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天地人で、豊臣秀吉が直江兼続を直接の家臣にしようと砂金をばらまいたり、刀を振りかざしたシーンがありました。あのシーンはドラマの演出としても、実際、一代の成り上がりで譜代の家臣を持たないので引き抜きはあったのだと思います。

さて、同様な引き抜きは他にどんなのがあったんでしょうか。おしえてください。

・徳川家康の石川数正のそうでしょうか。「出奔」というくらいだから引き抜きというより、ケンカわかれしたのを拾ったという印象ですが。
・毛利は、本家輝元のほか、安国寺えけいや毛利秀包、小早川隆景を別家でとりたてていますが、これも直江兼続同様に引き抜きで成功した例ですか。
 逆に引き抜きできなかったほかに例はありますか。
・伊達政宗の片倉小十郎も引き抜こうとしたのですか。

A 回答 (5件)

立花宗茂


引き抜きというか独立の大名になりましたね。

島津兄弟
兄の義久が薩摩、弟の義弘が大隅とそれぞれ所領安堵されている。結果として義弘の息子が兄の義久の養子になったので統一されているが、義久に実子がいれば、別家扱いになっていたかもしれません。

津軽為信
分離志向があったものを、太閤公認で別家

真田
ここも、信長死亡をうけてのどさくさで別家というか独立ですね。
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秀吉は、家臣の引き抜きを大名に対する弱体化戦略として行っています。



石川数正は、秀吉との外交交渉を重ねるうちに、徳川家中に秀吉と通じているとの噂をまかれ、結局出奔して秀吉の元に走りました。家康は軍制の改革を迫られて、戦を避けるために秀吉の下風に立たされることになりました。

織田信雄の三家老、岡田重孝・津川義冬・浅井長時にも引き抜きをかけて噂を流したため、三家老は信雄に殺害されてしまいました。
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明智光秀は稲葉一鉄と斉藤利三のことで揉めたことになってますね


下の者が上を選ぶのは、自由な時代だったのもあるでしょうし
自分の立身を掛けて今とそんなに変わらないというかね
兼続のことも秀吉のお上手ということじゃないですかね、他も外交辞令じゃないですか。数政も会社内の出来事がとおもいます
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http://ja.wikipedia.org/wiki/長束正家
http://ja.wikipedia.org/wiki/前田玄以
この辺もそうでしょうね。

そもそも近世大名家的な整理された統治関係になかったので、引き抜き的な話はいっぱいあったのかもしれません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/伊集院忠棟
これなどは、秀吉という後ろ盾が無くなったので粛正された感じですね。秀吉が長生きしていたら、別家になっていたかも。直接秀吉から安堵されていますから。

越後国人衆に入りますが
http://ja.wikipedia.org/wiki/河田長親
などは、近江の出身
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石川数正はそうでしょうね。

その結果、数正が徳川家にいづらくなりでざるを得なくなったのでしょうけど・・・。
小早川隆景もそうでしょう。小早川家が毛利一族ではあるが、半分独立した大名であったため成功したのでしょう。
引き抜けなかった例の片倉小十郎もそうでしょう。
後は細川家の松井康之もそうでしょう。秀吉から石見18万石を与えようと話があったようです。実際、山城国相良160石は秀吉から康之が貰った領地です。江戸幕府でも安堵されています。
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