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近世の大帝国で清の領土はその後、中華人民共和国にひきつがれて
中華世界は一つにまとまってますが、
オスマン帝国を中心とするイスラム世界は
なぜ分裂してしまったのでしょうか?
決定的な要因は何だと考えられますか?

A 回答 (2件)

同化の度合いと、主要構成民族の人口の差などによる、地域、民族の統一感の違いではないでしょうか。



そもそも、オスマン朝の後継と一般的に見られているトルコ共和国は、成立直前に青年トルコ党などの活動でやっとトルコ人の意識が生まれてできたものです。オスマン朝の統治下でいわゆるトルコ民族という意識は希薄だったようです。またオスマン朝は清朝などと比べ圧倒的に多民族国家です。地方の官僚、兵隊から中央の宮廷に至るまで、ギリシア、アルバニア、ユダヤ、スラブ、アラブ、イラン、雑多なトルコ系の諸部族、多種多様です。文化的にも帝国下で全体的にイスラム文化の影響はあったにせよ、文化的に統一感に欠いていますし、オスマン族を中心とした支配者層がいわゆるトルコ文化で支配地域を同化したわけではありません。反対にアラブ文化にオスマン族が同化したわけでもありません。その多様性がイスタンブールの繁栄と言ってもよいでしょう。

それに対し、清朝は成立時点で統一感があります。多少の大小はあれど、既に何千年も同じような版図で統一王朝がいくつもでき、元々は中原の文化を基にした民族が周りを征服、被征服を繰り返し、広い範囲がいわゆる中華世界として統一感がありました。漢民族と言われる人たちも、実際には多種多様な人種の混合体ですが、同じような文化と意識を持ち、高度な文明を何千年も保っていたせいで、周辺の地域も長年交流、文化の移入を繰り返し、清朝は成立前から、中華(世界の中心)思想がしっかりとありました。その漢民族文化のうえに満族の酋長が乗っかっただけです。清朝の版図は周辺部を除き、既に多くも部分が同化されていました。また、漢民族の人口も圧倒的です。周辺の蒙古、東トルキスタン、チベット、雲南、満州の民族を文化的にも数的にも圧倒していました。支配階級の満族でさえ直ぐに漢民族に同化しました。建前上それではマズイので満族の髪型と服装を法律で強制したくらいです。

もちろん発展を遂げ、膨張するヨーロッパに近かったのも大きな要因でしょうが、帝国の基盤と地盤がそもそも違います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
歴史的慣性が中華世界とイスラム世界では違うということですね。

お礼日時:2009/05/30 21:55

適当ですが、


オスマン帝国は欧州の列強に地理的に近い。
帝国の核となった民族の人口比率の違い。
の二つでは?

オスマンのトルコ人は少数派なのに対して、清では漢民族が圧倒的多数を占め中華民国を建国しました。それでも、中華民国はチベットを支配できず、結局群発割拠状態に陥ります。統一できたのは中華人民共和国になってからです。
これも、インドやチベットからイギリスが撤退し、ソ連は東トルキスタンを占領したものの手を引いて中国に引き渡したためです。

一方、オスマン帝国の所領は、アラブや中東欧でした。前者は石油利権があるうえに自分の方がイスラム文明の中心を自負するアラブ人です。後者は欧州から見れば、イスラムではなく、自分たち欧州・キリスト文明の一部だから、ひきはがすのは当然だと思います。トルコ人は自分の国を作る直すのがやっとで、第二次大戦後も大国が向き合っている地域において領土拡張なんてする猶予はありませんでした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
欧州からの距離は要因として大きそうですね。

お礼日時:2009/05/30 21:54

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