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映画の中で起こった殺人事件について、実際には何が起こったのだと思いますか?誰かは絶対に嘘をついているというのは明らかですが、そのそれぞれの嘘の動機は何だとおもいますか?それぞれの役の人たちが、実際の私たちの生活の何を象徴していると思いますか?お坊さんは明らかに、宗教界だと思うんですが、他の役の人はどうでしょうか?このえいがを人生に当てはめて見たときに、なにが見えてくるのでしょうか。この映画の枠を超えて、人生のことも含めた総合的な解釈をお願いいたします。

A 回答 (8件)

夫の霊は多襄丸との決闘の敗北を隠したくて、


潔く切腹して死んだと証言した。

妻を目の前で強姦された大失態も隠したかったし
妻に「(何故自害しない?だって!多襄丸を)この男を殺してから自害しろというなら男らしい夫だが(太刀も取らずに妻に自害を迫るのは卑怯な夫だ!決闘して多襄丸を殺してから言い直せ!)」
と決闘での決着を迫られたことも、隠したかった。

そして、女がついた嘘も、決して死刑が怖くてついた責任逃れのずるい嘘とは言えない。

芥川の『藪の中』は、3人が3人とも死罪を求めて嘘をついた不可解な事件
その矛盾する証言を並べたところで終わってしまう。
彼らは一体何を隠し、殺人以上の如何なる罪を隠さんとして偽証したかは教えてくれない。

女の嘘も夫の嘘と同じで、決闘の末に夫が無様に負けて殺された
という点を隠したくて決闘が行われた真実を証言せず、
山賊に身体を奪われながら自害しなかった妻としての恥を自覚しながら、
それを無言で責められた事に堪えかねて自分が夫を殺したという話をでっち上げた。

その後悔の念は本物で、夫の目の前で多襄丸に犯された妻
身を任せた女のサガを悔やんで、池に身を投げて自害を試みた事実を検非違使に訴えている。

嘘の動機は、夫の霊と同じで
操を奪われた罪を自覚した恥を知る妻として死ねるなら、
夫殺しの罪を負って死罪になる方が恥知らずの女として生き続けるよりはましだ
と考えた。
この点で彼女も決闘の敗北を恥をじて偽証した夫同様、
当時の日本人らしい価値観から嘘をついただけだったと言える。

更に、多襄丸の嘘も動機は同じだった!

「頼むから俺の妻になると言ってくれ!こうして頭を下げて頼むから、俺に着いて来ると行ってくれ。お前が望むなら山賊を止めて汗水流してまじめに働くぞ」
とまで言ってしまった情けない山賊だったことを隠したかっただけで、
死罪を逃れたくて付いた嘘ではなかった!

また、「(女に煽られるまでは決闘で夫と勝負を付けよう)夫を殺して女を連れて逃げようなどとは(女に『お前も男じゃない!』と図星を指されるまでは)考えもしなかった。」と樵の証言通り話し
「俺と立派に戦ってあの男は死んだ」のだから、
「妻を奪われながら自害を迫った、身勝手で情けない夫だった」
という点は検非違使に隠して証言し、夫の霊を慰めてやっただけだ。

映画『羅生門』の第一稿は芥川龍之介の『藪の中』を脚色した「雄雌」というタイトルの短編だった。
そのシナリオ企画に、同じく芥川の『羅生門』の内容を加えて融合し、矛盾の無い4つ目のキコリ証言をオリジナルで考案し、「人間の良心の強さを実感させる、善は悪に必ず勝てる
という理想的リアリズムで逆転のハッピーエンディング」を書き加えるという偉業を成し遂げたのは
橋本忍ではなく黒澤明監督の方だった。

そもそも『藪の中』は今昔物語を原作に書かれた、クリスチャン芥川龍之介の大改造物語だった。
今昔物語の最後は、
「山賊に簡単に騙されて妻を奪われたこの夫と同じ失敗をしてはいけない!」
こう結んで、妻が夫を叱り付ける台詞で終わっている。

