アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

善悪とは何なのでしょう・・・。
今この世界の善悪など所詮は一部の人が損をしない為のもなんじゃないでしょうか。
たとえば自殺についてあげましょう。普通の人は自殺しようとしてる人を止めるでしょう。でもその人がどんないきさつでどれだけ苦しんでその決断にたどり着いたかなど助けた人もその周りの人も考えないでしょう。それを考えるとそれは、偽善やただの自己満足ではない可と思えます。
それに世の中の悪いことを全てなくなるとします。すると今までの善いことが全て当たり前になってしまいます。もし十人がお年寄りを助け一人は助けませんでしたこうなると一人のほうが確実に悪くに見えます。今まで助けるといい人が助けないと悪い人になります。
これっていったいどうでしょうか。
たくさんのご意見を募集します。

A 回答 (8件)

私もトピ主さんと同じようなことを悩む時があります。


weakweakさんもおっしゃっている内容に近いのですが、過去を顧みて、司法の歴史を考えた時に、やはりその時代時代でそこの社会で生きている人の価値観というものが変化しています。
その社会のその時代の中で、多数の人が認識している価値観が善と悪を決めている気がしています。
私は、巷で流行っているスピリチュアルや宗教的な考えはあまり現実的ではないので、「修行」だとか言いたくありません。
ですが、自分に起こった現象や、世の中で起こっている事件から、自分ならそういう時にこうしよう、とか、同じようにならないようにしようと、改めて思うことはあります。
人間は、感情の生き物ですから、自分ができるだけ感情に流されずに冷静に客観的に物事を認識できるかで、対処法は違ってきます。
大なり小なり、全くの悪をしない人間はいないかもしれません。
人間は利己的ですから・・・。
例えば、低次元の例で申し訳ないですが、自分が好きでもない相手から好かれて寄ってこられたとしても、受け入れられずに上手くかわしますね。
これは、私にとっては自分を守る為にやっていることですから悪いことと思っていなくても、相手にしてみたら酷いと思うわけです。その逆もしかりです。

法を決める人も喜怒哀楽のある人間です。そういう同じ喜怒哀楽を持つ司法に関わっている人間が、善悪を検証して決めていますが、結局人間が定めた善悪ですから、また時代の意識が変わったら、その善悪も変わるでしょうね。

今いわれている善悪は、恐らく10年位前に上の方たちが議論した結果だと思います。
今やっと話題として大きく取り上げられている自殺問題も、きっと議論中ですから、この先きちんと安定するまでには数年かかりますか・・・。
今まで水面下でうやむやにしてきた為に、ここまできてしまったと思います。

お年寄りを助ける助けないについても、トピ主さんの言われることはごもっともだと思います。
私は、お年寄り一人を目に見える形で助けても、次のお年よりまで助けられないと思うので、できないことはできないとはっきり言って、悪者扱いされることがよくありますよ。多分、親戚には私が酷い人だと言われているでしょう。けれど、私が別の立場だったら、そのお年寄りを助けなかった人を悪い人だと思わなかったりします。
実際、ニュースで溺れている子供を助ける為に飛び込んだ人が反対に飲み込まれて死んでしまったのを聞くと、自分が溺れている子供をみても、泳げないので助けに飛び込めないです。
それでも、きっと、助けに飛び込まなかった私を「悪い人」という人は言うのです。
それは、全て、起きている事象を見ている人の主観的な価値観から「いい人」「悪い人」というレッテルが貼られていきます。そのレッテルを貼ってくる人が、物事を見る目が養われておらずに、稚拙で裁量の狭い自分の器の中でしか考えられない人なのか、そうでないかはその人の価値観でわかると思います。
例えば、泳げないので助けに飛び込まなかった私を悪い人と思う人が、「私も悪い人だと思う」と同意する人の方が大勢いた時に、その飛び込まなかった行為が「悪いこと」と刷り込まれて、自分を周囲によくおもわれたい人が無謀に飛び込んで助けにいったが死んでしまうということが起こるのかもしれません。
善悪は、全て刷り込みされた価値観です。メディアやマスコミ、習慣やことわざ、本や親の小言といった類のものから、友人の何気ない言葉まで、周囲から刷り込みされる価値観は沢山あります。

