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お世話になります。

家康公が甲斐武田家の遺臣を優遇し江戸幕府の中枢として取り立てたことは有名ですが、

これは何故でしょうか?

「わしの人生で3人の大きな師がいた。一つは信長公よ。
なんと恐ろしい方であったろう。だがわしのことを最後まで信頼して下さった。
一つは太閤殿で、わしに天下の何たるかを知らせて下さった。
最後には武田信玄公だ。この方はわしに戦の仕方を教えてくれた」

と隠居してからの言葉にあります。(小説なので脚色あると思いますが)

大久保長安などを今で言う財務大臣に取り立てたり、
八王子千人同心など、地域ぐるみで保護した経緯もあるようです。
また、のちの水戸藩(茨城)に2~3年、武田家を復活させたこともあったようです。

いろいろな説があると思いますが、なぜ家康はそこまでして武田を保護したのでしょうか?

A 回答 (5件)

まずは国を治めるうえで、信玄のやり方というものが


かなり家康の手本になったということでしょう。
農業、治水、治山、軍事などあらゆる部分を参考としたはずです。

昔の場合であれば、単なる仕組みややり方を盗めばよいという
ものではなく、大方の場合、それらは人によって伝承されていたと
考えてもよく、武田遺臣を厚く遇することで、
信濃経営を順調に行うことと、それらの技術やしくみを取り込むことに
成功させたといえるのではないでしょうか。

信長のように歯向かったものは殺してしまえより、
秀吉のように昨日の敵もうまく使えば今日の味方という
ようなやり方が家康にはあっていたということもいえるでしょうが。

そういう意味では、家康が特別に武田遺臣を遇したというより、
それなりの扱いでうまく利用・吸収したというのが当たっていると思います。
ただ、信濃を吸収したことで家康の領土は当時では倍になったわけですから、
かなり神経を砕いたとも思えますし。

大久保長安については、彼が特別、異能の才をもっていたからだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2009/07/19 11:11

徳川は、織田と組んで長篠の戦いで勝ち


それから7年ほどたって織田は武田のトドメを
刺して滅ぼしました、これで武田は滅亡、と解釈
されていて、そのあと武田を標榜する勢力が
あったとしても、それは別物でしょう。
いくら織田が征服戦争を徹底しても領国の住民
すべてを抹殺排除することなんて出来ないから
旧・武田家臣団を領国統治において引き継ぎ採用
することじたいは、当たり前といってよく
それをしないで甲斐で弾圧をやって一揆を
起こされて織田家臣の領主は討たれたらしかった。
その一揆は本能寺の変の直後だったようで
実は、その甲斐一揆は徳川が黒幕だという説も
あり、そのあと、そのあたりを占領して支配下
にした徳川の動きをみても、さもありなんと。
大久保長安は芸人出身ということで武田家中
だったときも譜代家臣ではなく
徳川家康が彼を抜擢したのは彼の武田経歴というより
彼の黄金採掘技術などの純粋に手腕を買ったところが
大きい
甲斐一揆の黒幕ともウワサされたくらいなので
徳川が甲斐を統治するようになると巧みに
アメとムチを使い分けて統治をしたといいます。
徳川家康による武田家の再興も結構本気だったようで
関が原の戦いのとき江戸城を防御した将の中に
武田信吉なる人物がいますが、家康の六男で
この人物の母が武田の血筋らしかったので
家康は、彼に武田家の再興を託したといいます。
ところが彼は急病死、子も おらず家康も
落胆したといいます、これで武田家は再興が
ならず消滅?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2009/07/19 11:10

 理由


三河・遠河が松平家初期の譜代衆ですが、徳川家になって譜代衆が多く必要になった背景から、治世後半(武田家滅亡後の信州併合)で傘下にした武田衆を譜代衆にする必要性が出たから。
 別に武田家である必要性はなくて、単純に松平家が拡大してゆく過程に武田家の信州衆が譜代になっただけでしょう。

 つまり、武田家を保護したのではなく、家臣団・家来衆としての来歴から武田家の旧家臣団が優遇されただけでしょう。
 事実、元今川傘下で武田家に落ち着いた土豪も譜代衆として重責を担っています。

というか、甲斐武田家ではなくて、信州の豪族ではないでしょうか?
甲斐系と信濃では武田家でも色合いが違うでしょうから、そこらは精査した方がいいと思います。
 
 優遇したというのは結果論であって、実質的には、武田の名前・威信を利用する側面があったように思いますが・・・・

 少なくとも、優遇は結果論であって、意図したとは思えません。

というよりも、戦国時代に関しては、中部地方・近畿を中心とした歴史観が強くて、どうも最近の歴史観は客観性を疑念に感じてしまいます
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2009/07/19 11:10

先ほどした回答は中身がまるで無かったので少し。



家康は信濃経営に専念していました。
この時、本能寺の変→豊臣秀吉の時代になります。

家康は、北条、伊達と連合を組み
臣下の礼を遂げずに徹底抗戦の構えを見せます。

この時、石川数正が秀吉に寝返り、
真田昌幸とトラブルを起こし、負け戦を起こします。

この後臣下の礼を遂げるのですが、
北条は最後まで戦の姿勢を崩さず、伊達は北条攻めに参加します。

重臣に見限られ、たったの2千騎にボロ負け。
相当堪えたらしく、
信濃の武田家遺臣の心をつかみ、信濃経営に専念します。
また、兵法(強い国を作る。)は、江戸では甲州流軍学が盛んに研究されます。

ですので、
後々の創作もあるでしょうが、家康は信玄を別格視していた可能性があります。

また、信玄に負けた時の絵を見れば、
戦いとは何なのか?
軍隊とは何なのか?
策とは何か?
国とは何か?

など、本人にしか分からない生涯の真理を見出したのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2009/07/19 11:11

家康は本能寺の変後のどさくさに紛れて旧武田の領地を織田家からかすめ取りました、その為建前だけでも武田を保護しないと領民や遺臣を纏められなかったからです、自国領と隣接している土地なので無茶な遺臣切りはできません


八王子などに武田の遺臣を配置したのも武田を重宝していると見せかけるための体裁です
江戸と信州(徳川)の間の八王子などあまり意味の無い配置転換です

ただ井伊家が武田の赤鎧を取り入れたのはそれなりの思いはあったでしょう
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2009/07/19 11:11

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