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デイヴィッド・チャーマーズは、意識について「機能的意識」と「現象的意識」の2つの側面があると指摘したそうですが、私の読んだ、「心の哲学入門(金杉武司 著)」では、「反省的意識」と「現象的意識」の2つに分けて説明されています。

反省的意識とは、機能的意識に含むものと考えればよいのでしょうか?
また、もしそうだとすると、心が反省的な意識状態にあるとき、一切の現象的な意識は付随しないのでしょうか?付随しないとすると、自分が反省的な意識状態にあるということ自体、気づかないのでは…?

そもそも、現象的意識という言葉の説明にある「質感」の意味を把握しきれてないのですが、要するに「主観的体験」そのものですよね?
「質感を持たない主観的体験」というのはあるのでしょうか?
もし、「現象的意識」の言葉が指す内容が一定していないのであるなら、そのあたりも少し教えて頂けないでしょうか?

あともう一つ、現象的意識が「現れる」という表現がよく見受けられますが、
現象的意識を「感じる」「受け取る」という言い方は不適切なのでしょうか?

質問ばかりで申し訳ありません。
宜しくお願い致します。

A 回答 (6件)

思い付きなので参考までに。


「現象的意識」は感覚的なものについての意識、「反省的意識」は言語的意識ではないでしょうか。
(雑過ぎる分類な気もしますが。)


例えば、あるものがある形をした赤いもので、手触りはさらさらしていて、味は酸っぱくて甘い、といったことは感覚的意識と思われます。しかし、これは「りんご」であるという判断は少なからず反省的意識によるものでしょう。「りんご」という概念=言葉で括られた感覚的意識の記憶を想起する必要があり、その「言葉の括り」の認識は反省的意識によるからです。ですから、物事の意味理解は全て反省的意識によると見てよいのではないかと思われます。私には、反省的意識と機能的意識は同一としか考えられません。


例えば生まれたての赤ん坊の意識はほとんど純粋に現象的意識でしょうし、
5+7=12などの単純な計算はほとんど純粋に反省的意識によるのではないでしょうか。


>「質感を持たない主観的体験」
難しいですが、無いように思います。


感覚ではなく現象、感じるではなく現れる、と表現するのは現象学や純粋経験論的立場をとっているためではないでしょうか。
感じる「私」の存在は実は前提ではなく、ただ経験(現象)あるのみとしか言えないというアレです。


参考になる所があれば、ぜひしばらくお付き合いください。
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この回答へのお礼

有り難うございます。
なるほど、分類に関して、すっきりしました。

5+7=12などは、いちいちおはじきの数を想像しながら計算する必要は無いから、ほとんど反省的意識によるもの、ということですよね?

反省的意識と機能的意識を同一と考えると、ゾンビにも反省的意識はある、ということになりますが、
5+7=12が純粋に機能的意識でできるとなると、自分の主観にとっては完全に無意識のうちに計算できてしまうように感じてしまいますが、自分が5+7=12という計算をやっていることを知っているのは、何かしら現象的意識が付随しているから、と解釈しているのですが、それでよろしいのでしょうか?
ゾンビにも計算はできると思いますが、計算をやっているという実感は無いですよね。

私が質問文に書いた、「自分が反省的な意識状態にあるということ自体、気づかないのでは…?」というのはそういう意味なのですが、もし何か誤解していましたら、どなたかご指摘いただけたら嬉しいです。

お礼日時:2009/08/16 11:52

ANo.1です。


「ほとんど純粋に反省的意識」と言ったのは、つまり5+7=12という計算においても現象的意識(直観…と言ってよいのだろうか)が働いているからです。
あらゆる思考や意識は、反省的・現象的の両側面を持っているように思われます。
なぜなら、「それが何であるか」を理解するためには、反省的意識が現象的意識のデータベースすなわち記憶にアクセスする必要が常に生じるからです。
ですから「ゾンビ」の思考実験がそもそも原理的に不可能な仮定を置いているのではないでしょうか。


雑な議論で申し訳ないですm(__)m
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この回答へのお礼

なるほど、ほとんどが両側面を持っているわけですね。
反省的意識と現象的意識の関係に関しては難しい問題がありそうですね。
いえいえ、少し頭が整理できました。有り難うございます!

お礼日時:2009/08/21 03:14

>「感覚」はゾンビも持つことができるわけですよね?となると、


「感覚」というのは機能的意識に含まれるのかな…?

ですが、ゾンビは医学的に物理的に死んだとされる人で;これは「死ぬ
気になれば(死んだら?)出来ないことはない」の「精神論」は生き続
けるもののようですね。

そうでしょうか?

頼れるのは精神論で死人を諭せる霊感屋さんとなるかな?