ですが、どの人間も今のところ、もともと持っている寿命は同じようなものです。
あなたの友人で、「私、200年も生きてきてるの」なんていう人はいないでしょう。
ですので、皆も同じような疑問を持ちながら、悩み苦しんで寿命を全うするまで必死に生きるのではないでしょうか。
    • good
    • 0

善悪の概念は、人が主観において派生させるもの


ですから、先験的に善悪を規定することは不可能です。
1つの物体や行為が、絶対的に善(ないし悪)に
属することはなく、可変的なものです。

物体に本質的な目的(価値性)はありませんが、それゆえエントロピー増大=淘汰として、常に生物の目的を「生きること」に収斂させます。
それは、個人の意識において、「意志の達成=充足の追及」となります。
つまり、「人生を通算した精神的充足量の最大化」のみが、本質的目的です。

それは肉体に付属した感覚器官に基づくものゆえ、短絡的・即物的になりがちですが、3つの点で、そうではありません;

1.「人生を通算した充足量」を構成する関数は、欲求の強さや達成率だけでなく、それを感受する上で「認識の深さ」が大きな要因であり、麻薬的な感覚的快感とは反対の方向性を持つ。(意味的深さ)

2.「人生を通算した充足量」を目指す上においても、「認識の深さ」によって人生全体を見通し、短絡的衝動をコントロールする必要がある。(時間的長さ)

3.分業化や組織化において人が社会性をもつにつれ、自己の生存の成立に、社会全体の活動が必須となり、真に「利己的」であるには、社会全体の自己の肉体と同等の自覚化(他我化=愛)が必要となる。(空間的広がり)

こうした「自己の肉体の外における『人生を通算した充足量の最大化』の要因=社会行動」を自覚的に行なわずに、政治(法規)や経済(お金)、宗教(善悪)、慣習(正義)、など、他律的に行なう時、そこに先入的価値が生じるのです。
社会性の発達において、他律的方法論をとったという事は、自発的な意思によって生きていない=「精神的充足量の最大化」という真の目的において、人類は退化しているという事だ。
いわば善悪や正義といった既成概念そのものが、「自律的生存=社会生命的自覚化」を省略して自己チューなまま安易に社会化する社会システムのための、必要悪です。
    • good
    • 0

鋭いご指摘だと思います。

正義感も強くていらっしゃるようですね。ワタシも20年~30年前、そっくりそのまま“そう”でした。。。言葉遊びのようになっていきますが、単純に疑問に思われるのは自然ですし、必ず誰も通る道と言えると思います。

一部の人が損しないもの・・・という捉え方ですが、なかなか自殺を例にあげるとは考えましたね。自殺という様な魔が差す時は実はワタシも有りました。これは極々個人的な理由でしたので、他人のことは分からない・・・これがワタシの答えです。それを論評したり批判しても何にも意味がありません。偽善かもしれないし、自己満足になるかもしれません。新聞報道などに載る殺人記事でも、背景や経緯を知らない人間が、数行の報道や事後写真だけで『あぁだ、こうだ』言うのを聞きますが、大人気ないしどうでも良いと個人的に思うワタシです。全て他人に⇒を向けてモノ事を判断する/論評する見方自体が可笑しい。自分にその⇒を向けて『このことはジブンに何を教えようとするのか、ジブンは決してしない』と誓ったり思い直したりする為に、世界各地で事象が起こり“鏡”の様に観せられる/突きつけられるのが、現実全てなのですから(※参考文献:鏡の法則:野口 嘉則 著)。誤解を恐れずに申し上げると、戦争や世界的な疫病でさえ、そこから人類は学びを得ていますし、法律や医療が整備されてきたのは事実のようです

