アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

私は、キリスト信仰における《三位一体》を、普遍的位相とは認めるものの(キリスト教全会派に共通する教義ではない)、三位のそれぞれの位格が、等質かつ等価であるとの見解を、咀嚼しかねております。

 もちろん、会派ごとの教義は尊重します。しかしながら、私自身がプロテスタント無派閥に所属していた、元不良信者であります。通っていた教会では、三位一体を大変に重視していましたが、私が師に、「《主》とは、すなわち〈父なる神〉ではないのか?なぜ新約では、《主イエス・キリスト》に変わっているのか?〈人の子〉が、なぜ救世主を超越して、《主》と呼ばれるのか?〈御霊〉は、キリストの血によらなければ授けられないのか?」と問い質すと、逆に不信仰を諌められてしまいました。

 そこで、皆さんにお尋ねします。

【Q-1】 〈父、子、聖霊〉、それぞれの、役割とは何でしょうか?

【Q-2】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等質といえるでしょうか?

【Q-3】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等価といえるでしょうか?

【Q-4】 〈父、子、聖霊〉、それぞれが、等質でも等価でもないとしたら、どれが最も重要なのでしょうか?

【Q-5】 《三位一体》とは、何でしょうか?

 以上、皆さまの私見でもかまいませんので、よろしくお答え願います。

A 回答 (31件中1~10件)

 pokoperopo さん 投稿を受け容れてくださったようですので No.3&5に引き続き 回答を寄せてまいります。



 いちど 教条のごとく述べてみます。

 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。
 父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた。子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 授けたまうた。

 父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差異がないと考えられる。言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在であることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この愛は そしてほかの権能も残らず 十全に子である権能に与えられた。(ただし この与える・授かるに 時間の隔たりはなかった)。

 父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこに――つまり言いかえると 父から及び子から つまりさらにあるいは 父と子との交わりから――愛が 父や子と同じ存在・同じ力として 発出したまう。

 子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛を 人間の世界に 派遣されたと考えられる。子は 人間となって派遣された。つまり みづからを空しくされ 肉(身体および精神)となって現われたまうた。それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独り子なる神として現われたまうたと察せられる。(《人間であると同時に 神である存在》が――茶化して言えば 《現人神》なる存在が―― 地上に現われたまうた)。言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上にやって来たまうた。

 第二の子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛つまり言いかえるとこの第三の聖霊なる神を 同じくこの地上に派遣したまうたと考えられる。子なる神は これらの神のみ心を 人間の言葉で 告知したまうた。つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。
 ところが 子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはならなかった。聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。父も子も愛であるが 固有の意味では 人間にならなかった聖霊なる神が 愛であると捉えられる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ これは まづは次の疑問に答えようとしたものです。 
 ★ (No.3お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《三位一体》には、それぞれの位格を等しくする必然性がない、さらにいえば、等しくすべきではないと考えております。ここから、確認してまいりましょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あらためて 論理の問題として 議論をからませるなら。まづ
 ★ 必然性 あるいは べきである・ないという当為
 ☆ これは 人間の相対的で経験的な世界に属します。人間の判断によって 決めるものです。絶対というなぞの世界(?)には 通用しません。そういう想定です。逆に言うと 必然性や当為性の問題があったりすれば それは 絶対の世界ではありません。

 無神論でさえ この《絶対》という仮想じたいは 想定しています。そのあと 絶対とは無であると 仮りに 表現しておくというものです。
 有神論は そこに《神》と呼ぶあたかも存在をさらに想定します。しかも あれこれかれそれ観想をとおして この中身までをも 詮索しました。その暗示を与えたのが イエス・キリストです。その記録をもとに さらに 観想をたくましくして とうとう 《三位一体》説にまでたどり着いたというものです。
 ★ (No.5補足欄) 他のご回答は間違いなのでしょうか?
 ☆ 《絶対》の想定をあつかっていないという点で 《三位一体》を説明するものではありません。相対世界における人間の想像や理論としてなら 自由にどうとでも 論理的にも抒情としても 組み立てたりまとめたりして描くことが出来ます。
 上に述べた《観想》にしたところで けっきょくは 人間の描いた神学ですが 今度は その《絶対》の世界とそしてこの《経験世界》との 現実的なつながり しかも整合性をもったつながりを 説き明かすことが求められると思います。
 
