アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 土に肥料をやるという発想は、いつ位から根付いたのでしょうか。少なくとも中世では土には形成力があり、したがって土の力によって植物は育つと考えられていたと思いますが、どういう経緯から変わって来たんでしょうか。

A 回答 (8件)

公共の場ですから。

答えるに値する質問に答えておけば、誰かの役に立つのですよ。
ちょっと、お暇なときに印刷でもして、ヒロさんでも誰でもいいから他の方と読んでみては。
回答と、ご自分の質問との繋がりがみえないわけでしょう?
ウェブ人間ではないので、わたしの語調はゆっくりです。
あと、このサイトは質問を分けるように指導されるんです。ご経験がないなら、管理人の目がとまっていないだけですよ。
これは回答ではないので削除依頼しておきますね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 せっかく回答を頂いたのに、消されてはもったいない。

 >回答と、ご自分の質問との繋がりがみえないわけでしょう?

 とお書きになる以上、ご回答が僕の役に立っているとは思っておられないわけですね。けれども、質問との繋がりはどうでしょうねぇ。僕の読みが足りないんでしょうけど。まぁ、いずれにしても、いつも僕はひとりで何かを読む環境にはありませんから、誰かは近くにいて送信してくれます。
 
 ゆっくりで良いですよ。
 このサイトでの質問の仕方について、教えていただいてありがとうございました。

お礼日時:2009/08/28 19:30

変ですね。

農学のはじまりが古代ローマだなんてわたしは言っていません。
学問と農業が結びついた書き物、「農書」が、じつに例外的に、ローマの紀元前3世紀と紀元1世紀にあると言っているのですよ。
それも、農業博物誌みたいなものだと付け加えて。
詩歌ではない畜農中心の「農書」がやっと17世紀に見られるということを念頭にです。

中国の場合は、各時代の農書を再編纂した『農政全書』が17世紀に出ていますから、
これ一冊で古い時代の史料の出典もわかることになっています。
でも、紀元前3世紀はないですよね。

お教えいただいたのでウィキの農学を見てみました。
英語のほう、農学とは、最近では18世紀ドイツの植物生理学からなる化学肥料に始まるとしたほうがよいと書いてあるじゃないですか。
植物生理学を調べると17世紀のベーコンからです。妥当ではないですか。
仏語のほうは、カルタゴの碩学の遺産を継いだローマに、著述が現われることを教えています。

> 12~13世紀の農業革命は大抵書かれている。農機具の改良と、おっしゃられた三ぽ式農業についてです。

いいえ、2代目Charles Townshend が推進した18世紀の農業革命を話題としています。
三ぽ式農業から脱却するということの意味を考えるためにリンクを貼ったのです。
リンク先の、以下の記述に、あなたの注視がないということから、
わたしの回答の主旨は最初から伝わっていないのだなと察しています。

「(輪栽式農法と改良穀草式農法の)どちらも小麦の他に、クローバー、サインフォイン、ライグラスなどの地力を回復させる性質を持った栽培牧草と家畜飼料となるカブ、ジャガイモなどを生産した。中世以来の三圃制では牧草の問題から一年を通じて家畜を飼育することは難しく、冬を前に保存食料へと加工する必要があったが、カブなどの栽培によって冬期の飼料問題に制約されることなく、家畜を一年中飼育することが可能となった。冬期以外は牧草栽培地にて放牧を行い、家畜由来の肥料(つまり糞尿に草を加えて発酵させ衛生的な肥やしにしたもの)で地力の回復を図り、牧草の枯渇する冬期はカブなどを家畜に与えた。また、三圃制ではどうしても土地を休ませる必要が生じたが、輪栽式農法にせよ、改良穀草式農法にせよ、栽培牧草と放牧の相乗効果により、(以下略)」

施肥は、養生と回復の技術です。古代でも中世でもこのように18世紀でもです。
土に、草に、家畜に、何が作用しているかは、今日のわたしたちから見れば、
(1)化学分析で解明できる (2)微生物学で解明できる (3)記号的連想と象徴の産物で非科学的である
に大別できます。たとえば具体的に以下のようなものです。

