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よろしくお願いします。

質問の主題は、
小説等文学作品中の「書き手に依って生み出された人物」は、
書き手である作家にとっては「完全に理解可能、支配可能」な存在か否か?



「現実に存在している人間」は、誰にとっても(おそらく本人にとっても)
「不完全理解、支配不可能」な存在と思われます。
書き手にとって作品中の人物はどんな存在なのでしょう。。。

よく(かどうか、は分かりませんが。汗)創作について、
「人物が勝手に私の頭の中を行動して、私はそれを書き留めるだけ」と言うような言い方もあります。
この表現を見ると、
作家にとって作品中の人物は、現実世界の人間と同様、
「不完全理解、支配不可能な存在」となると思えるのですが、どうなのでしょう。。。

以前、と言うには隔たり過ぎた?中学生の頃、
ふと「物語の読み方に戸惑った」時期がありました。
読み手の私は、この人(=作品中の人物)をちゃんと理解しているだろうか?
文中には全ての行動が描かれているのだろうか?
描かれていない行動/時間があるとしたら、その「行動や時間」は存在しているのだろうか?していないのだろうか?
読み手もだけれど、書き手もこの人を完全に理解しているのだろうか?
この人の行動を全ての時間に置いて把握しているのだろうか?
そんな事が作品中とは言え、可能な事なのだろうか?。。。。

そんな事を悶々としばらく悩み、
結局「作品は作品世界の一側面に過ぎない」との視点に立って読む事に決着を見ました。
以来15年、読み手の「読み方」としては、間違っていない、と考えています。

では、書き手の立場ではどうなのだろう?とふと気になりました。
何かご存知の方、ご意見をお持ちの方、回答をお寄せ頂けると嬉しいです。

また、
このような課題を扱った論文、評論等ご存知の方もお教え下さると嬉しいです。
大学の文学部等では、このような講義もあるのかしら。。。
調べ方の糸口でも構いません。
よろしくお願いします!

A 回答 (12件中1~10件)

yukkinn66さん、こんにちは。



>小説等文学作品中の「書き手に依って生み出された人物」は、書き手である作家にとっては「完全に理解可能、支配可能」な存在か否か?

yukkinn66さんが取り上げられたのは、必ずしも「文学作品」に限った問題ではなく、制作者(書き手)がいて、自らの作品構想を実現すべく他者(外界の事物)に働き掛け、その結果として何か(作品)を作り上げたとき、制作者と作品とはどういう関係にあるか?という、ある意味普遍的、古典的な問題ではないでしょうか。

で、管見する限り、こういう問題をだれよりも鋭く意識して書いた小説家及び小説の典型例としては、アンドレ・ジッド『贋金つくり』、三島由紀夫『禁色』が挙げられそうな気がします。
いずれも、小説家が素材に働き掛け、それを媒介にして、いかに自らの構想(観念、理想等)を実現するか(=作中の人物を支配するか)をめぐる、小説家と素材との間の抗争、葛藤、駆け引き、馴れ合い、協力をテーマにしていると考えられます。

批評家では、ポール・ヴァレリーや小林秀雄が同様の問題をより鋭く意識しながら、ラディカルな批評活動を展開していたのではないでしょうか。
彼らは、いずれも自我などという妄想、幻想に取り憑かれつつも、良くも悪くも、このことを相対化しうる強靱な近代的知性、健全な懐疑精神を持っていたのだと思います。

「ぼくはひとりの小説家を登場人物として考え出し、中心人物にすえている。言うなれば、まさしく作品の主題は、現実がその小説家に提出するものと、彼がそれを材料にして創ろうと思つているものとの抗争なんだよ。」(『贋金つくり』)

これは、主人公の小説家エドゥアールが『贋金つくり』という前代未聞の小説の構想を友人の女性に話しているところの一節ですが、彼は自分の小説のテーマが、作者と現実(=素材)との対立葛藤それ自体にあると言いたいわけです。
ここでジッドがエドゥアールに課した問題は、とりもなおさず、小説家にとって作中の人物が「完全に理解可能、支配可能」か否か?という、yukkinn66さんがここで呈示なさった問題と基本的に重なり合うのではないでしょうか。

『ドン・キホーテ』以降、作者名の署名された近代小説では、程度の差こそあれ、主人公は作者の分身たらざるを得ないのでしょうが、だからと言って、その主人公は完全に作者の傀儡にすぎないかと問われれば、「いや、確かに半分は作者の血を承けた分身ではあっても、残りの半身は時代・社会の血を承けているはず」としか言いようがないと思います。
この点については、文学作品に限らず、音楽作品であろうと、美術作品であろうと、全く事情は変わらないのではないでしょうか。

さらに言えば、文学作品の読みを含めた芸術作品(制作物)の享受(鑑賞)全般においても、作品享受の時間中は、見る側と見られる側との間で、双方の支配と被支配とをめぐるある種のせめぎ合いが繰り広げられているのではないでしょうか。

例によって、yukkinn66さんの興味・関心の焦点から外れた回答になってしまいましたこと、お詫びいたします。
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この回答へのお礼

kadowaki様、お久しぶりです。
またしても有意義な含蓄ある回答を頂き、嬉しい限りです。

こう言う疑問が湧いた時は取り敢えず「小林秀雄!」ですかね。。。^^
うーーーん、本腰入れて全集等読むべき時期かも知れません。


>アンドレ・ジッド『贋金つくり』、
>三島由紀夫『禁色』

この二冊を近くの分館に取り寄せるべく、手続きを取ろうとしているところです。
三島由紀夫は川端康成と並んで、私の「苦手な作家」の意識が濃厚です。汗
でも、三島由紀夫は「美に対するこだわりの強さ」は感じておりますので、今回ちょっと頑張ってみます。読んでしまったら意外にハマるかも知れませんし。

>主人公は作者の分身たらざるを得ないのでしょうが、
>「いや、確かに半分は作者の血を承けた分身ではあっても、
>残りの半身は時代・社会の血を承けているはず」

「分身」。。。。私はどうにもそうは思えないのです。
勿論その私の思いが、やたらと他人の感情に移入したがる癖からの「目の曇り」かも知れないのですが、
書き手が人を一人、描き出してしまったら、それはもう「一個の人格」として実在人物と対等の存在、と感じてしまうのです。
そして、そう思って読み進み、最後迄「一個の人格」で貫徹させ通した(と私に感じさせた)時、「あ、良い作品に出会ったな」と思います。
いえ、時々「貫徹した一個の人間」としては違和感のある人物を書いちゃう作家にも出会いますので。。。。(な、何と生意気な!大汗)

でも、もう少し中立な視点を持ちたいとも思います。
作品を「外から眺める」と言う視点。。。
複数の視点を自分の中に持つ。。。結局私の目標は此処にあるらしいですね。

頑張ります。
ありがとうございました!

お礼日時:2009/08/22 16:03

 さあ 投稿を重ねていぢわるをしてみましょう。


 村上春樹を俎上に挙げます。

 『ノルウェイの森』を取り上げます。

 (1) 空虚なる信頼関係がまったくの虚無のみなのではないという経験現実 それを問い求めつづけるという位置に 主人公は 立っている。あるいは その位置でさまよっている。そのように物語が〔それ以前の作品から〕つづき そこから新たな出発が始められる。

 従ってちなみに ここでの《森》は 前著『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で扱われた壁の中の街にある森とは 別であろう。後者は――つまりその全体としての想像上の実験は―― ご破算となっている。

 (2) 主人公である語り手は ただし すでにおよそ二十年後の時にある。二十年前の自分をめぐる世界を回想しつつ 《風》のかかわる出発点 それとしての人間関係を 模索する。あるいはまだすべて受動的な姿勢にあるから 成り行き任せの如くそして回顧の中で発展途上の過程を再形成するかの如く 自らの経験現実の流れに立ち会っていく。

 二十年の時の隔たりは 人間関係にかんして なおここでそう言ってよければ 試行錯誤を歩んでいることを示そうとしている。積極的な結論は 出されていない。少なくとも 二十年前から生き残っている人びととの関係が 二十年後の今と 必ずしもつながれていない。

 ほとんどの人びとは死者となったから当然のようであるが 中でどこかで暮らしているはずの小林緑が今どうしているかも わからないし 死者たちについてもその理解が もう一つ明らかなかたちでは示されない。

