関が原戦いで
小早川は史実どおりの動きをしても、大谷部隊の一部である脇坂・朽木・赤座・小川の隊の裏切りがなかったら、どういう展開になったのでしょうか。
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「私が前回の回答で越前の大名の石高をあげたのはウィキぺディアを元にしています。ウィキぺディアがいつも正しいとは限りませんが、必ず間違っているとも言えません。それは書物も一緒です。本に書いてある事が絶対正しいとはいえません」
公刊されている、権威を認められた人の書いた書物の記載と、「公刊されている書物の内容を誰かが書き写し、誰でも自由に書き換えられる」ウィキペディアの記載とは同列に扱うことはできません。
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「ウィキペディアによる回答が資料になるかならないかは、回答を見た人、それぞれが判断する事です」
それは「出典がウィキペディアです」と明記した場合に通用する論理であり、出展を示さずに「越前の大名はこうなっており、太閤検地の石高と概ね一致します。越前に太閤蔵入地の設定はなかったようです」などと書いた場合には適用できませんね。
「この歴史のカテゴリーでも多くの回答者がウィキペディアを利用しています。そのまま貼っている人もいます」
きちんとした回答者は、ウィキペディアの記述をソースにして回答はしていないと思いますよ。私の知っている限り。
私の場合、自分の知っている事実についてウィキペディアに正確なことが書いてある場合「概ねこんなことです」として、ウィキペディアのURLを書くことはあります。ウィキペディアの情報と、私の情報が一致していることを明記します。
「ただ、私の書いた数字を「数字の遊び」と「貶め侮辱する」のなら、参謀本部の数字もまた確かな証拠のない「数字の遊び」でしかありません」
はて?
「そして、『百石につき3人』で関ヶ原合戦での兵力を算定するのは「数字の遊び」でしかありません。そもそも、この基準は『島津義弘が兄の義久に書いた手紙に記されている、会津遠征の際の軍役高』を、参謀本部が「日本戦史 関原役」を編纂する際に採用したものです」(『一国につき3人』として書いたのを訂正しています)
と、
「領地百石につき3人として関ヶ原合戦での兵力を算定するのは、参謀本部が、現代の多くの本のネタ本になっている『日本戦史関原役』を明治時代に編纂した時にやったことであり、それは数字の遊びでしかない」
と書いているのですが?
ただし、その根拠が
「島津義弘の書状に記載されている『会津遠征に際しての軍役高』」
であった以上、
「会津遠征に参加してそのまま東軍に参加した諸大名の兵力については、『百石につき3人』基準を適用するのは根拠があること」
であると書きました。
ただし、この基準を会津遠征と関係ない西軍諸大名に当てはめるのは根拠がないと考えますが、そのことも先に書きました。
「大谷吉継が、越前の太閤蔵入地(約15万石と推定)の代官を務めていた可能性が高い」
ことは、越前の太閤検地の石高、諸書を根拠とする大名の支配高、吉継の豊臣政権での地位などを根拠としたものですが、「私見」と断っております。これを覆す根拠があれば、ソースを示してぜひ提示して頂きたいです。
なお、石田三成と大谷吉継が挙兵し、毛利輝元を担ぎ出してから、宇喜多秀家らと諮って家康を弾劾する「内府ちかひの条々」を諸大名に発したのは有名な史実です。
この中に、家康が太閤の遺言に反して行っていることとして
「知行方についてはすべて自分の下に取りこんでいることは言うまでもなく、秀頼成人までは知行給付を行わずとの誓紙を違えて、忠節もなき者たちに知行を宛行っていること (家康与党の細川忠興や盛忠政らに加増を行った件を指す)」
というくだりがあります。「関ヶ原合戦」 (笠谷和比古 著) 記載の現代語訳です。
「20万石で越前北の庄に転封したという文書はあります。『毛利家文書』に慶長4年2月5日に五大老から青木一矩に転封命令が出されたとあります。秀吉の死後でしょう。これは『福井県史通史3』にも載っています」
だとすれば、秀吉の死(慶長3年8月)から1年も経たないうちに、「五大老」が何の権限をもってしてか、誓紙を共同で破って、何の手柄があったのか分からない青木一矩に大幅加増を行っているわけで、ちょっと考えられないことです。
西軍首脳が知恵を絞ったであろう「内府ちかひの条々」は自己撞着の文書となりますし、今までこの時代を研究する歴史家が見逃していた「新史実」ですね。
青木一矩への大幅加増が事実として
「独裁権力を握った家康が、与党と考えた青木一矩に越前の太閤蔵入地を配分した」
ものであれば、関ヶ原合戦時に青木は西軍について除封されているわけですので、家康によるせっかくの加増は何の効力も発揮しなかったことになりますね。青木は家康とは特に関係がなかったようですし、なぜ家康が青木にそのような格別の恩恵を与えたのか?20万石もの領地を持ち、家康に大幅加増という格別の恩義があり、堅城である北庄城に拠る青木が、なぜあっさり西軍につき、僅か5万石の小大名である大谷吉継の下風についたのか?謎が謎を呼びます。
「青木一矩 越前北庄 20万石?」は何かの間違いと考えるのが理解しやすいですね。ウィキペディアをうかつに信じてはいけないと言う見本のようなケースです。
NO.5です。またちょっと補足を・・・
私が前回の回答で越前の大名の石高をあげたのはウィキぺディアを元にしています。
