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生臭坊主に布施をすることは、智慧波羅蜜に反している?
ような気がするのだがどうだろ。

A 回答 (10件)

生臭坊主に布施をすることは、智慧波羅蜜に反している?



この場合の布施の意味ですね。
六波羅の布施修行は菩薩修行ですから坊主への布施とは意味が違うものですね。布施波羅蜜は、他に法を布施(法施)。他を愛する(愛他)。などの実践行が主なるものですね。これ坊主がやることですね。

さて、仏教においての一般的な布施というのはあくまで仏への布施なんですね。それを坊主が代わって受ける形式ですね。この布施は布施者、施者が仏陀へ感謝し、布施することで施者の執着を取り除くというものですね。それゆえ三輪清浄が必要条件ですね。なぜかというと施者と施物と受者(仏の代理人)が清浄でないとその布施は仏に届かないからですね。つまり坊主が生臭であれば受者が清浄ではないので仏に感謝が届かないということですね。つまり布施にならないんですね。
坊主がビジネスだと思って生活の糧にしている坊主おおいですよね。
坊主が生臭だと坊主のいるお寺に仏が住んでいるのか別のものが住んでいるのかわからなくなりますね。わりと別なものがいたりしますね。とんでもない魔物がすんでいたりするとこまりますから布施は盲目的に行ってはだめなものですね。
そういうことで、本物には惜しみない布施をしましょう。偽者には布施はやめましょうね。
本物か偽者かを見極める智恵は必要ですね。智慧波羅蜜はこういうことに坊主が気がつくことですからつまり、坊主の修行課題ですから、それさえわからん生臭であれば布施を受けるのならもっと勉強しろと叱咤激励すればいいだけですね。
(智慧波羅蜜に違反ではなく坊主の智恵もなく坊主をしているということですから坊主詐称の詐欺になるのですね。心の詐欺ですよ。)
布施の意味も説けない坊主がいるお寺や宗派はつぶしてもいいんですよ。生かすのも布施、つぶすのも布施なんですね。
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この回答へのお礼

オレの布施の解釈が誤ってたのかもしれんが、「反してる」ということですな。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/27 18:41

はい。

禁止しましょう。そんなことをしても何も変わりません。
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この回答へのお礼

・・・何を?
・・・なんで?
ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/29 01:11

>「知恵のない布施は生臭坊主のためにならないでしょって話。


そんな簡単に言い切れるようなもんでもないと思うけど。
だって、その人だって色々あるでしょ。
大してその人のこと知らないのに、生臭坊主だ、お布施でパチンコしてやがる、もうお布施なんかしてやんねー、お前のためになんねー的なノリって、なんだかなー、ガキみたいです。世間って、そんな付き合いじゃないでしょ、お寺さんも人間なのに、お寺づとめは聖人で無ければならないなんて、誰が言ったの。聖人だったらどこにいても聖人でしょ。聖人は職業じゃないのよ。
別に怒ったわけじゃないけど、自分も、何のために話したのか、わかんなくなってしまったよ。
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この回答へのお礼

こういうことを言い出すといくらでも言い訳できちゃう。
やっぱきちんと言い切らないと今の社会みたいになんでも「なあなあ」で
ってことになっちゃうんだな。
もう少しビシッときちんとして欲しい。
ありがとうございました。それと、ごめん。

お礼日時:2009/06/29 01:08

まったくの素人ですから、大した回答は出来ませんが…。



生臭坊主に布施をすることは、六波羅蜜の布施波羅蜜に反していると思いますね。
「施すものも、施されるものも、心清らかでなくてはならぬ」。
生臭坊主といわれる方は、心清らかではないでしょう。
さらに、生臭坊主自身の問題ですが、持戒波羅蜜にも反していますね。

釈迦に説法でしょうが、「六波羅蜜」貼っておきます。

http://www.tctv.ne.jp/tobifudo/newmon/etc/rokuha …
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この回答へのお礼

オレもそう思う。
明確な回答、ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/28 18:41

> 例えば、現代のように世の中が混沌としていますと、困っている人に、前後の考えもなく、相当のお金を恵んでやったとします。


>ところが、その男はバクチ好きだったとしたら、これ幸いに、そのお金で、パチンコ、競馬、競輪等々で、与えられたお金をすぐに使ってしまうこととなってしまいます。
>そのために、救うことができず、人に甘えて社会的努力をしないダメ人間を作ってしまう事となります。
>このように、布施も、本当の智慧をもってしなければ、せっかくの慈悲の心も有効な働きをしないばかりでなく、返って逆の結果になってしまいます。   
> 前記は極端な例えですが、世の中にはこれと似たようなことが大小無数にあるものです。
>このように、私たちが人のために役立つとか人を救うという立派な行ないをする場合、智慧は絶対に欠くことのできない条件となります。