コンフリー、イラクサ、フキタンホポを植えると無機養分が増える、
イラクサを糞尿に混ぜると発酵が進む、
ヨウシュツルキンバイがアヒルの糞を増やし、牛の食欲を高める
イラクサやタンポポが兎や鳥禽を丈夫にする
セイヨウカノコソウを畑に植えるとミミズが増える、
シダを植えると蟻が近寄らない
アンゼリカやシダに殺菌力がある、
スギナがカビやうどん粉病を防ぐ、

経験的にはともかく、なぜ、かくかくの植物がしかじかの効能を持つと「学問的に」主張できたのでしょう。
アルカロイドだとか、珪酸だとか、窒素となじみが良いとか、無機塩が豊富だとか言うかわりに、
古代から中世の人々は、植物の外観と性質を、惑星と対応させました。
惑星の影響は、植物の活動期や開花の時刻を決めるだけでなく、性質にふさわしい外観を与えると考えられました。
たとえば六角形の外観を持つ植物は、土星の影響で骨格や節が目立ち硬質である。
それらは、内部に六角形の結晶を持つのであり、
これが雪の結晶に対応するがゆえに冬のシンボルである土星に対応するとみなされる、
というような分野があります。
これが錬金術の領域であることはおわかりだろうと思います。上記はつまり珪酸の特徴なのです。

Alexander von Bernusから過去へ遡ると、ゲーテが関心を寄せ、パラケルススによってまとめられ、中世の薬草書へ拡散していきます。
Walafrid Storabo(9世紀 Reichenau Abbey)、Hildegard von Bingen (12世紀)、Albertus Magnus(13世紀)、Bonaventure(13世紀)など。
ルネサンス初期には詩歌を散見することはできるでしょうが、まとまったものを知りません。一因は飢饉とペストにあると思いますが、
経験医学としては、ユダヤ人によってアラビア医学がエジプトを主として地中海沿岸に入っているのを、ヨーロッパの修道士や軍医が学んでいるものなので、
ペストによってルートが断絶したとも考えられます。
またギリシャにもローマにも軍医の手になる薬草書が豊富なので、掘り起こしの時代であることも一助かもしれません。

16世紀には、パラケルスス、Hieronymus Bock, Garcia de Orta, Pietro Mattioli, Leonhart Fuchsなどが、
植物について引き続き「学問的な」著作活動をしますが、
彼らも記号的な世界観を模索する者たちで、経験的な情報と織り交ぜながら植物の効能を説きました。
形には内部の微細な組織が現われ、内部の微細な組織は宇宙の偉大な法則に従っているというわけです。
あなたがおっしゃっているのとは違うようですが、わたしの理解する形成力とはこういうものです。
そしてリービッヒがこれを継承していないとも思いません。

土壌の性質を人間の手で変えられるとするかどうかが、肥料の境目であることをすでにお伝えしていますが、
物質の形と内的性質の因果関係を追及することから、一転して生産効率へと目的が変化したときに、境目が訪れたと思うばかりです。

このご質問には、待っても他の回答はつかないと思います。
クザーヌスについてとか、ケプラーの形成力についてとか、農学の成立についてとか、修道士の転地についてとか、
疑問は分けて質問をたてられたほうがよろしいと思いますよ。
どうでしょうかはもう無しでいいですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 どう説明したものかと思いますが、もういちど質問について説明を試みてみます。
 ここでの質問は、何かを土に加えずとも、かつては土の力で植物が育つと思われていた(と、僕は思っています)のに、なぜ肥料を加えるというような考えが生まれたかということです。お書きの表現でいえば、もしも「何かが土に作用して固有の植物が育つ」と本当に思われていたのならば、ルルスは物質を蒸留してなかに含まれている「何か」を抽出したりはしなかっただろうと、僕は思うだけです。
 