 ほんとうは このような探究ともなれば 人間と世界とその歴史の全部が 三位一体の説き明かしにかかわっているわけですから 大海の水をバケツで汲み出すようなものでしょうけれど ぼちぼち まいりましょう。

 * ★(No.5補足欄) 図形的に捉えた場合、《三位一体》は、水平に横たわる正三角形になるのでしょうか?
 ☆ 神を観想するとき 《図形的に》何らかの表象が思い浮かぶことがあるかも知れません。ですが そのことと 神の実態がそうであることとは まったく別です。後者は なぞです。規定できません。
 もし仮りに何らかの図形で説明せよとなれば 全世界・全宇宙が かたちとして 三つあるとします。これらが互いに等しくて そのまま重なっているような描像は どうでしょうか?

この回答への補足

この欄をお借りして、追記をさせていただきます。

私は、長らくこの問題にこだわってきましたが、皆さんのご回答をお読みして、もっと謙虚でなければ反省しました。ですから、《三位一体》を一なる神として受け入れ、この位相については思索を留保し、あるがままのもの、絶対的な真理と考えを改めます。

しかし、これとは違うお考えのご回答に反目するものではありませんし、私も今までの錯綜がありましたから、様々な意見を尊重いたします。ご回答いただいた皆さんに、改めてお礼申し上げます。

補足日時:2009/06/11 17:32
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ブラジュロンヌ閣下、ご回答いただきありがとうございます。たくさんのご回答をいただきましたが、思索が追い付いてまいりませんので、補足とお礼は、のちほどまとめていたします。悪しからずご了承ください。

お礼日時:2009/06/04 12:04

>父の不在を補うものが、《三位一体》である、あるいは父の呪縛を緩和するもの、橋渡しをするものが、〈子と聖霊〉とはいえませんか?



 その見方が、大勢だろうと思いますよ。
 そして聖霊はきっと、物語だろうと思います。作家の村上春樹さんが、壁と卵に喩えるようなもの、そして卵の側に立つと宣言したようなものを感じます。どうでしょうかね、あの壁は、案外「父親」なんじゃないですか?

 さて、以上が僕の答えです。ありがとうございました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

理論さん、ご回答いただきありがとうございます。われわれは、〈父〉に創られ、〈父〉に壊されるのでしょうか。あるいは、そのように夢想しているのでしょうか。その壁にぶち当たるのではなく、その壁に守られていることも知る必要があるでしょうね。城壁は、自由を制限しますが、本来は外敵から身を守るための物です。割れやすい卵は、壁にぶつけてはなりませんね。私も〈父〉と敵対しない、心の操縦方法に気を配ります。新たな物事の捉え方を示してくださって、大変参考になりました。

お礼日時:2009/06/11 12:22

人の子が《主》と呼ばれるのと、《三位一体》が等価であるのと、どこがどう違うのでしょうか?



キリスト教全体の教えとしてみるなら神様は三位一体として考え
自分を中心に捉えるなら救い主キリストが神です。
まあ神学的な話をする場合と個人が信仰する場合と回答が二つあるという事だけ覚えておきましょう。
あんまり深く追求しないでね。
自転車に乗るときエネルギーを考えて、今乗ってる状況を頭で整理して把握させて乗る人はいない。今右足でそして左足で・・・・なんて
コンピューターも同じくスイッチを入れた羅動き出す。中身を知らなくても・・・まあこんなもの、別に知らなくてもかまいません。
それより祈り賛美して御言葉に目を留めることに力を注ぎましょう。
  祈ってますね。
もう回答を求めたらわけわからなくなりますから閉めてね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございます。何度も教えていただきましたので、まずはみことばを素直に受け止めます。そのうえでの疑問については、祈り、謙虚に教わることとします。三一なる神を認め、これを崇めます。まだご回答をお寄せいただこうとしている方も、いらっしゃるかもしれませんので、もう少し待ってから締め切ります。どうかあなたさまにも、主の祝福がありますように。アーメン。