夫が恥じて自害した、
妻も己を恥じて自害した、
多襄丸と立派に戦って夫は無念にも討ち死にした、

という武勇伝に変えて三人三様の立場を弁護して、違う証言を語らせた芥川の真意は
キリスト教の性善説にあったと黒澤明は読み取った。

世界の映画人は『羅生門』の映像美と映画技術の高さ以上に
黒澤明その人の
人間の本質は善なる良心にある
という理想を信じて付け加えられたストレートなメッセージに感動し拍手を贈り続けてきたのだ。

女の短刀を盗んだキコリが、
その罪の償いとして赤ん坊を引き取ると決意したことを
多くの日本の観客は気付かずに、この映画のハッピーエンドを批判してきたことと違って・・・

参考URL:http://tokyowebtv.at.webry.info/201001/article_5 …
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映画『羅生門』の原作は『藪の中』であって、小説『羅生門』ではない


という理由で、芥川ファンの方ほどあまり映画版をお好きでない、と聞いております。
 しかし、『羅生門』を『藪の中』と融合したことで、両小説の真相が“人間不信”ではなく“性善説”に立った“人間の良心の勝利”にあり、芥川の真意を知る上でも黒澤解釈版たる映画『羅生門』を今こそ日本人は見直し、明日の生活の指針とするべきではないか・・・、と私は思っております。

『藪の中』を原作とした部分の映画版の裁判シーンは、容疑者3人が皆「自分が犯人だ」と証言しております。つまり、無罪を横取りするための嘘ではなく、有罪になりたい、3人が3人とも死刑を望んで嘘をついた、という不思議な偽証劇でした。
  死んだ本人の霊などは、「あれは自殺だった」と訴えており、真犯人は多襄丸だと知りながら、「あれは殺人事件ではない」と嘘をついているのですから不思議です。
 これは「人には死んでも嘘をついて隠したい罪がある。それが、人間にとって殺人より重い罪に他ならない」と芥川が言わんとしたからだと私は解釈します。
 私は映画版の深読みを始めた結果、それを悟りました。
 小説『羅生門』からの引用は映画のラストに出てきます。知ったかぶりの映画評論家ほど、「あのラストのエピソードは嘘っぽくて不要だった」と批判しましたが、その分析は間違ってます。現に、世界の映画監督、『羅生門』ファンは、「(羅生門に捨てられた)赤ん坊は自分が育てる」と木こりが手を差し出すラストシーンにこそ感動したと証言しています。

 黒澤の撮影技術の高さにだけ感心したのでなく、作品の根底に流れる人生観に涙して、数々の賞を与えた、というのが真相です。

 長くなりましたが、もう少し・・・。

 その木こりも『藪の中』事件では嘘をついています。現場から高価な短刀を持ち去った、という事実を隠すための偽証でした。彼にとって高価な短刀は、家族を養うための盗みでした。しかし、その短刀を盗んだ事を罪に感じ、「6人育てるも、7人育てるも同じ苦労だ」と涙し、天に償いたいと決心したのが映画のラストシーンでした。
 それがもし、目の前の捨て子を見捨てて我が家の為だけに使ったなら、彼の盗みは家族全員の罪になってしまうところでした。その利益を、捨て子の養育費に使って初めて、彼の盗みは天に許され、短刀は捨て子にとって天の恵みとなり、木こりの罪も罪でなくなる、というわけです。
 だから黒澤が木こりに取らせたその選択は、木こりが人間になるか鬼になるかの大きな分岐点でしたし、小説『羅生門』で芥川が下人に、そして読者に求めた“人の良心の勝利”を黒澤は木こりのエピソードを通じて、世界中の観客に与えたのでした。
 ということで、映画『羅生門』は「人を信じるな」ではなく、「信じていいんだよ」という作品だった、と私確信しています。