 回答は義務ではないので、質問が気に入らないのなら放っておいて大丈夫ですよ。

お礼日時:2009/08/28 09:48

よほどわたしの書き方が悪いのでしょうね。


古代ローマを例外とし、近代まで農学というものはないでしょう。
学問として成り立ってきたのは、古代中世を通して、前述のような人々による薬草研究(暦・天体を含む)で、
物理的計測による科学と発酵の化学という、重要な布石の時代が来ても、様子は変わらないんです。
つまり農業革命の推進者2代目チャールズ・タウンシェンドが、ヒルデガルドから一線を画しているといっても、次の程度で、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E6%A5%AD% …
この時代はまだ、タベルネモンタヌスが活躍しています。
ドイツではこのあとにアルブレヒト・テーア(テーエル)が農書を書きます。
内容はこんな感じで、パラケルススのこどもたちの一人です。
http://www.joaa.net/tutiken/07-12-01.html
http://de.wikipedia.org/wiki/Albrecht_Daniel_Thaer
この時代はフランスのラボアジエ、イギリスのドルトンと同時代です。

つまり薬草に伝わる知識を見るかぎり、「何かが土に作用して固有の植物が育つ」ことはわかっていただろうし、
あとは測定と分析と実験が行われるようになって有機物の構造分析が動き出すのだとしか思えないわけです。

リービッヒが自然哲学の環境を離れて、実験化学に没頭できたのはソルボンヌででしょう。
それを祖国に持ち帰った功績がまずあります。ウィキを読めばわかるんでしょうけれど、
有機化合物の分析を飛躍的に容易にしたのはリービッヒで、実験量を増やすことができた功績は大きいです。
シアン酸とアンモニアから尿素を合成したヴェーラーとともに、有機物の構造研究を始め、
電気分解が改良されるのもこのころで、リービッヒは有機物の分析と合成に血道をあげる。
ところで雑誌が19世紀にさかんに発刊されるのは、あらゆる分野で同じことですが、
鉄道網の広がりに乗じて配布地域が拡大したことと、出版社と鉄道会社に投資家が資本を投じはじめたことで、
雑誌熱と旅行熱というようなものがヨーロッパの当時の空気にあるのです。
どちらも生産的な交流を生みますよね。
鉄道網の外となると、雑誌の流出は少なくもなるし情報として遅れも出ますでしょう。

少し戻しますが上述のテーアにフムスのことが書いてあります。
既出の薬草研究家たちも野草の積み肥や鳥獣の糞が作物を実らせることを知っていましたが、
彼らは黒い物質を観察していたわけではないです。
この腐熟した物質に対し、リービッヒは植物のラジカルを分析し、有機物質としてのフムスを否定します。
有機物である植物が、無機物を採り入れるだけで有機物を合成して生きることを解明するのですね。
栄養が工場生産されるさまを夢見て心躍らせたことでしょう。
「炭素分は空気中の二酸化炭素から、水素分は水から、窒素は空気中に含まれているアンモニアが
雨の水にとけて土中に入り、根から吸収されるのであろう。これらは無尽蔵にあるといえる。
 それに対して、灰分---たとえばカリウム、石灰、リン酸塩などは土中にあるものを作物が吸い上げるので、
作物を作って収穫するばかりだと、だんだん減ってくる。」
「これらの無機の栄養物は、やがて工場で作って畑にまかれるだろう」
(『農芸化学』1840年、岩波書店〈科学の辞典〉に抜粋)

発酵も代謝も触媒作用や化学反応であることをつきとめたリービッヒが、
発酵への微生物の関与をみとめなかった話は有名ですが、
尿がなぜ土を肥やすかについても微生物の関与を考えなかったことは明白です。
微生物が有機物を無機物に分解することの解明によってはじめて、窒素が作物の土壌に関わっていたことがわかります。
それはリービッヒよりも後でしょう。
http://www.worldcat.org/oclc/59366327&referer=br …
土壌の硝化、つまりアンモニアが硝酸に分解されて植物の栄養となることは1883年までには解明されていたようですね。
では。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 今回のご回答は、読みやすかったです。ありがとうございました。

