プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

遊女は少額で売られてきて、多額の借金を背負ったと聞いたことがあります。
実際にはどれくらいの借金を背負ったのでしょうか?
借金の額はどのような計算で決まったのでしょうか。
また身受けする場合はどれくらいの金額が必要だったでしょうか。

A 回答 (3件)

こんばんわ。


私の「つたない」解説をお読みいただきありがとうございます。

>>1.遊女は実家に仕送りなどしていたのでしょうか?

仕送りをする・・・美談ですね。
でも、実際には「不可能」でした。
前回、
(2)揚代や酒色での代金の25%が遊女の取り分。75%が楼主の取り分でした。
と、記載しましたが、遊女は25%の中から、さらに、15%を借金の返済に取られました。従って、自分の自由になる銭は10%でした。
史料によると、揚代は以下のように変遷しています。
寛永18年(1641)頃
太夫=1両
明暦年間(1655~1658)頃
太夫=60匁、格子=26匁、散茶=金1分、局=3匁
元禄年間(1688~1704)頃
太夫=37匁、格子=26匁、局=3~5匁
享保19年(1734)
太夫=74匁、格子=52匁、散茶=1分、梅茶=10匁
延享2年(1745)
太夫=90匁、格子=60匁

時代により、現在の金銭の換算は変化をしますが、おおむね・・・。
1匁=約1500~2500円。
ただし、寛永18年の太夫=1両=約25万円。
その10%=2万5000円。
酒食のバックマージンがあったとしても、せいぜい、3万円位。
享保19年では、74匁=約19万円
10%=1万9000円。酒食のバックを入れても2万円少々。
太夫でさえそれ位ですから、太夫以下は押して知るべし。
とても、実家などへの「仕送り」などはできませんでした。
そして、15%を借金の返済に取られましたので、まあ、「苦海(苦界)10年」で、何とか、借金を返して、自由の身になれたのです。

>>2.遊女は吉原から外で出ることはなかったそうですが、本当にそうですか?花見とか月見とか、なじみの客とでかけたりしませんでしたか。

3月には「お花見」などで、主に「上野のお山」へ行きました。
「妓楼」単位で「若衆」の見張り付きで行われましたので、途中で「逃げ出す」ことなどはできませんでした。
次のサイトで吉原の「年中行事」が出ています。ご参考までに・・・。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/sukeroku/bangai/n …
馴染みの客とのデート・・・これは、「厳禁」でした。
遊女が、もし、その男と姿をくらましたら、折角の商売道具を取られたようなものですから、これはできませんでした。
もし、妓楼から逃げ出したり、男がそれを手伝ったりした時は、男は殺されました。
また、遊女も「遣手(やりて)」によって、竹刀でさんざんに叩かれたり、一晩立ち木に縛られたり、時には、攻め殺しにあうこともありました。他の遊女への「見せしめ」があったからです。
奉行所も、よほどの「たれこみ」がない限り、出張ることはせず、またもし、出張ったとしても、多額の「わいろ」でもみ消されました。

>>病気になって小石川養生所へ移されるとか。

「病」としては、大別して「瘡(かさ=梅毒)」と「労咳(肺結核)」でしたが、働きが良かった(客を大勢取った)遊女は、その妓楼の別宅で養生させてもらえましたが、大部分の遊女は、微熱があろうと、喀血をしながらも、多くの客を取らされました。
そして、いよいよ「ダメだな」となると、妓楼内の日当たりも良くない、薄暗い納戸のようなところへ閉じ込められ、食事もほとんど与えられずに遊女の「死」を待つだけでした。
遊女が死ぬと、腰巻一枚の丸裸にして、菰(こも)に包んで銭200文を付けて「投げ込み寺」へ。
寺では、「総墓」と呼ばれる大きな穴に投げ込み、簡単なお経を読んで供養を済ませました。
従って、小石川養生所などはもとより、医者にかかることさえできませんでした。

>>3.ご祝儀は自分のものにできましたか?

