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今までの人生を振り返っても自分はずいぶん恵まれているなあと感じます。
もちろん私はお金持ちのスーパースターではありませんが、特別大きな病気
や怪我もないし、生活面でも貧困ということはありませんでした。

神の定義は別にして、客観的に見て恵まれた人生を送れる理由とは何でしょうか。
或いは、コツでも結構です。

この質問を読んで不快に思う方もいると思いますが、それは自分の人生がそうではないと感じるからだと思います。
その場合、神の気持ちになって自分はどのような人間を愛するのかご回答ください。

A 回答 (41件中1~10件)

shift-2007様、おはようございます!



>いたずらを善悪という物差しで評価をするのは周りの大人や未来の自分です。つまり客観によってです。

はい、おっしゃるとおりです。
で、今も一人一人が「価値観」を築いていっている、そういう道半ばの状態ですよね。
「神の定義とは?」「神はどのような人間を愛するのか?」
「なぜ≪わたしは≫客観的に見て恵まれた人生を送れているのか」
「善とは」「悪とは」「自分にとってベスト・チョイスな【最善=絶対善】とは?」などなど。
正直、いわゆる「善・悪」とshift-2007様のおっしゃる「自分にとっての最善=絶対善」の差異が読み取れてませんでした、すみません。
なかなかに例の質問は奥が深いなあ、と考えさせられました。ありがとうございます。

>吸わない人にとっては体にもマナーにも悪い行為ですが、本人にとってはたばこを吸うことによってストレス解消という利益を得ているのです。
>そうでなければたばこを吸いません。

はい。そうですよね。
さらに、昨今の禁煙ブームは喫煙愛好家が間接的受動喫煙者(=禁煙者)を思いやりの精神や愛をもって「自ら率先して身を引いた」わけではありませんしね。
世界レベルでも同様の原理が働いて、欧米のたばこメーカーの戦略としては、何かとうるさい欧米ではなくアジア・アフリカの新興国に新たな販路を開拓して「押しつけている」アリサマなわけでして。
公共の場で分煙・禁煙が制度化しつつある日本の都会の禁煙者(わたくしを含む)にとっては、これって解決済み案件だし人ごとだからどうでもいいことになっちゃったんでしょうかね。
う~ん、これでいいのかなあ、と腑に落ちない面もあったりして。

>私たちの行動は、偶然でもたまたまでもなんとなくでもなく、私たちの心の中にある天秤によって決定されているのです。
>意識的か無意識かも問題ではありません。
>私たちは限られた選択肢の中で天秤を使い最善のものを選択します。>もっと言えば最善しか選択できないのです。
>私たちの心の中になぜ天秤があるのかは分かりませんが、この天秤の動きは最善のものを選択するという原理原則で動いています。
>私はこの原理原則を絶対善と考えました。
>人間および他の動植物もこの原理原則からは逃れられないと思われます。

大筋で同意シマス。
でもね、わたくしには過去に「最善以外を選択」した経験があるのです。
「自分の内なる損得勘定に照らし合わせて客観的に行動を決める」のではない場合。
眠くて疲れてしんどいのに、自分以外の人のために起きて乳を与える。
自分の時間を削って、その人のために滅私奉公する。
「オイオイ、好んで自分で作って産んでおきながら何をたわけたことを!」「そりゃあ自然界の動物でさえ行う母性の本能の表れでしょう?」とおっしゃるかもしれません。
そうおっしゃられると、それまでかも。うう。

でもね、生まれたての我が子と対峙した瞬間から、しょぼい自分の「エゴ」のカドが確実に丸くなっていったような気がするのです。
自分も同じ0歳児の気持ちになって自分の半生を追体験する感覚はとても新鮮でした。
いかに自分が周囲、さらには社会から支えられて成長してきたかというのが身にしみました。
つくづく、手間暇かけて育てられてきた、そしてありがたくも恵まれていたなあ、と。
他人に迷惑ばかりかけて苦労させて自分は育ってきたんだなあって。
だから次は、我が子を含めて子供たちが、逆に、自分の成長を支えてきた周囲や社会を支えていけるようにひたすら願っています。ただ、それだけ。

で、同様に、人の苦労や痛みにもふれてお互いに癒される人であってほしい。
自分が恵まれてきた分それを分かち合い(時間でも物質でも)、自分の自由意思で行うふるまいによって周囲の誰か人の役に立って、それが波及していってくれたとしたら、こんなに嬉しいことはないわけでして。
歳のせいか(笑)、日々この想いは増していっています。
もうすぐ「神」に召される日が近いんですかね、ヤバい考えです?!(笑)