 あらかじめ言うとすれば 二十年後にしてこのようであるなら あのシンライカンケイの原則が この作品では 一歩後退したかの感も否めないように思われる。

 (3) 少年時代からの親友キズキも 語り手にとって 《風》のかかわる信頼関係のもとにあるのではなかったと言おうとしている。親友にしてそうだというのであろう。

 ある種の仕方でむしろ自らに固有の出発点ではないかと疑われた永沢との関係も 語り手にとって 実際に初めからそう思われていたように 風の問題として長く続くものではなかった。なのに 永沢として《永》の字が入っているのは 信頼関係の空虚が 自らのことでもあると捉えられたこと その自らの空虚(欠落感)がつねに虚無と接しつづけていること これを示したものだと考えられる。

 ここでは 全般的に 物語は 発展途上にある。

 (4) それはまた すでに別れを見たと思われていた《鼠》ないし《影》との関係が なおここで親友キズキとの関係に――そのキズキの死後も――どこかに 一面では正当にも そして消極的にだが続いていることの自覚に通じているのではないか。これは 一面では正当にもである。(関係の絶対性)。

 あの星印をつけた《羊》が人に入り込むという観念の王国 という観念 これとは もはや遠く隔たっているけれども なおその経験現実において むしろ風のそよぎのもとに このこと(すなわち 観念をめぐる志)を執拗にとらえつづけている結果であるように思われる。

 もっとも キズキ自身にかんしては 思想の上でそんなに重きを置かれていないかも知れない。かれのばあい かれは主人公に対して親しい関係にある自分として見せる以外の自分を 見せようとしなかったと書かれている。
 これは 演技原則によるのでもなく そうではなく出発点の《わたし》がつまり自分が 自らの意志で分割されていて そうとすればこれを使い分けするということであろうか。考えられないことである。ありえないことである。人間以前の状態にある人間である。

 (5) キズキの恋人だった直子 永沢の恋人だったハツミ あるいは一種謎の人物・小林緑 これらの女たちも――結論から言って―― キズキが去っていくことになるのと同じように 一方で 青年にとって信頼の感覚が持たれ合われたというかたちで信頼関係に立ちつつ(つまり 立ったと何となく感じられつつ) 他方で 後からの回想のもとにでも 風のかかわる出発点を形づくらなかったと見ている。

 一言でいえば 再び処女作の『風の歌を聴け』の中の空虚感に 戻ったと考えられる。

 ただし 局面は新しくなっていた。新しい段階に立ったゆえ あらためてそのような欠落感の織りなす実際の歴史が たどられていったとも考えられる。

 (6) 具体的に 直子にかんしては 結果論としてでも そのように空虚そのものとして実際にも語られている。事実経過としては むしろかのじょの意向をすべて受け容れ かのじょその人を丸ごと引き受けた恰好なのであるが その主人公は それゆえにこそより一層 欠落感が増すというものである。

 かのじょとの関係は そこでの主人公の振る舞いとともに ひとまずは 突き放して捉えざるをえないのではないか。つまり作品じたいが そのことを 要請しつつ 物語るのではないだろうか。

 (7) 具体的に。あの『1973年のピンボール 』で主人公が《愛していた》同名の直子と同じような人物であるのかどうか。『ピンボール』のほうは 叙述が少ない。

 この『ノルウェイ』の直子の場合も 主人公がかのじょに《恋をしていた》ぶんだけ かのじょとの間に風の物語にかかわって希望を抱いていた。姿勢が受け身だからでもあるが――あるいはもっと詳しくは 小説じたいの成り立ちから言って 主人公は単なる《ものさしの眼》 (『風の歌を聴け』)としてのようにのみ存在しているからであろうが―― 愚直というほどに かのじょの存在を受け容れていたし引き受けようとしていた。シンライ原則にかかわると見えつつ 二人のあいだの関係においては それ(受け容れ・引き受け)が 相手に届かなかった。けれども のちになって直子を理解したというその内容は――明言されたこととしてなら―― 《直子が僕を愛してさえいなかった》(〈第一章〉)ことだけである。

 たとえば その恋心や親身になって注ごうとする愛情のことを別としてよければ 主人公が直子に 《肩の力を抜けばもっと体が軽くなるよ》とある種の助言を与えたとき 直子からは 《どうしてそんなこと言うの?》と むしろ突き返されることになる。
 このとき もし実際にも直子の言うとおり 《肩の力を抜けば体が軽くなることくらい》かのじょに分かっていて しかも《もし今肩の力を抜いたら 私バラバラになっちゃうのよ》というのであれば 主人公はこれに対して 《バラバラになっちゃっても そうしたほうがいいのではないか》とすら 返すべきであったと思われる。このとき《僕は黙っていた》ことは無しにして 仮りにそのばあい薬の補助や医師の介助が必要であるなら それに頼ってよいはずである。主人公も 看護の手を差し伸べるはずである。

 つまり このように対話が進められる道しかないと言おうとするのではなく シンライカンケイにかかわっては ここに こんな物言いを差し挟みたくなるような一つの問題点が おそらくほかの場面でのそれらを象徴するかのように 横たわっていると思われるからである。

 《バラバラになっちゃえ》という答えを返せとは言っていないのであって 対話を噛み合わせていくことが重要であるのではないかというものである。親身であり引き受けるということは 多少の波風を立たせるほどにまでは噛み合わせることをおこなうのではないかと。

 こうは言うものの 日本社会の中で・日本人の間で 理論どおりに・思想原則どおりに ことが運ばれるというのは 言い過ぎだと分かっている。若い人たちには 大いに 自由に振る舞って欲しいし 作者には ささやかにでもその省察を後知恵でよいわけだから差し挟んで欲しいとも思うが 日本人どうしのコミュニケーションが成立しがたいことは それが この評論を綴っている理由であるのだから 一朝一夕では解決しないかもしれない。
 またこの作品での直子にかんする限り かのじょは むしろ初めからある種 志の人 * であって そのあいだの距離関係を測り難く そもそも出発点の人間関係すら形作りがたい状態に入ったと思われるからである。ひとまづとしては ここまで突き放して見る必要があると思われた。

  * 志の人:ここでは 自らの思想原則を模索中の人の意味で使っている。とくにそのこころざしが空回りするような場合を指して言っている。少し偏向した使い方ではある。なおその志の問題は ひとつの具体的に 次の(7)で 処女の問題をめぐってであると触れる。

 (7) 勿論 先ほどの《僕は黙っていた》という短い一文の中に すでに二十年後の主人公あるいはその背後の作者から見て たとえば上に触れたような突き放した見方を 間接的にじゅうぶん織り込んでいるのかもしれない。

 実際そのようにも受け取りうる。つまり直子理解は 作品の全体として もっと広く深い内容に及ぶということであるのであろう。だが そうだとしても 例えば再び上に戻ってその《志の人》というのは この直子に即しては実際じょう端的に《処女》の思想の問題 * であって もしこれだとすれば まだ 風の歌にかかわる《羊男》の介在が持ち上がる段階ですらない。

  * 処女の問題:次の作品に触れられている。短編《我らの時代のフォークロア――高度資本主義前史》――『TVピープル』所収。

 古い格言にちなんで言えば まだ《肩の力を抜くといった思索と実行との人事を尽くして天命を待つ段階に到っていない》ということである。経験上の人事行為の領域内でのみ いわばボタンの掛け違いのごとき喰い違いが起こっているのみだと 極論してよいように思われる。これは たしかに恋していた主人公にとって のちの回想の時点でも《哀しい》ことであるが もし上のような言わば初歩の喰い違いの事態が 作品をとおして読者に伝わらなかったとすれば そのことのほうが 哀しいと言うべきである。

 処女の問題などは 二人でとことん話せば なんとでもなる。言いかえると シンライ原則は 処女の問題を超えている。
 だからシンライ原則の立ち場から――還相(げんそう)の過程で――処女の問題をこそ大事にするという見方もできる。
 とはいうものの わたしは 多くの直子ファンに対して憎まれ口を ここで たたこうとしているのである。直子は ひとことで言って 素直な子ではない。

 (8) 直子との関係は その出発点にまだ到っておらず 必ずしもその発展途上ですらないように思われる。

 粗探しのために言ったのではないことの証拠に この作品は 直子物語としては 失敗であると考えている。これが 《完成された作品》 * だというのは そういう裏の含みを持って語られていると考える。

