幕末の歴史についての質問です。

一橋派 南紀派
尊皇攘夷派 公武合体派 開国派
幕政改革派 幕政保守派

対立構造、関係がよくわかりません。教えてください。よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

こんにちは。


NO1.です。

補足です。

徳川慶喜
元水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の次男は、将軍家御三卿の一つの一橋家に世継ぎがいなかったため、弘化4年(1847)8月1日付けで、12代将軍家慶の命で一橋家の当主になりました。
そこで、慶喜を将軍にと押す一派を「一橋派」と呼んだのです。

御三卿とは:
江戸時代中期に分立した徳川氏の一族である。以下の三家を指す。
田安徳川家(田安家) - 始祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の次男)
一橋徳川家(一橋家) - 始祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)
清水徳川家(清水家) - 始祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男)
将軍家に後嗣がない際に御三家(尾張、紀伊、水戸)に次いで、将軍の後継者を提供する役割を担う。

この御三卿は、御三家とは違って知行地(国)は持たず、将軍家の「家族」として、将軍家から扶持米をもらって生活していました。

そして、将軍家に世継ぎがいない時は、まずは、御三家から選びましたが、実際は、御三卿の方が血の繋がりとしては濃いかったのです。
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No.1さんが、詳しく説明なさってるので、簡単な説明をします。

結構、錯綜するところもあるのですが、バッサリといきます^^

まず、尊皇攘夷派ですが、これはNo.1さんを見て下さい。これだけ別にしましょう。

一橋派と開国派と幕政改革派というのが、ほぼ重なり合うひとつの流れです。

これに対し、南紀派と公武合体派と幕政保守派がもうひとつの流れです。

幕末の幕府政治はこの二派の権力闘争という形でみるとスッキリみえます。

それぞれの詳細はNo.1さんで確認してね^^
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

一橋派 対 南紀派

一橋派とは:
13代将軍の徳川家定に子どもができなかったため、14代将軍に元水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の次男の慶喜(よしのぶ)を擁立しようとした一派。

南紀派とは:
同じく14代将軍に紀州徳川斉順(なりゆき)の子慶福(よしとみ)を擁立しようとした一派。井伊直弼(なおすけ)らの一派。

慶喜は生来の聡明で勉学家でしたので、父の徳川家昭や実兄で水戸藩主徳川慶篤(よしあつ)や越前藩主松平慶永(よしなが)、尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)、薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)、宇和島藩主伊達宗城(むねしろ)、土佐藩主山内豊信(とよのぶ)ら「一橋派」が14代将軍にしようとしました。
しかし、元水戸藩主徳川斉昭とその子慶喜は、倹約家として有名だったため、大奥が粛清される、との噂が流れ、大奥の猛反対にあい、さらには、幕政保守派であり「南紀派」であった井伊直弼が、
「今こそ、私の力が必要だ」
と、13代将軍家定に自ら上申し、大老に就任しました。そして、慶喜の擁立を阻止し、紀州の徳川慶福(家茂)を14代将軍に据えました。

尊皇攘夷派とは:
江戸幕府を廃止して、政権を天皇に戻すという一派。長州藩などが主導。
元々、長州藩の藩論としては、公武合体派でしたが、文久2年(1862)藩士の久坂玄瑞(くさかげんずい)一派が長州藩の主導権を握ると、一気に「尊皇攘夷派」へと傾倒していきました。

公武合体派とは:
朝廷と幕府が手を握って政治を行う、と、言う一派。井伊直弼らが主導。

開国派とは:
これまでの「鎖国状態」を打破して、外国との通商条約との提携により、富国強兵を目指そうとした一派。長州藩の桂小五郎や村田蔵六(大村益次郎)など。

幕政改革派とは:
諸外国からの開国要求も盛んとなっていったため、対外政策に関しても改革を行う必要が叫ばれた。水野忠邦失脚後の政局は土井利位、ついで阿部正弘が担うことになる。
嘉永6年(1853年)にペリー艦隊が来航した直後、将軍家慶が死去し、病弱な13代家定が後を嗣ぎ、翌年の日米和親条約締結に伴う政治的混乱の中で、阿部主導による安政の改革が行われた。外様大名(薩摩藩の島津斉彬)や親藩・御三家(越前藩の松平慶永や水戸藩の徳川斉昭など)の幕政への参入や、長崎の海軍伝習所の設置などが行われるが、阿部は安政4年(1857年)、39の若さで死去してしまう。