これは、自分のものになりました。
しかし、吉原ができた頃は、主に裕福な「武士」を対象としていました。これには、幕府の考えとして、金持ちの大名や武士が居ては、いつ幕府転覆をされないとも限らない、と、言う理由から、大名や高級武士、豪商などに限られていました。つまり、散財をさせて貧乏にする、と言う政策でした。
庶民が自由に大門を出入りできるようになったのは、元禄年間(1688~1704)頃からでした。
ですから、当初は「太夫」と言う「超エリート」が大名などにもてはやされ、「書」「読」「囲碁」「将棋」などの素養を必要としました。
だが、庶民が出入りするようになってからは、一晩抱くには、余りにも窮屈で、宝暦年間(1751~1764)頃には「太夫」は消滅をし、そこそこの器量で、そこそこの話題についていける「花魁」に変わりました。
しかし、京都や大阪では「太夫」の名称は残りました。
それは、江戸と違い、京や大阪では、「踊り」などの「芸」に優れた者を「太夫」と呼ぶ習慣があったからです。江戸の「太夫」ほどの教養は必要としなかった。
また、ご祝儀は「自分のもの」になったとはいえ、庶民にとっては、吉原で遊女を揚げるだけで精一杯でしたので、よほど、お大尽でもなければ、「チップ」はもらえませんでしたし、お大尽になれば、「花魁」や「格子」などの格の上位を指名しましたので、それ以下の遊女は、めったに「チップ」はもらえませんでした。
享保時代に実際に?あつた話として、大工が1カ月かけて、銭200文(約6000円)を貯めて、やっと、吉原へ繰り出した、という話もあります。まあ、せいぜい「次」などの下級の遊女でも買ったのでしょうね。
    • good
    • 1

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>実際にはどれくらいの借金を背負ったのでしょうか?

うぅ~ん。これは難しい。

(1)まず、知っておいて欲しいのは、吉原の遊女は「奉公」と呼ばれ、基本的には親との直接取引で、借金の「かた」として勤めました。
人買などによって地方の幼女が売買されたのは、90%位は「岡場所」に売られましたので、吉原の遊郭へは、ほとんど、人買を通しての人身売買はありませんでした。

(2)揚代や酒色での代金の25%が遊女の取り分。75%が楼主の取り分でした。

(3)借金の額は、遊女の格(ランク)により違いますが、梅茶(うめちゃ・ランクについては、下記の「よもやま話」を参照してください)あたりで、時代にもよりますが、元禄時代(1688~1704)あたりでは、梅茶の「身請け」に40~50両かかったとの記録がありますので、遊女自身の借金は30両位で、後の10~20両は、楼主の「儲け」だと考えられます。

>>借金の額はどのような計算で決まったのでしょうか。

(1)衣装代や化粧品、さらには、蒲団、座布団、火鉢などなどの全てが「貸与」で、一日幾ら・・・と言うような「貸し出し料」を取りました。それも「ぼったくり」で・・・。
従って、遊女は、お客を取っても取っても、借金は減らない仕組みとなっていました。
「太夫」とか「格子」などになると、客からのプレゼントでなんとか、借金を帳消しにできる程度でした。
しかし、「太夫」や「格子」などにさえ、衣装を自前で作ったりすると、呉服屋と結託をして、「水増し請求」をしたりしました。

(2)遊女の食事は粗末で、少量でしたので、遊女はいつも腹を減らしていました。そこで、客にいかに奢ってもらうかを楼主は競わせました。酒色代が上がれば、それだけ、楼主は「儲け」があったのです。

>>また身受けする場合はどれくらいの金額が必要だったでしょうか。

(1)これも元禄時代あたりでは、「太夫」や「格子」で500~600両とありますが、楼主だけではなく、世話をしてくれた「禿(かむろ)」やこれまで世話になった「太鼓持ち」等々にも「ご祝儀」を出しましたので、約1000両かかった・・・との記録があります。

