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遠い昔、日本に攻めてきた元寇の話、特にその元寇の中における高麗の立場についてお聞きしたいことがあります。


戦前と戦後では高麗の評価(元寇にどう関与したか、加害者なのか被害者なのか)が違うと聞きましたが、なにがどう違うのでしょうか?

おおざっぱな質問で申し訳ありませんがよろしくお願いします。

A 回答 (6件)

「ただ、モンゴル襲来の経緯を全体的に見る限りは、高麗王朝は別にしても、朝鮮人は被害的な立場と考えるのが無難でしょう」



このような理屈を言い出しますと、

「韓国人の立場で考えますと、朝鮮戦争について、金日成ほか北朝鮮政府は別として、恐怖政治によって南朝鮮への進撃を強制され、軍人・民間を合わせて300万人が死んだと言われる北朝鮮人は被害的な立場と考えるのが無難でしょう」

「アジア人の立場で考えますと、アジア太平洋戦争について、日本政府は別として、300万人が戦死して、空襲で全土を焼け野原にされた日本人は被害的な立場と考えるのが無難でしょう」

「ソ連人の立場で考えますと、独ソ戦について、ヒトラー他ナチスドイツ政府は別として、本土決戦で甚大な被害を受け、モンゴル兵を思わせるソ連軍の無制限の略奪強姦虐殺に曝されたドイツ人は被害的な立場と考えるのが無難でしょう」

などという、普通には通用しにくい理屈が成立してしまいます。

そういう「国家と国民を分ける」理屈が登場するのは、日本と国交を回復しようとした中共政府が「日本政府に罪はあるが、日本人民に罪はない」などというレトリックを使った時くらいです。
その後、江沢民の時代になると中共はそのような主張は忘れて青少年に徹底した反日教育を施し、南京大虐殺記念館を初めとする「日本軍国主義を糾弾する施設」を全国に作りながら日本からODAを受け続け、経済大国・軍事大国への道をひた走ったわけですが。

「三別抄のレジスタンス」も高麗政府とは何ら関係なく、高麗人一般とも関係なく、三別抄という集団が生き残るために独力で元と戦い続けたものです。歴史で例を探すと「パリ・コミューン」や「太平天国」に似ていると言えましょうか。
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>日本に攻めてきた元寇の話、特にその元寇の中における高麗の立場についてお聞きしたいことがあります。



高麗王朝史・元の記録では、高麗軍は「侵略者・加害者」です。
韓国の国定教科書を信じている方は「元の命令で、嫌々日本へ侵攻した」事になっています。
「元は日本を征伐するために、軍艦の建造・食料の準備・兵士の動員を高麗に強要した」
しかし、フィクション教科書に過ぎません。
自国の高麗史には「高麗の忠烈王が元の世祖に何度も働きかけ、執拗に東征を進め、同時に先陣は高麗軍が担当する事を進言」とあります。
当時の高麗国王は、中国皇帝からの任命なので、点数稼ぎだったのでしようね。

先陣として、壱岐・対馬を侵略した高麗軍の野蛮な行動も現地の伝説で残っています。
「住民は男はことごとく殺され、女は手に穴をあけられて数珠繋ぎの捕虜となった。200余の童男童女は高麗軍に連れ去られ、忠烈王に献上された」

李王朝後期に安鼎福が書いた「東史網目」には、元寇への復讐が倭寇であると記述しています。
李○(サンズイに翼)の書いた「星湖閉(ニンベンに塞)説」では、秀吉の朝鮮出兵は元寇が原因だと記述しています。

朝鮮王朝時代・大韓帝国時代は、高麗軍は日本を侵略したと認識しています。
韓国独立後に、意図的に反日思想を政治的に利用する目的でフィクションを国定教科書として採用したようです。
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結論から言いますと、日本の側から見れば、高麗は元寇の「加害者」です。



元寇は1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の2回ですが、そのかなり前の1231年から元の激しい攻撃を受け、現在のソウルの沖合いにある江華島に政府が移転して抗戦を続けたものの、国土全体を元の軍勢に蹂躙され、結局は元に無条件降伏してその属国になりました。降伏の際には高麗の国王が元の将軍に土下座して許しを乞い、江華島に移転していた首都は元軍の徹底した略奪を受け、高麗の女たちは、庶民から、王女や貴族の姫に至るまで元の将兵の「略奪物」とされたことでしょう。

高麗の降伏後は、属領として、毎年巨額の歳幣(貢物。朝鮮半島は生産力が低いので、貢物の中心は男女の奴隷)を蒙古に納めねばならない過酷な支配を受けました。元が「日本を攻めるので精一杯努力せよ」と命令すればそれを拒む術はありません。