ウィキぺディアがいつも正しいとは限りませんが、必ず間違っているとも言えません。それは書物も一緒です。本に書いてある事が絶対正しいとはいえません。
ウィキペディアによる回答が資料になるかならないかは、回答を見た人、それぞれが判断する事です。
この歴史のカテゴリーでも多くの回答者がウィキペディアを利用しています。そのまま貼っている人もいます。
それはともかく、青木一矩の場合、21万石ではありませんが、20万石で越前北の庄に転封したという文書はあります。
「毛利家文書」に慶長4年2月5日に五大老から青木一矩に転封命令が出されたとあります。秀吉の死後でしょう。
これは「福井県史通史3」にも載っています。
さて参謀本部の出した東軍の兵力について、確実だと信用する根拠はありません。参謀本部が100石3人制で計算したものでしかありませんから。会津征討に派遣された大名が実際に100石3人制で兵数を割り当てられたかどうかは不明です。
上杉征討には北奥羽の武将も招集されています。
最上家の旧臣が書いたと言われる「最上義光物語」によれば、南部利直10万石は5千の兵で参陣したそうです。秋田実季5万2千石は2650人で参陣。戸沢政盛4万石は2200人で参陣したそうです。
この数字が正しければ、彼らは100石3人制ではなく、100石5人制に該当します。
朝鮮出兵の時も九州や四国の大名が100石5人制、100石4人制で出兵したという話もあるので、ありなえない事ではありません。
つまり参謀本部の100石3人制は違う可能性もあるし、そうである可能性もあります。もしかしたら100石4人制だったかもしれません。どのようにでも考えられます。
また朝鮮出兵の時に伊達政宗は、割り当てられた兵士の2倍を出兵させたという逸話があった筈です。
徳川家康の歓心をかうためや、戦場での功績を狙い軍役高以上の兵士を連れて参陣した大名がいないとは言い切れないでしょう。
軍役高はそれぞれの大名の諸事情によっても変化します。
ですから参謀本部の計算が東軍にのみ確実だというのは無理があるでしょう。
つまり東軍も西軍も実際の兵数はわかりません。だから推定するしかありません。
私が前回の回答で書いた、100石3人制も一つの目安です。
ただ、私の書いた数字を「数字の遊び」と「貶め侮辱する」のなら、参謀本部の数字もまた確かな証拠のない「数字の遊び」でしかありません。
そして島津の書状にある長宗我部、立花の兵力のように「確実」な数字を証明できるならともかく、仮定と推定でしか数字を出せない他の回答者の方も、また「数字の遊び」でしかないでしょう。
「数字の遊び」でないのなら、島津の書状のような「確実」な証拠を提示すべきです。
ところで、少なくとも私には、どんな大名であれ少ない兵でいいと判断するとは思いません。
東西2つに分けての大合戦の中で、どの大名も勝ち組になろう生き残ろうと必死です。
最初から陣営を決めているにしろ、裏切るにしろ、合戦ではそれなりの働きが必要とされますし、合戦では生死のやりとりをしています。
そうした中で兵が少なくていいと考える武将はまずいないでしょう。
できるだけ多くの兵が欲しい筈です。
そのいい例が長宗我部盛でしょう。軍役高2000人のところを5000人です。その長宗我部盛親は関ヶ原の南宮山で動きませんでした。
ちなみに長宗我部盛親は22万石ですから5000人は100石3人制で兵を出しており、石高的には無理をしたわけではないでしょう。言われた兵より多くの兵を出したというだけで。
立花宗茂も13万石ですから4千の兵は100石3人制で、長宗我部盛親と同様でしょう。
推定するしかない部分を自説に都合よく仮定するのなら、次のような考えもあるでしょう。
小早川秀秋の兵力は1万7千をゆうに超えていたと。
小早川秀秋を35万石で100石3人制で計算し、10500人。
さらに傭兵を雇います。
有名な話に関ヶ原の時、黒田如水が傭兵を募集し瞬く間に3600人を集め、戦を開始したという話があります。黒田家は18万石。それで3600人をすぐに集められたのなら、35万石の小早川は7000人は雇えるでしょう。それなら1万7000人を超えます。
東につくか西につくか迷っても、結局は戦ういじょう重要なのは兵士の数です。小早川が傭兵を大勢雇っていてもおかしくありません。
また、大谷吉継には傭兵を雇う余裕が無かったという考えも可能です。
西軍は兵站で苦労しています。
「古今消息集」には石田光成が、大阪城に軍資金の提供をたびたびお願いしているが、なかなか出してもらえないとあります。
しかし、軍資金、兵糧は確保しなくてはならず、石田光成の財産が使われたと言います。
親友の大谷吉継なら自分の全ての財産を差し出し光成を助ける事くらいやりそうです。そして新たな兵を雇う余裕がなくなったと。
本来、兵糧などは武将が自分で用意するものですが、宇喜田から島津に送られた書状に兵糧や玉の支給を受けたとあるそうです。
このように推定するしかない部分を、自説の都合のよいように、仮定し推定する事なら誰にでも、いくらでもできます。
別に私の意見を他の回答者の方が認めなくても構いませんが、私の考えにブレはなく、終始一貫して西軍の敗北する確率が高いという考えは変わりません。
そもそも回答を否定されるのは構いませんが、侮辱されるのは不愉快です。回答も4回目ですし、2チャンネルのようにはしたくないので、これを最後の回答にいたします。
青木一矩ですが、私の参照した本には全て「越前北庄 8.0万石」となっております。青木の領地が21万石とどういう本に書いてあるのでしょう?