  * 完成された作品:作家自評である。→村上春樹大インタヴュー〈『ノルウェイの森』の秘密〉 文芸春秋 1989・4

 もう少し詳しく見よう。

   歪んだ観察力や傾いた判断力にあわせて存在そのものを歪めたり傾け
  たりすれば けっこうちゃんとした文章は書けるのだ。
  (村上春樹:〈ローマよ ローマ 我々は冬を越す準備をしなくてはな
  らないのだ〉 新潮 1988・2)

 という如く 作品全体の結果としてまともな見方に立ったまともな感動が 個々の筋の運びでのゆがみや喰い違いを残すにもかかわらず 伝えられることになったのではないか。もし仮りに 《リアリズム小説》として主人公の振る舞いや歴史がそのまま 一つひとつまともな思想として受け取られるとすれば それはいわゆる日本社会の人情物語にすぎないと考えられる。それは 風の物語から遥かに遠く はずれていくものと思われるのである。――これが 一連の長編小説の中で ほとんど唯一の物言い * である。

   * ほとんど唯一の物言い:これは 『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』までの話である。『ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編』の一部がすでに雑誌に前もって掲載されていて これをわたしは読んでいる。そこで疑問が生じた。


 (9) それよりはむしろ ハツミのほうが 出発点のシンライ関係を形作りえた人物として 登場しているように思われる。

 かのじょは 自分自身 永沢とそういう関係をきづこうとして きづきえなかった。そして 破滅に到る。主人公は その二人の間に割って入ることができなかったのだから かのじょハツミとの特定の男女としての出発点関係にかんしては すべて想像上のことに属す。すべては 過去である。そして ハツミ自身の風の問題は まず永沢との関係にあって そのほかに成り立ち得ない情況(ハツミの志?)だったから 消極的に言って やはり主人公にとっては 去っていった人物である。

 (10) 緑はどうか。言うまでもなく 物語の最後のところで 主人公は自分から――それまでの受け身の姿勢を始めて翻すかのように―― 互いに出発点の関係をあらたにきづき始めようと申し出ているではないか。それなのに この緑も 主人公にとって去っていったと見るとは どういうことか。

 それは この電話での申し出のとき 主人公は《どこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた》と言うのだから というのが理由である。単純に読んだ場合 その自らの申し出の内容に その直後に 疑念が生じたと考えられるから。
 直子事件を終え 自分の内にもそれをひとまず落ち着かせたのだが なおそれの単純な反動としてのように この電話での申し出をおこなったとも考えられるからである。まだそれにすぎないという見方も できる。

 あるいは 推測としてなら 別様に考えられる。その電話でのとき 《僕はどこにいるのだ? / いったいどこなんだ?》と自らに問うことのほうが 風の出発点にふさわしいと推測してみる場合である。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の実験のあと その結果 ともかく新しい段階として《いま・ここ》に帰ってきたのだから そこでの経験現実は むしろ《今はいつで ここはどこだ?》と問いつづけていることのほうが ふさわしいと見る場合である。このような主人公は 自らと緑との間に 信頼関係を見ようとしていることになろう。

 この場合 唯一の疑問は 緑が 主人公にとって二十年後の今 どこにどう位置しているのか これがわからないということである。

 (11) 単純に 緑という人物は かのじょ自身にとって いま・ここが確実であるという存在であって その確実さに魅かれて主人公は いま初めてのように自らの意志をはたらかせて申し出をおこなった時 その実際の声をあらためて聞いて 多少の驚きと戸惑いとを感じているということだろうか。

 そうとすれば なお試行錯誤のもとにあるはずである。その限り あたかも緑をも過ぎ去ろうとしてのように 主人公はなお 風の歌を探し求めつづける。

 否 風の歌はすでに自らのもとに聞いている――空虚であって 虚無のみではない / そしてシンライ原則を自らの内に形成しつつある―― こうであるからには 緑との関係に いま この志(あえて)をあらためて形作ろうとするか それとも緑をも去って旅をつづけるか 結局いづれかなのだと思われる。ここには 恋愛はない。

 または 恋愛関係(好悪自然の感情とその心理関係)はあるが なお現実を求めて ふつうに・その意味で正当にも 発展途上にあると むしろ自ら語ろうとしている。こちらが先で そのあと もし緑がその関係の対象になるとすればなるのだと考えられる。

 もしこの作品に 直子物語と緑物語との二つの世界があるとすれば そのときにも ここでは あの《世界の終り》と《ハードボイルド・ワンダーランド》のように関係しあう二つの世界にあてはめて見るべきではないであろう。
 ワンダーランドの物語は 壁の中の街の物語に 従属すると思われる。主題の展開(風の物語)としては補助の役割を担うと思われる。  『ノルウェイの森』はむしろ 永沢やハツミらを含めた緑物語が 主題展開そのものであって 直子物語は その主題に従属さえしておらず あたかも直子物語の全部が 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の実験の失敗を確認するのみであるかのごとく 緑物語から切り離してとらえるべきように思われる。

 ただしその緑物語には その後の本編というべき詳しい発展がない。もし強いて言うとすれば 次の作品での いるかホテルのユミヨシさん物語へと 承け継がれる。

 (12) あらためて言って キズキとの関係そして直子とのそれは おおむね幻想であったのだと思われる。ただし 形成途上であってかまわないわけであるから その幻想のゆえ もはや友情関係を断つということにはならない。実際 いま・ここに すでに帰って来ている。

 つまり あらゆる存在との共存原則が 敷かれている。その上であたかも――もっとも厳しく言えば そのたとえは悪いけれど――ピンボールとの関係の状態にとどまった場合もあったということであろう。
 なおかつ 虚無に支配されているわけではなく 正当にも空虚の中にあって 欠落感をなお持ちつつ 主人公は すでにあくまで経験現実に足をおきつつ さまよいつづける。この まともなさまよいの中に 緑が見出されつつ ひとまとまりを成す小説作品としては この緑も かのじょ自身としては 主人公から遠ざかる。

 念のために付け加えるなら このように いわゆる人格存在たる人間が 遠ざかったり向こう側へ去っていったりするというのは あくまで一つひとつの虚構作品の中だからである。作品を ある程度の分量で切り上げるというところから来る。
 そして その結果 互いに別個の登場人物群として 主人公をめぐっては 多面的・重層的となる。つまりさらに逆にいえば 虚構の中でもすでに経験現実に立ったからには 友情関係やふつうの人間関係を 勝手に断つというのでは決してないわけであって 名前を変えて・性格も情況をも変えて むしろ同じ人びとがそれぞれ登場しつづけていると捉えたほうがよい。

 (13) 次の作品で いるかホテルのユミヨシさんが 主人公にとっての風の旅の一つの到着点であるかのようにして 信頼関係の出発点を形作るかに見える。そこでやっと 緑との関係情況をも一歩超え出ていくかのようである。そのユミヨシさんとの関係は 緑との関係そのものの発展であってよいのである。
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この回答へのお礼

ぶらじゅろんぬ様、
あけましておめでとうございます。

質疑としての落としどころが見つけ出せず、
また、自分としても続けたい思いが残り、
いずれ再開したいと思いながら此処迄ダラダラと締め切らずに来てしまいました。

新たに頂きましたご回答にも、きちんと向き合っての返答を、と思い、
奮い立たせてみたのですが、何とも纏まらず、思考が文を為しません。
ですので、この質疑は空中分解のまま、此処で締め切ります。

美苗さんの小説に関連して、二つ程質問を立てておられたのを拝見しておりました。
結局参加しそびれまして、残念です。。。

色々な方向から、沢山励ましを頂いております事、
心から感謝申し上げます。^^
ありがとうございました。

大変に無礼な形での質疑の締め切りとなりました事、御詫び申し上げます。

お礼日時:2010/01/03 23:18

 お礼をありがとうございます。



>その「操作/脚色」を出来るだけ排して「筆記」しよう、と試みたのがこの「本格小説」となるのでしょうか。。。

 なんか良い説明は無いかなと思ったら、良さそうな記述があったんでリンクします。

 ・http://blogs.yahoo.co.jp/nqtfg718/12286596.html

 久米正雄さんってご存知かどうか、漱石のお嬢さんとの結婚話で揉めた人物です。関口安義さんが評伝を書いてます(先に投稿した「根っから評論家」というのは、関口さんが久米正雄を評して発言したものですが)が、当人にとってはむしろ、小説のあり方のようなものが自分の人生観と深く係わっており、それゆえ譲るに譲れない事件となったんでしょう。
 リンク先の記述を読めばわかると思いますが、ある時期までの小説といえば三人称の(要するに「誰か」のものでもない)物語でした。それに対して、心境小説という一人称の物語が生まれ、やがて私小説というジャンルに変わってゆく。今では、本格小説などというジャンルは、絶滅したも同然です。

