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大同5年9月19日(810年10月20日)、弘仁と元号が改められています。元号が改められるのは何か原因があってのことと思います。
650年 白雉 → 穴戸国より白雉の献上
701年 大宝 →対馬より金の献上
など。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7% …
上記には弘仁の改元理由は記されていません。

なぜ810年に弘仁と改元されたのでしょうか。
810年には「薬子の変」おこっているので、それを受けてのことでしょうか。

また「弘仁」ってどういう意味なのでしょうか。

推測でも結構です。よろしくお願いします。

A 回答 (8件)

即位の翌年に改元する「踰年改元」については #3 の言われる通りで, 手元の「歴代天皇年号事典」(吉川弘文館) によれば儒教的な観念によるものだそうです.


ちなみにこの本によれば永治への改元は「辛酉革命」によるもので近衛天皇の代始により康治に改元された, となっています (永治への改元は保延7年7月10日, 近衛天皇の即位は永治元年12月なので近衛天皇の代始改元で永治に改元されることはない),
また, 後堀川天皇の即位は 1221年です (貞応への改元は承久4年4月13日).
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この回答へのお礼

Tacosanさん、何度も回答ありがとうございます。

即位の翌年に改元することを「踰年改元」というのですね。
儒教的な観念によるもの・・・
具体的にはどういうことなのでしょうか。
やはり前帝の崩御を受けて即位した場合、前帝の喪に服すという意味なのでしょうか。

「辛酉革命」によって保延7年7月10日永治へ改元。
その後永治元年12月に近衛天皇が即位し
近衛天皇の代始によって康治に改元されたということですね。
ナットクいたしました。

「弘仁」の改元理由と「弘仁」の意味を知りたかっただけなのですが
思わず改元についてのお勉強ができました。
感謝しています!

お礼日時:2009/07/01 11:49

実際には戊辰の年に代始であったり災害などにより改元されている, ってことはちょくちょくあったりします (苦笑). 明治もそうなんですが, 実は元禄も代始による改元 (しかも戊辰の年) なんですね. でも, 辛酉とか甲子とは違って「慣例で改元する」ということにはならないまま.


あと... 「知識がある」わけじゃないです. 前に挙げた本から引っぱってるだけ.
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この回答へのお礼

戊辰のときに改元されていることはあるが
戊辰そのものが改元の理由ではない、ということですね。
しかし、戊辰のときに災害や戦争が起こるというのは
「戊辰革運」ですか、恐るべし、陰陽道!
なんてことはないですね~。
本当にいろいろありがとうございます。
ちなみにTacosanさんの回答は天文学のところなどでも
よく拝見し、参考にさせていただいておりました!

お礼日時:2009/07/03 10:55

ん~, 「儒教」ってなんなんでしょうねぇ.


ただ, 基本的に「改元したあとでは, その年は (改元する前であっても) 新しい年号を使う」ということになっていました. この慣例に従うと, 例えば「昭和64年1月1日」は (平成に改元以降は) 「平成元年1月1日」と称されるはずです. ところが, これは「前の天皇が支配していた時代をも新たな天皇が支配している」とも読めてしまいます. つまりある意味で「子がでしゃばっている」ということもいえるわけで, これとのからみはあるのかもしれません.
あと戊辰の年の改元ですが, それそのものはあるのですが「戊辰」を理由にした改元はなさそうです. ちなみに戊辰の年に改元した最も新しいのが「明治」だったりします.
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この回答へのお礼

おー、何度も回答くださり恐縮です。
嬉しいです!

>「改元したあとでは, その年は (改元する前であっても) 新しい年号を使う」ということになっていました。

そうなんですか!
改元ってまだまだ奥が深いっ!

やはり、前帝に敬意を表して、というような意味なのでしょうね。

>戊辰の年の改元ですが, それそのものはあるのですが「戊辰」を理由にした改元はなさそうです.

ふむふむ。

>戊辰の年に改元した最も新しいのが「明治」だったりします.

ウィキによれば明治天皇即位による改元、とありますね。
ちょうど戊辰戦争も起こっていますが。

Tacosanさんも相当な物知りですね。尊敬します!

お礼日時:2009/07/02 10:08

「天皇が即位しての改元」そのものは普通です. もともと中国で「皇帝が時間をも支配する」ことの象徴として作られたものでもあるので, 皇帝が変われば改元されるのは当然です. ただ, 改元が「天皇の即位によってただちになされる」というシステムになっていなかったために即位から改元まで時間がかかった (さらには踰年改元という形で「即位の翌年」に改元される) だけです. なお, 例外的に代始改元を行わなかった天皇もいます (明正天皇).