そして、秀吉は外様大名以外の子飼いの武将に禄を与える際
「畿内から近い場合は少なめ」
「遠方であるほど多め」
としております。
秀吉が生前に石田三成に「お前に九州で100万石を与えよう」と言ったが、三成が「今の禄高で十分ですので、殿下のそばでお仕えしたい」と固辞したという有名なエピソードがあります。100万石とは他とのバランスを考えても多すぎる感じがしますが、豊臣政権の政策には合っています。
(筑前の小早川の所領を三成に与える、という話だったようにも記憶しますが、出典を示せません)
豊臣政権下で特に功績を伝えられるわけでもない、角川「日本史辞典」で立項されていない青木一矩が、越前北庄という「近国」で、20万石を超える領地を与えられていたと言うのは不自然です。石田三成の佐和山17万石よりも多くなってしまいます。
また「越前金津城主の溝江長晴 1万7千石」についても、諸書に記載がありません。こちらもどういう本に書いてあるのでしょう?
「青木一矩の21万石」についても、「越前金津城主の溝江長晴 1万7千石」についてもウィキペディアに書いてありますが、それが出典ですか?ちなみに「寺西是成が1万石を領していたという話」もウィキペディアにそれらしいことが書いてありますね。ウィキペディアは「資料」にはなりません。
そして、「一石につき3人」で関ヶ原合戦での兵力を算定するのは「数字の遊び」でしかありません。
そもそも、この基準は
「島津義弘が兄の義久に書いた手紙に記されている、会津遠征の際の軍役高」
を、参謀本部が「日本戦史 関原役」を編纂する際に採用したものですが(中公新書「関ケ原合戦)、これを東軍諸将(会津遠征の部隊がそのまま関ヶ原に進んだ例が多い)に当てはめるのはともかく、会津遠征と関係なく、自らの意思で西軍に参加した西軍の武将たちに当てはめるのは無意味です。
西軍の旗頭であり、この合戦に全てを賭けた石田三成は、佐和山城を空にして、全財産をはたき、石高よりずっと多い兵を関ヶ原に連れて来ていたと伝えられます。
越前という近国から美濃に兵を進めている大谷吉継は、「石田三成との友情に命を捨てる」覚悟で共に挙兵し、実際に最後の一兵まで戦って戦死したわけですから、三成同様に最大限の兵力を美濃に連れて来ていたでしょう。
大谷以外の越前の諸将にしても、近国からの出兵ですから多めの兵を出せたはずです。吉継の縁者が多いですから、やる気も大いにあったでしょう。
逆に、結果として西軍を裏切った四将は、やる気がなく少な目の兵力しか出していなかった可能性があります。
ちなみに、「石高相当よりもかなり多くの兵を連れて西軍に参加した」ことが史料で示されている例として、島津義弘が国許に8月20日付で送った書状で
「立花殿は、軍役高は1,300人なのに4,000もの兵を率いている。長曾我部殿は軍役高2,000人なのに5,000人の兵を率いている。私(義弘)の兵は1,000人ばかりであまりに少ないので、早く援兵を上方に送って欲しい」
いうものが残っております(中公新書「関ヶ原合戦」)。
「戦場での動員兵力」というのは、かように流動的なものであったのです。なお、この手紙から、立花と長曾我部と島津の兵力については「確定」できます。
関ヶ原での動員兵力については、前述のように「東軍に入っている、会津遠征から引き返して関ヶ原に参陣した武将」については、参謀本部の算定する人数を信用する根拠がありますが、他の部隊については、参謀本部の算定した数字は信じないほうが良いでしょう。そもそも、兵数についての同時代史料は、上記の島津義弘の手紙くらいしか存在しないのです。
このように検討しますと、No.10で示しましたように「裏切り4隊が裏切らなかった場合の大谷部隊の兵力」は1万人を下回らないと考えられ、東軍から陣地を守るには十分であったと考えられます。小早川の裏切りを見た大谷部隊が「全く動じずに冷静に応戦し、小早川の攻撃を退けた」と記録されているのも、兵数の裏づけがあったとすれば納得できます。
この回答へのお礼
ありがとうございます。
NO.5です。またまたちょっと補足を・・・
越前の諸大名についてですが・・・
青木一矩が8万石であったのは、越前大野を領していた時であり、その後、越前府中10万石、越前北の庄21万石となって関ヶ原を迎えています。
さらに越前には越前金津城主の溝江長晴1万7千石がいます。
大谷吉継も5万7千石という説もあります。
ですから越前は・・・
大谷吉継続・・・5万7千石