お礼日時:2009/06/10 23:27

>大きな戦争が、《三位一体》に与えた影響ついて



 実験場をオッペンハイマーがトリニティと名付けたとき、『父なる神への讃歌』という詩について考えていたそうです。
 
 ・http://poetry.hix05.com/Donne/donne14.god.html

 それを知ったとき、思うに彼の抱えていた病は、おそらく彼だけのものではなく、二度の戦争となって現れた、時代の病だったんじゃないかと思いました。もちろん戦争自体は、それが邪まであるとか、どうとか、世間で評価されるそれ(ちゃんとした目的のあるもの)だったとは思いますが、何時からか、知らないうちに父の呪縛を逃れるための抗弁へと代わっていったのではないか――というふうに思いました。

 かつての地域的な紛争から、やがて国家間の紛争へと紛争の列度が高まるたびに、小耳に挟む程度で誰のものでもなかった罪が、誰もが決して避けることはできない宿命的な罪へと姿を変える。人々をその贖罪へと駆り立てるような、そういう傾向があったのではないでしょうか。
 その傾向を生み出す原動力となったのが、古い時代の《三位一体》なのではないか、とりわけ詩で語られる「父」の存在ではないか、僕はそんなふうに思います。神の子たちの高い道徳と倫理、博愛と平等、その輝けるものは、いちど真っ白に焼かれなければならない――そんな感じです。

 詩に語られる「父」というのは、原理というかシステムというか、そういうものの象徴のような気がしました。イコール神ということなんでしょうけれど、日本人の僕としてはそういうふうに理解するのではなく、むしろ詩の言葉そのままに「父」と理解したほうがすんなりと納得できます。
 僕たちは知らないところで、父という束縛の象徴を求めている。
 父がこう決めたからとか、父がそう言うのだから、というような、そういうシステムをどこかで僕らは求めているような気がします。それは安心感とか、心の支えのようなものなんでしょうけれど、その父がいない世界で、果たしてちゃんと暮らしていけるのだろうか――おそらく、オッペンハイマーは父の不在が怖くて怖くて仕方がなかったんだと思います。

 詩では「死」などという物騒な表現で書かれていますが、むしろ恐れというのは、あんがい父の不在という、そんな世界に対する不安なんじゃないかと思ったんですね。
 戦後の経済復興や、科学の普及、思想面では構造主義という方法が言われますけど、先の戦争で精算しようとした「父」というものに対して、未だにもやもやとした割り切れない感情を時代は持ち続けているのではないか。
 少なくとも、古い時代の《三位一体》は役に立たなくなっている。戦後の復興を経て、科学の時代とか、資本主義とか、自由経済とか、あれこれ験してはきたものの、今でも父親を探し続けているような気がします。

 もう父親のことは忘れたら良いのではないか。忘れるべきではないか。そう思ったりはするんですが、父親がいなくとも、ほんとうにちゃんと暮らしていけるのでしょうか。

この回答への補足

父の不在を補うものが、《三位一体》である、あるいは父の呪縛を緩和するもの、橋渡しをするものが、〈子と聖霊〉とはいえませんか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/06/10 21:09
    • good
    • 0
この回答へのお礼

理論さん、ご回答いただきありがとうございます。

原爆の父、オッペンハイマーも苦悩したに違いありませんね。科学者として原爆を開発することと、未曾有の核兵器が発射される甚大な被害を考えたとき、〈父〉から逃れようとしたとしても無理はありません。しかし、逃れられないからこそ〈父〉ではないでしょうか?

ニーチェも「神はいない」とは言わずに、「神は死んだ」などと勿体ぶった言い方をしています。これも〈父〉の持つ呪縛力で、オッペンハイマーも原罪を恐れたに違いありません。これを赦すのが〈子なる神〉で、〈聖霊〉とは、そうした穢れを灌ぐものではないでしょうか?

こうした社会状況の変化により、《三位一体》の定義が変わるとしたら、それ自体がご都合主義なのですが、人は神の前に純粋に立てるのかを、試されているのかもしれません。

お礼日時:2009/06/10 21:25

【Q-1】 〈父、子、聖霊〉、それぞれの、役割とは何でしょうか?



 来月はいよいよ日蝕が見られるとか。肉眼での観察は控えて日蝕グラスを用いるようにという、国立天文台のメッセージには何かしらの意味があるんでしょう。見ることの叶わないものが父だとしたら、子は恐らく見ることのできるものなのだと思います。見られる者をこそ、崇めよ――ということでしょうか。精霊は、中間です。

【Q-2】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等質といえるでしょうか?

 大きな戦争があるまでは、たぶん等質だったと思います。

【Q-3】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等価といえるでしょうか?