また、仮に元が日本征服に成功すれば、高麗に多少の恩賞はあったでしょう。高麗軍としては、高麗より遥かに豊かであった日本での略奪も期待できます。実際、対馬と壱岐は、二度の元寇で徹底した攻撃と略奪を受けました。これは「元の兵と高麗の兵」によるものです。

日本への侵略を成功させるには、大軍を一度に上陸させて橋頭堡を確保せねばなりません。そのためには大軍を乗せた多数の軍船が一斉に博多湾なら博多湾に押し寄せねばなりませんが、当時の航海術では、高麗の南端から出航し、一気に対馬海峡を押し渡るしかありません。
(『対馬海峡』は、「朝鮮半島と九州の間の海峡」という広い意味で使っています)

文永の役で日本に攻め寄せた元の軍船は、高麗で建造され、高麗の南端に終結して対馬海峡を渡って博多沖に攻め寄せました。その間、対馬と壱岐を蹂躙しております。

はっきりした数字は示せませんが、日本に攻め寄せた軍勢のかなりの部分が高麗兵であったようです。

なお、文永の役では、日本に攻め寄せた艦隊は全て朝鮮半島南端から出航しましたが、弘安の役では朝鮮半島南端(元=モンゴルの兵と高麗の兵)と中国本土(蒙古が滅ぼした旧南宋の兵)に分かれて来襲しました。

侵略を成功させるためには、軍船を全て朝鮮半島南端に集めて一気に対馬海峡を渡って九州に殺到する方が良いわけですが、元がそうしなかったのは、

* 旧南宋の兵を朝鮮半島南部まで運ぶのは困難。それだけで、南宋地域で建造した軍船が消耗してしまう。
* 南宋から日本に多数の軍船が航海するのは至難の航海であったはずです。艦隊として統一行動を取って日本に到達することは期待できませんし、黒潮に乗ってしまえば太平洋に押し出されて永遠に帰って来れません。「旧南宋の兵はどうなっても良い。送り出した半分でも日本に着けば良い」という計算があったのでしょう。

弘安の役では、人数・隻数で言うと、朝鮮半島を出航した部隊より中国本土を出航した部隊の方が多かったようですが、上記のような経緯で、九州沖にたどり着いた中国本土発の軍船は多くはなかったと思われます。

記憶モードで書いているので大雑把な回答で申し訳ないですが、

「元寇と南北朝の動乱」日本中世の歴史 4
小林一岳/著 吉川弘文館
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/R0437276

が近く発刊されます。現時点の最新の研究成果をまとめた本になるはずですので、詳しくは上記の本を読んで下さい。
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 大ざっぱすぎます。



そもそも、高麗の評価とは、日本側の高麗の評価ですか?元王朝側の高麗の評価ですか?

ただ、モンゴル襲来の経緯を全体的に見る限りは、高麗王朝は別にしても、朝鮮人は被害的な立場と考えるのが無難でしょう。

 三別抄のレジスタンス運動を知らない無知蒙昧なる保守系の言説で、不当に高麗朝鮮が加害者側にされていますが、文永の役を遅らせたという意味は史実としては揺らがないでしょうし、
 外交交渉の過程でも、高麗側は穏便に事態を運ぼうとしたと考えるのが妥当でしょう。

 詳しくは吉川弘文館のhttp://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81 …
が大変、中立的に史実を検証していますので、読むのをお勧めします。

 三別抄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%88%A5% …

最後にこれだけは言っておきますが、モンゴルの外交使節を斬首した時点で日本から宣戦布告したようなものです。
 当時の外交権の問題含めて、極めて間違った歴史館がモンゴル襲来にはあるので、史実を追うようにしましょう。

 文永の役では神風は吹いていませんしねぇ
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元が高麗軍を強制的に駆り立てて日本に侵攻したので高麗は被害者だという人と、高麗側が元に強く要請したので加害者だという人がいます。



元寇以前にも、高麗軍が対馬などに来襲していることと、小中華思想、資料などから日本侵攻を企てたのは高麗だという説が有力ですが、これはまだ議論が分かれてもいます。

秀吉の朝鮮出兵を非難する韓国人に、元寇の話をすると、高麗は被害者だという立場をとります。反日団体に聞いても同じです。まあ、政治的な解釈でしょうね。
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こちらも大雑把に言うと、当時の高麗(朝鮮)の立場は、元に侵略され降伏した属国です。


元の命令には、従わないとならない、あわれな立場です。
元寇において日本側からみれば、高麗(朝鮮)の立場は、加害者です。
被害者ではありません。

後年、秀吉による朝鮮出兵が、元寇の仕返しと見られても仕方がないでしょうね。

ご参考まで
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