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こんにちは。いつもお世話になっています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F% …

上記によりますと、

藤原京の名称は近代に作られた学術用語であり、『日本書紀』には登場しない。
『日本書紀』ではこの都城のことは、京が「新益京」、宮が「藤原宮」と呼びわけられている。

とあります。

藤原宮というネーミングについては

万葉集の中に「藤原宮の御井の歌」があり、
その歌の中に「藤井が原」「藤原」という地名が出てくる。
したがって、この地名からつけたネーミングだろう、という説があります。

また日本書紀持統天皇の条には
「高市皇子、藤原の宮地を観す」
「天皇、藤原に幸して宮地を観す」とあるそうで
たしかにコレを読むと地名が藤原であったように思えます。

しかし、それでも私は納得できないのです。

いくら地名が藤原であっても、
藤原氏という臣下がいるのに、宮に藤原とネーミングするものだろうか、と。


また、都造営中に持統天皇が藤原不比等邸に住んでいたので、藤原宮と呼ぶようになったとする説もあるようです。

この説も、やはりおかしいという印象が捨て切れません。

もと藤原不比等邸を宮としたのだとしても、やはりなぜ別の名前にしなかったのか、と思ってしまいます。

まるで藤原氏の宮のような印象を受けるじゃないですか。

なぜ天皇が住む宮なのに藤原宮とネーミングされたのでしょうか。

推測でも結構です。
みなさんの考えをお聞かせください。
よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

その時代に「藤原」を名のる氏族がいなかったから。


藤原不比等ではなく「中臣」不比等であった。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

●藤原姓が与えられたのは鎌足一代だった。

●壬申の乱後、鎌足流は一時衰亡の危機を迎えた。

●壬申の乱後、684年に八色の姓が定められた際には、朝臣を与えられた52氏の中に「藤原」の姓は登場しない。→中臣を名乗っていた。

●『日本書紀』に鎌足没後最初に「藤原」が登場するのは685年9月。
これ以前に、鎌足の遺族に対してあらためて「藤原朝臣」が与えられた。(高島正人説)。

とありますね。

思いがけない説でしたが、なるほど、これなら納得できますね♪

お礼日時:2009/08/31 15:07

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