【神の気持ちになって自分はどのような人間を愛するのかご回答ください。】のご質問を言い換えますと。
「自らの半生を振り返って、つくづく自分は客観的に恵まれた人生を送ってきたなあ。」と思える人を神が愛する、ということですよね。
でも恐らく、恵まれてきたと実感がある人は、「何によって恵まれてきたのか」と考えるにあたって、決して「神」だけが念頭に浮かぶのではないと思われるのです。
どうでしょう。またもや場末のオバチャンならではのトンチンカンな発想かもしれませんが。

shift-2007様は、途中経過として、「神の気持ちになって自分はどのような人間を愛するのか」の答えが掴めてきましたか。
よろしかったらご教授下さいませ(こちらこそm(__)mペコ)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>生まれたての我が子と対峙した瞬間から、しょぼい自分の「エゴ」のカドが確実に丸くなっていったような気がするのです。

わぉ。
実はリンクの質問の後に「自我にとっての絶対悪は愛ではないですか。」という質問を立てたのです。
私たちの行動には「私」という中心がいますが、「愛」はその中心性を否定するだろうから、私(エゴ?)にとって究極の悪とは愛だろうと質問したのです。
盛り上がりすぎてその質問は削除されました (;-_-メ;)。

>途中経過として、「神の気持ちになって自分はどのような人間を愛するのか」の答えが掴めてきましたか。

具体的には言えませんが、自分自身に興味がない人でしょうね。
ほっとけなくて世話を焼きたくなるんじゃないでしょうか。

変人の戯言にお付き合いいただきありがとうございました。

お礼日時:2009/05/12 22:00

kigurumiです。



>これはkigurumiさんの見解ですか。
>それともマザーテレサの本音ですか。

私の洞察です。

言動がその人を現しますよね。
印象操作を利用し、別な人格であるかのように装う人もいますが、いずれ本質が露呈する。



私は、テレサはあれだけ精力的に自信を持って信念を行動に移してきたのだから、てっきり満足していると思っていた。
同一になっていると、自分を信じていると思っていた。
彼女の印象をそう思っていたから、あの言葉を発したと知ったとき、意外だと驚いたわけです。
そうではなかったとすると、では、本当は何が彼女を突き動かしていたのか?と不可解になった。
わからないなりの考察では、晩年になり自分の限界を身近に感じ、、結果を生きているうちに確認しようとしたのかなぁ と思います。
そうじゃないんだよなぁ・・・結果じゃないんだよなぁ と思った次第です。
「自分のやった労苦に満足すること。それこそ神が人間に許された唯一の事。神を畏れ敬え」って聖書に書いてあるのに、この人も聖書読まなかった人かも。
読んでいれば、聖書の言葉が彼女を救っただろうになぁ・・・って思いました。



で、あの言葉は彼女が言ったわけですが、その言葉の印象をそう受け取ったのは<私>です。
誰も「どうしてそのように言ったのですか?」と問いかけなかった。
問わなくても自分のやってきたことに対して満足していないとわかるから、あえて聞かなかったのではないか と。

これすら、<私>の洞察ですよ。 私から見える風景ですよ。
でもね、、、

あなたは映画や小説読みますか?
観る読むとしたら、どんなものをですか?
どんなジャンルを好むのか、すごく興味があります。

あなたは、友達でも家族でもいいですが、話をしていて突然今まで普通にしていた相手が泣き出したり、殴ってきたりとかしたことあります?

そしてその理由がわからないってことが度々ありました?
それすら無く、突然絶交されたり、口を利いてもらえなかったり、電話しても居留守使われたりなど縁を絶たれたりしたが、そうなる理由がさっぱりわからなかったってこと度々ありました?