 >ウィキを読めばわかるんでしょうけれど、

 ウィキペディアで農学の項目を見てみると、日本語のサイトでは古代中国の話が出てくる。英語のサイトはメンデルを引き合いに出す。仏語のサイトは、古代ペルシャを書く。そしてamaguappaさんは、古代ローマだとおっしゃる。農学というのは、とても都合の良い表現だと思います。

 「西洋の」という表現を使った場合、上掲のサイトを見ればわかるように、12~13世紀の農業革命は大抵書かれている。農機具の改良と、おっしゃられた三ぽ式農業についてです。そして、中世の風物を描く多くの冊子は、モンフォール伯の『カルカソンヌ地誌』を引用して、当時の荘園領主たちが自分たちの領地の作高を上げるために、ベネディクト会修道士たち(古代の知識に限らず、彼らは滞在した土地の収穫の時期や技術を記録化していたから)を利用した。
 修道士たちは封地替えや没落で領主が転地するとそれにつれて移動したので、例えばモンフォール伯のように南仏から英国までというふうに、会派の修道士たちは広まり、それにつれて農業技術も広く伝播した。おおむね、こんな内容のことが書いてある。

 これを前回は書きました。先に書いたクザーヌスは13初頭にできたドミニコ会(托鉢修道会)派の修道士ですが、同じ会派のアルベルトゥス・マグヌスの植物論(De vegetabilibus)をさかんに引用しますから、会派なりの思想がそこにはあったんでしょう。錬金術という点では、この流れだけでそうかもね、とは思うわけです。中世の技術革新の時代から、概ね二百年の後に「何が植物を育むか」という疑問が少なくとも書物の上では見つかる。逆にそれ以前では、よくわからない。

>つまり薬草に伝わる知識を見るかぎり、「何かが土に作用して固有の植物が育つ」ことはわかっていただろうし、あとは測定と分析と実験が行われるようになって有機物の構造分析が動き出すのだとしか思えない

 質問は、「何かが土に作用して固有の植物が育つ」と「土は植物を育てる」の狭間を問うているわけですから、15世紀あたりでも本当に「何かが土に作用して固有の植物が育つ」と思われていたのかな、と僕は思います。どうでしょうか。

お礼日時:2009/08/26 12:08

>このような修道士たちの連携網に派閥を生み、富める地域とそうでない地域という格差を生んだのではないでしょうか。



椅子からずり落ちそうになりました。ハンス・ヴェルナー・ゲッツか誰かそんなこと書いてました?
農業従事者が作物のことを修道士に教わるというのはどうでしょうかねえ。
それに、農業はそもそも地域差のあるその土地土地でしか使えない知識で、
一枚岩の知が機能するというイメージはすでに近代科学になってしまいます。
暦と薬草や珍しい植物はたしかに写本頼みの領分ですが、
荘園領主の修道会が、土地代・管理整備・市街戦以外の農民生活、つまり農作業に興味があるとも思えないし、
農地の作付けは誰が領主でもその管理下にあって、防衛力と財力の源泉として安定をはかるものですし、
托鉢修道会ならむしろ、吟遊の芸人のほうが遠い土地の農作業の詩歌を伝えるでしょう。
農作物について知識が体系化される焦点は二つで、ひとつは経営であり、もうひとつは栽培技術ですよね。
紀元前3世紀のMarcus Porcius Catoや、紀元1世紀の Lucius Columellaの農業博物誌がローマにはあって、
耕土、植物、家畜、猟、漁、蜂、作業歴、経営を網羅していますが、こういうすごいものはローマ以外に産まれようがないです。
くだって近代科学の発想である万有共通の法則を発想するところから、方法論が生じるわけで、
畜農の経営と技術などが実践的な知識としてまとめられるようになりますが、やっぱり植物栽培の方法論というのは、無機化学を待つしかないですよね。
それは無機化学があるから発見される方法論であって、無機化学がなければ三ぽ式農業と選別の経験論であり個別論ですね。
そこで普遍の「形成力」の机上理論は宙に浮いていて、もちろん形而上学はそういうものですが、
どのように方法へ飛躍するかということが、ご質問には含まれているはずです。
真理の課題は17世紀以後の普遍的画一化をはかる学に直結しており、
計測可能性の世界観では方法へ飛躍することができないということがまずわかるわけで、
ちょうど、プネウマも機械になぞらえた人体論も医療に使えなかったように、
「形成力」も植物の解剖も、栽培に使えないのはあきらかです。
そして計測可能性を排すると、アルケウスと発酵の化学が、原理として浮上してくるんでしょうね。
フランシスクス・シルヴィウスがジンを作ったくらいだから、養生としては間違いない方向です。
発酵の過程における酸化を病因とする理論から、収穫後の土地が痩せる現象と動物の糞尿で肥える現象を分析する人がいたかもしれません。
これが、方法論へ歩を進めれば有機化学によって実証的に実験を重ねることになるのですし、
真に普遍的な理論として、養生ではない、人の手による形成という、19世紀の化学肥料に行き着くことになるのです。

