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小野妹子は聖徳太子の国書を持って隋に行ってどうして生きて帰ってこれたのでしょうか?

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  • 質問者:newtonzz
  • 投稿日時:2009/08/23 22:42
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小野妹子は聖徳太子の国書を持って隋にいって、どうして生きて帰ってこれたのでしょうか?
聖徳太子の国書は「日出る処の天子,書を,日没する処の天子に致す。恙なきや。」で始まっていますが、中華思想の強い中国の王朝では非常に無礼なものと考えられたと思います。特に強大な力をもった統一王朝の隋に行って、対等な関係を示す「天子」を持った国書差し出せば無礼者としてその場で殺されてしまうような気がします。
ところが現実には裴世清を伴い帰国し、聖徳太子の対等外交政策は一応成功しました。高句麗の脅威に対抗するため倭国と手を結ぶ必要があった等の説明を聞きますが、どうもそれだけでは「天子」という言葉の記載のある対等の国書を受け取った上裴世清まで使者として送った理由としては、彼らの中華思想の強さや何百年かぶりの統一王朝の隋の登場といった背景を考えると、説得力がやや弱いと思います。
聖徳太子や小野妹子は隋王朝内部にコネがあったり、彼らの弱みを握っていたのでしょうか? あるいは朝鮮半島出身ではなく、大陸出身の渡来人がブレーンとしていたのでしょうか?

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No.2ベストアンサー20pt

  • 回答者:furupai
  • 回答日時:2009/08/24 12:49

こんにちは。

598年の高句麗との戦いで大打撃を受けたことと、607年に高句麗が東突厥に同盟を持ちかけたことで、隋はかなりの緊張感を持たざるおえなかったのだと思います。

有史以来、争いの絶えない大陸で生き抜くには、かなりのリアリストでなければ無理なのであり、尊厳よりも時には実益を選ぶ柔軟さが必要なのではないでしょうか。
太子は、その絶妙なタイミングを見計らって、国書を送ったのではないのかな。


ご存知とはおもいますが、ブレーンとしては「秦河勝」が有名ですね。
まさしく大陸出身の秦氏です。

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  • 回答者:pri_tama
  • 回答日時:2009/08/24 00:45

 隋書を見て見たのですが、これって対等外交が成立していない気がしませんか?

 つまり、裴世清が倭國に来てその王(煬帝が帝ですから、この時点で格下扱い)と会見した時に、その倭國の王が言った言葉です。

   「我、海西に大隋禮義の國有りと聞く。故に遣して朝貢す。我は夷人にして海隅に僻在し、禮義を聞かず。是を以って境内に稽留し、即ち相見(まみ)えず。今、故(ことさら)に道を清め館を飾り、以って大使を待つ。冀(ねがわく)は大國惟新の化を聞かん」

 私的に意訳すると、「わが国は絶海の孤島で礼儀の何たるかも知らぬ未開の民です。どうか我が国を教え導いて頂けませんか」

 裴世清はこれに対して

   「皇帝の徳は二儀に並び、澤は四海に流る。王、化を慕うを以って、故に行人を遣して來りて此に宣諭す」

 私的に意訳すると「お優しい皇帝は、礼儀を知らない王が変りたいと願っているから、人を遣わし、教え導くと」

 ちなみに、元寇の時(弘安の役の直前)にフバイライ・ハンが日本に降伏するよう送った使者は「宣諭日本使」と称されました…。
 (「宣諭」と言うのはこの様な関係の時に使われる言葉です。)

 隋の側だけの資料だと、最悪韓国に有るような「大清皇帝功徳碑」の様な事を王にやらせた可能性すら有ります…。
 (皇帝の徳を示すエピソードですから、実際に有った事全てを記載していないのかも…。)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B8%85% …

 なお、聖徳太子の国書に対する隋の返書は、小野妹子が紛失した事に成っていますが、とても持って帰って見せられない程に屈辱的な内容だったのではないかとの説まであります…。
 (紛失した事を理由に、小野妹子は一時「流刑」に処せられた…。)

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