悪いことは全てなくなりません。或いは悪いとされることは無くならないです。理由は、その当事者が起きる事柄を観て/考え直す必要があるから。前述の事と重ね併せて言うと、魂の修行で家族関係(親)会社・学校などの人間関係は生前に本人が選んで来ている事まで分かってきています(信じなくて構いません)。※理解する文化ではなく気付く文化/姿勢が本来 
また身体という乗り物(貸衣装)を選んで前世~今世~来世の道すがら、魂の成長のために在るのが、現実の今世(3次元社会・世界)という情報です。必要な人には完全なタイミングで、事件なりトラブル等の試練が必然的に起こる・・・それをどう受け止められるのかが全ての人間が産まれて生きる目的(修行)。

もっと言うと“悪い”“良い”は全く個人的なもので、結論は“そう思う心がある”だけです。分かりやすい例えをすると、アナタと友人がアメリカ旅行へ行きます。1週間遊び明かして帰国しました。さてアナタと友人は全く同じ物を観、体験したでしょうか?感想文を書いてみたら即分かるんですが、眼や舌・足は一緒に付いてて現実に在るモノや辿ったコースは同一なのに、感じ方/見方・受け取り方が違うので、全く違う場所に行っていたか、の様な事が集約されてしまう・・・という。感性が近いと思われる親しい間柄でさえ、ヨカッタ/イヤ悪かったで完璧に等しくなりません。

アナタの見方がどうなのか、ジブンがどう生きるか?これしか無い。じゃ教師や指導する立場は何を教えるんだ、裁判官はどうだ?と仰るかも知れません。彼等も記事・記述や経験、判例等で区別をせざるを得ない訳で、天地天命に誓って“間違った判断をしていない”というのも有り得ません、残念ながら。
何度も言います、アナタがどう生きるのか?だけ。他人の事や他で起こった事象をああじゃこうじゃ言ってる人はいつまでも“その生き方”しか選ばないので、ジブンを愛せず=幸せを感じないでしょう。全て他人事・・・それも一つの生き方ですが。★今日アナタが考えた事・使った言葉がアナタの明日を創るし、明日アナタが考えた事・使った言葉が将来を創る……これだけでも頭の隅に置かれてください。善い悪いはなく、投げかけたものが還って来る/投げかけないものは還って来ない……宇宙(自然)の法則にそって愉しむのが、アナタの本質で宿命である、と言えるかも知れません。意見というか何だか横道にそれ過ぎのようですが、★印をヒントにされて、今後選ばれていくと良いと思います。有り難うございます。

どうか、⇒をいつもジブンに向けられる人間でいて下さい。。。
    • good
    • 0

絶対的な善も悪もないものです。


あるのはその人の価値観から見て善か悪かという相対的なものです。
    • good
    • 0

 その通りです。

一生かかってもそれがわからない人もいます。善悪とは絶対的なものではなく、あくまで相対的なものであったり、感情的なものでしょう。

 法的にも善とされる価値観の記述がありません。また、悪とされる記述もありません。ただ、○○を罪と定め、それを犯したものには●●の罪を与えると。それが善悪のどれだというのは人間にはわからないのです。ただ、人間社会を潤滑に回す為には、それを罪として罰を与えて裁かねば、というだけの話ですね。

 考えても結局は思考の迷路に入ります。善をしなきゃいけないとの強迫観念を持たずに、普通に考えましょう。善な行いで人が笑顔になれば気持ちいいです(笑)。人がいやな顔をしたら、私は悲しいです。だから、自分の価値観としての善行を増やせるように、ただそれだけを、極々たまーーーに意識しているつもりです。私にとってはこれで充分です。
    • good
    • 0

>これっていったいどうでしょうか。



それがヒトってもんです。

回答日時を見れば、解りますが、夜中の回答です。急にこういう質問に考え、回答したくなったので、長い文章になりますが、お読みいただければ幸いです。

善悪とは何か。それを考えた時に、善悪とはどのようにして決まるのか。
善悪は、人の感覚的なもので決まると思います。ある時は、体全体の感覚、ある時は、意識的感覚、ある時は感情的感覚、その他、他にもあるかもしれません。