何かスパギリックな回答を望んでおられるようで、(地学か哲学で尋ねればよろしいのに)
粒子論なぞ持ちだされてもどうなんでしょうか。わたしにはあまり良い視点とは思われませんが、
ガッサンディ-デカルト-ボイルですか?
これはわたしの分野じゃないですね。

中世から近代の農業の地域の格差については、戦乱、疫病、飢饉、災害、大規模借地農業の始まりと
貧農日雇い層の増加、農村の副業労働の増加、あとは経済政策の失敗ではないですか。
フランスでよければ、山川出版社の『フランス史2』のpp.36-67に実証的な数字と詳説がありました。

> むしろそれは遠隔地への遠征のため、帝国主義的侵略戦争に備えてのことだったのではないでしょうか。
斬新なご意見と思います。でもヨーロッパはずっと戦争してますし、
19世紀初頭では統一国家として農業政策を取っていない地域が多いと思いますがね。
ごきげんよう、御身お大切に。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>何かスパギリックな回答を望んでおられるようで

 錬金術に限った回答を期待しているのではなく、No.1お礼欄に書いたその手の本を読んだので、どうなのかなと思った次第です。農学が近代に固有のものなのであれば、仰る内容に頷けもするのですが、ここで質問しているのはもう少し前の時代についてですね。古代ローマの後に近代が幕明けるわけじゃないと思うんですよ。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/23 18:16

よくわからないのですが、「形成力」には下記の事項が含まれているのですか?



作付けに適した短い時期を逸してはならないこと、暦を読むこと、(土以上に太陽と天体の力によって作物は育つ)
朽ちた植物をすきこむこと、(日本の水田は朽ちていない刈敷を施しますよね。季語になっています)
野鳥やアヒルの好む草を一緒に植えること、
獣の薬草や人間の薬草を植えておくこと(おおむね殺菌作用があるうえ獣の落し物が期待できる)、
イラクサを植えておく(ミネラルが豊富になる)

アルヴィン・ザイフェルト『毒を使わない園芸家と畑』の思想のずっと前、
農耕を始めときから、人間や動物に必要な薬草は畑のわきに植えられていて、
その薬草の知識はヒポクラテスか、1世紀のディオクリデスか、12世紀の聖ヒルデガルドか、
15世紀のパラケルススか、18世紀のタベルネモンタヌスかであまり変わりはしないのですが、
とりわけ無名の詩に歌われていることが多いものです。
農書も、農民が書くものではないので、為政者の指示でなければ詩ですね。
人間は土とともに、季節とともに生きてきたわけで、医者も薬屋もない暮らしで、
何もしないで大地を放っておいたことなどありませんでした。
薬草と農作物はセットです。そして、それらを活かすために暦が命です。

しかし、こういう歴史に終止符を打って、人工的に土壌を変え、季節を広げ、適応植物を広げるということは、画期的な事件です。

> どういう経緯から変わって来たんでしょうか。
ということを、そういう観点からは問うておられないのですか?
ヨーロッパの人口はペストによって増加を抑えましたから、産業革命まで人口増は問題となりませんでした。
しかし19世紀の食糧不足は大問題でした。肥料の研究は必要あっての研究ですよ。