あと, #3 の改元理由の「革年改元」ですが, これは「讖緯説」に由来します. ただし日本では戊辰はほとんどないんじゃないかなぁ. 逆に辛酉と甲子はほぼ毎回行われていたので, 辛酉の年に始まる年号の多くは (辛酉から甲子までの) 4年しか使われていません.
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この回答へのお礼

三度も回答をありがとうございます。
皇帝が変わるごとに改元されたのですか。
明正天皇はなぜ改元しなかったのでしょうか。
気になりますね~。
そうですか、日本では戊辰による改元はほとんどないのですか。
戊辰は重要視されていなかったのですね。
辛酉と甲子は重要視されていたと。
今まで元号というものに興味を持ったことがありませんでしたが
みなさんのおかげで興味が湧いてきましたよ。

お礼日時:2009/07/01 12:08

こんばんわ。


私の「つたない解説」をお読みいただきありがとうございます。
そうですか。「良」と「子」の違い・・・でしたね。

>>なるほど、代始改元するのはすぐ、というわけではなく
翌年に行うのが常なのですね。

必ず翌年から改元するとはかぎりません。
事実、嵯峨天皇の後を見ても、永治元年(1141)近衛天皇、貞応元年(1222)後堀河天皇・・・などなど、探せば面白いかも。

>>こんな知識どこから仕入れてるんですか?

ありとあらゆる本を読むことでしょうか。
ただ、昨今は、Webサイトの検索で、「簡単に?」調べられるようになり、便利な世の中になったものですね。

また何かありましたらスレッドを立ててください。
どこかで、また、お会いするかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
>必ず翌年から改元するとはかぎりません。
No.3の回答をちゃんと読めばそういうことですね。
すいません、そそかしくて。

またスレッドたてます。
ていうか、週に1本はたててるかも。

gooの皆さんって本当に物知りですね。
またよろしくお願いします♪

お礼日時:2009/07/01 11:12

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

まず、回答から述べますと、
「代始改元」です。
後述しますが、必ずしも、代が代わって「すぐ」と言うわけではなく、先帝の偉業を讃えたりする場合は、翌年から「改元」をしました。
特に、嵯峨天皇の先帝の平城天皇は上皇として生きていたため、一歩下がって、翌年に改元したものです。

和暦の変遷
(1)帝王(天皇)の交代による・・・代始改元。
(2)吉事を理由にする・・・・・・・祥瑞(しょうずい)改元。
(3)凶事に際してその影響を断ち切るための・・災異改元。
(4)三革を区切りと見なして行われる・・・革年改元。
大別して以上の4つが主なものです。

もう少し詳しく説明すると、
(1)代始改元は、分かりやすいですよね。
嵯峨天皇の即位「弘仁(810)」、清和天皇「貞観(859)」、令泉天皇「安和(968)」、後三条天皇「延久(1069)」、後白河天皇「保元(1156)」、二条天皇「平治(1159)」などがあります。なお、先の天皇が崩御されたた時などは、その年は「喪に服す」考え方で翌年から「新元号」としたり、隠居をし上皇などとなった時は、先の天皇(上皇)に敬意を表して、やはり、翌年から「新元号」とした場合もあります。
(2)祥瑞改元
大化6年(650)2月に穴門国(あなとのくに=長門国=現:山口県)から白い雉(きじ)が献上されたことを「吉事」として、「白雉(はくち)元年に改元しました。そして、白雉5年(654)まで数えられましたが、その後80年間は、元号の無い時代が続きました。天武天皇15年(686)7月20日に大倭国(やまとのくに=大和国=現:奈良県)から、今度は赤い雉が献上されたため、朱鳥(しゅちょう、すちょう、あかみとり)元年として「元号」が復活しました。しかし、これは「伝説」であって、実際は、天武天皇の病気平癒のための祈願を込めたものだ、とも言われています。事実、天武天皇がその年に崩御されると、朱鳥元年のみで、再び、15年間元号は断絶しました。文武天皇5年(701)に対馬(対馬ではないとの説もある)で産出された「金」が貢進されたため大宝元年が復活しました。
(3)災異改元
京都での地震発生や平将門の乱が起きたため、「承慶」から「天慶元年(938)」に変更。彗星(この星は災いを招くと考えられていた)が多く見られたので「永延」から「永祚元年(989)」・・・陰陽師の「安倍晴明」が活躍していた。平治の乱勃発で「平治」から「永暦元年(1160)」。全国的な飢饉が発生「寛喜」から「貞永(1232)」、関東での大地震発生と全国的な旱魃(かんばつ)で「正応」から「永仁(1293)」。江戸で大火発生「明暦」から「万治(1658)」。江戸で大火と全国的に大風(台風)による水害多発「明和9年(迷惑年)」と呼ばれ「安永(1772)」に。ペリーの来航で「「天明」から「安政(1789)」などがあります。
(4)三革とは
「辛酉(かのととり)革命」・・・昔は、干支(えと)の年号もあり、「甲子(きのえね)」から始まり、60番目の「癸亥(みずのとい)」までを繰り返す第58番目の年の呼び方。
「甲子(きのえね、こうし、かっし)革令」・・・干支の第1番目の年。
「戊辰(ぼしん)革運」・・・干支の第5番目の年。
いずれも、これらの年には、大きな「革命」や「大事件」が起きる、と陰陽道からの考えで、改元をして「運」を呼び戻そうとした考え方。