ある時は、道徳的な常識として、ある時は、経験的感覚、感情、意識等で善悪を決め、ある時は、そう想像上で想像上の感覚、感情、意識等で決まると思います。

常識っていうのが奥が深く、自然と身に付いたもの、
あるいは、畏怖的な存在から教え込まれ従うしなない内に身に付いたもの、
影響力のある方や集団から身に付いたもの、
あるいは、信頼をおけるものの意見を鵜呑み(要は自分で考えない)したものなどがあります。

質問に対して、答えていきます。
>自殺についてあげましょう。中略~自己満足になってしまうのではないか

人は万能ではありません。また、完全的判断をする存在でもありません。浅はかな考えるをする存在で、さらにその浅はかさに気付かない、気付けない存在でもあります。

確かに、止めることは、死ぬことを止めることであって、イコール(=)生きて続く苦を止めることにはならないでしょう。
苦を止めることを助けることや相手のためになり、そこに達して自己満足から自他供の満足となるのであれば、力無き人は自己満足で終わってしまいますね。

人は未来を当てることはできません。世界中の中で、確実に当てられる人はいるかもしれませんが、大抵の人はそうではありません。人は、未来がどうであろうと行動しなければいけないと思う時があります。自殺を止めようとした人はそういった気持ちからかもしれません。それで止めて、苦を止めて助けることに繋げる人もいるかもしれませんし、そうではないかもしれません。

まあ、大抵は、自己満足という点から抜け出せないでしょう。しかし、人は自己満足なしでは生きていきません。自己満足というとプラス的ですが、悔いを残さない、後悔しない生き方もまた、自己満足です。こっちはマイナスを0にする考え方だと思います。

自殺を止めることは善か、悪かと決めなければいけない時に、自己肯定という考えを踏まえなければなりません。

人は、現状を前向きに捉えようとします。自分の行いが問題や苦の原因になっているが、それを我慢や抑制、修正といった方向の考えはせず、それを正当化、肯定化しようとします。
例えば、この件で言えば、自殺する人にも自殺する権利があるとか、そういった人と関わるとこっちまでとばっちりを食らうから、放っておくとか。

例えば、いじめで自殺するとします。その自殺を止めたことで、いじめっこからその人もいじめられるかもしれません。もしくは、闇社会の人から自殺を迫られている人を救い、その人方に目をつけられるかもしれません。

仮に、自殺を止めることが善だとしましょう。しかし、この場合の善は勇気がいります。もしかしたら、精神的ストレス等を受けるかもしれません。

また、他人を助けるためには、それ相応の肉体的、精神的、時間的余裕が必要であり、それがないと中途半端や、逆に止める方が苛立つかもしれません。

善悪というのは、簡単に決められるものではない。それが解らないのに、善悪を決めるから、おかしいことになってしまう。

人の行動は、条件、状況に応じて変わります。また、自分のおかれる状態や自身の状態、能力よっても変わるでしょう。

模範的というものが善だとした時に、模範的なことを実現しえる人としえない人がいます。例えば、溺れている人がいて、泳いで救いにいくしか助ける方法はなかったとします。溺れている人を救える力を持つ人と救えなく、助けることによって自分も溺れる人がいるとします。
溺れている人がいれば救うのが善だとし、「しなければいけない」のであれば、より悲惨な結果となる時もあるかもしれません。


>それに世の中の悪いことを全てなくなるとします。~以下略
「善いことだからする」のではなく、「善いことだからしなければならない」という畏怖的なもの、簡単に言うと、脅し的なものです。自分が善いことをしたいという考えや意識、感情は無視され、しなければならないというものです。