 心境の語られない小説はつまり、「失敗作」なんですね。前に、ロマン主義について云々したことがありますが、この個人の心境が無い話は、現代では成立しないと見なされるのがよくわかりました。日本でいえば、大正時代の教養主義っていいますか、そういうのがある時期を境にして全く消失してしまった現象に近いような気がします。

 ご確認された、脚色の件と、評論家評はそのとおりです。ということで、概ね意見としては書き終えましたので、ここまでを補足としたいと思います。
 
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この回答へのお礼

すっかりお忘れの質疑と恐縮です。
何かちゃんとした返答を、と思いうだうだとしてしまい、こんな無礼な状況となりました。

全く落としどころに辿り着けず、それこそ空中分解の質疑となりましたが、
私一人では到底得られない視点を様々に提供頂きました事、感謝申し上げます。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/01/03 23:06

 No.5&7&8のブラジュロンヌです。



 調子を出して来られたので もっと出してもらいたいという先輩面を引っ提げて 筆を執ります。

 もっと自由に もっともっと自由に。
 
 わたしの図々しさの百分の一でも持ってくれたらなと思います。これでもわたしはいまだに恥づかしいときには顔を赤らめるのですよ。

 世に出る・あるいは売れるということは――少なくとも生前のあいだに そうなることは―― 作品の良し悪しとどれだけ比例するかは決まっていないと見ます。
 また職業作家の生活の問題は 非常におおきいと聞いています。
 
 村上春樹は まじめな市民が仕事上などで悩みや問題をかかえているというとき その苦悩について現状維持のための――むしろ積極的にもやもや気分の中へ入って行って これでもやって行けるという気休めを得るための――物語だと見ています。作品としては成っていないという評価です。
 登場人物ももやもやですし かれらと対等の関係を持ち得ません。

 水村美苗の『本格小説』の落とし穴は けっきょくあなたの【Q:ポルノという存在】の問題だと見ています。ずばり 意志行為そしてその互いの確認 これを外して性愛行為に到るという問題です。
 女主人公のほうから仕掛けましたね。最初は 男ははねつけました。第二回は どのようにかは分からないまま 申し出に応じました。

 例によって いぢわる魂は健在ですので言いますが 主人公ふたりの関係は 痴漢行為と変わりません。よくもこんな作品を売ろうとしたものだと考えます。
 そのことが あなたの【Q:ポルノという存在】のご質問が重要な問題をはらんでいるように 重大な問題であることと 物語として成っているかどうかということとは それぞれ哲学思想と文学とに当たり とうぜん見方扱い方が違うと言うべきです。

 ああーっ 一気にすっ飛びました。

 書き手と登場人物とのあいだに・したがってまた読み手とのあいだに 対等の関係が出来ているか。これは 最重要課題だと考えます。
 これを外して のらりくらりポスト・モダンだの何だのの思想(?)を散りばめて作文を書いても 何にもなりません。《呼吸》していません。
 これは 挑戦状です。ほかの回答者の見解と違った内容の回答を寄せたところ けんかになって訣別しているという経験のさ中にわたしはいますが これは これも 重大な問題だと考えますのできちんと明らかにしたいと思います。
 ここで逃げるひとと逃げないひととがいるようです。

 世の中を上手に丸めこんで波風を平気で立てまくっていた勢力が退きました。のらりくらり調の作文をもってよしとする考えが そのような波風をむしろ助長していたのではないでしょうか? ちから無き者は引っ込めというわけです。わたしたちは 波風を立てようと思ってなら こういう挑戦などするわけがありません。
 ここに文学があるのではないでしょうか。作中人物が生きるも死ぬも こういう問題であるのではないでしょうか? 春樹は ここで《そのまま 死んでいなさい》という神託を書いています。いつかよい時が来るだろうからと。
 美苗は 作品としては失敗ですし 評論としては問題提起をしているだけです。回答能力にとぼしいと見ました。(『日本語が亡びるとき』はまだ読んでいません)。スノビズム つまり おしゃれ志向なのではないでしょうか。

 すっ飛びがとまりません。
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この回答へのお礼

すっかりすっかり遅くなり過ぎて、大変に無礼を致しました。
情報過多に陥ると途端に思考停止、言葉を失う悪癖があります。
大した情報量とも思えないのですが、余程私の頭は片付けが下手と見えます。
申し訳ありません。

村上春樹について、
>登場人物ももやもやですし かれらと対等の関係を持ち得ません。

との事ですが、
これは「一個の人物」として成立するには、描写が足りないという意味なのでしょうか。

村上春樹は二作品を読み、それだけであまりにも揺さぶられてしまって、
その他の作品に手を出せずにおります。
ですが、作品以外の言動等のニュースと、漏れ聞く新作の内容で、
「見事に気負わず書く」方なのかな?と見ております。
流れるものを流れるままに、と言う意識の強い。。。

「見つめる」と言うよりも「眺める」と言うような。
でも、眺めると言う言葉の含む、傍観者的/遠近的な感じは受けません。
もしかして、とてもとても他者との境界線が曖昧な方なのかな?とすら思います。

比較対象として、美苗さんの作品は、人物の輪郭がはっきりくっきり。
でも、人であれ物であれ「対象をしっかり把握する」には、観察者の人格が必須かも知れません。
鏡(観察者)の質によって、映し出される像が変わって来ます。

「本格小説」は、実は「あり得ない/作り得ない」作品。。。?
人間が対象物を「立体に見る」事が出来るのは、左右の目が違う像を写しているから。
そのように「違う像を組み合わせてあぶり出される立体像」がこの作品には存在しない。

対象物(東太郎)→鏡1(冨美子)→鏡2(祐介)→鏡3(美苗)
これで三面鏡が完成してしまいます。
三面鏡の外側(=読者)へ向かって飛ぶ光が存在しない。

作品中の人物も、やはり現実の「物理法則」を踏襲しなければ、実体と言うか実権?を持ち得ないのかも知れません。
観察者を作者に置くか?読者に置くか?と言う趣向?の違いもありますね。
美苗さんは作者において、春樹さんは読者、かな。。。

ああ、どうしましょう。。。
そろそろ締めなきゃ、とやって来たのにまたネタをほじくり出している気がします。。。

回答、本当にありがとうございました。

お礼日時:2009/12/03 22:55

 補足をありがとうございます。



 よくよく見ると、どうも僕の投稿についてNo.8にコメントを頂いていますね。ご感想は尤もだと思うし、「真面目にあからさまにこれは《失敗作だ》とこのQ&Aの場で書いたことがあります。」という興味深いコメントを頂いたんで、それに絡めて書いてみましょう。

 視点はなぜ、ブラジュロンヌさんに「失敗」という表現を書かせるだけの力を、この作品が持っていたかという点です。また、ご質問者様の『「恋物語」としては、「秀逸とは言えない」』という表現にも絡んでくると思います。

 つまりここで言いたいのは、「○○としては」と、読者に無警戒に言わしめる作品性についてです。

>この物語はこの物語の形を借りた、何らかの「実験小説」なのかしら?と感じました。

 ここでしょうね。実験という表現に、少し笑みを浮かべました。実験というのは観察とは違って、対象に何らかの操作を加えます。その点で、対象そのものを追跡しようとする試みとは違いますよね。

 あの作者のスタンスは一貫して、仰るように対象を外から見ようとするものだと思いますが、それゆえ読者にとっては、どうも完成されていない作品――何か足りない感じ――という印象が残っている。その足りなさを埋めるのが、実は小説の真の目的、あるいは読み手の質なのではないかという質問者様のご推測だと思いましたが、その理由付けとして、作者はその目的を露にしないために何らかの操作を加えているに違いない――という推論から「実験」という表現が出てきたように思います。