黒澤明監督が『羅生門』を『藪の中』と融合したことで、両小説の真相が「人間不信」にあったのではなく「性善説」に立った「人間の良心の勝利」にあり、芥川の真意を知る上でも黒澤解釈版たる映画『羅生門』を今こそ皆さんに見直していただき、明日の生活の指針に使って元気になってほしい、と私は思っております。

 『藪の中』を原作とした部分の映画版の裁判シーンは、容疑者の3人が皆「自分が犯人だ」と証言しております。つまり、無罪を横取りするためではなく、3人が3人とも有罪を望んで偽証した、という点がミステリーでした。

  死んだ夫(森雅之)の霊などは、「決闘などなかった」と訴えており、真犯人は多襄丸(三船敏郎)だと知りながら、「あれは殺人事件ではない」と嘘をついて自分を殺した多襄丸をかばうのですから不思議です。
 これは「人には死んでも嘘をついて隠したい罪がある。それが、男と女の問題だ」とクリスチャンだった芥川が言わんとしたからだと、私は解釈します。そしてこれは、私が映画版の深読みから得た、驚くべき結論でした。

小説『羅生門』からの引用は映画のラストに出てきます。日本の映画評論家は、「あのラストのエピソードは嘘っぽくて不要だった」と批判しましたが、その分析は間違ってます。現に、世界の映画監督、『羅生門』ファンは、「(羅生門に捨てられた)赤ん坊は自分が育てる」と木こりが手を差し出すラストシーンにこそ感動したと証言しています。

参考URL:http://www.watchme.tv/v/?mid=1a37546d1929c0ff3ca …
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芥川龍之介の「藪の中」を読んで、真実を導き出そうとした


文学研究者もいましたが、私は、読み方としてそういうのは
あまり好きではありません。「ウソの動機」を詮索するのも
方法として、面白い結果を得られるようなやり方とは思えま
せん。

文学にしろ映画にしろ、それが必ずしも現実の何かを象徴し
ているとは限りませんし、そこに人生論や教訓が隠されてい
ると決まっているわけでもありません。
たとえば、三船敏郎をはじめとして、俳優陣は3通りの相矛
盾する設定で演技をするわけですが、そのどれかが正しいと
なれば他はウソになるところを、真相をあらかじめ削除する
ことで、どれもが「真実(?)」としての重みとアヤしさを
持つことになったと考えることもできます。結句、3通りの
演技すべてが死なずに観客の中で対等に鼎立することになる、
というわけです。

仮にこんなふうに考えてみたらみたで、演技を愉しむエンター
テイメントとしての映画としてはなかなか凝った趣向だ、
なんて評価をすることができるかもしれません。
演技そのものを芸術として愉しもうというあり方は、
人生論的な意味に還元されるような価値とは別の価値に重きを
置く(やや「一般的」ではない?)考え方ですが、そういう
解釈の仕方も十分に可能だろうと思います。

また、(これは原作の「藪の中」に関しての論文なのですが)
あれは「女」を描いたものだ、という論もあります。
摩訶不思議・変幻自在の「女」性(註:女性一般の意味とは
違う意味の性質ということでこういう書き方をしています。)
というものを表現しているのだ、というような内容の論だった
と思いますが、なかなか的を得ているかもしれないですね。
芸術的に面白い視点だし、作品の味わいに面白みが増すと
思います。

それはともかくとしても(課題の出され方というのもあるでしょうが)
真相探し以外にも、いろいろなアプローチ方法はあるものです。
作品の価値や意味は、作品単独で独立して存在するという
よりも、むしろ、作品対「私」の関係に依存して存在するもの
とも考えることができるわけですから、いたずらに作者の意図を
探るようなアプローチ方法よりも、大胆に、自らの心に問うて
みるのが本来だと思います。あれは私の中では何だったのか、と。
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この回答へのお礼

