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「座禅せば 四条五条の 橋の上 往き来の人を そのままに見て」
を簡単に実践する方法を教えて下さい。

※「座禅」をする気も「四条五条の橋の上」まで行く気もありません。
※要するに、この人が至った境地を知りたいだけです。
完全に主観をゼロにすることが不可能なことを前提にして下さい。
ただ、目の前に存在する現象そのものを、ありのままに受け入れる。
この方法を教えて下さい。という質問です。

僕たちは現実を認識していない、現実ではない幻想に惑わされている。
仏教的にいえば、それは無知であり無明である?
そこから煩悩が生まれ、そして苦しみが生まれる、、、

こんなようなことをグダグダと言われたくないので結論だけ簡潔に教えて下さい。

※ただ単に愛に生きるだけの人になりたい訳ではありません。
よろしくお願いします。

A 回答 (14件中1~10件)

簡潔に言います、結論です。


人間の自我意識は左脳に在る意識です、処が人間は左脳の自我意識だけで生きている訳ではありません。本当に人間が人間らしく生きてゆく時には、左脳の自我意識と右脳の仏性が調和をして生きています、言い方を変えたなら、絶えず交代しながら、或いは連絡を密にして生きています。

処が人間の心は余りに巧妙に出来ています。その交代が分からないように出来ています。それが無明と言う事になります。自分で自分が分からないという事です。自分は何者か?という疑問はここから湧き上がっています。

心の状態を端的に言い表すならば、右脳の意識と左脳の意識が喧嘩をしている状態が神経症、自律神経失調症、或いは悩みや、苦しみと言う事になります。理由は以下に示します。

左脳の自我意識の機能は「分別」する機能が備わっています。従って割り切れる問題を論理的に割り切ってゆく処に在ります。と言う事は割り切れない問題には対応できないという事になります。人生には割り切れない問題が存在します。その問題を、言い方を変えたなら、矛盾する問題を左脳の自我意識である分別脳に抱え込む事が、人間の苦悩になっていると言えます。

心は悪循環に入ってしまいます、負のスパイラルに入ってしまうという事です。精心疾患からなかなか抜け出せない訳はここに在ります。その悪循環からの脱出方法が「宗教」と言う事になります。キリスト教的に言うならば「天国に一番近い存在は幼子」と言う事です。

幼子は左脳の機能と右脳の機能が未分化だからです。まだ心が一つしかないからです。思春期頃に脳の機能分化がほぼ完成に近くなります、悩みが始まるという事になります。この事を聖書では「知恵が付いたために天国から追放された」という表現をしています。

人間の苦悩からの解消方法がお釈迦様の言う「悟り」です。それは自我意識が右脳の人格仏性と出会うという事になります。右脳の意識は「仏」だからです。機能的に言うならば「全能」と言う事が言えます。割り切れない問題を解く事がその機能として備わっています。自我意識の機能は割り切れる事(有限)に対して「永遠」そのもので出来ているからです。

その出会いによって有限である自我意識は永遠に包まれてしまいます。そのために自我意識の苦悩は、肉体的な死は一番大事なことではなかった事を体得します。是が「生死の問題」が解決した姿です。

キリスト的に言うならば「神の思し召しのままに」と言う事になります。仏教的に言うならば「自然法爾」と言う事です。全てが、苦しみが有ったままに救われていた。と言う事になります。人生に救いを求めていた事が「迷い」であり、救いが無かったと分かる事が「救い」と知るという事になります。

従って自我意識が自我意識だけで問題を抱え込む事が人生における苦しみと言う事になります。機能的に解く事が不可能な問題を抱え込んでいるという意味になります。左脳の意識だけでは苦しみが解けないという事になります。

その解消方法が「禅」と言う事になります。禅に生きると言う事は、右脳の仏性が主導権を握って自我意識が従っているという事になります。

人生苦と言う事は自我意識が主導権を握って「仏性」の行方が分からなくなっている状態、或いは仲たがいをしている状態と言えます。この事を無明と言っています。自分自身が分からないという事です。この状態から人生には障害が始まっています。
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この回答へのお礼

丁寧な回答、ありがとうございました。
再度、質問します。

お礼日時:2009/06/10 10:49

>“「そのままに見て」「あるがままに受け入れる」”


この状態になると「ストレス」は感じないのでしょうか?