 これはきっと、昔から等価ではないでしょう。それぞれに固有の役割がある。

【Q-4】 〈父、子、聖霊〉、それぞれが、等質でも等価でもないとしたら、どれが最も重要なのでしょうか?

 等価ではなくとも等質だと思われていたから、物事のあるべき姿として、三位一体には意味があったのだと思います。けれどあの戦争で、もっと明るい光の存在を世界は知ったのです。その光は、創られたものです。
 
【Q-5】 《三位一体》とは、何でしょうか?

 発明品です。物事を語るときに、これだけはとりあえず真だということにしておこうという意味での、発明です。この公理系は、先の戦争で破綻してしまったと思うのですが、どうでしょうか。

この回答への補足

大きな戦争が、《三位一体》に与えた影響ついて、詳しくお伺いしたいのですが。よろしければお答え願います。

補足日時:2009/06/10 12:07
    • good
    • 0
この回答へのお礼

理論さん、ご回答いただきありがとうございます。父は見ることは適わないが、子は見ることができるのですか、なるほどわかりやすいご説明です。戦争によって価値判断が変わったのですね。しかし、元々は価値は変わらないものなのでしょうね。見る者が勝手に評価しているのではないかと考えています。

お礼日時:2009/06/10 12:16

わたしは頭が悪く、皆さんみたいに上手な答えが書けないのですが、このページを読めば少しは、pokoperopoさんの疑問も晴れるのではないでしょうか?神学校を受験したいと言っている私の友達が、神学部の教授を訪ねた際にこのホームページの話をしたら、教授も絶賛したらしいです。

わたしもバカなりに、今勉強中です。

http://www.church-in-kyoto.com/faith1+index.htm

この回答への補足

あなたはクリスチャンでいらっしゃるのですか?三位一体について、どのように教わりましたか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/06/09 23:07
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございます。大変参考になりました。そうですね、私自身が堅苦しく捉えていたきらいもあります。もう一度よく考えてみますので、いろいろ教えていただければありがたく思います。

お礼日時:2009/06/09 23:10

 No.3&5&6&9&11&17&22&23です。



 ★ (No.23お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 他のご回答は、そのままを述べておられるだけで、失礼ながら、私の理解の助けとはいえません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このご発言に接して もはや説得も投稿もあきらめました。
 問い求めてはおられないと受けとめたという意味です。では

この回答への補足

他のご回答に触れましたのは、一部に十分な説明というよりは、そういうものなのだという回答された方がいるということです。それが善意からのご回答であることは理解しますが、私にはそういったご説明では理解できないのです。決して、あなたのご回答を指してのことでもなく、他のご回答者を貶るつもりもありません。すべて私の理解力の問題なのです。このことはお断りしておきます。

補足日時:2009/06/10 15:45
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございます。私の言い草が失礼でありましたことは、お詫びいたします。私は、わからないことはわからないとしているのです。しかし、わからないまま放置することは、よくないと考えています。もちろん、拙問を立てるに当たっては、新たに教えていただくつもりでありましたので、おっしゃられたような、ご投稿を受け入れるも何も、当初から歓迎しております。たくさんのご回答をお寄せいただきましたが、蒙昧な私には、その都度に適切なご返礼ができずに、お気を悪くさせてしまいました。ご説明いただいたことは、じっくり読み返して吟味いたしますので、どうかご回答をいただきましたことを、悔いられることのないようお願いいたします。またのご回答は歓迎いたしますが、どうかお好きなときに、お気に召すままになさっていただければ、ありがたく思います。

お礼日時:2009/06/10 15:33

どれが上になると思いますか?比べる事が出来たらおしえてください。


としかいえない。祈りにおいてある方は聖霊 ある方はキリスト ある方は創造主に祈ります。さて誰に祈るのが正しいのでしょうか?
もう概念的、抽象的です。だから三位一体で合い等しい。としかいえない。もし等しくないと言うなら誰かのみに祈りその他を排除しても良いと言う事になりませんか?

>?〈人の子〉が、なぜ救世主を超越して、《主》と呼ばれるのか
と言う話と等価というとまた話はちょっと変わってきますよ。

この回答への補足

人の子が《主》と呼ばれるのと、《三位一体》が等価であるのと、どこがどう違うのでしょうか?