青木一矩・・・・21万石
丹羽長正・・・・5万石
戸田重政・・・・1万石
青山宗勝・・・・4万6千石
織田秀雄・・・・5万石
木下頼継・・・・2万5千石
奥山正之・・・・1万1千石
赤座直保・・・・2万石
上田重安・・・・1万石
溝江長晴・・・・1万7千石
計50万6千石という計算が成り立ちます。
さらに不確定な話として青山俊矩(青山一矩の子)が2万石を領していたとか、寺西是成が1万石を領していたという話もあります。
つまり越前が約50万石ならば、上記の計算でだいたいあてはまる訳で、不審な点はなく、大谷吉継が自領以外を管理化においていたとは思えません。
日本軍の参謀本部の出した関ヶ原の兵力はよく疑問があると言われます。ならば、自分で計算するのもいいでしょう。
100石3人制として・・・
大谷勢として
大谷・・5万7千石・・・1710人
木下・・2万5千石・・・750人
戸田・・2万石・・・・・600人
平塚・・1万2千石・・・・360人
計3420人
裏切った4将
赤座・・2万石・・・・600人
朽木・・2万石・・・・600人
脇坂・・3万2千石・・・960人
小川・・7万石・・・・2100人
計4260人
大谷勢と裏切った4将を合わせて計7680人
東軍は・・・
藤堂・・8万石・・・・2400人
京極・・10万石・・・・3000人
計5400人
そして小早川・・30万7千石・・・9210人
藤堂、京極、小早川を合わせて1万4610人です。
これは大谷勢と4将を合わせた7680人の約2倍の兵力です。
この計算は私の説が不利なように大谷を5万7千石とし、小早川も30万7千石としています。大谷5万石説とれば、大谷の兵力はもっと少なくなるし、小早川35万石説をとれば、小早川の兵力はもっと増えるでしょう。
正面だけでの戦いなら2倍の兵力といえど、地の利と防備も合わさり、大谷勢は結構持ち堪えるかもしれません。
それでも最終的には兵が東軍より先に消耗し負ける確率が高いでしょう。
しかし、小早川勢は大谷勢の側面を突いています。そこによく準備された防備があるか疑問です。
兵力が2倍で正面と側面から攻撃を受けるのですから、大谷勢は敗北する確率の方が高いと思います。
なお、裏切りの4将の戦闘記録がない事について・・・
仮にもし裏切った4将が奮戦していたのなら当然、本人達は広言しないでしょう。裏切りだけでも白眼視されますから。
しかし、彼らと実際に戦った側はそんな事は関係ありません。
もし戦ったとしたら、藤堂、京極、織田、小早川でしょうが、小早川、藤堂、京極、織田には口を噤む理由がありません。
本領を安堵された脇坂、減封された朽木、除封された赤座、小川に彼らの口を噤ませるだけの隠蔽ができたとは思えません。
藤堂・京極・織田、小早川たちからは平塚と戦ったとか、大谷勢の誰それの首を上げたとか、そういう話が伝わっています。
しかし、裏切りの四将の話はありません。
これは戦っていなかったと見るべきでしょう。
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。
大変面白いご高察です。戦後の逸話話というのは、捏造されることが多いですからね。
数の計算からしても、やはり、大谷勢の不利は変わらないようですね。
長くなりますが、大谷部隊と小早川隊の兵力について検討してみます。
越前の諸大名は全て西軍についたはずです。角川書店の「日本史辞典」の「近世大名配置表」、中公新書「関ケ原合戦」(二木謙一)から、関ヶ原の合戦時点の各大名の石高を見ますと、
※ 中公新書「関ケ原合戦」の記載を優先
越前 敦賀 大谷吉継 5 万石
越前 北庄 青木一矩 8 万石
越前 東郷 丹羽長昌 5 万石
越前 安居 戸田重政 1 万石
越前 丸岡 青山宗勝 4.6万石
越前 大野 織田秀雄 5 万石
越前のうち 木下頼継 2.5万石
越前のうち 奥山正之 1.1万石
越前のうち 赤座直保 2 万石
越前のうち 上田重安 1 万石
(計) 35.2万石
一方、太閤検地での越前の石高は約50万石とされており、約15万石の差があります。
この15万石は、太閤蔵入地であったと推定します。
これは私の想像ですが、越前の太閤蔵入地は、大谷吉継が代官として管理していたのではないでしょうか。その場合、石田三成との挙兵に際しては、蔵入地15万石も領地と同様にして兵を集めたと考えます。そうなりますと、大谷吉継は約20万石、石田三成と同程度の兵を単独で持つこととなります。