Thank you very much =) IMA, GAKKOU NI IRUNODE, NIHONGO GA TYPE DEKINAINODE, ROMA-JI DE SHITSUREI SHIMASU. NANTOKA ESSAY HA KAKIAGE MASHITAGA, MADA NANIKA GA KAKETE IRUYOUDE, MATA KAKI NAOSANAKU TEHA IKEMASEN. GANBATTE, "A" WO TORERU YOUNI SHIMASU =) ARIGATOU GOZAI MASHITA. =)

お礼日時:2001/03/23 10:15

エッセイを書かれるとのことですが、もしかして、それを書くと収入になる


のですか?
そういった心配がありますので、”あなたは?”なんて振られても、申し訳
ないですが、「タダで回答するのはいやだなあ」という心理が働きます。

それ以前に、”真実”をお知りになりたければ、あの世に行って黒沢明監督に
問いただすか、彼が真意を語った証拠の文書などを発見するしかないのでは
ないでしょうか? 前回の回答では、そういった意味も含ませていたのですが。

蛇足ながら、”あなた”という呼び方は、一見丁寧な言葉遣いですが、高圧的な
印象をかもしだす場合があります。
私の場合は、考えすぎかもしれませんが、常にハンドルネームで相手を呼ぶように
しています。

この回答への補足

申し訳ございませんでした。今後から日本語の使い方に気をつけさせていただきます。エッセイというのは、学校の宿題です。実は、私は今留学中で、英語のessayと、日本語のエッセイは、意味が違うという事に気をつけずに、エッセイという言い方をしてしまいましたが、何かに応募をするということではなく、単に、学校の提出物です。誤解をまねくような日本語を使ってしまい申し訳ありません。ただ今たくさんの提出物に追われ、途方にくれております。とりわけ、羅生門は、奥がふかく、少しも書き始めておりません。何とか考えをまとめようと、苦しんでいるところです。

補足日時:2001/03/11 09:58
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 従来、映画「羅生門」は芥川の小説「薮の中」を原作とし、小説「羅生門」については、舞台設定と背景となる時代のみを参考にしていると言われてきた。

