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飛鳥資料館でキトラ古墳の白虎と青龍を見てきました。
1000年以上前に描かれた古墳壁画が目の前にあるのだと思うと大変感動的でした。

さて、皆様は高松塚古墳、キトラ古墳の被葬者は誰だと思いますか?
またその理由を教えて下さい。

トンデモ説も歓迎です。

A 回答 (3件)

前に候補になった草壁皇子と兄弟(異母のような遠い)でしょう。


根拠は壁画にあります。   この中国文化を倣った古墳壁画は、それに傾倒し中国風の庭園(近年発掘復元された)に多大の国費をつぎ込んだ、持統天皇が描かせたものと思います。
持統天皇が先立たれた二人の皇子のために造らせた墓でしょう。
キトラ古墳が草壁皇子、あとから造られた高松塚が高市皇子か大津皇子。
大津皇子とすると刑死した皇子の怨霊を鎮めるためですが、当時からその習慣があったかどうか。

キトラ古墳の遺骨についても、持統天皇の男子についてもよく知らないので、勝手な推察ですが。
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この回答へのお礼

おー!
ありがとうございますっ!

確かに四神図は中国の古墳壁画などに描かれていますね。
また高松塚古墳の女子群像は唐の永泰公主墓の壁画に似ているという指摘もありますね。
ただしあのプリーツスカートのようなデザインは高句麗古墳壁画のものと同様で半島の影響もあるように思われます。

また高松塚古墳の人物群像が持っているものは、『貞観儀式』に記された元日朝賀の儀式に列する官人の持ち物と一致するそうで
そのあたりも気になるところです。

高松塚古墳の被葬者が大津皇子だとすると、鎮魂の意味で、せめて天皇となる夢でも見て欲しいという思いから描かれたのでしょうか。

大変参考になりました!

>キトラ古墳が草壁皇子、あとから造られた高松塚が高市皇子か大津皇子。

とのことですが、キトラ古墳が先に作られ、その後に高松塚古墳が作られたと考えられるのはなぜなのでしょうか。

よろしければ教えてください。

お礼日時:2009/05/13 09:48

No.2です。


今日本書紀第30巻の原文を読んでますが、持統天皇は御説の通り、韓国寄りですね。
ただ被葬者解明の手がかりは見つかりません。(当たりまえですが)
キトラ古墳のほうが小ぶりで、その理由には
1.あとから造られる方が大型になる。
2.身分や年齢の高低で大小が決まる。
が考えられますが、1を選んだだけです。
大津皇子とした場合は草壁皇太子が早く亡くなったのは、その祟りと考え改葬したことになりますが ?。
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この回答へのお礼

わーお、日本書紀の原文を読んでるのですか!
凄いですね!私にはとても読めないです。
持統天皇は韓国寄りなのですか。
日本書紀、読んでみなくちゃですね。
確か図書館に現代語訳されたものがあったっけ・・・

古墳はあとから作られたものの方が大型になるのですね。

何度もありがとうございます。勉強になりましたあ!

お礼日時:2009/05/13 18:22

その当時の貴族か豪族かと思っているのですが、調査してもなかなか結論が出ませんね。


おそらく地位も相当上の人なのでしょう。
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この回答へのお礼

早速回答をありがとうございます。

高松塚古墳とキトラ古墳の四神図は大変よく似ています。
ここからこの二つの古墳は同じ人物または同一グループによって
描かれたものだと考えられますね。

また高松塚古墳の被葬者の遺骨には首がなかったとか・・・

小型の古墳であることから薄葬令が出されたのちに死亡した人物の墓だとも考えられるかもしれません。

こういった条件から考えられる人って誰かいませんか?

お礼日時:2009/05/11 17:09

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