例えばハンバーグを目にして食欲が湧くものではなくて、前提として食
欲がありハンバーグが食べたい対象になります。食欲が全くなくてハン
バーグが食べたいものにはならない。男は何時でも全女性に発情しうる
かというと違いますよね?「何も感知しない」「必要を感じない」「物
理的に無理」もある。

機能的意識は理想としましたが理想は栄養バランスとか効率が良くてお
買い得な「必要なもの」ではなくて、「共食い」は「美味しいと思い込
んでいるもの」で、自らの健康(死んでいるのに健康も何もないですが
趣味判断で「思い込んでいる」んだから死んだって止めない!とする理
想(機能的意識)が精神論ですね。
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この回答へのお礼

有り難うございます。
あっごめんなさい、ゾンビというのは哲学的ゾンビの意味だったのですが、言葉足らずでした。。
実はまだ最後の部分がよく理解できていないのですが、もう少し頑張ってみますね。

お礼日時:2009/08/21 03:12

一個人が勝手に適当に思いつきなだけなことなのですが、正確な綿密な


定義、意味は違うズレまくるかもしれません。

>現象的意識という言葉の説明にある「質感」の意味

生得的に与えられ育み、責任までは取らないが命じ現す意識、満足感や
安心感などの「感覚」かな?

「機能的意識」と「反省的意識」は経験則や既得概念で生み出された「理想」。
これは自分が多少の困難を覚悟したり、ある面で無理をしても成し遂げ
ようと自らが生み出すもので、感覚を逆転させることがあるかもしれま
せんね。
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この回答へのお礼

有り難うございます。

質感は感覚の一種ということですね。
私は、「感覚」と「感覚質(クオリア)」の違いがいまいちよく分かっていないのですが、
「感覚」はゾンビも持つことができるわけですよね?となると、「感覚」というのは機能的意識に含まれるのかな…?

どなたか教えて頂けると幸いです。

お礼日時:2009/08/16 12:10

こんにちは。



>反省的意識とは、機能的意識に含むものと考えればよいのでしょうか?

著者が別の言葉を使っているということは切り分けの基準が違うと思います。まぜて理解しては駄目なような気がします。

>また、もしそうだとすると、心が反省的な意識状態にあるとき、一切の現象的な意識は付随しないのでしょうか?

例えば、ある人間の行動は社会的役割の視点で分析もできるし、心理的な視点で分析もできます。つまり、対象に関してではなく、観察側の視点の違いです。

あとは、著作を読まないとわかりません。ごめんねw
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この回答へのお礼

有り難うございます。

やはりチャーマーズが言うような、誰にとっても共通な概念の切り分けは難しい問題があるのですね。

お礼日時:2009/08/16 12:00

 こんにちは。



 学説を脇に置いておいて反応します。

 自然の出来事も社会の出来事も 現象です。ひとは空気を吸い水を飲んで生きるわけですから 社会現象も自然現象の上に行なわれています。
 この現象をひとが――というより わたしがとこのあと言っていきますが――知覚によるにしろ概念の認識によるにしろ受け取るなら 現実となります。(間違った認識による場合には そういうかたちで一たんは現実となります)。
 現実として受けとめているわたしの意識は 
 ★ 現象的意識
 ☆ と呼べるはずです。

 このあと 知覚もその認識として――すなわち《痛いっ!》という痛覚は 《痛み》という概念として認識することになり――概念の認識とともに 《現実観》ないし《現象的意識》が わたしの中で思惟の対象になります。
 この思惟の過程においてわたしは 一般に
 ★ 反省的意識
 ☆ を持つはずです。その概念が内面に折れ返りこれをわたしはさらに吟味したりほかの主題の問い求めのための推論の中に用いたりします。(《反省》とは この《折れ返り》のことです)。

 ところが もし初めの《現象的意識》が その現象の認識においてあやまっていたとすればどうか? とうぜん 認識し直します。そして新たな現実観のもとに 反省的意識を持ち 思索の用に供します。

 ★ 機能的意識
 ☆ は推測ですが 反省ないし推論としての機能のことを言っていませんか?
 ★ 質感
 ☆ は 知覚にまづ現われるのは ふつうのことですが そのほかにも 一般に何らかの概念にしても それにまつわるわたしのくせや好みとして伴なわれているはずです。
 ★ 要するに「主観的体験」そのものですよね?
 ☆ たぶんそうであるがゆえに――そうであるがゆえに―― 問題とその焦点は 《現象的意識と反省的意識》を含めた全体としての《現実》観ないし世界観 ここにあると思われます。
 言いかえると つねに《現象》になるべく即したその認識およびそれの推論への使用を基本として そこに主観のくせとしての質感がついて来ているというかたちでそれらを仕分けして捉えていることではないでしょうか?
 くせの問題は 雑談として語り合うのもおもしろいでしょう。それとは別に基本的には 互いの世界観をぶつけ合って語り合うのがたのしいでしょう。現象的意識つまり初めの現実把握を 互いに共通のものとしつつ そのあとの現実についての見解を披露しあうのが 対話であり 広くは共同自治であると考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
丁寧に説明して頂けて、大変見やすかったです。

主観のくせとしての質感…なるほど。
最後の方は、一回読んだ時は理解できなかったのですが、今はイメージとしてつかめるようになりました。また日を改めて読ませて頂きます!

お礼日時:2009/08/16 11:57

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