 実験なのでしょうか。もしもそうだとしたら、ご質問に絡めて答えると、やはり作者は存在するのだと思います。けれども僕は、そう思えないんです。むしろ、

 この作品はすごいと僕が思ったのは、読者に「実験」だと思わせるに足るだけの作者の存在が織り込まれていた点です。幻想の作者は、物語の検証不可能性によって裏付けられています。つまり、なぜ作者はこの挿話を入れたのか、なぜ登場人物にこう語らせるのかという、答えの見つからない事柄から、それを総括している何かが読者のなかに根拠付けられるのと同様に、この作者は何も語らないことによって、強く自己主張しているのだなと、こう読めたわけです。

 要するに、作者は模範的小説家ではなく、根っからの評論家なんですよ。評論家にできるのは、観察だけです。けれども、誰が観察しているのかという点をすっかり読者に委ねてしまうと、とても面白い話になるのだなぁと思ったりしたものでした。――こう書いても尚、「そうかなぁ」という疑問が拭い去れないだけの力は持っている作品だとは思いますよ。

 なぜタイトルが『本格小説』なのかを考えれば、はっとすると思いますけど。
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この回答へのお礼

回答頂いてから十日も過ぎてしまいました。
無礼をお許し下さい。

>なぜ、ブラジュロンヌさんに「失敗」という表現を書かせるだけの力を、この作品が持っていたか

はい、良くも悪くも論議になる作品と言う物は、それだけで「価値/力がある」と考えられます。
きっと「失敗は成功の母」と言う言い回しに通じるものがあるのかと。

>作者はその目的を露にしないために何らかの操作を加えているに違いない

はい、その通りです。
ええ、と、ri_rong様は「操作していない」とお感じなのですね?
ひたすらに「観察」である、と。

>なぜタイトルが『本格小説』なのかを考えれば、

何とも無味乾燥で味気ないが故に、やたらとそそられる(笑)題名ですよね。
およそ「小説らしくない題名」です。
この題名について、作者自身でも他の誰かでも、何か語っているものがあったら読みたいものだ、と思います。

>誰が観察しているのかという点をすっかり読者に委ねてしまう

委ねられているのでしょうか。。。
冨美子さんの観察を、祐介が聴き取り、美苗さんに伝える。
つまりは「観察者=冨美子」ではないでしょうか?

ん、、、私の理解が足りないでしょうか。。。

勿論、「観察」を第三者に語る、その行為で既に「脚色」がなされてしまう。
更に、聴いた事を更なる第三者に語る時点で「二重の脚色」。
更に更に、「筆記者」が書き留める。
。。。先程の「操作」は「脚色」を置き換えても良いのかも知れません。
(違うと思われる点はご指摘下さい。)

其処で疑問に挙がるのは、「小説って、何?」です。

精神的作者?が(頭の中で)想像/創造した物語を、
物理的作者?(変な表現!汗)が筆記する。
「想像/創造」と「筆記」の間に、必ず「脚色」が存在する、と言うのは正しいかしら。。。
どう思われますか?

そう考えると、
その「操作/脚色」を出来るだけ排して「筆記」しよう、と試みたのがこの「本格小説」となるのでしょうか。。。

>根っからの評論家なんですよ

とのri_rong様の言葉の意味はこれであっていますでしょうか?

本は、読後すぐ!よりも、しばらく間を置いて思い返すと色々と考えられて面白いです。
再度の回答、本当にありがとうございます!

お礼日時:2009/09/26 20:58

 No.5&7 ブラジュロンヌです。

文学は――あっ ユッキンさん こんにちは―― ユッキンさんの親しむべき庭であるようで ゆづれぬところはゆづらないというお心意気がそこここに たのもしくさわやかに伝わります。

 ★ 空中分解
 ☆ の問題を考えました。ひとつ はたと膝を打って分かったと思うことがあります。
 ユッキンさんのご経験でのことは推し測ることができていませんが
 ◆◆ (No.2) 登場人物が勝手な行動を取りだして思わぬ展開になった
 ☆ という点で考えたものです。この意味での《空中分解》の問題は おっしゃるような・作品が仕上がらなかった場合というよりは むしろ仕上がった作品の中にそういう落とし穴がある場合を言うのではないか? そう言ったほうが的を射ているのではないか? というものです。
 それもこれも ほかでもなく No.3で挙がった
 ○ 水村美苗:『本格小説』
 ☆ のことに衝き当たったからです。この作者に何のうらみもありませんし No.3の ri_rong さんは じつはこの質疑応答の場をとおして成ったわたしの友ですし――だから何でも言いたいことを言おうとしているとも言えるのですが―― 腹に含むところがあって言うのではないとお事割りしますが 次のユッキンさんのご批評にわたしは同感です。
 ★★ (No.3補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「恋物語」としては、「秀逸とは言えない」と感じてしまいました(生意気な!汗)。
 その感覚故、「実験小説」と言う感想が浮かびました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしはすでに――衆目の一致するごとく 面の皮が人一倍厚くできていますので―― 真面目にあからさまにこれは《失敗作だ》とこのQ&Aの場で書いたことがあります。
 ☆☆ (【Q:《ぼく(僕)》という呼び方は いいんでしょうか?】No.14お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5206251.html

 一言でいえば 本格的な大河小説にして失敗作です。
 二言でいえば 人間観察が鋭く深く追究されていて しかも肝心のところでこれを避けている。
 三言でいえば まづ人間が描かれています。心理分析は言うに及ばず これが人間だという思索のあとを散りばめ しかもそこに無理がなく 読者はじゅうぶんにゆったりと自由に遊べる。ここぞと言うところで それが欠けている。よく言えば読者の想像に任されている。
 四言でいえば 人間観察においてこれでもかこれでもかと読者を引っ張って行きながらまるで読者と競うかのごとく その人間観察世界選手権大会を開催しているかのようです。《なぜこう考えそうしたか》 きちんと考察が行き届いています。ただひとつの事件を除いて。
 問題点としていえば――これは 恋愛小説なのですが―― なぜこのとき男は女に また女は男に このように振る舞ったのか。これについての分析・説明が大事件のところで足りません。旧い言い回しでいえば 九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に欠く だと思いました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ユッキンさんの批評内容とそのまま同じかどうかは分かりませんが こういう批判です。
 もう少し具体的には 主人公の男女が採った態度は どういう恋愛なのか決して明らかになっていないと思います。まるでそこだけ特に男のほうの意志が欠如しているかのように振る舞ったと思えるからです。
 ★★ (No.3補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 散々冨美子の語りを聴いた後、冬絵の俗っぽい憶測話を聴かされるくだり。
 この場面が、その「妙に冷静な外側からの視点」を一番強調しているようにも思いました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりわたしはこの《憶測話》を 作者は事実として言い添えていると見なした結果 上のように結論づけたものです。事実でなければないで 主人公の東太郎は 結婚ではないかたちで付き合う選択についての自分の考えを明かしていません。作者が明かし得なかったのだろうと考えます。
 したがって この作品は 終えられたところで 問題が明らかになり そこで初めてほんとうの作品が始まるというべきものだと考えます。つまり もしその続編が書かれていないのであれば 《空中分解》してしまっている。と言わねばならないのではないでしょうか?

