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言語相対性理論で有名であるサピア・ウォーフの仮説は、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思います。心理学、哲学や言語学でよく持ち出される理論です。
(Edward Sapir & Benjamin Lee Whorf が唱えた仮説)

引用文がなくて申し訳無いのですが、私なりにこの仮説を次のように理解しております。

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係しており、言語のない思想など存在しない。言語は人間の思想を支配している。」

つまり、自分の話す言葉に存在しない考え方はありえないということです。
よく例に出されるのが、「色」についての捉え方で、言語によって世界観が支配されているので、その言語に無い色は認識ができないという考え方です。

他に例にあげられるのは、「数の数え方」で、ある言語では、4以上の数字は、「たくさん」という言い方しかないと聞いたことがあります。つまりこの言語を話す人は、自分の話す言語によって、「4以上はたくさん」であるという世界観に捕らわれている、ということになります。

最後に、質問の内容ですが、私は個人的にこの仮説を3、4年前に始めて聞いた時は、疑問に思いましたが、最近はなんとなく理解できるようになりました。全く信じているわけではありませんが、まあ一理はあるかな、といったところです。

もし皆様の中で、この仮説に関して賛成、又は反対の意見があるならば、お聞かせ願いたいと思い、質問してみました。どうして賛成又は反対なのかの理由も聞かせていただければと思います。

(参照URL)
http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k020527.htm

A 回答 (3件)

「サピア・ウォーフの仮説」というものは、私は詳しくないのですが、



「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係している。」ことについては、私は賛成します。
私は、言語の語彙のかたよりや、文法構造によって、人の思考のしかたが影響を受けるのではないかと思います(思考のしかたに「遺伝的なもの」が影響するかどうかは、ここでは考えないことにします)。

たとえば、英文を読んでいると、日本語ではとらえることが難しい表現が出てくることがあります。
また、日本語には擬声語・擬音語が非常に多くありますが、これが日本人の思考のしかたに影響していることは大いにありえるでしょう。

例にあげられている、「色」や「数」の話は、こう考えます。
日本語で、「赤」にあたる色は、実際には無限にあるわけですが、そのような「赤」の中で、色の濃淡を識別する事はできるわけです。
でも、その濃淡のある「赤」それぞれについて、日本語では単語が与えられていません。このことが、どう影響するかというと、その濃淡のある「赤」それぞれについて、議論する(考える)ことが難しくなります。
「数」でいうと、4以上の数は数えることができないので、4以上の数はわかるが、議論はしづらい(=考えることが難しい)ということになると思います。

「言語のない思想など存在しない」ことについては、まだ、色々と考えている最中ですが、こう考えます。
「人間は言葉によって考える」のは、確かに事実です。
けれど、物事をオブジェクトとして扱う方法は、言語化だけではないと思います。
もちろん、最終的には、言語化することによって、思考や議論を助けることになるでしょうが。
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この回答へのお礼

tickyさん。ご意見、非常に参考になりました。こんなマイナーな質問に付き合ってくださってとても嬉しいです!感謝してます。正直、誰も答えてくれないだろうなどど予想していました。

確かに、遺伝的なものや、言語のない思想・・という面まで考慮すると、科学的な問題になるので、その辺の知識に乏しいので、私もどれだけ賛成できるか迷うところです。

以前英語のカテゴリーで「日本語に訳しづらい英語の表現」というトピックをたてさせていただきました。たくさんありますね、確かに。(No.515287)
やはり原因は言語と思考の関係にあるということを考慮すると、納得がいきますよね。

>、日本語には擬声語・擬音語が非常に多くありますが
言われてなるほどと思いました。研究してみると面白そうですね。日本人の思考と擬声語の因果関係・・。奥が深そうですね。

言語と思考の関係はかなり曖昧だと思いませんか?「言語が思考を支配している」というのが仮説だったと記憶していますが、もしかしてその逆説も多いに考えられますよね。卵が先か、鶏が先か・・という結論のつきにくい議論に似ているかもしれませんが・・。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2003/04/13 17:04

言語学や哲学を学んだ事の無い通りすがりのものですが、


この質問や回答を読んで創世記のはじめの「初めに言葉(ロゴス)ありき。言葉は神とともにあり。言葉は神であった。…」ってどうゆう意味なのか疑問に思ってたことをおもいだしました。
神様も言葉がなくては存在できないんだな、なんて思ってました。
創世記のこんな解釈は間違っているのは承知してますけど。
回答でなくてすいません。
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この回答へのお礼

みなさまの意見を聞きたかっただけなので、充分回答になっています。makitanさん、ありがとうございました。
私は、創世記の解釈は間違っているとは思わない者なのですが、「始めに言葉ありき・・言葉は神であった。」という事は、言葉=神(The Word was God)と理解しているので、最初に神があったという事と変わりないと思います。因みに、それは創世記の出だしではなく、ヨハネの福音書だったと記憶しています。英語で神のことを聖書で表す際に、頭文字を大文字にします。(例:"Him", "Creator")"The Word was God"とwordの頭文字が大文字になっているのを見ると、言葉は神という見方ができます。
恐らく、神の存在というものは時間的な概念抜きで考えられるものなので、「はじめに」という言葉で神の存在を限定できないって事かもしれませんね。