別に、博打狂で、社会から零れ落ちてしまうこと=ダメ人間とはならないでしょうけれど。
ただ、何かを与えることが高尚なのではなくて、乏しき中から分かち合えるから、輝いている。自らの貧困を、徳行によって超える。
であるから、人々は徳行を礼賛するのですし、仏さん達もそれを明らかにします。
自力が徳行を為すのでもなく、他力が他力として身につくこともありません。
ただ、自らの貧困を知る人が、自力を超えて他の貧困を心から手を差し伸べ、救うことができるのではないでしょうか。
でなければ、徳行が輝けるものとして人々に備わることもないでしょう。
人々の人生は短く、物質的にも精神的にも、その境遇は厳しい。
得たものは捨てて、持たざるところより人々と分かち合えるものこそ、輝くもの(=人生の輝き)であると私は思います。
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この回答へのお礼

論点がズレてますよ~。
知恵のない布施は生臭坊主のためにならないでしょって話。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/28 18:40

 回答番号:No.3


 ご質問のことは、回答番号:No.3のお礼欄にお書き込みの文章からは、とても読み取れるものではありませんでした。
 お布施というのは、漢字の意味由来から、施しを布わすですね。
 また、http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/169482/m0u/% … にはこのように解説があります。
 坊主といわれていて、布施ということばが出てくれは通常は、〔2〕のことと理解して、一生懸命ご参考にして欲しいと投稿いたします。
 お礼欄の内容にまでは思いが到りません。
 何事も、状況の中で、それなりの判断と常識、自分の経験からの知識で行動をするものであることは言うまでもありません。
 そういう意味で仰せの事はそのとおりでありましょう。 
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この回答へのお礼

>ご質問のことは、回答番号:No.3のお礼欄にお書き込みの文章からは、とても読み取れるものではありませんでした。
失礼仕った。オラとしては「智慧波羅蜜」という言葉がある時点で#3のお礼欄にあるようなことは周知かと横着しちゃったのよ。

布施の解釈はそれでいいんだけどな。
要はしょうもない坊主に布施をして、その坊主がその布施でパチンコなんかやってたらなんだかな~と思ってな。
んで、その布施は「智慧波羅蜜」に反してるだろうと思ったから質問してみた。
そしたら#2さんの回答では布施をする側には「智慧波羅蜜」は関係ないみたいで、その生臭坊主が「智慧波羅蜜」違反。そりゃそうだ。w
でも「智慧波羅蜜」を知らないでロクでもない坊主に布施をするのも癪だからやっぱ一般人も「智慧波羅蜜」は知ってた方がいい。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/28 18:36

布施行というのは、坊主が生臭かどうかということより、


 施す側が施すことを的確に、
 受け取る側が受け取ることを的確に、
 物品が的確な内容であるように、
いう点に厳しさが求められるのでして、この様子を三輪に喩えます。
施す側にとっては、施すという修行なので、そのことだけを考える。よけいなことは考えない。
受け取る側にとっては、落ちてるものを拾うとか盗むとかじゃありませんから、
手を伸ばせば簡単に手に入るなどという感覚はもってのほかで、
卑屈になれというのでもなく、地べたを這うような額のさらに下の咽喉から手が出るところで、
願うとか感謝をすること自体がどこまで低く清らかになれるかの難しさを抱えて
受け取るという修行なので、よけいなことは考えない。
そして地べたを這って咽喉から手が出て一杯の粥を必要としている人にふさわしく、
死に際に怖がっている人にふさわしく、行えるかどうか。

そういうふうに三輪のそれぞれに、難しさ、考えどころがあるのです。
べつに、坊主が焼き肉食らって女房抱いてるかどうかで考える余地のある問題ではないのです。
ただ、そんな快適ライフをおくっているかに見える坊主の心が、三輪のバランスに乗れるのか? という疑問は湧くので
宗派によって重きを置くところが違うようで何ともいえませんが、
禅宗では、おいそれと真似できないほど酷暑、厳寒の施行が大変そうでしたよと申し上げておきます。
そもそも24時間営業定休日無しで、
また、僧の社会は縦社会として尋常ならざる縛りに加えて組織運営の雑事にまみれているように見えましたし、
生臭であってさえも、修行としかいいようのない世界で、独特の精神構造は備えているようですね。
禅僧は自分のことだけひたすら考えているようなものだよと言われたことがありましたが、
それができる高僧よりも、執着心の捨てきれぬ生臭坊主のほうに布施行という修行システムは必要なのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/29 01:10