しかし、今回、久し振りに映画「羅生門」を観て、これは小説「羅生門」の30年後を描いたものではないかという印象を持った。その理由は後で述べる。冒頭は土砂降りの羅生門だ。これは凄い雨を表現するために、墨汁を混ぜて降らせたと言われている伝説的な雨だ。杣売が「わかんねえ、さっぱりわかんねえ」と繰り返す。後ろには旅法師が座っている。そこに下人が走ってやって来る。こんな不思議な話はない、と言って、杣売は今検非違使の庭で聞いてきたばかりの、殺人事件に関係した三人の証言の食い違った様を話し始める。実は、杣売は三日前にその事件の被害者の死体を最初に発見した人物であり、薪を切りに森の奥深く入っていく描写が展開される。先日亡くなったカメラマンの宮川一夫はこの時42歳。以前NHKで放送されたドキュメンタリー「宮川一夫の世界」によると、杣売の歩いていくこのシーンで宮川一夫が行ったのは、カメラを乗せたレールの上を杣売役の志村喬に横切らせて歩かせることで、彼が森の奥深くに入っていくだけでなく、物語の迷宮に迷い込むという効果を出そうとしたということだ。そして、空を見上げたカメラを通して、木々の枝の間から顔を見せる太陽の光り、これも全世界にショックを与えたカメラワークだった。杣売が歩いて行くうちに、途中に市女笠、侍烏帽子が落ちているのを見つけて、さらには断ち切られた縄、守り袋があり、最後に侍の死体にまでたどり着く。
 多襄丸が放免に捕まる。多襄丸は自分がその侍・金沢武弘を殺したと白状する。多襄丸の証言が映像で展開されていく。木の下で昼寝をしている多襄丸の顔に木の枝の影が映っている。「宮川一夫の世界」によると、森の中での撮影では、こんなにくっきり影が映らないので、森の雰囲気を出すために多襄丸を演じた三船敏郎の顔のすぐ上に木の枝を置いて撮影したという。そよ風が吹いて、そこを通りかかった侍夫婦の妻の笠の垂れ布が動いた。多襄丸は女を奪おうと考える。丘を駆け降りる敏捷な多襄丸の動きは「七人の侍」〔54.〕の菊千代につながっていくものだ。ライオンの動きを参考に、と三船に出した黒澤の指示は、そのまま菊千代の人格にも影響が大であると思われる。豪放磊落でユーモラスな三船のキャラクターは「七人の侍」で大きく開花するが、その原点は「羅生門」にあったという感じだ。奥で刀を見つけたと多襄丸は武弘を騙して誘い、縛り上げる。妻・真砂の待つところに戻った多襄丸は、夫が倒れたと嘘をつくと、真砂は怯えた顔つきをしたという。多襄丸はそれを見て武弘のことが妬ましくなり、真砂に夫のみじめな姿を見せたくなり、連れていく。縛られた夫の姿を見た時、真砂は短刀を手に多襄丸に斬りかかる。多襄丸はこれほど気性の激しい女は見たことがないと、ますます気に入ってしまう。それでも、多襄丸は夫を殺すつもりはなかったという。手込めにされた真砂が、「あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人が死んで」と言ったというのだ。「生き残った方に連れ添いたい」というわけである。そうして、多襄丸と武弘は戦うことになり、武弘は立派に戦った、卑怯な殺し方はしなかった、というのが多襄丸の証言である。多襄丸は自分の勇敢さを誇示したわけだが、武弘のことを悪くは言わなかった。
 逃げた真砂は、その後、検非違使のところにやって来て、証言をする。その話を杣売と旅法師は聞いていたのだが、二人共真砂の印象は、哀れなほど優しい風情で、多襄丸が話したようなイメージではなかったという。真砂が言うには、手込めにされた後、多襄丸は逃げてしまい、夫にすがろうとすると、その目には蔑む冷たい光しかなく、殺してくれと頼むと、そのまま自分は気を失ってしまった。その後気がついた時には夫は死んでいて、凶器は短刀だと言う。自分は死のうとして死に切れなかった。ここでの真砂の様子からうかがえるのは、か弱い印象はあるが、感情の起伏は激しいということだ。真砂の言っていることも真実とは言い難いが、彼女は夫のことを悪く言っているので、いずれにせよ、この夫婦はうまくいっていなかったのだと思われる。
 そして、武弘もまた検非違使の前で証言をする。巫女の口を借りるのだ。手込めにされた後、多襄丸は真砂を慰め出した。自分の妻にならないかというのだ。真砂はうっとりと顔をもたげ、「どこへでも連れて行って下さい」と言い、さらには「夫を殺して」とまで言う。すると、急に熱が醒めた多襄丸は武弘に向って言う。「この女をどうする?殺すか、助けるか?」武弘は多襄丸のこの言葉だけでも、彼を許してもいいと思ったという。真砂は逃げる。武弘は短刀で自殺し、その後、短刀を抜いた者がいるという。杣売は武弘の話も嘘だと言う。短刀でなく、太刀で刺されたと思うからだ。杣売が最初に武弘の死体を見つけたシーンが目に焼き付いている我々も、この殺され方は短刀ではないだろうと、思っている。でも、注意すべきは、そのシーンは杣売の主観から見た描写であったということだ。結局、武弘の証言で判ることは、彼も真砂のことを悪く言っているということで、真偽のほどはともかく、この夫婦はお互いを悪く言い合っているわけで、この多襄丸とのことがある前から仲はいいとは言えなかっただろうということだ。