 ★ 作家と創作作品中の人物の関係。
 ☆ 成っていない場合は 成っていないと言わなければならないし それは なお創作過程にあるということだと見ます。
 作品として成ったなら 成ったということは えも言われぬかたちの互いに対等の関係であるのだと思います。そしてそれなら 読み手も同じく これら書き手や登場人物と互いに対等の関係で親しむことができるということではないでしょうか?
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この回答へのお礼

遅れていますし、続けて書き込みます。
度々の丁寧な対話に感謝申し上げます^^

私の個人的かつ間抜けな「空中分解」の話と、美苗さんの「本格小説」と並べて考察してくださるなんて、、、光栄ですけれど恥ずかしい。。。
さて、
私の場合は、まさに「分解」してしまって仕上げる事が出来なかったので、何とも言い難いのですが、
きっと「落とし穴」に気を取られ過ぎた事、が分解の原因なのかも知れませんね。まさに「墓穴を掘る」と言う。。。

方や、美苗さんは「落とし穴」を落とし穴のままにして、書き続けた、と言う事なのかも知れません。
(あーーー恥ずかしい。。。汗)

ところで、その「落とし穴」がそのまま
「失敗作の失敗作たる所以」になるか否か?はまた不明です。

>一言でいえば 本格的な大河小説にして失敗作です。
>二言でいえば 人間観察が(略)肝心のところでこれを避けている。
>三言でいえば 心理分析/思索がここぞと言うところで欠けている。
  よく言えば読者の想像に任されている。
>四言でいえば 分析・説明が大事件のところで足りません。
(ちょっと文章をいじりました、申し訳ありません)

上記の点、私が「秀逸とは言えない」だの「詰めが甘い」だのと感じたのは、他ならぬその点なのです。
但し、大切な事は、その「落とし穴」が存在するから、「実験小説」と言う感想が導かれて来た、と言う点なのではないかしら?とも思うのです。
言い換えれば、「実験小説と言う感想」を導き出す為の道しるべとしての「落とし穴」です。

一体、「作品の善し悪し」とは何だろう???と悩んでしまいます。

志賀直哉の「赤西蠣太」はご存知でしょうか?
あの作品にも「他に何かある!」と言う匂いがありました。
まあ、最後の一文がそう言う意味では明け透けなのですけれど。
こちらは「空中分解」とは違うかな、とは思うのですが、何か「似通った何か」を感じます。多分
>読者の想像に任されている。
と言う辺りです。

>読み手も同じく これら書き手や登場人物と互いに対等の関係で親しむことができる

この文を拝見して、何だか楽しい気持ちになりました。
世界は幾つもの「入れ子」で出来ているのかも知れませんね。。。。

あーー話がすっ飛んだかな。。。汗
ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/22 02:28

 yukkinn66 さん こんにちは。

No.5 ブラジュロンヌです。つながりましたので さっそくですが ひとこと反応します。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「読者を想定しない」作品、と言うものがあるように感じています。
 まるで「呼吸の一方法」として、と言うか、
 「必要に迫られ」て「血を吐くように」綴られた作品、と感じるものに幾つか出会ってきました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この主題についてですが わたしは 作品には二種類あると考えています。
 (α) 《まるで「呼吸の一方法」として、と言うか》 内面の要求と《「必要に迫られ」て「血を吐くように」綴られた作品》 および
 (β) 職業として書いた作品
 ☆ そうして これら創作の動機に関する分類のあと あらためてその作品をどう捉えるか。この観点からは 次のように考えます。

 1. 極めて煮詰めた段階に到って言うとすれば 作品の良し悪しは (α)(β)の分類にはよらない。どちらにも いいもの・より少なくいいもの・そしてわるいものがある。

 2. (α)についてですが ひとが社会にあって生きている限り その創作ないし表現行為は 《呼吸》と同じことだとすれば やはり他者はいると考えます。
 読者を想定していないという作者の心づもりであっても とどのつまりでは 読み手がいることになると言ってよいし むしろ言わなければならないのではないか。
 そうでないと 作品とは言わないのではないでしょうか? 
 自己表現は すでに文体行為として(=言葉を伴なう身体の運動として=生きることとして=呼吸として) ひととの対話を前提していると言っていいと思います。その過程における文章のひとまとめであれば それを作品と言う。
 こう考えますので ひとこと 取り急ぎ述べました。どうでしょうか?

 そのほかの主題につきましては 追って考えます。
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この回答へのお礼

ぶらじゅろんぬ様、こんばんは。
すっかり遅くなってしまい、申し訳ありません。

頂いた回答、、、同意です。^^
私が惹かれ呑まれる作品とその作家は、(α)の方が多いようです。
更に、先の回答での城島さんのおっしゃられて居る事は主に(β)についての考察に思えましたので、不必要に偏った表現になってしまった事、反省します。

>1についても、その通りと思います。
良くある「ライトノベルと純文学の優劣」のような論点も、この
>極めて煮詰めた段階
においては、全く優劣無し、とも考えています。
ま、結局、「ひとまず世に出た格好」がライトノベル、と言う見てくれであるだけ、と思いますので。
出版社側、編集者側の思惑と、作家の思惑、もっと言えば「作品の価値」にも、かなり齟齬や温度差がありそうです。。。

>自己表現は すでに文体行為として ひととの対話を前提している

その通り。。。と思います。
言語化を試みた時点でそれは「対話の始まり」ですね。

>その過程における文章のひとまとめであれば それを作品と言う。

はい。
あ、、、この「作品」とは、「世に出ている、出ていない」を問いますか?
つまり、
「手元のメモ帳に思い付いて書き留めた詩」も「作品」ならば、
「詩集として本になったもの」も「作品」ですよね。

ぶらじゅろんぬ様はどうお考えでしょうか。。。?

ついつい、何につけても「売れるか?売れないか?」を考えてしまう辺り、
日々の家計が透けて見えてしまいますねえ。。。笑

お礼日時:2009/09/22 01:49

yukkinn66さん、こんにちは。



ご丁寧な「回答へのお礼」、恐縮いたします。

思うに、小説を《制作前》の動機、構想、主題の側から眺める場合と、《制作後》の結果の側から眺める場合とでは、全然違った意義、価値、面が見えてくるのではないでしょうか。
また、もし小説を自立的(歴史的、言語的、相対的)な言語テクストと見なそうとすれば、当然ながら、小説は作者にも読者にもクールで素っ気ない表情しか見せようとしないはずです。
要するに、一篇の小説を作者、読者、時代・社会のどれか一者の専有物と見なそうとしても無理だということになります。


>こう言う疑問が湧いた時は取り敢えず「小林秀雄!」ですかね。。。^^

小説に対し、どんなストーリー、内容が書かれているか?、どんな趣向が凝らされているか?といった興味・関心を抱きたがる人には、小林はつまらないでしょうね。
が、なぜ「書き手」はよりによってこんな小説を書いたのか?、なぜ「読み手」はよりによってこんな読み方をするのか?といった疑問に駆られる人には、小林は有益な示唆を与えてくれると思います。

>三島由紀夫は川端康成と並んで、私の「苦手な作家」の意識が濃厚です。汗

はい、yukkinn66さんは慧眼の持ち主だけに、一見作風や性格が全然異なっているかに見える両作家に通底する、イヤらしい、隠微な正体をしっかり見抜いていられるのだと思います。
思うに、二人ともどうしようもないネクラなニヒリストで、本音では汚辱に充ちた、ヤクザな娑婆を生きるのが苦痛でならなかったのではないでしょうか。

>でも、三島由紀夫は「美に対するこだわりの強さ」は感じておりますので、今回ちょっと頑張ってみます。読んでしまったら意外にハマるかも知れませんし。

彼は、「美」がとてつもなく尊大で傲慢である一方、優しい慈母のような一面をも併せ持つという、その両義性について誰よりも知悉していたと思います。
でも、両者の蜜月の関係が終わったとき、一方は他方に捨てられざるをえませんよね。
なお、三島由紀夫というのは、決して威勢の良い右翼でも、天皇主義者でもなく、大嫌いな娑婆を生き延びるために、仕方なくそういう鎧で自己防衛せずにはいられなかった、その意味では芥川や太宰と同類のヒッキー御用達作家だったような気がしてなりません。

>書き手が人を一人、描き出してしまったら、それはもう「一個の人格」として実在人物と対等の存在、と感じてしまうのです。

おっしゃる通りです。
ただし、これは「対等」云々という問題ではなく、むしろ「書き手」には与り知らぬ、どうでもいい問題ではないでしょうか。
たまたま、ある読者がその作家の熱烈なファンであり、盲目的な崇拝者である場合、しばしば「読者=主人公=作者」という妄想を作り上げたがるにせよ。

>でも、もう少し中立な視点を持ちたいとも思います。
>作品を「外から眺める」と言う視点。。。

おっしゃることは分からなくはないですが、yukkinn66さんに限らず、実際に読書が進行中には、誰しもただ作者の手玉に取られ、言葉の魔術にダマされるしかないし、そうでないと第一小説を読む面白さも興奮も味わえないような気がします。
その後、心地よい興奮が収まってくると、それと入れ替わるようにして、「あの夢は一体何だったのか?」という不思議に駆られ、これに応えるようにしてめいめいの批評(=反省)活動が始まるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