No.3の返信に似たようなことを考えていました。



えっとですね。。。
その返信の内容に似たようなもんだと、うちら税金納めていますよね。
ところが、その税金を政府の官僚が適切に必要な人に使っていなかったということが発覚しているし。


アフリカに無償援助をした額は過去のある10年間に何十兆円とかすごい額だそうです。
無償援助、つまり「やるよ~ 返さなくっていいからね~」ってあげた額。

日本が赤字大国で、国民がぜーぜー言っていて、自殺者が交通事故者より多いのに、「やるよーーん」って太っ腹。
で、アフリカは毎日多くの人が餓死していますが、「その原因は日本を含めた先進国のせいです」ってアフリカの知識人から言われています。
「あなたがたが、アフリカに援助したから、こんなことになった。 どうしてくれる!」って批判されている。
衝撃的な事実ですが、事実のようです。



インド方面では、お布施をするの方が「ありがとう」って言うらしい。
どうしてかというと、お布施をすることは善行なので、徳を積んだことになるから。
だからもらう側じゃなく、あげる側が「徳を一つまた積ませてくれてありがとー」になるらしい。


で、私はある仏教信者にこんなことを聞いた。
「私がよかれと思って寄付したお金が、ヤクザの資金源になっており、それで人が死んだ場合、私は間接的にも悪行をしたことになるのでしょうか?」

するとその人はこう答えた。
「仏教の偽善というのは、一般的な偽善とはちょっと違います。 善行を行っても、結果それが悪になった場合、善が転じて偽の善になった。 それを偽善といいます。」




で、20世紀の終わりあたりに、世界に衝撃を与えた事件があった。らしい、というのか本で読んでそういうのが西洋であったのだと後で知った。

イタリア政府の大スキャンダルで、何故それが世界中に衝撃を与えたかというと、そのスキャンダルに世界に10億の信者を持つある集団が関与していたから。

その宗教が、マフィアと連携しており、ポルノや麻薬関連企業の株を買って設けていたことが発覚したから。
某巨大宗教がマフィアからの献金を直接保持するわけにはいかないので、途中に別の団体が入り、マネーロンダリングして、汚れた金を洗浄しバチカンに渡していた。(おっと某宗教がどこかバレてしまった)。

それとは別に、信者から献金される額は相当なものでしょう。
信者からの寄付をうつかってしまったので、スッテンテンになってしまったのか。
それで、主な顧客はマフィアってなり、その宗教がマフィアをファミリーとみなし、仲良くしてきたのか?
信者が死んでもその宗教の幹部は動きませんが、マフィアのボスが死にそうになると、すっとんで行き「あなたの罪は清められあなたは天国にいけます」ってやっていたのだとか。
まあ 要するに中世の免罪符みたいなもので、そうやって「死ぬ間際にリセットするから、どんな悪事をやっても大丈夫! 兄弟よ」ってことらしい。
じゃあ マフィアはじゃんじゃん 麻薬やポルノや殺人をしても平気になっちゃうわけですね。
マフィアはすごい見方を得た。
信仰深いので、どんな悪事をやってもリセットされ100%清くなって死ねるので天国に100%行けると信じているわけです。



で、どうしてマフィアと癒着してファミリーになったのか?
想像でしかないが、ポーランドの連帯にワレサの活動資金として、ヨハネパウロ2世が裏金を提供していたってのもあったので、宗教が政治に深く関与し、裏で操作するため信者から集めた金を裏金として使っていたってのも今まであったんじゃないかと。
それだけでは足らないので、やがてマフィアの金もかき集めていたのか?
野望を実現しようとしたわけです。
日本に最初にやってきた頃も、ものすごい額を使い、日本をキリスト教国にしようとしたらしい。
武器弾薬を双方に渡して戦争をさせて、混乱させ、その隙に乗っ取るとしたらしい。
それが発覚して、追っ払われましたが。


で、元に戻って、結局信者から集めた金を、ポルノや麻薬産業を大きくするために使っうことになってしまったわけで、、、。
それによる被害者が、その人を不幸にした宗教にすがるという構図。
んーーー 偽善なのか なんなんでしょうねぇ。