もしそういうことが頻繁に起こっていたとしたら、、、、
一気に今までのあなたの言動の謎が解けます。


もしそんな特徴を持つあなただとしたら、<恵まれない他者の存在を知りながら無視して自分の幸福に酔いしれるエゴイスト>と厳しい言葉を投げかけた私の方が悪かったです。
能力的に無理なことをやれと言うなんて、なんてむごいことでしょう。
そうだったとしたら大変申し訳ありませんでした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>私の洞察です。

そうですか、少しホッとしました。
昔、マザーテレサの伝記ドラマを見たんですが、その中で彼女は「神がそれを必要とするならそれを手に入れるためのお金は手に入るだろう」と言ってました(たぶん)。
この言葉は私には共感できるものがあるのです、私の感覚では「必要なものが必要な時に必要なだけ手に入る」となります(あぁまた怒られる)。
だから「これだけやったのに、どうして?」が腑に落ちなかったのです。そんなはずはないと。
私の見解は・・・・・・・まぁいいですね。

私がどんな人間かはヒミツということでお願いします。

お礼日時:2009/05/12 21:41

 回答番号:No.38


 人間を出るにはイカロスであらざるを得ないかもしれませんね。
 知や知覚のドメインはどこまでいっても、所詮はDroste効果とfractal状況の現象しかありませんから、それを出るにはイカロスの愚も何度も繰り返さないとならないかも知れません。
 いたいやけどに何度も悔やんだりしますが。
 でもそのための理論と実践の体系化がヒンドゥの修行だと存じます。人の相性と縁、そしてきっかけがありますが、私は、http://(続けると一定の)www.yogananda-srf.(URLになってしまって、削除対象になります。)
org/の英文レッスンとバガヴァッド・ギータで自分の方法を模索しております。
 下村湖人、鈴木大拙、倉田さん、阿部次郎、出さん、にも傾倒したこともありましたが、理論と実際ではヒンドゥの哲学は勝っていると存じます。
 後、40年ですか。私はそうも決められません。古希半ばですが。
 時間って不思議ですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

残された時間は私たちに何を教えてくれるのでしょうね。

お礼日時:2009/05/12 21:19

回答番号:No.33


それを私はまともに受けます。もともとが全ては神、神以外のものはないのですから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

あと40年、私にとってのこの世界での残り時間です。
イカロスのようになるか、私は満たされたとのたまうか、
ふふふ、どっちでしょうね。

お礼日時:2009/05/11 22:08

kigurumiです。





>ただ、kigurumiさんは私もマザーテレサも客観的にしか理解していないように思います。
>(別に自分とマザーテレサが同列と言ってるわけじゃないんですが)

ええ、そうは言っていないということは、誰でもわかります。
「自分のことをちっとも知りもしないくせに」って言っているわけですよね。

「ちっとも知らないのに、まるで知っているかのように言うなよ!」って、、、
テレサも仲間にして、虎の威を借りてまでして自己保身しようとする。
自分を愛してやまないというのが、こちらに伝わってきます。
最初の質問の文章でも、自己愛にふけっているのにじみ出ていました。


あなたは他人の人となりを、どうやって捕らていますか?
私同様にその人の発した言葉や行動から、その人の形を作っていると思います。
最初は霧のようにぼんやりした程度でも、情報が加わるほどに、形作られる。
まるでジグソーパズルのようですが、決して完成することは無い。
が、雲をつかむようなものでも無い。


子供の頃に聖書の文句を読んで、大人になってその言葉に触れる機会があって、キリスト教徒に意味を聞く機会があって、それでもちっともわからなかった謎の文句。
その謎を解く鍵はヘブライ語だった。
どうりで未だかつてどの神父も牧師も説明出来なかったわけだ。

すごいですよね。
誰も理解できる聖職者がいないのに、えらそうに演説して、しかも信者は理解していないのに、すばらしい と言う。
まるで王様は裸なのに、「王様の服はすばらしい」という馬鹿。
何故人々(信者)は嘘をつかざるを得なかったのか。
馬鹿は王様の服が見えない と言われたから。
自己保身のため、自分を愛してやまないため、嘘をつかざるを得なかったわけです。


>なぜなら、マザーテレサは協会批判はしてないでしょう?

彼女はカトリック教徒です。
カトリック教会にはヒエラルキーというものがある。
厳格な階級社会です。
軍隊はカトリック教会の階級社会を手本にして作られた。
上官の命令は絶対服従だし、上のものに意見を言うことも許されない。
教会もそうです。
絶対に上の人の考えに対して「おかしい」と下の階級のものが言ってはならない。

彼女はイエスを見習ったのだと思います。
イエスは自分の足で神の義を実践したが、聖職者に「おかしいじゃないか」と意見を言っていない。
自らの行動をもって、こうあるべきではないか と行動で示した。