補足日時:2009/06/10 15:03
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございます。以前のご回答に対しましては、言葉がすぎましたことを、お詫びいたします。そういえば、聖霊は《主》とは呼ばれていないと、記憶しておりますが、この点ではどうのか、少し考えてみます。いろいろ教えていただくうちに、少しづつですが、三一等価性に抵抗が亡くなってまいりました。しかし、想像主ということについては、子はノータッチのはずですので、まだまだ疑問は残りますが、受け入れるように努めます。

お礼日時:2009/06/10 15:10

質問のいみがよくわからなっか。

ある人はキリストに祈り、ある人は神様に祈り、ある人は聖霊に祈る。どれが間違いなのか?というと間違いではない。また一つ一つを取り出してキリスト教の神は聖霊を認めないというのではない。だから大きな意味でこの3つがありますよ~・と言う意味です。
だから具を取り出してお米だけを見てカレーライスと言えるの?具だけを見てカレーライスと言えるの?香辛料だけ見てカレーライスと言えるの?いえないよね。全部入ってカレーライス。キリスト教も同じと言う事です。たとえが悪かった?ごめん。
さて主とは何かな?確かに旧約ではまだキリストがいない。聖霊もいない預言者を通して神様(主)の言葉を伝えました。
あなたにとってキリストとはなんでしょうか?救い主であり私たちに理解できるように言葉と行動で愛を伝えたその方を主と呼んでもおかしくないと思いますよ。救われているなら理解できるはず。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございます。私は、《三位一体》を否定していませんよ。尋ねているのは質問の表題と同じく、等質かつ等価であるかです。なぜ、そうなのかの説明を求めているのです。正しい間違いを言っているのではありません。カレーライスはカレーライス、三位一体は三位一体の同語反復はそれでよいのですが、問題は内容です。なぜ〈父、子、聖霊〉の位相が、すべて等しいのかと尋ねているのです。よろしくお願いします。

お礼日時:2009/06/09 05:43

 No.3&5&6&9&11&17&22の bragelonne です。



 次の一点にしぼってみましょう。
 ○ 仏教徒の上には 神の愛が注がれないとでも思っているのですか?
 ☆ よろしければ お答え願います。

 (1) 対話やそして情報交換としての議論も 主題ないし副主題ごとにそしてそれらにまつわる項目ごとに 互いに確認しつつ――つまり 同意するか・どこまで同意するか・どこからが見解の相違であるか これらをきちんと確認しつつ―― おこなうものです。
 (2) このご質問の主題は そもそも 神という仮りに想定したものをめぐってのものだという前提があります。しかも この想定にかんして ひとつの信仰の立ち場におけるさらに仮説としての物語――三位一体論――に焦点を当てています。
 (3) その限りで 同意事項と見解の相違事項とを確認しつつ 対話をすすめていくべきです。

 (4) 冒頭にかかげた一点での問いは じつは しかしながら ほかの論点をも含みます。
 (4-1) 人間が頭で思い描いた神は 基本的に言って 観念の偶像です。神ではありません。(もともと そういうふうに 神でないと分かっているのに その観念の神について 神は死んだと唱える人も出ました)。
 (4-2) すなわち 神が あわれもうと思う者をあわれみ いつくしもうと思う者をいつくしむのです。風は気ままに吹くのです。その神が ムスリムやブッディストを愛したからと言って 人間の思い描いた神が いったい 何を言おうとするのでしょう? 極悪人を救ったからと言って 何を文句を言うことがあるのでしょう?
 (4-3) 神と人との関係は 非経験思考です。考えても――思い描いても 否定しても罵倒しても――かまいませんが その経験思考や想像に 神にとっては 何の意味も問題もありません。
 (4-4) 観念の偶像から自由にならねばなりません。

 (5) しかも 《三位一体論》は この観念の像を描こうという試みであり それが 経験現実の世界とあたかも――なぞにおいて――対応すると考えられる限りで 必要で有益な解釈であり 解釈という意味では預言なのです。
 (5-1) 言いかえれば このきわめてべらぼうな物語としての三位一体論は 人びとが まったく自由に――したがって まったく自由に互いに批判し合って―― すすめていけば いいわけです。

 (5-2) 上に一点だけと言いましたが 次についても よろしければお答え願います。
 ○ 無限(=絶対)は その三分の一も 無限である。
 ☆ これが大前提となっていれば 共同性を持ち得ない《思い描き》が 食えない偶像だとはっきりするでしょう。