やはり、これは座禅をしたときの話ではあるけれど、結局は、
「アイデンティティを確立して、物事にも自分にも惑わされるな」という意味の言葉なのだと思います。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5040288.html
No.4さんの回答が、正にそれだと思います。
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この回答へのお礼

一区切りをつけようと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/17 14:42

>歪んでいるということは、何かの基準と比べて歪んでいると感じる。



確かに、そうですね。比べるという行いそのものが歪みなんですね。
歪んでいると思ってはいけないのですね。
それでは、自分を否定していることになってしまいます。
あるがままを受け入れてはいないことになってしまいます。
大変良いことに気が付かせていただきました。

自分とは、あって無いような存在で、この場合は宇宙のような大きな存在なのでしょうね。
その状態で全体を見れば基準は無いことになりますよね。
基準など無いのだから、この世には一切無駄なものがないという心境でしょうか。

では、
「全体を見なさい。何かに固執するから、本当の姿が見えなくなるのだよ。」


と、何かに固執(価値基準を設けること)をする危険性を説いているのでしょうか。

でも、全体を見ることをしないと、やはり歪んだ状態にはなるわけで…。
そして、あるがままを受け入れるという行為そのものに固執はないですよね。

でも、そこまでの境地にたどり着くまでには、やはり多くの固執(歪み)を持っていたと思うのですが。そして、何度も(同じ場所とは限りませんが)
「座禅せば 四条五条の 橋の上 往き来の人を そのままに見て」をくりかえして、洗練されていって(固執を捨て去って)、最後にたどり着いた境地が

“「そのままに見て」「あるがままに受け入れる」”


だったのではないでしょうか。
そこまできて、他人も、これまでの自分も受け入れることが出来たということではないでしょうか。
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この回答へのお礼

“「そのままに見て」「あるがままに受け入れる」”
この状態になると「ストレス」は感じないのでしょうか?

ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/16 00:40

現実に実践すると、こんな感じじゃないでしょうか。



――休日に、日がな一日公園のベンチに腰掛けて、行き交う人のその様を自然との一体感に包まれて見る。

交差点で足を止めて、町中の雑踏を見るでも良いと思います。
目を凝らして見ると言うよりは、自分自身が澄んだ水のように、大気になったように、全てを包み込むように見ると言う意味じゃないでしょうか。
自分と他人を逐一比べてみるのではなく、“常に全体を見る”
(自分の境遇よりも上ばかりを見るのではなく、下ばかりを見るのではなく)。
すると、自分を縛っていた世界が、歪んでいたことに気が付く。
心が自由になる。世界の広がりを感じる。


そんな感じじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

>歪んでいたことに気が付く。
歪んでいるということは、何かの基準と比べて歪んでいると感じる。
でも何か基準みたいのを持っていると、減らした方が良い主観が多くなってしまい、
「そのままに見て」「あるがままに受け入れる」ができなくなってしまわないですか?

ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/15 11:41

 その心持が‘高い’というのは、修行を通して、主観から離れて物事をありのままに観えるようになった、といったレベルと比較して、主観を捨てられずに物事を見なければならない状態より、精神状態が真理の世界、悟りの世界に近いのではないか、と思いそれを‘高い’と表現しました。



 主観を持ったままでありのままを観る、というのは不可能なことなのではないでしょうか。

 主観を持って見る、ということは、例えると色眼鏡を通して物事を見るということだと思うからです。

 人々が掛けている色眼鏡は、さまざま。それぞれの主観を持って見ているので、それがありのままとは思えないのです。

 座禅せば四条五条の橋の上・・・の心境は、主観を離れることのできた人の心境を現わしているのだと、思っています。

 ダブりますが、主観を通して物事をありのままに観ることができる、ということはありえないと思います。

 
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この回答へのお礼

極めて残念です。
何回もご回答してくださり、ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/14 00:01

回答とは言い難いのですが、恐らく、ご質問のタイトルの文言を他の言葉で言い換えるならば、「アイデンティティを確立しなさい」ということではないですか。


感覚的な事なので、おいそれと身に付くこともなければ、意識しようとして悟れることではないと思います。
実践も、感覚がつかめないと難しいのではないかと思います。

私はこちらのNo.3で回答しています。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5031245.html

この時回答No.3で参考にあげたURLの1の内容が、タイトルの指す言葉のイメージに近いと思いますと思います。
(今回もリンクを貼ろうとしたのですが、何故かエラーになってしまったので、お手数ですが上記のリンク先から1を選んでご覧になってください。)


このときは、ヘレン・ケラーの話を引き合いに出していますが、彼女は水に触れて言葉を取り戻し、水の本質に気が付いたとき世界が開けたのだと思います。
それは彼女が自分が何者であるかを強く認識した瞬間でもあったと思うし、心の目が開いた瞬間でもあったと思います。
そして、長い苦しみから解放された瞬間であったのではないかと思います。

その瞬間とは、自分が属する世界、自分と他者との関わり、世界との一体感に包まれていたと思います。
その時の境地に近い言葉ではないかと思います。
そのイメージがつかめれば、実践に結びつけることが出来るのではないかと思います。
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この回答へのお礼

アイデンティティの確立はできてると思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/14 02:29

不親切なお答えになってしまいすいませんでした。


簡潔に、という事でしたので
最初と最後だけを言ってしまったような感じです。
ご参考までにお話します。

聞こえる、のと「聞く」では違います
見える、のと「見る」では違います。

眼をつぶって「聞く」と、実に様々な音や声があるのが分かります。
鳥の声にしても、朝などは五、六種類はあります。
その声も、嬉しい声や淋しく仲間を呼ぶ声があります。
また、鳥によっては縄張りを知らせる声や威嚇する声もあります。
声では無く言葉なのだと感じさせられます。
都会の喧騒の中でも、眼をつぶれば
沢山の車の音や人の声が聞こえるはずです。
それを「聞く」ことが出来れば、どれほど得るものがあるのかは、想像がつきかねるくらいだと思います。