集団生活の中でこういったものはよく現れ、理由もなく、従わなければならないこともあります。特にその場において強い者に対して(強いものとは腕力だけでなく、その集団の中で屈服や存在を示す強さ)従わなければならないこともあります。

この質問の回答は、「常識的に行動しないのはおかしい、悪だ」という状態、状況を作り出してしまうのが人間だからでしょう。それすらを自覚しない人やそれが善い悪いを考えれない人は、反する人を攻めます。

>今この世界の善悪など所詮は一部の人が損をしない為のもなんじゃないでしょうか。

ここで、自分が悪人であることを意識している人、意識してしないに関係なく、自己だけの損得で善悪を決める人を悪人とするとします。

悪人は、自己だけの損得でしか、善悪を決めません。また、それにのっとってその善悪を「普及させようとします。」そうしなければ、自己だけの得を得られないし、自己だけが損をしないようはなりません。

この社会で、階級や所得に差があるのは、他人との差がある訳ですが、その差が階級や所得に直接繋がる訳ではありません。
差をいかにして、階級の中で上位になり、所得をたくさん得られるようにする仕組みを作っていくか、それに乗るかで、階級の上位や所得がたくさん得られるかが決まります。

その仕組みを作ったり、普及させていくには、自分と周りに広めていかなければなりません。自分が得するもので、他が損するもの、そういった関係を作っていかなければなりません。ただ、損得で考えると周りの人は納得しませんから、それを伝統とか、常識とか、大きな仕組みの中に正当性を見いだしたり、人間の弱みを利用して広めようとします。別な方法では騙したり。

まあ、それを受け入れる方も受け入れる方で、例え、どんな理由があろうとも、悪人の手助けをしている訳です。悪人と悪人を手助けする人がいるから「今この世界の善悪など所詮は一部の人が損をしない為のもの」となる訳です。


善悪を考えるに、個人がいろいろ考えてすべてのことにおいて、100%普遍性の善悪がでることはないでしょう。

考え方にもよりますし、
人には、他人に対し、納得できない理由というものがあります
生じる感情も違えば、
生じる感覚も違います。
また、何に拘るかという常識も違います。

同じ人で括れば感覚や感情を共有や共通の認識が出来そうな錯覚にとらわれますが、人は「すべてにおいて」、感覚や感情の共有、共通の認識を持つことは「不可能」です。これは断言できます。

人が、善悪を決定するのは難しいでしょう。
また、何を善とするかも人によって違うでしょう。
「何」の部分は、日本人らしく振る舞うことが善なのか、
相手を救おうとすることが善なのか、
あるいは、他人から感謝されることが善なのか。

考えると尽きませんね。
善悪を決めて、悪を排除しようとするなら、それは善と言えるのか?
善は善と決めて、それを再び考えないのか?

人は正義を盾に傷つけることができる生物です。また、知らずの内にする生物です。つい最近、自分達は正義ですから!!と叫んでいた人を見ましたが、正義の前に人の言う事は無視し、屈服させようとしてましたね。

また、人は間違える生物です。一度決めた、善悪が間違っていないのか、考える必要があります。

また、人は、弱みがあります。金銭的弱み、自尊心的(プライド的)弱み、肉体的弱み、精神的弱みなどがいろいろな弱みがあります。その弱みは、なかなか越えることは容易ではありません。弱みをかえりみず、がんばれば、ズタズタのボロボロになる時があります。それでも、しないことは悪とし、善をすすめるのが善なのか?

ここまで考えると、救いや幸福というものがちらほら気になると思います。

以上、参考になれば。
    • good
    • 0

再放送でやっている水戸黄門


出てくるのは常に善の水戸黄門そして悪代官や悪家老。
    • good
    • 0

普通に考えて、その時の社会全体がトータルで得をする事が善で、損することが悪だと思いますよ。



善悪は絶対的なモノではなくて、流動的なモノです。
人を殺してはいけないだとかいうような、人の本能に根ざしたもの(人は社会的な動物だから、コミュニティが壊れる行動を嫌います)は絶対的といえますけど。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!