ちなみに、小早川秀秋の領地のあった筑前の太閤検地での石高は約33万石とされており、
「日本史辞典」に「筑前 名島 小早川秀秋 33.6万石」
「関ケ原合戦」に「筑前 名島 小早川秀秋 35.7万石」
となっているのと概ね一致します。
実際は、筑前には太閤蔵入地がかなり設定されており、小早川の領地は筑前・筑後・肥前にまたがっていたようですが。
さて、大谷吉継部隊として関ヶ原に出陣した大名は、中公新書「関ケ原合戦」によりますと
※ 出典として「関原軍記大成」(元禄期に編纂)「関原合戦図誌」(明治25年刊)が挙げられています。
(上記の越前の大名のうち)
越前 敦賀 大谷吉継 5 万石
越前 安居 戸田重政 1 万石
越前のうち 木下頼継 2.5万石
越前のうち 赤座直保 2 万石
(その他)
美濃のうち 平塚為広 1.2万石
伊予 今治 小川祐忠 7 万石
近江 朽木 朽木元綱 2 万石
淡路 洲本 脇坂安治 3.3万石
(計)24.0万石
となります。
関ヶ原における大谷部隊ですが、
「大谷吉継は平塚為広(1万2千石)、戸田勝成(2万石)も指揮下において戦っていますが、この両名の名前は藤堂との戦いでも小早川との戦いでも名前が出てきます。朽木と赤座は2万石、脇坂は3万2千石、小川は7万石の大名で、平塚・戸田と同等かそれ以上の大名達です。なのに平塚・戸田の名前は出てきても4人の名前は出てきません。もし、京極・藤堂との戦いに参加していたのなら名前が出てきておかしくない筈です。小早川との戦いにおいてもです」
としますと、領地7.2万石(大谷、戸田、平塚)相当の兵力、1万石につき300人とすると2千人程度にしかなりませんが、合戦の経過を見ると、とてもそのような小兵力とは思えません。
中公新書「関ケ原合戦」では、参謀本部編「日本戦史関原役」をソースにして各部隊の兵力を記載しているようです。
後述の小早川隊の兵力のように、参謀本部の示した数字はあまり信用できそうにないですが、大谷部隊の兵力は、
大谷吉継 600人
戸田重政+平塚為広 1,500人 (吉継が病身のため、合計2,100人の兵は平塚為広が指揮したとも言われる)
大谷吉勝 2,500人 (吉継が病身のため、大谷家の兵は主に子の吉勝が率いていたらしい)
木下頼継 1,000人 (吉継の甥)
(小計) 5,600人
脇坂安治 1,000人
赤座直保+小川祐忠+朽木元綱 3,500人
(裏切り部隊小計) 4,500人
(計) 10,100人 と記載されています。
大谷の兵力が約3,000人で、領地5万石相当の2倍相当ですが、
* 参謀本部の計算違い
* 大谷が全財産を投げ打って浪人も集めて兵力を膨らませたと考慮
* 大谷が越前の太閤蔵入地を支配していただろうことを考慮
いずれもありえますが、「参謀本部の計算違い」でしょうか。
ちなみに、東軍部隊については、同書では
京極高知 3,000人
藤堂高虎 2,490人
小早川秀秋 15,600人
としております。
京極(信濃 飯田 10万石)、藤堂(伊予 板島 8万石)の兵力として「そんなもんだろう」と思えますが、小早川の1万5千は過大なようです。
これは、参謀本部が
「小早川は筑前一国の太守、筑前は『江戸時代に52万石』、小早川の所領は52万石として1万石に300人をかけて15,600人」
と計算したのだと考えます。電卓で計算して、ピタリこの数字になったのには驚きました。
小早川隊は九州から遠征している訳ですし、戦意は低かったようですので、領地1万石に300人をかけた1万人でも多いのではないでしょうか。8,000人未満というのが妥当な線でしょう。
(2) 裏切り部隊の戦闘経過について
「裏切り部隊が大谷吉継の指揮下にあったのは事実だが、裏切りまで東軍との戦闘に参加した形跡が見られない」件ですが、脇坂と朽木は江戸時代に大名として存続しましたので
「関ヶ原で、小早川の裏切りの直後に寝返るまでは、大谷刑部の指揮下で勇戦していた」
事実が仮にあったとしても、戦後はその事実を隠すのが当然です。そんなことを公言してトクすることは一つもありません。
赤座と小川は、他の西軍についた小大名同様に領地を没収されましたが、関ヶ原の後の佐和山城攻めでは、東軍に敵対した罪をすすぐために小早川・脇坂・朽木と並んで先方とされていますのでやはり「大谷刑部の指揮下で勇戦した」事実があったとしても隠蔽するしかないでしょう。
「関ヶ原で、裏切り4部隊が大谷の指揮下で戦った記録がない」のは、ある意味「当たり前」と考えます。