言葉は完璧ではない。
相手に言葉だけで自分の考えを理解させることができなければ、身をもって証をしめそうとすればいいわけです。

「食べる」ということが言葉で理解できない相手には、やってみせればいいわけです。

神の義がなんたるかわからない相手には、自分でやってみせればいいわけです。


>私だって弱者を無視しましょうとは言っていません。

言ってはいない。が、やっている。
言葉では言っていないが、行動でやっている。


>マザーテレサが他者を批判していたなら大した功績は残せなかったのではないでしょうか。

日本を批判しましたけど。。。。
批判したというより、日本を哀れに思ったが近いでしょうか。

相互作用といいましょうか、名誉が権威や収入を左右する立場にある人は、スキャンダルを起こし、名誉や権威が失墜したとき、彼女を援助することに投資したわけです。
すると人々は単純に「いい人だ」と評価を逆転させ、名誉回復、前よりもうかることになった。
若干の投資と若干の労働で、前より儲かることができたわけです。
テレサもそれはわかっていたが、来るものは拒まずで、何より運営費は馬鹿になりませんので、ちゃっかり利用しかえしたってことでしょう。

彼女も完璧ではない。
結局 彼女も挫折した。
「神は助けてくれなかった」が晩年の言葉。
これだけやったのに、どうして? ってことでしょう。
結果じゃない。神の義を希求し続けた過程に意義や価値がある。
神の国を地上の実現しようとしたことに最大の価値がある。


>マザーテレサはマザーテレサなりに、私は私なりに弱者を救うのです。それは協会も同じでしょう。

あなたは気づいていないようですね。
あなはた弱い人なんです。 あなたは救う人ではなく救われる側の人です。
教会も弱いからああなんです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>これだけやったのに、どうして? ってことでしょう。

これはkigurumiさんの見解ですか。
それともマザーテレサの本音ですか。
事実をお願いします。

お礼日時:2009/05/11 21:57

こんばんは~。



あのですね。「海より深く反省」って言葉、20年ぶりにふれました!
思いっきり懐かしすぎます(笑)
shift-2007様はね、ちょっと今まで「真面目に生きてき過ぎた、或いは、考え過ぎてきた」ところがあるのかな?と思ってみたりもして。
いかがでしょうか。

>人はどうして悪に基づいた行動が取れないのでしょうか。
>例えば、どんな悪人と言われる人もその人なりにはその行為を正しいと思っていたり、正当化したりします。
>正当化するという意味で当人にとって正当な行為を行っているのです。
>悪をなそうと悪事を働く人を自分も含めてみたことがありません。

ん? ご紹介して下さった過去スレを拝見したのですが。
わたくし、小さい頃によからぬイタズラを「故意に」たくさんしてきましたけどね~。
で、み~んな、「悪いとわかっていて、あえて悪を働いていた」のです。
正当化なんてそんなの格好悪くてしませんよ~(変なプライド)。
スーパーではんぺんつぶして「ヤッター!」と何食わぬ顔して立ち去る、とかね(子供のころの話ですが、笑)
今でこそ虫は大嫌いだけど、わざと羽をむしって捨てるとか。心なんて痛まなかった。残酷ですかね?
あと、父親の大事にしていた車の上でわざとコマを回して傷つけてみたりして。
「怒られるだろうな…」と思いつつ、父の反応を見てみたかった。
で、大激怒&ガミガミガミ。

そんなんばっかでしたよ。
「悪事」「悪行」って、「やってはいけない」という「禁忌」の制約がかかるから、と~っても魅力的なのです。
で、寸止めの見極めがまた難しいわけでして。
「これ、やっちゃまずいだろうなあ」という感覚と突き上げる葛藤に一人酔いしれてたりして←バカ
今のこどもたちにはあるのかな?と考えると、今反抗期の我が子なんて大したことなく思えてくるから不思議です。

でね、そのうち、どこまで「悪」が許されるか、考えてみた結果、ずいぶんと社会倫理的に「悪」とされるけど、ずいぶん根拠のない「悪」もあるものだなあって。
また逆に、「善」にしても、本当に必要な「善」と、逆にさじ加減が難しい「善」もあるのだろうなあって考えてみたりもして。

本当に、何が「善」で何が「悪」なんでしょうね。

≪偽善≫という言葉に抵抗があるから、わたくしは、ほぼすべての行為を「わたくし自らが願うから行うまでのこと」と考えるようにしています。
「相手の気持ちを汲んでそうする」でなく「自分の心が痛いからそうする」という感じでしょうかね。
究極の利己主義でイヤな女かも。