幕政保守派とは:
開国をしない、とする一派。井伊直弼らがいたが、井伊もついには改革派となる。

(まとめ)
老中阿部正弘
13代将軍家定の重臣、老中阿部正弘が米国の総領事ハリスと通商条約締結に向けて話し合いをしていた最中の安政4年(1857)6月17日39歳の若さで急死をした。

井伊直弼
井伊直弼は、自ら「諸外国とうまくやっていける」と、将軍家定に直訴をし、安政5年(1858)4月23日に大老に就任した。
井伊は就任早々の5月1日には、家定に次期将軍を紀伊家徳川慶福(よしとみ=14代将軍家茂)とすることを承認させた。
この背景には、大奥も大いに関わっていた。一橋慶喜は水戸の出身で英才でもあると同時に「倹約家」でもあり、慶喜が将軍になると、大奥の粛清が図られる、と、反対意見が多かったため、実権を持たない家定よりも大奥を敵に回すことは、自らの「保身」にはならない、と考えた。
井伊直弼は「尊皇派」で、阿部正弘から引き継いだ米国との交渉を慎重に進めていた。しかし、6月16日、ロシアの軍艦アスコルド号が下田に入港したのを受けて、米国との交渉担当であった岩瀬忠震(ただなり)と井上清直(きよなお)は、米国の、
「時間はきわめて切迫している。我々と手を結べば、日本と友好的に行動することを誓約する」
との説得で、直ちに、老中堀田正睦(まさよし)に報告。堀田は同じ老中の松平忠固(ただかた)らと夜を徹して話し合いが行われ、二人は「即時条約断行論」を唱えた。そこで、井伊は、とりあえず、
「調印の延期ができるかどうかを打診せよ」
と、岩瀬と井上わポーハタン号に6月19日に送った。
ところが、二人は井伊の命に反して「調印」をしてしまった。
井伊は、しかたなく、6月22日、江戸在中の諸大名を登城させ、条約調印を発表すると同時に、即時調印断行を唱えた堀田と松平の二人を老中から解任し、井伊と対立する一橋派の攻撃を交わそうとした。
一橋派は、これに対して、翌23日、登城し、
「同じ尊王論者であるのに、なぜ、調印をしたのか」
と、責任の追及をした。
この事件は「一斉不時登城」と呼ばれ、登城日でないにもかかわらず登城をし、この時登城したのは、水戸斉昭、慶篤(よしあつ)親子や尾張慶恕(よしくみ)、松平慶永(春嶽)らで、井伊よりも家格が上位であったため、井伊はひたすら平身低頭する以外に道はなかった。勢いに乗った一橋派は、24日にも不時登城をし、井伊を吊るし上げようとしたが、井伊は、
「将軍後嗣に、朝廷の承認がおりて、紀伊慶福が正式に決まった」
と、切り出し、一橋派の出鼻をくじいた。