この4部隊については、大谷が「攻勢に移る時の予備隊」「小早川の裏切りに備えての予備隊」として控置していたとも考えられますが、想像を膨らませても仕方ありませんのでこのくらいにします。
(3) 脇坂他が裏切らなかった場合の大谷部隊と京極+藤堂+小早川の戦闘について
大谷部隊の兵力は、参謀本部の計算ですと約1万人、京極+藤堂+小早川の兵力は、小早川を8千と訂正すると約1万3千人となります。
大谷部隊が高地に野戦築城された陣地に拠っていることを考えますと「楽に戦える戦力比」でしょう。
※ 大谷部隊は、西軍主力が大垣城で東軍と対峙している時から関ヶ原に陣取っておりましたので、入念な野戦築城を行っていたはずです。
第一次大戦の時期に提唱された「攻撃三倍の法則」がありますが、それを持ち出すまでもありません。
また、仮に大谷が越前の太閤蔵入地15万石を支配しており、固有の領地と合わせて20万石相当の兵(6,000人)を率いていたとすれば、大谷部隊の兵力は約1万3千人となります。
「(裏切り4部隊が)京極・藤堂勢との戦いに参加していたのなら、兵力で大谷勢は敵の2倍となり有利どころか、敵をここから崩す事もありえた筈です」
ですが、高地に陣地を構えて北国街道を扼している西軍の基本戦略は、
「東軍が攻撃を続けて消耗し、長篠の戦の武田軍のように勢いが落ちるのを待ち、陣地から一気に押し出す」
「既に東軍に寝返っているらしい小早川はともかく、南宮山の毛利部隊が戦闘加入して東軍の背後を衝き、東軍諸部隊が『包囲された』と動揺した時に、陣地から一気に押し出す」
ことであったはずです。毛利の参戦を契機に攻勢に転じる場合は、それまで小早川が傍観していたとすれば、あわてて『東軍』に攻めかかったでしょう。
しかし、西軍の他の部隊が陣地で防御戦を行っている最中に、大谷部隊だけが陣地を出て攻勢に移れば、逆に包囲されて各個撃破される恐れがあります。
この合戦で、実際に戦っている兵数が東軍の方が明らかに多いのは自明だったでしょうから、「うかつな突出は敗戦を招く」という認識は、真面目に戦っている西軍諸将に共有されていたはずです。
「東軍と密約して裏切りを計画して脈ありだったのは小早川も脇坂、朽木、赤座、小川も同等だった」
事前に東軍への裏切りを約していたのは、小早川と脇坂の二部隊のみであったとされます。
朽木・赤座・小川の3隊は、脇坂が裏切ったのを見てそれに追随したもので、それが戦後の処遇の差(脇坂は本領安堵、朽木は減封、赤座と小川は除封)につながったとされます。
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。
とても楽しめます。
史実はおそらく、ご高察のとおりと思います。
東軍と密約して裏切りを計画して脈ありだったのは
小早川も脇坂、朽木、赤座、小川も同等だったが
一番さいしょに裏切り行動を鮮明に見せたのは
小早川で、他の4隊は、それに便乗して
裏切り攻撃をした、これが心象良くなく
家康は小早川を報償して他の4隊は処罰した。
この裏切り5隊のうちで大兵力だったのが小早川で
ほかの4隊を結集しても小早川に戦力的に及ばない
4隊が小早川の便乗をしたかたちだが便乗せず
小早川と衝突しても4隊に勝ち目は薄く
4隊は自己防衛のために小早川に便乗したと
いえなくもなかった。
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。
小早川はやはり圧倒的な兵力を擁していたようですね。
NO.5です。ちょっと補足を・・・
大谷吉継は確かに小大名を指揮下に置いており、脇坂、朽木、赤座、小川らもその指揮下にありました。
関が原の時は、この4人を小早川の裏切りに備えて、配置していたと言われます。
ただし、この4隊が小早川の裏切り前に、合戦に参加したという記録は見当たりません。
大谷勢と戦っていたのは京極と藤堂勢ですが、そこにこの4隊が参加していたという記録は見当たりません。
もし、京極・藤堂勢との戦いに参加していたのなら、兵力で大谷勢は敵の2倍となり有利どころか、敵をここから崩す事もありえた筈です。
しかし、そうはなっていません。
また、小早川が裏切り、大谷吉継が撃退した時も、この4隊が参加していたという記録も見当たりません。
この4隊の他に大谷吉継は平塚為広(1万2千石)、戸田勝成(2万石)も指揮下において戦っていますが、この両名の名前は藤堂との戦いでも小早川との戦いでも名前が出てきます。
