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釈尊(仏陀)と大日如来とはどちらがえらいのでしょうか?

A 回答 (6件)

たびたびすみません。


No.5です。

中村元先生のご著書として「ブッダのことば―スッタニパータ」(岩波文庫)を挙げましたが、そのような内容の記述があったのは「バウッダ」(中村元・三枝充悳 著、小学館)の方でした。
訂正しておきます。
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釈尊(仏陀)です。



釈尊は歴史上実在した人物。
仏教の開祖。

大日如来は後世の人間達が創作した空想上の仏様です。
「大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)」の教主として登場しますが、この「大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)」は、釈尊の没後約1000年以上経過してから(7-8世紀頃)作られたとされている後期大乗仏教(密教)の経典です。

一昔前までは大っぴらには言われていませんでしたが、今では大乗仏教の経典群は全て、後世の人間達が既に亡くなっている釈尊を勝手に登場させて自分達に都合よく創作したものとされています。

日本における仏教学の第一人者であった中村元先生も「ブッダのことば―スッタニパータ」(岩波文庫)の中で、確か「釈尊の説いた内容を最も直接的に伝えるものはスッタニパータやダンマパダなどの阿含経典群でしかなく、それ以外のものは後世作られたものであるため阿含経とは峻別すべきである」という内容のことを記述されています。

仏教学上では以前からこういうことは常識だったようですが、一般人には馴染みのない話でした。

「えらい」という言葉の定義が判りませんが、単純に言えば勝手に作られた空想上の仏様と実在の仏陀釈尊を比べること自体がおこがましいと思います。

密教や大日如来が登場した背景には、行き詰っていた当時の仏教事情がありますが(唯識思想の限界、ヒンズー教要素の取り入れ等)、いずれにしても本来仏教には存在しなかったものが経典とともに作り出されただけのことです。


さらにもう一つ理由を挙げておきます。

当時インドで主流だったバラモン教(古代ヒンズー教)では、アートマン(真我)は不滅でアートマンが人が輪廻する時の主体であり、同時にアートマンは宇宙を司るブラフマン(梵天、宇宙意識、宇宙の創造主)と同一である、とされていました。

またバラモン教(古代ヒンズー教)の修行法だったヨーガでは、修行が完成すると宇宙と一体化する、つまりアートマンとブラフマンが一体であることを体得する、とされています。

ところが、釈尊はアートマンを否定しました。
アートマンと言われているものですら、煩悩を滅すればもとになるものが無くなるために消滅してしまい、輪廻から解脱して涅槃に入る、と説いたのです。
そしてブラフマンですら超えた世界、つまり涅槃(nirvana)という世界に到達すること(仏陀に成ること)を教えたわけです。

阿含経で有名な「カッサパの帰信」(釈尊が成道後まだ数ヶ月後くらいの時にバラモン教の指導者カッサパ三兄弟が1000人の信者を引き連れて釈尊に弟子入りした話)の記述の中では、ブラフマン(梵天)が釈尊の元を訪れて教えを乞うた時の様子が描かれています。

一方、大日如来は上述の通り密教の仏様ですが、ブラフマンと同じくやはり宇宙そのものであるとされています。

つまり、もともと釈尊はバラモン教時代から宇宙意識(ブラフマンや大日如来)との一体化をも超えた境地こそが涅槃(nirvana)であるとして教えていたわけです。

以上の理由により、私は釈尊の方がえらい!(?)としたわけです。


ちなみに本題からはずれますが、地球上に存在する他の全ての宗教や思想ではほぼ全てが「宇宙との一体化こそ最高の境地である」としています。
しかし、釈尊だけはそれをさらに超えた世界に到達することを教えています。

そういう意味で、釈尊は特殊です。
とてつもなく凄い存在だと思います。

以上、長文にて失礼致しました。
ご参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

興味深い話で勉強になりました

お礼日時:2009/09/27 17:15

お釈迦様の言葉としてのこされているパーリ語の経典。


大日如来の言葉としてのこされている経典。

それぞれ論理的実証的に穴が無いか徹底的に調べてみたらいかがでしょう。

「えらさ」が何なのか解りかねますが、、、何かわかると思います。
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根本的には顕教と密教との違いですね。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
http://www.tendai-jimon.jp/trainee/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E6%95%99
※ゐきペディアでは、密教の項目について、現時点では問題有り(著作権関連)とのことですので、ご注意下さい。

「どちらか」を選択しようとすれば、自ずから、「どちらがえらい」といった質問が湧いて出てくるでしょうが、結局の所、「ひとつ」を二つの側面から見ようとしているだけです。

たとえば、以下のような言葉もあります。

>>> 岩波文庫「ブッダの言葉(スッタニパータ)」中村 元訳(直接の引用元は、http://sugano.web.infoseek.co.jp/index.htm
799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。
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釈尊(仏陀)と大日如来とはどちらがえらいのでしょうか?



仏教はご存知のように釈尊が開いたものです。釈尊の教え、大日経・華厳経・法華経などの中にある仏は全て釈尊の相でしかないのですね。
釈尊は人として法を説きましたが、霊界にあるその本体は巨大で名を釈迦大如来といいますが、霊界の秘儀を説く相を大日如来(毘盧遮那仏)ともいい、また救済面を阿弥陀如来とも呼んでいるだけですね。
ということで、摩訶不思議ですが釈尊(仏陀)も大日如来も阿弥陀仏も久遠実情の仏陀もみんな同じ仏陀なんですね。
仏教的表現では「不一不異」というのです。つまり一つでもなければ、複数で異なるものでもない。要は仕事によっていろいろに変わるということですね。
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諸仏の一番上に位置付けられているのが大日如来です。


その下に釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来等がいます。
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