(よもやま話)
(1)長い間「朝廷主導」で、まずは「朝廷関係」を取り巻く出来事があった時のみに「改元」がされ、やがて、朝廷も広く「民」の出来事にも目を向けるようになり、自然災害などでは、「開運」を願って「改元」しました。そして、江戸時代になると、朝廷も「朝廷」や「民」だけではなく「江戸幕府」の動きにも目を配るようになり、江戸で「大事件」や「天災」「火災」、あるいは、「人の生死」などが起きたりした時も「改元」して、「運気」を回復しようとしました。
ですから、日本の「元号」では、初期の頃は、「ゆったりとした」流れですが、やがて、「コロコロ」と替わるようになっていきました。

(2)明治維新とともに「一世一元の制」が提唱され、慶応4年(1868)を「明治元年」と改元した。その後、昭和54年(1979)6月6日に「一世一元の詔(みことのり)」が成立し、同月12日公布、同日より施行されました。いわゆる、「法律」として発布されたのは、意外と近年になってからなのです。

(3)元号の出展。
書経、易経、後漢書、文選、漢書、晋書、旧唐書、詩経、史記、芸文類聚・・・などが「ベスト10」。

(4)日本が中国を真似た「元号」。
大宝、神亀、天平、大同、仁寿、天安、貞観、承平、天禄、貞元、天福、乾元、元徳、建武、正平、天授、永和、至徳、文明、弘治、天正、元和、正徳、宝暦、天保・・・以上、26例。
(5)日本から中国へ渡った「元号」。
天慶、天暦、天徳、永暦、承安、嘉慶・・・以上、6例。
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この回答へのお礼

bungetsuさん、正良親王、正子内親王でお世話になったpenpentaroです。
まいど、ありがとうございます♪

なるほど、代始改元するのはすぐ、というわけではなく
翌年に行うのが常なのですね。

代始改元、祥瑞改元、災異改元、革年改元ですか。
初めて聞きました。
災異改元、革年改元は言霊信仰からくるものなんでしょうね。

今のように天皇がかわると元号が変るというのは最近になってからのことなのですね~。
法律ができたのは昭和になってからなんて「あっ」とびっくり。

で、元号の縁起のいい言葉は、書経、易経、後漢書、文選、漢書、晋書、旧唐書、詩経、史記、芸文類聚などからとられたと。

日本から中国に渡った元号まであったとは・・・。

たかが元号、されど元号。
奥が深いですね。
勉強になりました!

それにしてもbungetsuさん、
こんな知識どこから仕入れてるんですか?

お礼日時:2009/06/30 19:07

うん? なぜそこだけ見るかなぁ....


「弘仁」のところにはちゃんとリンクがあるし, それをたどれば「代始により改元」って書いてあるんだけど....
その前年に嵯峨天皇が即位していますから, 改元としてはいいタイミングです. それに加えて「薬子の変」が解決した, くらいではないでしょうか.
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
たしかに調べたりなかったようですね。
大変ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。
けど、嵯峨天皇が即位したのって前年の大同4年4月1日(809年5月8日)ですよね。
なぜそのときに改元しなかったの?
なんで1年以上もたってから改元したの?
って思いませんか?
私はそのあたりがとても気になりますけど。

お礼日時:2009/06/30 11:57

全くの私見による推測ですが・・・。



嵯峨天皇は「薬子の変」を迅速に治めた後は、平穏な治世を送り、宮廷の文化が盛んな時期(弘仁文化)を過ごしたと歴史書には書かれてます。
文化人だった訳ですネ。

「弘仁」の意味も漢字を、そのまま解釈すれば、「弘」は「広い」と言う意味で、「仁」は「慈しみ、思いやり」を意味します。

実際に、嵯峨天皇は「弘仁格」を発布して死刑を廃止したのも有名な話です。
中央政界における死刑の廃止は以後「保元の乱」まで347年間も続いたらしいのですから、有る意味大したモノ。
的外れでは無いと、思うのですが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
「弘」は「広い」で、「仁」は「慈しみ、思いやり」の意味なのですか。
死刑を廃止したのも嵯峨天皇だったのですね。
世の中が平和になるようにと、願ってつけた元号というわけですね。

お礼日時:2009/06/30 11:49

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