わたくしはキリスト教信者ではないけれど、宗教や神にかかわらず、人間同士、もしくは自然界の生き物同士、互いの痛みやつらさに想いを馳せたりするのって、必要なことかもしれないって思います。
でも、真の意味で「それが何か」と深く究めもせずに、時におせっかいになったり自己満足の世界に陥ることもあると思うし、また、逆に、それを理由に何もしないというのも酷く一人の大人として残念なことだろうし。

回答になってなくて申し訳ありません、ですが、
「客観的に見て恵まれた人生を送ってこれた」ということは、会ったことのない神以上に出会った人々や周囲の方々への感謝以上でも以下でもない気がするのです。
或いは直近では、今晩食べたお肉を提供した動物やして下さった方々とか…
う~ん、考えたらキリがない。

で、逆にもしかしたら、shift-2007様の恵まれたところ、つまり、お知恵とお力を借りたい人たちが今もどこかにいるかもしれませんよね。
それはわたくしにはわかりません。
shift-2007様がご自身でお考えになることではないでしょうか。
何となく、その方々たちにふれることで、≪お互いに≫得られるものがあるような気もするのですが…どう思われますでしょうか。

ではでは。おやすみなさい…。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私たちは客観に慣れすぎています。
例えば子供のいたずらは本人達にとってはとても楽しいものです。
楽しいからこそいたずらするのであり、楽しくなければいたずらしないと思いませんか。
怒られることによって親の愛を確かめるという動機かもしれませんが、それでもやはり自分にとって有益だからこそです。
いたずらを善悪という物差しで評価をするのは周りの大人や未来の自分です。つまり客観によってです。

大人のたばこも同様です。
吸わない人にとっては体にもマナーにも悪い行為ですが、本人にとってはたばこを吸うことによってストレス解消という利益を得ているのです。
そうでなければたばこを吸いません。

私たちの行動は、偶然でもたまたまでもなんとなくでもなく、私たちの心の中にある天秤によって決定されているのです。
意識的か無意識かも問題ではありません。
私たちは限られた選択肢の中で天秤を使い最善のものを選択します。もっと言えば最善しか選択できないのです。
私たちの心の中になぜ天秤があるのかは分かりませんが、この天秤の動きは最善のものを選択するという原理原則で動いています。
私はこの原理原則を絶対善と考えました。
人間および他の動植物もこの原理原則からは逃れられないと思われます。

そこで絶対善によって行動が保障されている『私』にとって他人の善が偽善に見えても仕方なかろうと書いた次第です。m(__)mペコ

お礼日時:2009/05/11 20:12

 かつてニーチェが『この人を見よ』のなかで立てた、「どうして自分はこんなに賢いのか」という問いと同じ匂いがするのですが、どうでしょうか。

質問文中にある、「それは私が恵まれているからだ」という答えは、いわば「だって私は天才だから」という答えと同じ、無能の告白として読めるからで、世の中にはその無能さによってしか裏付けられることのない正しさというものがあるのだと、僕は思います。
 その場合に「神の気持ちになって」答えたとしましょう。
 けれどその答えが正しさを増すごとに、神の全能性は理屈や合理性へと変わり、神の恩寵は大衆の漏らす吹聴へ転ずる。このような事態がなぜ生じるかといえば、その理由は何かを説明できなかったことにあるのではなく、説明してはいけないことを、説明してしまったことにこそ、あるのだと思います。

 自分はどのような人間を愛するのか。
 僕ならばこんなふうに答えます。「どうしてなのかはわからないけれど、でも何となく好きになっちゃったんだよな」という減らず口が叩ける輩をこそ、神は愛されるのではないでしょうか。この場合の「好き」に、偽りはないものとしての話ですが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私は本を読まないのでニーチェのそれを知らないのですが、
無能の告白とはどういう意味なのでしょうか。

>説明してはいけないことを、説明してしまったことにこそ、あるのだと思います。

分かる気がします。
しかし、例えばそれで私が愛されなくなるなら私はそれまでの人でしょうからいいのです。

お礼日時:2009/05/10 23:55

shiftさん。

こんばんわ。宙ぶらりんです。

どちらが適切だと思いますか?
1.わたしがあなたを愛するのはわたしがあなたを必要としているからです。
2.わたしがあなたを愛するのはあなたがわたしを必要としているからです。