朽木と赤座は2万石、脇坂は3万2千石、小川は7万石の大名で、平塚・戸田と同等かそれ以上の大名達です。なのに平塚・戸田の名前は出てきても4人の名前は出てきません。
もし、京極・藤堂との戦いに参加していたのなら名前が出てきておかしくない筈です。小早川との戦いにおいてもです。
ですが、名前が出てくるのは裏切った後です。
もし、京極・藤堂勢、あるいは小早川と戦っている途中で裏切ったのなら、そうした話が伝わっていてもおかしくない筈です。
ですから4隊は東軍と戦っていたとは見るべきではなく、参加していなかったと見るべきでしょう。
小早川秀秋の兵力については8千との説もあります。
しかし、1万5千でなく8千だとしても、大谷勢の不利は変わりません。
脇坂、朽木、赤座、小川が大谷勢と合流し、小早川を迎え撃ったとしても、兵力の差での不利はかわりありません。
それどころか、平塚・戸田隊を藤堂勢との戦いから引き抜き、小早川勢にあてていますので、正面の守りが薄くなり、こちらも兵力で不利です。しかも、東軍は織田勢がここに加勢しています。
野戦築城にしても正面に対してが主で、全方位にしている訳ではないでしょうし、小早川勢は大谷勢の側面から攻めています。
小早川は8千だとしても兵力が多いので、攻めあぐねても大谷勢と戦いながら一部の兵を割いて敵の守りの薄い部分を探させ、そこに兵を集中する事も可能でしょう。
二正面の戦いで、しかも兵力で劣る大谷勢は暫らくは持ち堪えても、よほど巧い戦いをしなければ、いずれは兵の消耗に先に耐え切れなくなり崩れるでしょう。
そうなれば西軍が敗北する可能性が高いと思います。
兵力については諸説ありますが、石高で言えば、大谷5万7千石に、平塚、戸田、脇坂、朽木、小川、赤座を加えても23万2千石で、30万7千石の小早川より劣ります。大谷勢が小早川と同等の兵力を持っていたとは考え難いです。
これに東軍は京極・藤堂・織田勢が加わるのですから、どちらにしろ兵力の不利は決定的です。
地の利と防備があっても、負ける確率の方が高いと思います。
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。
記録上の人数より低いとしても、やはり、小早川は決定的なキーを握っていたのでしょうか。赤座等4隊は傍観に徹していた、裏切りの予兆があったということらしいですね。
No.6です。訂正いたします。
(正) 野戦築城された陣地を攻める場合、攻撃する側が圧倒的に不利になります
(誤) 野戦築城された陣地を攻める場合、防御する側が圧倒的に不利になります
たいへん失礼いたしました。
「当初、大谷勢(5700人)は、京極勢(3000人)と藤堂勢(2500人)と戦っていました。5700対5500人ですから、それほど兵力に差はなく激戦となっています」
関ヶ原の合戦は、高地に事前に野戦築城した陣地に拠って北国街道を扼する西軍を、北国街道を美濃赤坂から進んできた東軍が攻撃する戦いでした。
ですので、西軍諸隊は全て高地に陣を構えております。
大砲がなく、攻撃側が鉄砲を効果的に使えない当時、「上から下に撃ち下ろす鉄砲・弓矢」をかいくぐって野戦築城された陣地を攻める場合、防御する側が圧倒的に不利になります。西軍は、そういう戦い方を出来るようにあらかじめ陣地を準備していたから、数で優勢な東軍と互角以上に戦えていたのです。
全ての資料は「小早川が裏切る前、戦勢は西軍に有利であった」と伝えています。
また、大谷吉継は、自分の兵だけを指揮していたわけではありません。
大谷吉継が指揮する西軍最右翼は、関ヶ原の合戦の前に、吉継の指揮下で北陸方面で東軍の前田軍に対峙していた兵力がそのまま関ヶ原に進出したものです。大谷は、多くの小大名を統一して指揮していたと伝えられます。
「脇坂、朽木、赤座、小川の各隊が積極的に大谷勢に味方すれば、兵力が4200人も増え楽になります」
ということではなく、上記の4隊は合戦の最初から大谷の指揮下で東軍と戦っていたと見るべきで、小早川同様に何もせず戦局を傍観していたと見るべきではありません。少なくとも、そのように伝える資料を見たことはありません。
広く流布し、ウィキペディアにも掲載されている
「関ヶ原の合戦の各隊の布陣図」
「関ヶ原の合戦の各隊の兵力」