「見る」にしても
全体的に見たり、部分的に見たり、時間的に見たり
或いは、繰り返すように見たりする事もできるはずです。

「耳で見て、眼で聞く」という感じだと思います。
五感の働きを研ぎ澄まして外界に対すれば、常に新鮮な発見や驚きがあるものだという事です。
「六根清浄、お山は晴天」というやつです。

五感と意識を働かす事によって知る世界から、逆にそれらの働きを滅して知る世界に入って行く事もできます。
いわゆる座禅の世界です。
感覚も心も滅した、或いは滅してゆく、超感性的ともいえる智慧の世界であると思います。
そこにあるのは意識を超えた感性とその対象そのものです。
そして、対象と言えるものが消え去ったところに到達するはずです。
禅でいうところの「無」です。
無ではあるけれども全くのゼロではない、境地です。

この境地から、感覚の世界へ降りてきます。
再び、賑やかな世界へ戻って来てみるのです。
そして観察するならば、全てはより確かに、鮮明に見えるはずです。
色も形も音も声もです。
あるがままに、既成概念なしに重く確かに見えるはずです。
「見る」がさらに深まるものと思います。
そして、見て、いる自分自身を凝視している智慧にも気付かされるはずです。
その智慧を観音とも呼ぶのだと思います。

禅の世界は体験の世界でもあり、人それぞれに様々な解釈をされています。
それでいいのかもしれません。
正直言って、私の解釈も浅いものです。
浅く恥ずかしくもある解釈ですが、ご参考にして下さい。
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この回答へのお礼

>感覚も心も滅した、或いは滅してゆく、超感性的ともいえる智慧の世界であると思います。
>そこにあるのは意識を超えた感性とその対象そのものです。
感覚を滅しても感性は残るのですか?
ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/14 02:46

 前回、同じテーマの質問に回答した者です。


 
 実践する方法を、との問いでしたのであのような回答になりました。

 座禅せば‥‥は、座禅して心を落ち着かせておけば、物事をありのままに見る事ができる。と、言っているのでしょう。

 ありのままに見るという心境(境地)とは、経験を通して得た知識、価値観、好き嫌いの感情などに影響されないで、観ることができる。といったところではないでしょうか。

 といっても、その心境がどのようなものかは、体験してないのでわかりませんが。

 また、心を静めるために座るのは、その姿勢が効果的だから、方法として取り入れられたのだと思います。

 ただ質問者さんは、座禅はしないようなので、生活のなかで心を落ち着かせるには、正座とか、立ち姿なら背筋を伸ばす、といった方法で実践するのが効果的だと思うのです。

 物事をありのままに見よう、なんて高望みではなく、ちょっとイラついている気持ちを落ち着かせようなんてレベルなら、即効性はあると思います。

 

 

 

 
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この回答へのお礼

>物事をありのままに見よう、なんて高望みではなく
このことは「高い」のですか?
>ありのままに見るという心境(境地)とは、経験を通して得た知識、価値観、好き嫌いの感情などに影響されないで、観ることができる。
>といったところではないでしょうか。
そう思います。でも主観をゼロにするのは不可能だとも思います。
なので主観をゼロにしなくても「ありのままに見る」感じを掴みたいです。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/13 22:06

眼をつぶって音を聞いてください。


眼を開けてよく見てください。

音を観るのと、観える音は一つです。
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この回答へのお礼

何のこっちゃ分からん。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/11 23:17

>>ただ、目の前に存在する現象そのものを、ありのままに受け入れる。


この方法を教えて下さい。という質問です。

そこに至る方法の説明だけなら簡単ですね。ひとつしかありませんからね。「ありのままに受け入れる。」ということは仏教では「ありのままに見る。」、つまり「正見」ということでしょうから「正見」に至る方法ですね。
「正信なくば正見なし。正見なくば正思なし。正思なくば正語なし。・・・・・」と続きますから。
「正見」に至るにはまず「正信」の確立ですね。
「正信」とは仏法僧の三宝に帰依して仏法を学ぶということなんですね。仏を信じます。仏の教えを信じます。ということですね。それを基礎として物事を見るというのが「正見」ですね。
まずは信解脱の法門をくぐらないと「正見」に至ることはないんですね。これは連続門ですから、どこから入ってよいというものではないのです。つまり信解脱の法門を通過しないと何か読んだからといって至ることはできないし、単に瞑想したり座禅したりしても至ることは無いのですね。それを外道(道を外してるよ。)というのですね。
それらしい気持ちになりたいだけならいろいろ方法はあるでしょうね。
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この回答へのお礼

>仏の教えを信じます
そもそも質問が「座禅せば~」で始まっているのでアレなんですが、
別に信じるものは「仏の教え」でなくてもいいんですよね。
>それを外道(道を外してるよ。)というのですね。
外道でもなんでもできればいいんです。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/10 10:47

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