 (5-3) たとえば 《父と子は等しいか そうでないか》に関しても 次の案が出ているのですから どうも人びとは それを横目に見て無視して通り過ぎると見えるその姿勢は いただけないと分かるのではないですか?
 ☆☆ (No.11) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ 父なる神=子なる神(キリスト)――つまり一体性――
  そして 同時に
   父なる神(=子なる神=キリスト)>人の子(=人間)イエス
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (5-4) マムレの木の下に現われた三人の旅人は アブラハムにとって 神の部分として神であったが 神ご自身ではない。このことは はっきりしています。
 (5-5) 部分としてでも経験現実にあらわれたというのは この場合 父でも子でもなく 聖霊と見ることが妥当でしょう。《送る》ということが 前二者について言われるからですし そのうちの《子》は ただ一回 イエスという人間となって送られ現われたと言われているからです。
 (5-6) しかも 聖霊なる神は 神として 送る側にあります。送られた聖霊は しかも その旅人としての人間になって現われたのではありません。そのふつうの人間としての旅人をとおして アブラハムに み心を伝えたわけです。あたかも 次のようです。
 ○ 父(=子=聖霊)なる神 > 人の子イエス > 聖霊としての現
 ☆ 不等号の意味は 《部分である》ことです。ただし 神の被造物としての部分である人間イエスに 子なる神は 完全なる神において 成ったというのが 三位一体論の中核です。
 (5-7) この三位一体論の中核は それ自体は 取り上げるに足りない物語です。ところが これにもとづくと 相当の経験現実のことがらが 納得いくものとして 分かることがあります。それは たとえばイエスがなぜ十字架上に死を死ななければならなかったかという問題です。
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。(人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが)。

 いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのだと思われます。

 人間としてというのは たとえば 弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態(つまり 神であるとは ほんとうには 心得ることなど出来なかったこと)を意味します。あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 人間として死を死んだということ。などです。

 人間としてでなければ――つまり 神として 十字架上で奇蹟を起こしたなら もう話は別だということになってしまうという意味なのですが 人間としてでなければ―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。

 しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。コギトとしての光 もしくは コギトの根源なる観念ないし思念としての神に終わってしまう。逆に言いかえると 神は人間の精神なのではないと知らせる必要があった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 対話が滞っているので 乱暴な言葉使いをしていますが 問い求めをまじめにおこなうお気がおありでしたら どうぞ お応えください。

この回答への補足

水のバプテスマを受けられないのはなぜでしょうか?信仰生活なくしては、キリストを体現することもままならないと思われます。また、教会には通われているのでしょうか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/06/09 02:33
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございます。そりゃ、神の愛は完全ですから、悪も愛すれば、仏教徒も愛するでしょう。要は、信じる者が経験世界において、神の愛を感じられるか否かであって、神はそれ自体が愛だからです。もちろん、人が思い描く神はひとつではなく、その描像こそが、すなわち絶対とはいえず、偶像となります。しかし、人々の間で一致した神、つまり《絶対》と認識される神を知らしめようとするとき、何らかの説明は必要となります。それが、キリスト教においては、〈父、子、聖霊〉の《三位一体》です。人の子は十字架で息を引き取りましたが、このことをもって〈子なる神〉が、〈父なる神〉と等価ではないと言っているのではありません。むしろ、これは父の愛でもありますから、この点においては、子もまた父と一体です。しかし、天地創造と〈子なる神〉の繋がりがよく理解できません。創造主が父であれば、子に対しては、不等号が付くと思われます。まあ、例えとして、不適切であるかもしれませんが、ジャンケンの、〈グー、チョキ、パー〉の間には、力関係、つまり相性的強弱はあるものの、それぞれは等価です。これは相対世界の話ですから、絶対世界には応用できませんが。ですから、ここからです。《三位一体》は、三等分でなければならないのでしょうか?それ以外には考えられないとして、初めて《絶対》だといえるのではないでしょうか?他のご回答は、そのままを述べておられるだけで、失礼ながら、私の理解の助けとはいえません。確かに「しかりしかり、否否といえ」ではありますが、信仰は面従腹背は許されないので、これだけはきちんとしておきたかったのです。

お礼日時:2009/06/09 03:16
1  2  3  4 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す