> その力の源は硝石か塩ではないかという仮説が生まれる。なぜ?
そうなんですか。たぶん、雷雨のあとには植物がよく育ったんじゃないでしょうか? たぶん。。。
窒素と酸素が空中に増えるので、雨水と反応して硝酸を生じるんですよね。地面では硝酸塩を生じます。
ラボアジエの頃ならわかるでしょう。
ま、雷雨説は思いつきです。
単に糞尿で土壌が栄養豊富になる仕組みに気付いたのかもしれませんしね。
でも糞尿を効率よくまとめるという技術があってはじめて堆肥は可能になるので、
西洋では大量の堆肥を用いるのは難しかったでしょう。

> シュタイナー
は農業研究者で医者です。惜しむらくは人智学者なのですが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>「形成力」には下記の事項が含まれているのですか?

 実践的、習慣的なことではないと思います。それらに理由付けをしようと考えたときに、生命を育むある種の力を想定した。たぶん、そういうことじゃないかと思います。自然のなかに隠された、何らかの理由を見つける。目で見る自然、体感する自然というのではなく、中世世界を通じて、例えば天体の運行や季節代わりというよりも、暦は托鉢修道士たちによって管理され、それぞれの地域で行われる説法などの行事として、人々は作付けや収穫の時期を決めていたと思います。
 修道士たちは年間の行事を記録し、受け持ちにの異なる他の地域とも互いに連携しつつ、その地域に見合った農業、医療、薬事を束ねる民間知識としての役割を持っていたと思います。宗教改革は、思想面での影響も然ることながら、このような修道士たちの連携網に派閥を生み、富める地域とそうでない地域という格差を生んだのではないでしょうか。

 18世紀に誕生した粒子論のあと、生産性を改善し、効率化を図ることから、土壌に含まれる化学成分の理想的配合の探求に精力を注いだのは、高まる食物需要に備えてのことではあると思いますが、むしろそれは遠隔地への遠征のため、帝国主義的侵略戦争に備えてのことだったのではないでしょうか。どうでしょうか。

お礼日時:2009/08/18 09:47

お詳しい方々のやりとりに付け加えるほどのことはない気がするのですが、



植物をそのままか、腐熟させて使うという方法は、その土の性質を理解して行われ、作物も土に合わせて選ぶしかないので、
肥料とは違った観点を持っています。土に対する経験と知識が必要です。人間が自然を変えられない時代の農法です。
中世以降の、放牧とローテーションする三ぽ式農業は収穫高を上げましたが、
後年の、肥料への関心は、どんな土質であっても変えられる、
さまざまな作物を植えられ、有効に土地利用できる、収穫も増える、という発想にあります。

農書といわれるものがさかんに発行されるのは19世紀以降です。
肥料に割かれるべきページが多くなってからということになります。
土の研究と作物の選び方を体系としてまとめた書物があったとすれば、
アレクサンドリアの図書館で灰になったのでしょう。
たぶんシュタイナーよりは合理的な内容でしたでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 書物の上で見つかる事実は、恐らくニコラス・クザーヌスの柳の木の実験が最古ではないかと思います。彼は、土ではなく水を与えることが植物の生育を左右すると書いています。けれどこの仮説は、数十年でひっくり返された。
 その最初のお説が、質問にも書いた「形成力」という概念です。土には形成力があると考えられた。その力がある以上、特に何かを加えなくとも、土はそれ自体の力能によって生物を育てるというお説です。けれども、それが百年もすると、その力の源は硝石か塩ではないかという仮説が生まれる。なぜ? というのがこの質問の主旨です。

 リービッヒの時代にはたくさん書物が出版されましたが、それは土の研究が進んだからというよりも、フランスでフロギストン論争に絡んだ無益な権力闘争があったからだと思います。ドイツはその過ちを繰り返さないよう、研究者同士の交流を図るように制度を整えた、ということが先のお礼欄に挙げた書物に書かれています。シュタイナーが鉱物に詳しいとは知りませんでしたが、なんだか投げやりになってはいませんか? ともかく、ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/17 19:03

