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江戸時代の遊郭や曲輪というと江戸の深川、明石町?や吉原しか思い浮かびません。ほかの地域にもあったのでしょうか?大坂なら「新地」や「曽根崎」というところがそれに該当するのでしたっけ?

A 回答 (5件)

江戸の吉原・京の島原と並んで三大遊郭として栄えた伊勢の古市も誰か挙げてあげてください。


ま、幕府非公認でしたけど。

http://www.city.ise.mie.jp/icity/browser?ActionC …

参考URL:http://www.city.ise.mie.jp/icity/browser?ActionC …
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

各地の有名な所は、すでに皆さんがお答えしているようですので、
私は、少々、「裏話」を・・・。

「公娼」としては、江戸の四宿(品川、千住、板橋、内藤新宿)には1軒につき2人の「飯盛り女」が許可されていました。
しかし、宿の表で客引きをするのは2人でしたが、一旦、呼び込んでしまえば裏へ回ればゾロゾロ。

(よもやま話)
(1)吉原の歴史
慶長5(1600)年に徳川家康が、関ケ原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡の前に茶屋をつくり、揃いの赤ダスキに赤い手ぬぐいをかぶった遊女8人に茶を振舞わせた者がいた。
これが家康のお気に入りとなり、関ケ原の戦いののち、元和3(1617)年にこの男(=庄司甚右衛門)へ日本橋葦屋町に公認の遊女屋の場所を与えたのがはじめ。そのあたりは、まだ一面の葦野原だつたことから、めでたくもじって「吉原」とした。

(2)明暦3(1657)年の大火をきっかけに、葦原町から浅草日本堤へ移転しました。これには、人口の急増で江戸府内が手狭になったこと、浅草近辺の開発をめざしたこと、千代田城(江戸城)の近くに遊女屋があるのは風紀上よろしからず・・・等々の理由でした。
以後、「元吉原」「新吉原」と呼ばれるようになりました。
なお、江戸時代は「江戸城」とは呼ばず、正式には「舞鶴城(ぶかくじょう)」または「千代田城」と呼ばれていました。庶民は、ただ単に「お城」と呼んでいました。

(3)吉原の遊女は、幕府公認という「格式」をもっていたので、「女郎」とは決して呼ばせず「遊女」と呼ばせました。
ちなみに、私娼は「売女(ばいた)」と呼ばれました。
・江戸では「夜鷹」・・・夜になるとゴザ一枚を小脇抱え、両国や柳橋、呉服橋、鎌倉河岸などに出没し、通りすがりの男の袖を引っ張って、川端に積んである材木の間などで「事」をすませた。
・京都では「辻君(つじぎみ)」・・・何となく風情がありますね。
・大阪では「惣嫁(そうか)」・・・何でも喰らいつくの意からとか。

(4)江戸の最高級遊女は「花魁」。京都や大阪では「太夫」。
ただし、江戸も当初は「太夫」を名乗っていました。江戸で「太夫」になると、「容姿」はもちろんのこと、「唄」や「踊り」「和歌」や「書」の素養。「三代集」などを「レ(返り点)」なしに読む、「囲碁」「将棋」なども相手ができるくらいの教養が求められました。つまり、遊女の中の「超エリート」でした。しかし、一晩過ごすだけであると、余りにも「窮屈過ぎる」ということから、宝暦年間(1751~1763)以後は、「太夫」は消滅し、そこそこの「容姿」と、そこそこの「話題についていける」程度の「花魁」が登場しました。
では、京都や大阪では・・・これは、見世物小屋で踊りなどが優れた女優を「太夫」と呼び、そのまま「太夫」という呼称が続きました。

(5)遊女の起源は古く、神社の「巫女(みこ)」が始まり。何も遊び場のない時代、神社は格好な遊覧地であったことから、神社の副収入だったのです。
そして、江戸時代になっても、神社は寺社奉行の管轄で、寺社奉行は、そのような「風俗取締り」の権限がなかったため、「安全地帯」だったというわけです。

(6)では、お寺は・・・というと、諸国勧進の「尼」が、いつしか堕落して、娼婦に落ちた者もいた。尼僧姿の娼婦というと何か「変」だが、坊主頭にお色気を感じる「変態男」もいて、江戸時代はなかなかの人気があった。
「三ケ日待たず 比丘尼は見世を張り」
と狂歌にうたわれ・・・正月の三ケ日も休めないほど繁盛したという。
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遊郭として幕府が公認していた場所としては


・江戸 吉原
・京都 島原
・大阪 新町
・長崎 丸山
です。これらの地はいずれも幕府直轄領(天領)です。

深川(櫓下)や明石町(佃)は「岡場所」です。「岡」というのは「正規外の」という意味で、いわば非合法の売春を行う場所です(岡惚れ、岡っ引きなどは全て同じ意味)。岡場所は江戸の至る所にありましたが、いずれも非合法・非公認ですから「遊郭」とは言いません。

これ以外に街道筋には「飯盛り女」という名目で、事実上の売春が公認されていた場所がいくつかあります。品川、新宿、千住、板橋などでは、飯盛り女を置いても良いかどうか、何人まで認められるかは幕府(奉行所)がコントロールしていました。ただし、こちらは遊郭とはいいません。

また、それぞれの藩領にはそれぞれの場所があったでしょうが、こちらは幕府とは関係がありません。
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京都には「島原」がありました。



参考URL:http://www.sanshodo-ogura.co.jp/31-0-shimabara.h …
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http://www7a.biglobe.ne.jp/~masayuki/akasenatosa …
上掲URLによると亀戸、千住、向島、新宿2丁目、亀戸等にもあった模様ですね。
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