(2)天明3年(1783)秋に身請けをされた四代目「瀬川」では、1500両であった、と言う記録もあります。

(3)金銭の算出法(時代によっても違いますが・・・)、おおよそ、
☆金1両=4分=16朱=銀50匁=銭4貫文
      大工さんの賃金
寛永年間(1624~1643) 銀1匁6分(86文)
(銀1匁で米2升5合買えた)。
文化・文政(1805~1829) 銀3~5匁(330~550文)
慶応(1865~1867) 銀15~20匁(1100~1500文)
(銀1匁で米は約1升)。

(4)1匁=1200~1500円位。
従って、大工の年収は、400万円弱。
1両=75000円位。
75000円×1000両=7千500万円位。

(よもやま話)
(1)遊女の起源は古く、神社の「巫女(みこ)」が始まり。何も遊び場のない時代、神社は格好な遊覧地であったことから、神社の副収入だったのです。
そして、江戸時代になっても、神社は寺社奉行の管轄で、寺社奉行は、そのような「風俗取締り」の権限がなかったため、「安全地帯」だったというわけです。

(2)では、お寺は・・・というと、諸国勧進の「尼」が、いつしか堕落して、娼婦に落ちた者もいた。尼僧姿の娼婦というと何か「変」だが、坊主頭にお色気を感じる「変態男」もいて、江戸時代はなかなかの人気があった。
「三ケ日待たず 比丘尼は見世を張り」
と狂歌にうたわれ・・・正月の三ケ日も休めないほど繁盛したという。

(3)吉原の歴史:
慶長5(1600)年に徳川家康が、関ケ原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡の前に茶屋をつくり、揃いの赤ダスキに赤い手ぬぐいをかぶった遊女8人に茶を振舞わせた者がいた。
これが家康のお気に入りとなり、関ケ原の戦いののち、元和3(1617)年にこの男(=庄司甚右衛門)へ日本橋葦屋町に公認の遊女屋の場所を与えたのがはじめ。そのあたりは、まだ一面の葦野原だつたことから、めでたくもじって「吉原」とした。

(4)江戸の四宿(品川、千住、板橋、内藤新宿)には、「飯盛り女」という宿場女郎が許可されていました。1軒つき2名という決まりでしたが、表に出て客を引くのは2名でしたが、一旦、宿へ引き込んだら、裏にまわれば、ぞろぞろ・・・。

(5)明暦3(1657)年の大火をきっかけに、葦原町から浅草日本堤へ移転しました。これには、人口の急増で江戸府内が手狭になったこと、浅草近辺の開発をめざしたこと、千代田城(江戸城)の近くに遊女屋があるのは風紀上よろしからず・・・等々の理由でした。
以後、「元吉原」「新吉原」と呼ばれるようになりました。

(6)遊女の格式では、「太夫」「格子」「散茶(さんちゃ)」「梅茶」「五寸局(つぼね)」「三寸局」「なみ局」「次(つぎ)」の序列になります。
そして、「太夫」と「格子」に客がつくと、揚屋まで向かう時は、いわゆる「花魁道中」をして、客のもとへ向かいました。
従って、「花魁道中」は、「太夫」と「格子」の特権でした。

(7)「太夫」になると、「容姿」はもちろんのこと、「唄」や「踊り」「和歌」や「書」の素養「源氏物語」や「竹取物語」などを「レ(返り点)」なしに読む、「囲碁」「将棋」なども相手ができるくらいの教養が求められました。つまり、遊女の中の「超エリート」でした。しかし、一晩過ごすだけであると、余りにも「窮屈過ぎる」ということから、宝暦年間(1751~1763)以後は、「太夫」は消滅し、そこそこの「容姿」と、そこそこの「話題についていける」程度の「花魁」が登場しました。

(8)花魁の由来については、「おいらの姉御」「おいらの」から「おいらん」と転じ「花魁」という漢字が当てはめられたと言われています。

(9)見世で格子戸の中から客を呼び込み、しやにむに二階に上がるのは、「散茶」以下の遊女たちです。「太夫」「格子」は、絶対に見世の格子戸の前には座りませんでした。
ちなみに、「散茶」の由来とは、煎茶をたてる方法として、振ってたてるものと、振らないでたてるお茶があり、振らない方を「散茶」と呼んでいて、どんなお客も振らないことから「散茶」と洒落て呼ぶようになりました。