で、聖書には「求めるものには与えよ」って言葉がある。
誤解された言葉。
そこだけ取ると、「どれだけでも求める人に与えるのが善行」って意味に取れる。
その言葉は文脈から、そうではないことがわかる。
智恵を使ってならオッケーだが、智恵を使わずなんでもかんで与えるってのは愚か。
< Spare the rod and spoil the child >日本語では「可愛い子には旅をさせろ」という諺に該当しますが、聖書からきた言葉。


で、結局 叡智を使わないで、むやみやたらに寄付をするってのは、結局 めぐりめぐって自分にその浅はかさはかえってきて自分が不幸になるわけです。
「情けは人のためならず」
自分が損をしても情けをかけて人を助ければ、やがてめぐりめぐって、自分が困ったときに助けてもらえる って考え。

ただ、「こりゃ怪しいな」って人にまで寄付をするのは、明らかに警報を無視しており、智恵を伴っていませんので、のちのち自分がやった行為によって自分が害を受けても文句は言えないわけですね。


んーーー 税金って無理やり強制的に取られるじゃないですか。
智恵があるなしに関わらず、勝手に給料から天引きされ、諸外国に寄付され、あげくに「お前らは人殺しだ」って言われちゃう。
じゃあ、日本政府は信用ならないから、日本の法律を変えて、所得税は無しにしてもらおう ってすると、日本の貧富の差はもっと拡大するじゃないですか。

で、智恵が足らなかったので、まさかアフリカにこれほどまで死者が出るとは予想できなかったわけですが、どうであれ結果がそうなので、叡智が足りなかった善行なわけで、偽善になったってことですね。


というわけで、、、、智恵無き寄付をしたら、自分のやったことで、自分が害を受けることになる ってのは確かにその通りだと思います。
その結果を真摯に受け止め、今後に活かせばいいと思います。
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この回答へのお礼

同感。でも布施と税金じゃあ。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/29 01:09

 お布施を頂く職業ではありませんが、精神的な団体のお手伝いをしていて、何かとお世話になるのですが、無償の金品は頂く側は気を大事にします。


 差し上げていた方が楽です。聖者というのは地上の呼吸はなかなかともに出来ないものです。
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この回答へのお礼

この質問は

> 例えば、現代のように世の中が混沌としていますと、困っている人に、前後の考えもなく、相当のお金を恵んでやったとします。
>ところが、その男はバクチ好きだったとしたら、これ幸いに、そのお金で、パチンコ、競馬、競輪等々で、与えられたお金をすぐに使ってしまうこととなってしまいます。
>そのために、救うことができず、人に甘えて社会的努力をしないダメ人間を作ってしまう事となります。
>このように、布施も、本当の智慧をもってしなければ、せっかくの慈悲の心も有効な働きをしないばかりでなく、返って逆の結果になってしまいます。   
> 前記は極端な例えですが、世の中にはこれと似たようなことが大小無数にあるものです。
>このように、私たちが人のために役立つとか人を救うという立派な行ないをする場合、智慧は絶対に欠くことのできない条件となります。

これに反しないのか?ということです。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/27 18:42

反しないと思います。


相手が誰であれ、持たざる人と、大切なものを分かち合うことは、分かち合われた物自体よりも、その為された行いの方が本当であり、布施の本質と思います。
きっと、食べ物に餓えていたら、その行為(与えること)よりも与えられた食料の方を、知識に餓えていたなら、その行い(思いやり)よりも知財の方を、人間関係に餓えていたなら、その行い(無私=友)よりも過ごす時間の方を、大事に思ってしまうかもしれない。
でも本当は、そことは違うんだと思います。
 私達の時間は、体力は、知性は、限られています。できることとできないことがあります。そのような中で、分かち合えることの人間の尊さを、布施は教えてくれているのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

この質問は

> 例えば、現代のように世の中が混沌としていますと、困っている人に、前後の考えもなく、相当のお金を恵んでやったとします。
>ところが、その男はバクチ好きだったとしたら、これ幸いに、そのお金で、パチンコ、競馬、競輪等々で、与えられたお金をすぐに使ってしまうこととなってしまいます。
>そのために、救うことができず、人に甘えて社会的努力をしないダメ人間を作ってしまう事となります。
>このように、布施も、本当の智慧をもってしなければ、せっかくの慈悲の心も有効な働きをしないばかりでなく、返って逆の結果になってしまいます。   
> 前記は極端な例えですが、世の中にはこれと似たようなことが大小無数にあるものです。
>このように、私たちが人のために役立つとか人を救うという立派な行ないをする場合、智慧は絶対に欠くことのできない条件となります。

これに反しないのか?ということです。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/27 18:38

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