この件に関しては、もうちょっと宗教的&哲学的な見解が必要ですね。ありがとうございました。

お礼日時:2003/04/19 04:00

サピア=ウォーフの仮説には、言語決定論に立ついわゆる強い仮説と、言語相対論から論じられたいわゆる弱い仮説があります。

言語イコール認識であり、言語によらない認識や思考を認めないという言語観に立つ前者の仮説と、複数の言語間においてそれぞれの言語の立脚するパラダイムの差異を問題にする後者とは、かなり質を異にするはなしです。ソシュールの用語で言えば前者の対象はラングですし、後者の対象はパロールないしランガージュということになります。

質問者氏のまとめでは、この二者がはっきり分別されずに混在しているように感じられて少し即答しづらいところがあります。

二者を一応分けて回答しますが、まず弱い仮説については比較的異論の少ないところでしょう。

我々は言語の分節する力を通じて体系だった世界認識を獲得しているのですが、その分節の網の目は言語によって大きく異なります。ウォーフの研究したホピ族の言語ほど極端な差はなくとも、言語によって世界観や世界の分節のし方が異なることは我々でも外国語を学べば日常経験することです。

言語相対論は文化人類学の知見がもたらした文化相対主義とも連動し、言語の理解を大変深めることになり、言葉に先行して普遍的な概念や実体が存在するという考え方から我々を解放してくれました。また、言葉をものの名前に過ぎないとする思想から決別し、言語を全体の関係性の中で論じようとする、ソシュールに代表される構造的視点を大きく前進させたと言えると思います。

強い仮説については意見の分かれる微妙なところだと思いますが、私自身はかなり肯定的に受けとめています。

一例を挙げるにとどめますが、フーコーが「言葉と物」の冒頭で紹介している例で、テーブルの上に置かれたさまざまな色や太さ、長さの毛糸を、失語症患者はどのようにもまともに分類できない、というものがあります。要は、失語というのは単に言葉だけが失われるのではなく、「長さ」「色」「太さ」といった言葉を失うことでその概念が失われてしまうことなのでしょう。こういった事例は精神医によっても多く報告されています。

言語は単に言葉なのではなく概念そのものである、という風に考えることがその自然な解釈でしょう。誤解のないように付言すれば、「言葉が思考を支配している」というと両者が分離してしまうのですが、本質は「言語が思考そのものである」ということです。

これは余談ですが、参考URLに挙げられている例は、導入としてはわかりやすく結構だと思うのですが、そのために失礼ながら内容が矮小あるいは不適切になっているように感じられます。

たとえば苗字の例は、言葉が価値を規定している問題というより、その本質はもっと文化的なものでしょう。ちょうどレヴィ=ストロースが女性が交換される交差イトコ婚の分析を通じてインセスト・タブー(近親相姦の禁忌)を分析したようなもので、自然と文化を分節するための一種の社会文化的装置として考えるべきでしょう。自己満足なら別ですが、単純に言葉を俎上に上げてどうなるというものではありません。

また、最後のカステラの例は記号論のはなしで、ある単語が流通する際にまとっているイメージについて語っているわけですから、ウォーフの強い仮説はもちろん、弱い仮説の例としても不適切です。この例を使用するのなら、むしろボードリヤールの消費社会論のように、我々はカステラというモノをその純粋な生産価値において消費しているのでなく、その交換価値(つまりその提供のされ方や歴史、イメージを含めたもろもろのコノテーションごと、という意味)において消費している、という例として使うべきでしょう。

役に立つかどうかわかりませんが、過去にソシュールや丸山圭三郎の言語論について書いています。意味があると思われればご参照ください。
http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=261953
「考えるということについて」
http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=463308
『なぜ「知りたい」と思うことが可能なのか?そもそも「知りたい」とはどういうことか?』

以上ご参考まで。
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この回答へのお礼

neil_2112さん、ご投稿ありがとうございます。実を言うと、私のこの仮説に対しては知識など毛頭なく、以前に読んだ本に少し触れてあって心の隅に残っていた程度の知識なので、私の説明もとても曖昧でした。申し訳ありません。本来、私みたいな知識不足の者が、サピア・ウォーフの仮説を解説する資格などは本当はありませんので、neil_2112さんのような知識の豊富な方により詳細に解説していただいて、非常に恐縮しております。また、neil_2112さんのような詳しくご存知な方にめぐり合えたらいいなと密かに期待しつつこの質問をたててみた次第です。

強い説と弱い説というコンテニュアムが存在することも、neil_2112さんにご指摘いただいたおかげで、思い出しました。ありがとうございます。つまり、問題点は、強い方の極論に対してどれだけ賛成できるか、という事になるのですね。肯定的に受け止めていらっしゃるneil_2112さんの意見はとても興味深いものでした。フーコーの例はとても参考になりました。

参考URLは私もすべて目を通さずに掲載してしまい、後半の内容は全く把握していませんでした。この仮説を全く聞いたことのない方が参考になさったらわかり易いのでは、という軽率なものでした。すみませんでした。参考URL後ほど拝見させていただきます。

これからも何卒ご指導の程よろしくお願いします!改めて感謝いたします。

お礼日時:2003/04/14 00:11

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