安政の大獄
怒り心頭に達した井伊は、安政5年(1858)7月5日、水戸斉昭に「急度慎(きっとつつしみ)、尾張慶恕と松平慶永に「隠居・急度慎」、一橋慶喜と水戸慶篤には「登城停止」を将軍家定の名で命じた。
これが、世に言う「安政の大獄」で、尊皇攘夷派や一橋派の大名、公卿、志士(活動家)ら、連座した者100人以上にのぼったと言われている。この時、吉田松陰や頼山陽、橋本左内らも投獄、処刑された。
さらに、井伊は、7月6日に家定が死亡したことを隠したまま、7月8日には、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの五カ国との「修好通商条約」を締結した。
家定の死は8月8日に発表され、即日、14代家茂が将軍となった。 
安政5年(1858)8月8日には孝明天皇の勅諚(戌午の密勅=ぼごのみっちょく)が水戸藩に下された。その内容は、米国はじめ英・露・蘭との修好通商条約調印を批判し、水戸・尾張両藩主らの処分の影響を心配し、幕府は徳川三家以下諸大名と群議して、国内治平、公武合体、内を整えて外国の侮りを受けぬ方策をたてるようにというのであった。この勅諚は、幕府にも下されたが、水戸藩に対しては、徳川三家はじめ列藩にも伝達するようにとの添書がついていた。
なぜ、朝廷は水戸藩へ勅諚を送ったか。それは、一つには、斉昭の正室が有栖川宮織仁親王の九女・吉子女王(よしこ)であったためと思われる。
朝廷から、政治的な勅諚が幕府抜きに、直接藩に下されることは、前例がない。幕府は水戸藩に勅諚返納を命じたが、藩内の改革派、特にその過激派は、あくまでもこれに反対した。他方京都では勅諚降下に反対した親幕府の関白九篠尚忠(ひささだ)が辞任に追込まれた。さらに、8月10日、長州、薩摩など13藩に勅諚が伝達された。このことに広く深く公卿や尊攘志士等が関わっていることを知った井伊は幕府の危機と考え、安政5年(1858)9月頃よりは、井伊による「安政の大獄」が一層強化され、翌安政6年(1859)の年末まで続いたという。吉田松陰は特別に批判が厳しかったので逮捕された。

戌午の密勅
「戊午(ぼご)」は下賜された安政5年の干支が戊午(つちのえ・うま)であったことに由来し、「密勅」とは正式な手続(関白九条尚忠の裁可)を経ないままの下賜であったことによる。密勅は万里小路正房より水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門に下り、吉左衛門の子 鵜飼幸吉の手によって水戸藩家老安島帯刀(あじまたてわき)は、その暗躍の責任者として安政6年(1859)8月27日に切腹した。
また、幕府は、安政5年(1858)8月8日に朝廷が水戸へ下した戌午の密勅を朝廷に返納するよう迫り、幕府の使者として12月16日、小石川の水戸藩邸へ若年寄りの安藤信正を遣わし、殺気立つ水戸の家臣たちに囲まれながら、堂々と水戸慶篤と交渉をし、勅書を幕府を通じて朝廷へ返納する約束を取り付けた。なお、この功績に対して、安藤は翌安政6年1月に老中に抜擢された。
安政7年(1860)2月、水戸藩では内部対立が深まり、井伊を討つべしという「過激派」と「穏健派」に分裂をし、藩主慶篤が過激派を説得するも功を奏せず、老公の斉昭は、やむを得ず、過激派の中でも首謀者格の者二人を捕捉しようとしましたが、二人は、それを察知し、水戸を出奔して、さらに同士を集めた。最後の手段として、斉昭は兵を出してこれを攻撃したため、彼らは支えきれずに飛散した。
水戸藩では、謹慎処分中のことであったため、このことを幕府に届出をした。幕府では、会津から房総半島にかけての諸侯に命じて、警戒態勢を取らせた。また、過激派が江戸へ潜伏した可能性もある、という意見から、井伊に対して、登城の際の警護を増員して、厳重にするようにとの勧告がされたが、井伊は、幕法により定められた以上の供回りしかつけるわけにはいかない、と、この勧告を拒絶した。つまりは、幕法尊守という立場から「安政の大獄」を実施している井伊にとっては、自らが幕法を破ることはできなかったのです。
一方その頃、薩摩藩からも水戸と手を組んで「井伊を討つべし」との機運が高まったが、斉彬は安政5年(1858)7月16日に死亡しており、跡を継いだのは弟久光の子忠義であったが、実権は久光が握っており、井伊暗殺には乗り気ではなかった。そこで、薩摩藩では、脱藩浪士の有村次左衛門ただ一人が加わって、水戸藩17名とともに、安政7年(1860)3月3日に「桜田門外の変」で井伊を暗殺した。
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