 シニカルな下人が杣売に突っ込む。お前はこの事件について随分知っているようだ。一体どこから知っているのか。杣売は実は三人のやり取りのところから見ていた、検非違使に言わなかったのは、関わり合いになりたくなかったからだ、と白状する。小説「薮の中」は、放免、真砂の母、そして当事者の三人、と五人の証言が羅列されているだけの簡単なものだ。映画「羅生門」の独自性は、実はこの後から発揮されていく。すなわち、これこそが真実だと話し始める第三者の目撃者である杣売の証言である。多襄丸は最初、真砂に謝っていた。そして、妻になってくれと頼んだ。盗賊が嫌だというなら足を洗ってもいい、盗んだ金で暮らすのが嫌というなら、汗水たらして働く。真砂は無理です、とだけ答える。そして、夫の縄を解く。戦えというわけだなと、判断する多襄丸に、武弘は「こんな女の為に命をかけるのは御免だ」と、吐き捨てるように言い、さらに真砂に向って「何故自害しようとせん、あきれ果てた女だ」と言い放つ。ここには武士の、そして、男の身勝手な論理や倫理が詰まっている。それを聞いていた多襄丸も、真砂という女の価値が半減したように思い、去ろうとする。泣く真砂に向って叱りつける武弘に、多襄丸は言う。「未練がましく、いつまでも文句を言うな」と。真砂の泣き声はいつしか、大きな笑い声に変化する。武弘には「夫なら、この男を殺してから、私に死ねと言うべきだ」とかみつき、多襄丸には「ここから助けてくれるならどんな男でもいいと思ったが、夫と変わらぬ情けない男と判った」と悪態をつく。そこで、二人は仕方なく斬り合いを始めることとなり、二人はへっぴり腰で戦う。二人共戦うことが恐いのだ。わずかに残されたプライドの為だけに、二人は戦う。何というリアルな乱闘だろうか。息を切らして、怯えた顔で。今までの証言で出てきた斬り合いとは全く違うのである。武弘は最後に「死にたくない」と言うが、多襄丸に刺される。男は体面を重んじ、女はそれを巧妙に操る。そういった図式がここでは見事なまでに展開されていて、説得力がありすぎるのである。
 当事者三人の証言は原作に負うものであって、さらに原典があることは承知の上で、芥川が書いたのは30歳頃のことだ。そして、この後、黒澤作品のシナリオ・チームに加わっていくことになる脚本の橋本忍はこの時32歳であり、黒澤明は40歳であった。この年齢に注目していただきたいのである。黒澤が芥川より後の時代に生きたという有利さは当然あるにしても、この10歳近い年齢差は、人生経験の深さや、それに伴う思考力〔観察力〕の鋭さの違いとなって、大きな影響を及ぼすのは間違いないことなのだ。すなわち、黒澤=橋本が考えた「杣売の証言」の重みは、芥川の「当事者三人の証言」の余りの軽薄さに比べて、人生の真実を語りすぎている。ヨーロッパでよくされた捉え方らしいが、この映画を一つの事象が見る人間によって違ってくるという不条理の観点から考える見方があるようである。私に言わせれば、どう見たって、真実は一つしか語られていないのであって、この話は不条理からはほど遠い。黒澤が言いたいのは、芥川のような世の中への絶望感でないのは勿論、不条理などではさらさらないのだ。それはその後の展開を見れば明らかだ。 羅生門の下で赤ん坊が急に泣き始める。下人はその着物を奪おうとする。杣売はそうはさせまいとする。下人は捨てるような親が悪いと言い、手前勝手でどこが悪い、とまくしたて、ごまかされねえぞ、と止めを刺す。芥川が謎のまま残した短刀の行方がここで明らかにされる。それは売れば高価な値段がつきそうな代物なのだが、下人は畳み掛ける。「手前が盗まないで、誰が盗む」と杣売を叩いて、大笑いしながら、去って行く。ようやく雨があがる。赤ん坊を抱こうとする杣売を旅法師は拒絶する。杣売は言う。うちには6人の子供がいるが、7人でも同じことだと。「わしにはわしの心が判らねえ」とも言う。旅法師は誤解したことを詫び、「おぬしのおかげで人を信じていくことができそうだ」と言って、ヒューマニズムが高らかに謳いあげられて話は終わるように見える。しかし、黒澤はそんな取ってつけたような単細胞なヒューマニズム論を語りたかったのだろうか。私にはそうは思えない。それは杣売の偽善性が下人の現実主義によってさんざん叩きのめされた後に、赤ん坊を引き取るというこの行動が付け加えられていることに注意すべきだと思うからだ。杣売は赤ん坊を引き取ったところで、そこまでの自らの盗みを隠すために人間が信じられないと言い続けてきた自身の罪から逃れることなどできない。最後の善行によって全てが浄化されるわけはないのである。それでも貧乏なこの杣売が7人目の子供を育てようと決意することは、下人の現実主義より遥かに尊いことではないのか。
 「下人の行方は誰も知らない」とカッコウをつけて小説「羅生門」を締めくくった時、芥川はまだ24歳だった。40歳の黒澤は、その「下人の行方」をはっきりと知っていたのである。生きていく為なら何をしてもいいという楼上の老婆の論理を今や完全に体得した30年後の下人が、映画「羅生門」に登場する上田吉二郎演ずる下人ではないかと思うのだ。「生きる」〔52.〕の通夜のシーンで日守新一が「渡辺さんの善意が通じないようならこの世は闇ですよ」と言った後に「この世は闇だよ」と返す千秋実が、ここでは逆に「この世は地獄だよ」と返される、そのわけしり顔の下人の現実主義が厳しく問いただされているのだ。
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この回答へのお礼