神がわたしを愛するのは、わたしが神を必要としているから。
災難が降ってくるのは「神の試練」ではありません。
神は災難をとどめることはできませんが、
同じように災難を投げつけることもできません。
このようにして神はわたしを愛しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

全ては方便のような気がします。
つまり、どれも正解ということです。

お礼日時:2009/05/10 23:48

 どこかでイエスの十字架のことの投稿をしたものです。


 その投稿にも関らず、団体としてのそして団体活動としての宗教や信仰には過敏に批判をしてきています。
 神というタームが出ています。これはあくまでも個人の自分の問題です。そういう限りでの係わり合いです。
 そういう中での事を投稿してきております。だから投降エラーのご見解の一面に対しては賛意がもてます。
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この回答へのお礼

私、神になります。

お礼日時:2009/05/10 23:46

kigurumiです。



ああ、投降エラー。。。Orz

えっとですね。。。ちょっと投降エラーで脱力しましたが、めげずにもう一度。

まず私はアンチキリスト教です。
確か家に聖書はあったと思います。
おかんの出た大学がそっち系だったからじゃないかと。
で、読書好きな私はなんでも読んだので、それも読んだが「何語?」ってくらいチンプンカンプンだった。

大人になれば読めるようになるかと思ったが、やっぱり聖書の言葉は意味不明。

でも キリスト教って博愛で自愛に満ちた集団だって認識だった。
ところが、情報を得るほどに、とんでも偽善団体だとわかりだした。

マザーテレサの話が出ているのでちょっと。
彼女は教会の外に貧しい人々がいながら教会の人々は見向きもしていないことに疑問を持ち、イエスの愛を実践したくて、教会を出ると行った。

教会の人は「出てもいいが、一切援助はしないがそれでもいいのなら」と言った。
彼女は教会を出て、今まで教会が無視してきた人々の中に入ったわけです。

彼女の行動に賛同した人が彼女を援助。
だんだん彼女の名前が有名になると、キリスト教は彼女の実績をまるで自分たちの実績であるかのように吹聴しだした。

どこまでも自己中心的で強欲なやつらなんですね。
テレサはセックススキャンダルにまみれたダイアナに利用されたし、他のいろいろなことでスキャンルで名誉を失った人々の名誉回復のために道具として利用された。
キリスト教会だけじゃあないですね。 自らで汚した名誉をテレサを使って回復したわけです。
彼女に援助する人ってことで、たちまち評価がよくなりましたから。


さて彼女は日本に対してこんなことを言っている。
http://www.cbcj.catholic.jp/mother/shirayanagi.htm

『町を歩いて気がついたのは、日本の多くの人は弱い人、貧しい人に 無関心です。物質的に貧しい人は他の貧しい人を助けます。精神的には大変豊か な人たちです。物質的に豊かな多くの人は他人に無関心です。精神的に貧しい人 たちです。愛の反対は憎しみとおもうかもしれませんが、実は無関心なのです。 憎む対象にすらならない無関心なのです。」 』

<愛の反対は無関心>

無関心、恐ろしいものです。



イエス作家の言葉にこんなのがある。

http://home.att.ne.jp/wood/aztak/untiku/spiritua …

わかるようでわからないですよね。
子供時代読んでわからない文章で大人になってもわからなかった文章。

特に
<義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。>

まるでキリスト教を布教して殺されると天国にいけるかのようなニュアンス。
実際、キリスト教を布教して迫害されると天国にいけると思った人続出で、故意に過激な布教をしまくって、社会不穏を起こして、ネロに弾圧され殺されようとしたキリスト教徒続出した。


この文章を聖職者はどう説明するのでしょう。
「正義を貫いたものにはご褒美があるんですよ」って言う聖職者がほとんどじゃないかと。
それか「聖書を読むうちわかるから、聖書をわかるまで読みなさい」

聖書を何億回読もうと、ヘブライ語の慣用句がわかることは無い。
ヘブライ語に戻すと、「神の義を希求するものは幸いである。天の国は、彼によって構成される。」

迫害じゃなく 追い求める。
誤訳したため、自殺行為者続出。

不幸な人々がいることを認識しながら助けなかった律法学者。
かたや無視せず神の義を実践したイエス。
神の義を希求するものによって、天の国は構成される。
そのような神の義を実践するものたちが地上にあふれたら、天の国は地上に降りてくる(天の国が地上で実現する)。