すっかり遅くなってしまいました。。。大汗
再びの丁寧な回答、ありがとうございます。

この手の質問でkadowaki様に何度もお世話になっておりますが、
回答を頂く度、「物語の読み方」もっと進んで「言葉の読み方/言葉との向き合い方」と言う辺りの難しさ、奥深さがじりじりと身に迫って来ます。
そして、そんな曖昧な事柄を他人に説明出来るkadowaki様の言語化能力にただただ感嘆するのです。。。

説明って、難しいですね。。。涙

>一篇の小説を作者、読者、時代・社会のどれか一者の専有物と見なそうとしても無理だ

はい。
ひたすらに「万物流転」。。。
人間は目の前の「モノ」を認識し知覚する為に生み出したのが「ことば」だったのでしょうけれど、所詮言葉は「ハサミ」の役割。
世界の流転を表す事は不可能なのかも知れません。。。

先日やっと図書館から、ジイドと三島を取り寄せました。
読んでから何らかの「掴んだもの」を報告しようと考えているのですが、
んーーー気の長い話です。汗
一度締め切って、新たに質問を立てるかも知れません。

三島由紀夫については、作品は苦手ではあるけれど、何となく「無邪気な愛すべき人間」と言うイメージも何故か持っているのです。。。
理由は自分でも分かりません。。。ハイ、とにかく読みます。

作品に取り込まれ、踊らされ、夢心地で読み進む楽しさが、
読後の批評/反省活動の目を曇らせる訳では無い、と言って頂けて安心しました。^^
いつも我ながら怖くなるくらい「どっぷり浸かってしまう」ので、良くないのかな、とも思っておりました。。。

いつもありがとうございます。^^

お礼日時:2009/09/22 00:06

 yukkinn66 さん こんにちは。

お邪魔します。

 友に作家がおりまして この質問についてのわたしの考えを書いて送ったら 自分の考えを書いて送り返して来ました。どうなんですかねぇ。宣伝までしていますが 回答としてお伝えしたいと思います。
 ○ = bragelonne
 ● = 城島明彦

 ○ 生まれつきの作家は 読者なり編集者なりの要請や要求に いかようにもと言うほどに答えることができる。
 ● この前のメールで貴君にお伝えしましたが、『横濱幻想奇譚』のなかの「横濱ステーションの陸蒸気」は、編集者がポロッといった「押入れの隅から、古い切符が出てきたら」という一言がきっかけ。それ以外のストーリーはいっさいないところから、話を創り上げました。

 ○ それは何を意味するか?
 ● 小説は、想像力を駆使して無から有を生む創造作業といえる。そこに描かれるのは、作者の空想・想像による非現実的な世界でありながら、そういう世界があたかも実際に存在するかのように(読者に思わせるたいと願いながら)創造する起承転結がある物語が小説、ということになるのでは。

 ○ それは ひとつには 人物像というものが おおよそはすでに頭の中(もしくは心の中)に芽を吹いて来ているので それを 思うようにではないとしても 動かしていくと同時に その人物像のおのづと動くままについていく。

 ○ もうひとつには 身も蓋もないことだが いわゆる《機械仕掛けの神》というごとく どうしても話の筋に必要だとすればその必要な限りで 別の人物を登場させたり 新たな事件を起こしてみたりして さまざまな形で その筋を前へと進めさせるものである。
 ● まったくその通りです。

 ○ ただ しかもそうであると同時に(もしくは そうであるにもかかわらず) 出来上がったあと あぁこれは我ながらいい作品だという場合には 人物群像なり情況なり自分(作家)の筆なりがおのづと話の先へ先へと歩いていくときである。
 ● その通りです。筆が進まない人物やどうもしっくりこない情況設定であると作者が感じている場合は、どこかがおかしい、間違っているといってよいでしょう。
 しかし、プロなので、そういうことを読者に感じ取られないようにカムフラージュした書き方をします。それでも見破る読者がいると、作者は「しまった」と思います。

 ● 小説には、ノンフィクションをテーマにした、つまり実際にあった事件・出来事、実際に存在する人物をそのまま小説に登場させる場合と、まったくの想像上の出来事や人物、すなわち創造された物語や人物が登場する場合の二通りがある。
 (さらに細かくいうと、実在した事件や人物をモデルとして描く小説もあるが、その事件や人物のすべてを克明に知ることは不可能なので、その場合は、わからない部分には想像と創造が加えられることになる。)

 ● 書き手(作家)は、「この本は、あるいは、この場面は、こう読んでほしい」「このセリフから、こう感じてほしい」などという狙いをもって小説を書き、登場人物を動かしているが、読み手が必ずしもその通りに読んでくれるという保証はない。

 ● 作家が意図したように読まれない場合は、作家の腕が悪い、文章力がなかったということになる。
 意図した以上に読者が深読みして、思いもよらなかった個所をほめてくれる場合は、作者はうれしいが、逆に深読みされて批判された場合は、「何をいっている。もっとちゃんと読んでくれよ」と文句をいいたくなる。

 ● 本当は、こういうことを伝えたかったのだが、読者がそう理解してくれなかったば場合は、書き方が悪かったか、読み手の理解力が不足していたかのどちらかといえるが、どちらが悪いかといえば、読み違えるような書き方をした作家の方が悪い。

 ● しかしながら、年齢も性別も経験も百人百色なので、小説のなかの同じ一つのせりふでも、違った意味に解釈されても、しかたがないところもあるし、そうされても構わないところもある。

 ● 登場人物は、作者が作り上げたものだが、実際に書き進めていくと、つまり、「人物が動き出す」と、当初設定した性格や行動、言葉づかいなどが違ってくることが多い。つまり、計算どおりにはいかないのである。そこが面白いところだ。
 当初設定した人物を物語のなかでどんどん書き進めていくと、「この人物は、当初設定したような行動は絶対とらない」というような場面も出てくる。そういうときは、前に戻って、訂正しなければならない。
 極端な例をいうと、冷酷な殺人鬼として設定した人物が、物語を書き進めていくと、「こいつは人を殺せるような行動は絶対に取らない」というようなことまで起きてくる。
 「ある登場人物はコスモスが好き」という趣味の設定でスタートしたが人物を書き進めていくうちに、「この人物が好きな花は、楚々としたコスモスなんかではなく、華麗なバラだ」にした方が「実在感」があるように思えてくる。こういうことは、小説を書いている人なら誰でも経験していることである。

 ● 「人物が動き出す」とはいっても、作者が創り、動かしているのだから、書きながら、その人物を軌道修正しているということになる。たとえば、Aという人物には兄弟はいないという設定でストーリーをスタートさせたが、話を面白くするために、あるいは話を複雑にするために、途中で軌道修正し、兄弟がいるという設定に変えることなどは、よくあることだ。

 ● どんなに人物が動きだしても、登場人物が勝手に暴走し、作者の制御不可能になるということは、絶対にありえない。博士が作ったロボットが、制御不可となり、人口AIが勝手に指令を出すという事態は、作家がクスリでもやらない限り、起こりえない現象である。

 ● こういうことを知りたい場合は、作家や評論家が書いた「小説の書き方」といった表題の本や (川端康成、三島由紀夫ほか文豪と呼ばれる人が書いた)「文章読本」のたぐいを読めば、書き方がストレートか抽象的かの違いはあるだろうが、大体、書いてある。格調が高い著名作家の本は、概して、わかりにくい。大学で学ぶような文学論には、こういう実学的なことは書かれていない。
 こうしたことは、創作術に関する領域になるので、カルチャーセンターあたりの「小説講座」で教えてくれる。
 (EX. 城島明彦は、「早稲田シナリオ義塾の渋谷校」で「小説・創作講座」を教えているが、その講義内容は、創作技術・創作方法が中心である)。

この回答への補足

ちょっと疑問がありましたので、思うままに補足欄に書かせて頂きますね。

>作者の空想・想像による非現実的な世界でありながら、
>そういう世界があたかも実際に存在するかのように
>(読者に思わせるたいと願いながら)
>創造する起承転結がある物語が小説

これは、作家さん毎の作風等にも寄るのでしょうか。。。
「読者を想定しない」作品、と言うものがあるように感じています。
まるで「呼吸の一方法」として、と言うか、
「必要に迫られ」て「血を吐くように」綴られた作品、と感じるものに幾つか出会ってきました。

似たような事を村上龍が言っていたような気もします。
「小説家と言うのは、一番最後の職業だ」とか。。。
彼もまさに、「書く=呼吸法の一環」とも言えそうな作家だと感じています。