補足を拝見して、質問者さんが、大変に詳しいことが分かりました。

こんなに良くご存じなのに、何で質問するんだろう と、驚いています。
回答者を見込んで 追加の質問をしておいでですが、要点がやや判然としないきらいがあります。(最初の質問もややそうなのですが)

> 「土の中のカリウムやリンの必要性を明らかにしたこと」とお書きですが、本当でしょうか。リービッヒの三要素説には窒素が含まれますが、窒素の有効性はもっと古くからわかっていたのではないでしょうか。

リービッヒよりこの人の方が先だ、などの論議はあるようですが、世間一般に、リービッヒということになっています。窒素を含む肥料の有効性は、もっと昔から知られ、また実践されていたことは確かですね。日本では奈良時代、西洋ではローマ時代の記録があると教わりましたが、実際に使われたのは、はるか昔からだと思います。
(でも、ri_rongさんはこんなことを聞きたかったのじゃ無いような気がする)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 再度のご回答ありがとうございます。

>(でも、ri_rongさんはこんなことを聞きたかったのじゃ無いような気がする)

 「こんなに良くご存じなのに」とお書きですが、冒頭に書いた「どういう経緯から変わってきたか」という質問は、恐らくはっきりとはわからないのが、現在の状況だと思うんですね。ですから、「誰が」というよりも、どのような「考え方」が影響して変わってきたかというふうに聞いています。
 補足に書いたのは、大まかな時代背景です。
 もっと前の時代かもしれないし、クレルの時代かもしれない。だって、「肥料」ですよ。何かを土に混ぜるなんて、とても、不思議な感じがするんですよ。

お礼日時:2009/08/02 05:34

19世紀中頃に、リービッヒが、土の中のカリウムやリンの必要性を明らかにしたことが、その後の化学肥料開発の基礎になっています。


それ以前は、土そのものや有機物によって植物が育つと思われていたようです。

この回答への補足

 ウィキペディアを改めて見て気付いたのですが、リービッヒにランドマークが立てられると、その師であるゴットロープ・カストナーとか、18世紀後期ドイツの化学者集団について記述がまったく無いのに驚かされます。まるで新星のように現れたひとりの男が、神がかった成果を残したような感じ。
 この時代になぜ、ドイツで薬学が進歩したかというと、僕はクレル(Lorenz Frorenz Friedrich Crell)の化学雑誌を始めとした化学者間の密な交流があったからだろうと思います。

 そのなかで、とりわけ大きな役割を果たしたのが、マグネシウムの調合で有名なシェーレ(Alexander Nicolaus Scherer)の土壌研究で、彼は雑誌「Allgemeines Journal der Chemie」(1798年)を創刊した。その後、雑誌はゲーレン、シュバイガーと経て、ひとつはエルドマンに、もうひとつはリービッヒにと受け継がれる。

 ・Adolph Ferdinand Gehlen,'Neues allgemeines journal der Chemie(1804)
 ・Johann S.C. Schweigger,'Journal fur die Chemie, Physik, und Mineralogie(1807)
 ・Freiherr Justus Liebig, 'Annalen der Pharmacie.'(1832)
 ・Otto Linne Erdmann,'Journal fur technishe und okonomische Chemie.'(1834)

 雑誌の出版経緯は、こんな感じです。リービッヒはシェーレの研究を結実させた人物ではありますが、さて、シェーレはその思想をどこで手に入れたかというのが、ここでの問いになります。このあたりの事情は、少し古いですが下記の本が参考になると思います。

 ・Aaron J. Ihde, 'The Development of Modern Chemistry.'1984.

補足日時:2009/07/31 11:46
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 「土の中のカリウムやリンの必要性を明らかにしたこと」とお書きですが、本当でしょうか。リービッヒの三要素説には窒素が含まれますが、窒素の有効性はもっと古くからわかっていたのではないでしょうか。ご回答者様を見込んで、教えていただきたいと思います。

お礼日時:2009/07/30 21:37

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!