ってのがこの文章の言わんとすることです。


さて、律法学者とイエス作家の対決。 
律法学者は律法の研究をする人。やはりレビ人だったと思えます。
イエス作家もあれだけ旧約の隅々まで詳しかったので、聖職者の中でも上位の人だったと思えます。

イエス作家はこんなことで神の愛の概念を表現している。
安息日にイエスを今でいうならニート者の下におとづれさせ、自分に神から課せられた義務・任務を遂行せよとハッパをかけた。
恐らくこの足のなえた人も聖職者だったのでしょう。

それに対して律法学者は安息日に仕事をしたとしてイエスを律法破りと批判している。

<文字は人を殺す> パウロの言葉だったと思います。
文字とは律法のことで、律法が人を殺す つまり神の言葉が人を殺しているってわけです。
だからパウロは神の言葉である律法のほとんどを否定した。


イエスは盲目の人を目が見えるようにしたというエピソードがある。
これまたヘブライ語の慣用句を知らないと誤解する。
日本語にも価値がわかる人を目利きといい、わからない人をめくらと言っていたが、ヘブライ語もそう。
肉体的に視力を失った人に視力を与えたというのではなく、智恵を与えて分別がつく人にしたってエピソード。


さて、律法を優先するか神の愛を優先するか。
聖書はこんなことも言っている。
神に祈りを捧げる時間でも、隣人に害を与えてしまったら、まず隣人のもとにいって説明して許してもらいなさい と。
隣人愛が神への愛より優先だって言っているわけです。
神はその方を喜ばれると言っているわけです。


さて、盲目に戻って。
マザーテレサは盲目ではなかったので、教会の外に恵まれない人が見えていたが、教会の聖職者は見えていたが無視した。
盲目のふりをしたから性質悪いですね。
もし 心があれば、それに気づいたら痛いですよね。
心が無ければ見えない。 心が痛くない。行動に起こさない。


それは宗教信者じゃなくても 一人の人間として 心がある人間であれば、誰だって痛いと感じるはず。
人間だけじゃない 他の動物だって共感能力があり、我がことのように感じて行動を起こす。

実際 恵まれない人がいること自体認識しながら、自分の幸福に酔いしれているのは、彼らの存在を無視しているからできるんですよね。

愛の反対語は無視。
もし、愛の神様 善の神様がいるのなら、無視をするあなたを決して愛しなどしないんじゃありません?

まるでテレサがいた教会の聖職者とあなたは同じじゃないですか。


<偽善>
例えば私がよかれと思って寄付をしたとする。
ところがそれが殺人集団の資金源になって多くの人が死ぬことになったら、私の善だとしてやったとしても善じゃなくなるじゃないですか。
これを偽善と言う。

で、私は能力の一部をもって誰かを助けて「ありがとう」と言われたら、「とんでもない 私の方こそありがとう」と頭を下げるようにしています。
私の行為が偽善にならないようにという願いがあるから。

私は完全じゃないので、すごい目利きではない。
ともすればよかれと思ったことでも、結果悪いことになったりもする可能性があると思っている。
全てお見通しの能力を持たない私はよかれと思って行使したとき、どうか私の行為が偽善に転じませんようにと思う。
それでも偽善になることもある。

一番すごかったのが、人を助けようとして、思いっきり顔をグーで殴られたことかな?
足で蹴られてぶっとんで、噛み付かれた。
とっさの判断で、本人の承諾なしに助けようとしたため「余計なことするな」ってことで暴行を受けたわけで、相手が冷静に戻ってくれた後、グルグル包帯まきの私の腕と腫れ上がった顔をじっとみて、言葉を失ってましたっけ。
自分がやったとは思えないって。

まあ いいですよ。命助かったからよかったじゃん。生きていればいいことあるさ。
あの人あれからどうしたのでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

なるほど、kigurumiさんの気持ちは分かります。
ただ、kigurumiさんは私もマザーテレサも客観的にしか理解していないように思います。
(別に自分とマザーテレサが同列と言ってるわけじゃないんですが)
なぜなら、マザーテレサは協会批判はしてないでしょう?
私だって弱者を無視しましょうとは言っていません。
マザーテレサが他者を批判していたなら大した功績は残せなかったのではないでしょうか。
マザーテレサはマザーテレサなりに、私は私なりに弱者を救うのです。それは協会も同じでしょう。

お礼日時:2009/05/10 23:44
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