(10)なお、吉原の遊女は、幕府公認という「格式」をもっていたので、「女郎」とは決して呼ばせず「遊女」と呼ばせました。
ちなみに、私娼は「売女(ばいた)」と呼ばれました。
江戸では「夜鷹」・・・夜になるとゴザ一枚を小脇抱え、両国や柳橋、呉服橋、鎌倉河岸などに出没し、通りすがりの男の袖を引っ張って、川端に積んである材木の間などで「事」をすませた。
京都では「辻君(つじぎみ)」・・・何となく風情がありますね。
大阪では「惣嫁(そうか)」・・・何でも喰らいつくの意からとか。

(11)吉原の楼主は「亡八(忘八とも書かれた)」と呼ばれた。これは、中国の古典に「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」の8つの節度を失った人面をした「野獣」だと、いうところからきている。

(12)吉原の遊女は、17~18歳から客を取り始める。その歳よりも幼くして遊郭へ入れられた時は、「禿(かむろ)」として、遊女見習いで、主に「太夫」の世話役をした。

(13)年季明けは27~28歳の10年間。「苦海(苦界)10年」と呼ばれた。
ちなみに、「禿」は17~18歳になるまでは、年季明けの10年には数えられなかった。

(14)しかし、遊女の死亡する年齢は23歳位が多く、10年の年季明けまでは、中々、生きるのが難しかった。
そこには、「瘡(かさ=梅毒)」などで死ぬ者や「労咳(ろうがい=肺結核)」などで死ぬ者が多かった。

(15)子ども達の歌う「花いちもんめ」は、「人買い」を歌ったものであり、苦しい農家の娘などは「1匁=1500円」位で売買されたことを意味している。

(16)10年の年季があけると、ある程度「借金」があっても、楼主がこれまで「ぼったくり」をしていましたので、大概は、自由になれました。
例えば、実家に帰る・・・とか、好きな男と一緒になる・・・とか、行き先のない者は、「遣手(やりて)」として、楼主に代わって遊女たちの管理、監督や指導をしました。

岡場所とは、幕府が「非公認」の私娼であり、
「湯女(ゆな)」・・・銭湯で働く女が春を売った。(500~1000文)
「比丘尼(びくに)」・・・尼さんの娼婦。(100~299文)
「蹴転(けろこ)」・・・上野の山などを拠点としての娼婦。(200~500文)
「提げ重(さげじゅう)」・・・重箱を手に提げて餅や饅頭を売りながら、春も売った。(1000文)
「船饅頭(ふなまんじゅう)」・・・饅頭を売ることを表向きとして、大川(隅田川)など船の中で春を売った。(32文)
「夜鷹(よたか)」・・・前述。(24文)
金額は「およそ」ですが、「1文=25円位」で計算してみてください。

少しは、あなたのお役にたてたでしょうか。

この回答への補足

頭が下がるほどの大変詳細な回答ありがとうございます。
更なる疑問が浮かびましたので、質問させていただきます。
1.遊女は実家に仕送りなどしていたのでしょうか?
2.遊女は吉原から外で出ることはなかったそうですが、本当にそうですか?花見とか月見とか、なじみの客とでかけたりしませんでしたか。病気になって小石川養生所へ移されるとか。
3.ご祝儀は自分のものにできましたか?

よろしくお願いします。

補足日時:2009/05/27 14:47
    • good
    • 2

 質問に関して質問します。


ここでいう遊女とは、どのような商業のことでしょうか?
実は遊女にも種類があって、地方によってもかなり変わります。
いわゆる売春婦ではなく、遊郭の丁稚のような職業女性も遊女です。

そして、借金の担保で売られた女性ばかりが遊女ではありません。
花嫁修業の延長のように遊郭での仕事をこなす女性と、大名相手のお座敷担当の遊女では意味も違います。

現代風にいえば、TOPアイドル・AV女優・寮母さんでは世界が違うように、遊女の意味する部分は広いので、特定してくれると説明しやすいです。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
吉原の遊女ということでお願いします。

補足日時:2009/05/25 23:00
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!