つまり、「読者の受け取り方」等を考慮する余地が無い、と言う雰囲気。
或は、読者がどう受け取ろうと構わないと言うような、問題提起に似通う姿勢。
(あまり読んでいる作家ではありませんが、菊池寛にそのような問題提起の雰囲気を感じました。)

いずれにしても、読者はある意味正直で敏感ではあるでしょう。
世に作品として出す以上、読者の存在は抜きに出来ません。
でもまあ、それと作家の状態や条件を摺り合わせるのは「編集者の仕事」なのだろう、と私は考えています。
だから、一応、作家は「書きたいから、或は書かねばならないから書いている」だけなのであろう、と私は考えているのですが。。。。

補足日時:2009/09/02 10:44
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この回答へのお礼

すっかり遅くなってしまい、申し訳ありません!
(と、毎度謝っておりますが。。。汗)
お久しぶりです、ブラジュロンヌ様。
回答お寄せくださり、嬉しい限りです。

で、でも!大丈夫なんでしょうか??こんな「名前入り」で!
ちょっと心配。。。。。

>「人物が動き出す」とはいっても、作者が創り、動かしているのだから、
>書きながら、その人物を軌道修正している
>、登場人物が勝手に暴走し、作者の制御不可能になるということは、
>絶対にありえない

そうなんですね。。。
うーーーん。。。いえ、#2の方へのお礼に書きましたように、私は毎度空中分解していたものですから。。。
まあ、中学生から大学生なんて時期は「クスリをやっている」に等しい精神状態かもしれませんが。。。
あ、、、単に私が不安定過ぎたのかもしれません。大汗!

今書いてみたらまた違う動き方をしてくれるかもしれませんね。
でも、その手の創作意欲は今は無いです。

>作家や評論家が書いた「小説の書き方」といった表題の本
>(川端康成、三島由紀夫ほか文豪と呼ばれる人が書いた)「文章読本」のたぐい
>カルチャーセンターあたりの「小説講座」

ふむふむ、その辺から攻めるのですね。^^
それにしても、
川端に三島って、、、、何故に私の苦手な作家が並ぶのでしょう。。。
「万年梅雨!」って感じで。。。。(ま!文豪になんちゅー失礼な!汗)

有意義な回答をありがとうございます!
図書館などで探してみます。
ありがとうございました^^

お礼日時:2009/09/02 10:43

 こんにちは。



 実は、同じような趣旨で質問をしようと思っていたんですが、題材として考えたのは水村美苗さんの『本格小説』でした。

>読み手もだけれど、書き手もこの人を完全に理解しているのだろうか?

 お読みになればわかるのですが、この本には三人の語り手がいます。
 正確に言えば、語り手というよりも読者と作者の入れ子構造が三つあるという感じでしょうか。この作品は(主人公であろう東太郎を話題にして)土屋冨美子の回想を聞いた加藤祐介が、それを作者の水村美苗さんに語り、それを作者が本にした──そういう体裁にはなっていますが、果たしてどこまでが小説であり、どこからが現実なのかということが読者にはわかりません。原作者は加藤祐介の語る物語の読者であり、それを語った加藤祐介もまた、土屋冨美子の読者になっています。

 そのような構造ですから、作者である水村美苗さんは、土屋冨美子とは間接的な関係しか持ち合わせてはいない。そんな作者に、土屋冨美子を語ることができるのだろうか。という距離感が読者には与えられます。でも、読み進むうちにそうでもないような感じがしてくる。むしろ土屋冨美子の物語こそ、作者の実体験なのではないか、そういう現実感がしてきます。そんなとき、

>では、書き手の立場ではどうなのだろう?とふと

 気になるのではないのかな。そんな気がいたします。
 で、思うんですが、書き手などというものは、果たして本当にいるのでしょうか。もちろん、印税を受け取るという人物はいたとして、この物語のなかで作者がもしもいたのだとすれば、それはきっと読者である自分の頭のなかにいるんじゃないかと、そんな気がしました。それで、これを質問してみようと思ったのですが、なんだか似ていると思いませんか?

この回答への補足

ri_rong様、少々遅くなりましたが、
「本格小説」を読破しましたのでお礼と報告に書き込みます^^

昨日の昼間、子どもたちを遊ばせながら公園で「序」を読み、
残りは一気に、今日の未明五時迄読んでおりました。汗
久しぶりに「ふと本から顔を上げた瞬間の凄まじい不安」を味わいました。^^

>そんな作者に、土屋冨美子を語ることができるのだろうか。
>という距離感が読者には与えられます。

はい。同じ事を感じました。
そして、その疑問を没頭している読書中に生じさせる「外側からの視点」と言う、妙に冷静な視点が常に存在している、独特な?小説だな、と感じました。

先程、「本から我に返る瞬間の不安」について書きました。
でも、この「外側からの視点」の存在が、この不安をいつもよりも少し、和らげてくれたようにも感じています。

散々冨美子の語りを聴いた後、冬絵の俗っぽい憶測話を聴かされるくだり。
この場面が、その「妙に冷静な外側からの視点」を一番強調しているようにも思いました。

「真実」は結局の所「不明」で「不完全」のまま終わりました。
でもでも、「物語」と言う物は結局の所「真実」は描けないものなのかも知れません。
真実とは「個々人の目に映る事実」であり、「ものを語る」時点で聞き手にとっては真実ではなくなる。
つまり「物語=事象を外側から見る」事なのではないか?と考え至りました。

「外側から見る」以上、そこには不明な真実?が存在し、不完全理解と支配の不可能があります。
書き手の美苗さんはその「不明な真実」を不明のまま、手を触れずに置き、その真実を中央に据え、そのまま「物語として完結」させてしまいました。

そのある意味での「不自然さ」が、あまりにも「自然に完結した世界」を形成していて、読み終えてしばらく考えてしまいました。

この小説についての情報は、こちらで紹介頂いた事と私自身の感想以外持ち得ておりませんので、ずれた感想かも知れませんが、
この物語はこの物語の形を借りた、何らかの「実験小説」なのかしら?と
感じました。

例えば、
*三重の入れ子構造
*「伝承=聞き伝え」と言う、古来からの手段の現代に於ける限界の検証
あるいは
*純粋に「伝承」を現代の文字文化で再現。。。。等。。。

引込まれて夜明け迄読んだくせに、こう言う感想もどうか?とは思うのですが、
「恋物語」としては、「秀逸とは言えない」と感じてしまいました(生意気な!汗)。
その感覚故、「実験小説」と言う感想が浮かびました。

とても「小説らしくない小説」と思うと同時に、
「やたらと小説らしい小説だった」とも思います。

夢うつつの語りの世界に引込む「求心力」の強さと、
それと反対方向に働く「妙に冷静な外側からの視点」が不思議なバランスを保っている小説だと感じました。

書き手にとっての作中人物、と言うこの質問の課題について、様々な「鍵」を貰える作品を紹介頂けた事、今一度感謝申し上げます。
ありがとうございました!^^

補足日時:2009/08/22 14:13
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この回答へのお礼

ri_rong様、回答ありがとうございます。

>水村美苗さんの『本格小説』
昨日、頂いた回答を拝見して市立図書館に検索掛けたら、何と!一番近くの分館に有るのを発見し、早速借りて来て読んでいます。
まだまだ初めの辺りをうろついておりますが。。。汗

初めの辺りは美苗さんの視点での独り語りなのですね。
今後の展開、表現が楽しみです。
なかなか新規開拓が進まない臆病な私でも読み易く、それで居て深みも有りそうで、教えて頂いた事に心から感謝申し上げます!

>書き手などというものは、果たして本当にいるのでしょうか。

深く深く作品世界に潜ろうと試みると、自ずとその疑問に囚われてしまいます。
「作品」と言う物は、何か大きな意義が有るように錯覚させられているだけで、
実は、読み手である人間を映し出す鏡か虚像でしか無いのかも知れません。

作家や作品から本当に問われているのは「作品の価値」ではなく、
「読み手の存在の質」のようなものであり、
作品と言うのは、こちらから眺めている人間(読み手)の持っている何か/培って来た何かを、日の下に引き出す「鍵」の役割なのかも知れません。

ふと、そんな事を考えました。。。

頂いた回答から、沢山「鍵」を頂いております^^
ありがとうございました!

お礼日時:2009/08/19 16:19

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