こんなにたくさんの事を語ってくださって、本当に有り難うございました。参考にさせていただきたいと思います。それでは、ojiqさんは、一番最後の話が、本当に起こった事、すなわち現実に一番近いと解釈なさった、というわけでしょうか。私には、もう何がなんだか、わからなくなってしまい、頭を悩ませております。それぞれの話をまとめようとすればするほど、こんからがってしまい、机に向かい苦しい週末をおくっております、、、

お礼日時:2001/03/11 10:38

芥川龍之介の原作を読まれるとよろしいかと思います。

龍之介自身、「今昔物語」からそのヒントを得たわけですが、ただ#1のelectricdreamさんもおっしゃっているように、人それぞれ人生経験も違うし、こうだ、と思った解釈も時が立つにつれ又違った解釈をするようになるかも知れません。
  ですから龍之介自身、答えを書いていませんし、ただ人間のエゴイズムを(映画でも原作通り忠実に)淡々と述べているだけで、その解釈は人それぞれだと思います。

この回答への補足

色々な解釈が載っているサイトをご存知でしたら、教えていただけないでしょうか?お願いいたします。

補足日時:2001/03/10 18:26
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この映画はだいぶ昔に見たのでディテールは忘れましたが、たしかに印象としては強く残る映画ですね、自分が思うには、情報というのは得てして、半分ぐらいは真実で、半分ぐらいは嘘だから情報を鵜呑みにせず。

何事も実際に経験をしてみないと本当のことは判らないものだという解釈をしました。

この回答への補足

実は、羅生門について、エッセイを書かなくてはいけなくて、この殺人事件(または、自殺)について、真実をさがして、さらに、この映画自体、何をいわんとしているのかを、語らなくてはいけないのです、、、もう、困っております。はい。

補足日時:2001/03/10 18:31
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私も過去に3回ほど観ました。


”2001年宇宙の旅”もそうでしたが、とかく名作といわれるものには、
ストーリーの意味にわかりにくい側面があるものです。

しかし映画は、絵画を鑑賞するのと同じで、”自分なりの解釈”をすれば
それでいいのではないでしょうか?
制作の舞台裏を知ることには興味をそそられますけども。

答えになっていなくて申し訳ないです。

参考URL:http://www.movieslife.com/review/199909/view0307 …

この回答への補足

それでは、あなたの解釈を教えていただけないでしょうか?参考にさせていただきたいのですが。もし、いろいろな解釈がのっているwebsiteをご存知でしたら、教えていただけないでしょうか?

補足日時:2001/03/10 18:22
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