:16

こんにちわ。



傷つけられても恨み無き心ですか
法然上人の父親の言葉かな・・・
あと、華厳経の早離と即離の話しとか・・・

人間だれでも傷つけられたら、憎しみや恨みでいっぱいになりますね
それが普通だと思います
でも
法然上人の父親は違った・・んですね
敵にやられて死の間際に
「恨み無き安らぎの心を得よ」と言われたそうです
この子に深い恨みを抱かせたくない、という思いがあったんでしょう
深いやさしさですね。

まあ
恨む心はなんとか我慢しても
感謝となると とてもとてもできそうにないですね
普通だったらそうです・・が・・・

思いだしましたが
大石順教尼さんという方は、両手を切られて失ってしまっても
その人に感謝し続けたそうです (すごいですね)
両手を失ってみて、始めて目覚めた心があったという事だったように思います・・

もう
仏様の世界ですね
自他の区別がない
自他共に仏様の慈悲心に包まれている感謝の念でしょうか

(浅い、そして騒がしい心ではなく)
人間丸ごと包みこむような、深いところから湧き上がってくる
生命の本来の声のようなもの・・・(うまく言えないですが)

そういう声を聞いた人が感謝できるのでしょう
仏教用語では「大悲」というらしいですね
(松原泰道師は超越的無意識とも言われています)
「大悲」に目覚めれば、会う人すべてが仏様に見えてくるのでしょう

大石順教尼さんの場合は
「大悲」に目覚めさせてくれた人だった、という事で感謝の心を持たれたのだと思います。

憎しみや恨みを超えるほどの大きな心があるんですね・・・
そんな心といつも一緒だったら幸せでしょうね
まあ
私なんかは、せいぜい憎しみを我慢するぐらいで精一杯ですが・・・
仏様の慈悲心に少しでもあやかれれば良いかなとも思っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。


>その人に感謝し続けたそうです (すごいですね)

ホントすごいですね。


>そんな心といつも一緒だったら幸せでしょうね

おっしゃるとおりだと思いました。

お礼日時:2009/05/19 18:16

「感謝の理由」


難しい質問ですね。「感謝の理由」は個々人の人生観により大きく異なるものです。
なかなか理解できないかもしれませんが、例えば、「天(仏神)よ!我に艱難辛苦を与えたまえ!」と言う一群の人間がいるのですね。このような人たちは積極的に苦難を望んでいるのですね。それゆえ、苦難を与えてくれる人々には感謝・感謝なんですね。こういう人たちは人生を一種の試験だと捉えているのですね。すべての人に同じような数十年の人生が与えられているのならより難しい問題(これを艱難辛苦と考える)を解いてみたいと考えるからですね。この人生観はなかなか理解できないでしょ。より厳しい精神訓練を受ける機会を望むわけですね。仏教系の人間には多いですね。肉体的にに苦難を与えるか精神的にに苦難を与えるかの違いはありますが、その一例が千日行などですね。
試験も何度も落ちるとか、就職も何度も落ちるとか、人生すいすいとはいかないのは苦しみですね。誰かを呪いたくもなりますよね。「でもそれは精神を鍛えるという意味では有難いことなんですね。」と考えるのですね。人生が今回限りと考えるとこんなことは意味も無い人生観かもしれません。しかし、そうではない。今回の人生は生き通しの単なる1ページでしかないと考えると違った人生観があるということですね。
自分を傷つけたり不利益を与える者に対する感謝というのはそういう意味があるのですね。
逆に言えば自身の周りに害を与える者がいるということは有難いことなんですね。害を与える者もお約束であえてやってる場合が多いのですね。舞台劇の中で悪役を演じているだけですね。そのように考えるのですね。いやな悪役を演じてくれてありがとう。「感謝の理由」がそこにあるのですね。
ちなみに何かもらったり、優しくしてもらって感謝することは人間に限らず猫や犬でもやるでしょ。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。


>いやな悪役を演じてくれてありがとう。

そのような考え方もアリなんだなぁ、と参考になりました。

お礼日時:2009/05/19 18:16

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