は、No4でも言及しましたが、明治時代に参謀本部が作成した戦史書「日本戦史関原役」が元ネタです。参謀本部は、あくまで「陸軍将校が戦史を学ぶ際の材料」としてこれらの書籍を編纂しただけで、「布陣図」も「兵力」もたいした根拠はありません。それらがないと、戦史を学ぶ際に困るので「適当に設定した」程度のものです。
小早川秀秋の兵力は「1万5千」と参謀本部の本に書いてあるようで、現代の多くの本にそのように書かれていますが、個人的には「過大ではないか」と思います。何故かといいますと、関ヶ原合戦の時点での秀秋の領地は筑前において30万石程度とされているからです。
実際問題としては
「大谷吉継指揮下の兵力がどのくらいあったのかは良く分からないが、小早川隊の兵力に劣ったとは考えにくい。さらに、野戦築城した高地の陣地に拠っているので、兵力以上の戦力を発揮したはず」
と考えます。
そのように考えて、No1で
「小早川は史実どおりの動きをしても、大谷部隊の一部である脇坂・朽木・赤座・小川の隊の裏切りがなかった場合、大谷部隊の陣形が崩れませんので、大谷部隊は持ちこたえたと思われます。その場合、戦況は西軍に有利に傾いたと考えます」
と書きました。
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。
大変興味深いです。布陣図やら人数やらはあまり根拠がないのですね。小早川も決定的な兵力ではなかったとすれば、関が原のシナリオは、構成に勝手に捏造されたものになります。裏切りが小早川だけならば、持ちこたえたという考えは大変貴重ですね。
脇坂、朽木、赤座、小川が「島津勢」のように動かない場合は、大谷勢が崩れ、後は史実と同様に西軍の敗北になるでしょう。
当初、大谷勢(5700人)は、京極勢(3000人)と藤堂勢(2500人)と戦っていました。5700対5500人ですから、それほど兵力に差はなく激戦となっています。
そこに小早川勢(1万5千人)が裏切り大谷勢を襲います。
大谷吉継は予備隊の600人を小早川勢に差し向け、まずは小早川勢の先鋒である平岡隊と稲葉隊を撃退します。
しかし、小早川勢も態勢を立て直し再度攻めます。
この状況に大谷勢では、京極・藤堂勢と戦っていた平塚隊・戸田隊を引き抜いて援軍とし小早川勢に当て撃退しています。
小早川勢の戦死者は約370人、大谷隊は180人だったそうです。
この小早川勢と戦っている時も京極・藤堂勢との戦いは続いています。
この時、藤堂勢の攻撃により大谷勢の中で島清正(島左近の四男)などが討ち死にしています。
そして、脇坂、朽木、赤座、小川の裏切りが起こるわけです。
もしこの4人の裏切りが無かったとして、この後は・・・
小早川勢から攻められても、大谷吉継の用兵の巧さから大谷勢は持ち堪えはしましたが、兵力は消耗しています。
小早川勢は大谷勢に比べ死者の数は多いですが、もともと大谷勢の約3倍の兵力であり、全軍が崩壊したわけではなく、数隊が崩れただけであり、まだ余裕があります。それに加えて京極・藤堂勢がおり、大谷勢は兵力を二分しての二正面での戦いという不利な状態でもあります。
そのまま戦いが推移すれば、大谷勢は再び先鋒を撃退するような局地的な勝利をする事があったとしても、小早川、京極、藤堂勢よりも、早く兵力が消耗し、最終的には敗北してしまったでしょう。
脇坂、朽木、赤座、小川の各隊が積極的に大谷勢に味方すれば、兵力が4200人も増え楽になります。
しかし、それでも京極、藤堂、小早川勢の兵力よりも大谷勢は1万人は少なく、兵力比は2対1です。
小早川勢と戦っている大谷勢に脇坂、朽木、赤座、小川の各隊が合流して立ち向かっても、兵力は小早川勢に比べ半分以下であり、苦戦は免れません。
京極・藤堂勢と戦ってる大谷勢に合流すれば、京極・藤堂勢より兵力では優位に立てますが、圧倒するほどではなく、小早川勢が援軍を差し向ければ不利となるでしょう。
戦えば兵力は消耗します。
よほど巧い用兵を行い、自軍の損失を抑え、一方的に敵に多大な損害を与える、または一気に壊走させるような戦いを大谷勢はしなければなりません。そうしなければ負けです。
ですが、それは非常に難しいでしょう。
ですから、やはり西軍の敗北する可能性の方が高いと思います。
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。
やはり、量で圧倒しているということは、大きな勝因ですね。それほど、小早川は圧倒的な決定的な兵力を持っていたんですね。
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