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途中の道のりで大名行列が宿に泊まったり茶店で休んだりすることにより、富の再分配が行われていたと考えることができるでしょうか?

A 回答 (5件)

文政6年の福岡へ帰る黒田斉清五十二万三千石の参勤交代の行列が、江戸藩邸を出た時は千人余りの大行列でしたが、雑司ヶ谷で休んだ後出立した時は約半数に減っていたといいます。


供のものには江戸の日雇いが約半数いたわけです。
藩の財政は苦しいが、体面は保たねばならず、江戸後期はけちけち旅行になりました。
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大名行列って何ですか?



あの若しかして国を出る時に見れる主君の行列ですか?
箱根を通る時、品川から江戸屋敷へ行く行列にいる足軽は他の大名の所でも全く同じ顔の人を見たのですが双子の兄弟ですか?

真面目な話し、道中は大名と家老だけの駈足旅です。1万石級でしたら
殿・家老・付き人の3人の旅

松平家の道中日記は面白かったです。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>富の再分配が行われていたと考えることができるでしょうか?

ずばり言って、それほどの効果はありませんでした。

(1)大名が宿泊する宿を「本陣」。家来たちの宿泊する宿を「脇本陣」といいますが、一般の宿とは違い、大名たちだけを受け入れました。もちろん、宿にはそれ相応の銭が支払われました。
そういう意味では、「富の再配分」と言えるかもしれませんが・・・。

(2)本陣屋敷や脇本陣屋敷の持ち主は、大名たちだけしか受け入れませんでしたので、米問屋や炭問屋などの副業をしていました。

(3)では、庶民は・・・と、言うと、無料奉仕で、沿道の草刈や橋の修理などに駆り出されましたので、「厄介な仕事」以外の何者でもなかった。

(4)大名行列は「行軍」と、とらえられていましたので、沿道の茶店などで休憩をしたりはしませんでした。
むしろ、店を一時的に閉めるような通達さえ出されています。
とは言うものの、大名は別としても、家来たちは、茶店の「だんご」を買ったりしてはいます。
まあ、経済効果としては、大名行列により沿道が栄えることは、あまり期待できませんでした。

(よもやま話)
(1)参勤交代は、慶長7(1602)年に加賀の前田利長が人質として江戸に暮らしていた母・芳春院を訪ねて江戸へ出てきたのが始めとされています。当然、将軍家にも「挨拶」をしました。これを知った大名たちも、将軍家に気に入られようと、また、反意がないことを示すために、江戸へ出府するようになりました。当初は、全く統制がとれていませんでしたので、何時でも自由に往来していました。もちろん、出府しない大名も居ました。
そこで、3代将軍家光が寛永12(1635)年に「武家諸法度」全19ケ条を定め、その第2条に「参勤交代」を制度化しました。

(2)参勤交代の期日ですが、「夏四月中」と書かれてあり、現代の太陽暦で言うと、およそ5月で、入梅以前に参勤するよう命じています。
その後、寛永19(1642)年(家光)になると、西国の譜代大名の参勤交代は2月。関東、東海の譜代大名は9月。外様大名は依然として4月、というように、時期をずらしています。これには、ご存知かとは思いますが、譜代大名をして外様大名の監視をさせていたためです。
また、隣接する藩は、お互いの話し合いで交互に参勤しました。
例えば、「豊前」と「豊後」の藩主たちを見てみると、
中津、杵築、府内の3藩が譜代大名。
日出(ひじ)、臼杵、佐伯、岡、森の5藩が外様大名。
そこで、杵築藩主能見(のみ)松平氏と府内藩主大給(おぎゅう)松平氏は交互に在国していました。また、外様大名の岡藩主中川氏と臼杵藩主稲葉氏も交代で参勤しています。このような制度を「御在所交替」と呼びました。
もう少し詳しく書くと、
子、寅、辰、午、申、戌が中津奥平氏、杵築松平氏、臼杵稲葉氏、佐伯毛利氏。
丑、卯、巳、未、酉、亥が府内松平氏、日出木下氏、岡中川氏、森久留島氏、という記録があります。
従って、全ての大名が一同に会することはありませんでした。

(3)参勤交代では、当然、他家の領内を通るわけですが、この場合、通る方は、「およそ何日ころ通過します」と使いをたてて「礼」を述べ、通行される方も道や橋の整備などをして、まあ、お互いが気をつかいました。
しかし、他家との交流は、一切禁じられていました。もし、仲良くなって、幕府転覆などの話をされては困りますので、このことは、厳しく周辺の藩に監視されていました。あくまでも、使いの者が行き来するだけでした。
また、参勤交代は、行軍とみなされていましたので、途中で、他家の藩主と会ったりはできませんでした。

(4).「下に~下に~」と先触れが声を張り上げますが、これは、自分の領内と、他家の領内に入る時、出る時。そして、江戸へ入る時だけでした。その他の場所では、供揃えも乱れて、雑談をしたり、景色の良いところでは、立ち止まって眺めたりして道中をしました。

(5)宿に出入りするにも規則があり、到着は夜五つ(午後8時)までに、予約していた宿に入らないと、宿側も断ることができ、そのような時は、野宿しました。もっとも、行軍ですので、陣幕はもちろん、料理の材料、鍋、釜、そして、風呂桶や殿様用の便器などなど全て持って行きました。さらに、宿に宿泊しても、宿の料理人ではなく、家来の御膳掛りが宿の調理場を借りて食事を作りました。出立の時刻は七つ(午前四時)頃と定めてありましたが、遠い藩になると八つ(午前二時)~八つ半(午前三時)頃に出立しました。これには、幕府の許可を必要としましたが、陽のあるうちに行程を縮める必要がありました。

(6)通行中のトラブル。
11代将軍家斉の頃、明石藩松平斉宣(家斉の第53子!!)が、御三家筆頭の尾張藩を通過中に猟師の源内という者の子ども(3歳)が行列を横切ってしまい、家臣はその子を捕らえ本陣へ連れて行きました。ただちに、名主や坊主、神主までもが本陣へ行き許しを乞うたが、斉宣は聞き入れず、幼児を切捨ててしまいました。
尾張藩はこれをおおいに怒り、使者遣わして「このような非道をするようならば、今より当家の領内を通らないでもらいたい」と伝えた。
どうなったと思いますか?
行軍を取りやめるわけにもいかず、まるで町人か農民のようにコソコソしたかっこうで尾張領内を抜けました。
さらに、数年後、猟師の源内は、斉宣が20歳になったのを期に、木曽路で得意の鉄砲で射殺してしまいました。もちろん源内は死罪になりましたが、子どもの恨みを晴らした、というわけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。すごいです。あなたの回答にしびれました。相当に研究していないとこんなに書けないと思います。殆ど思いつきの質問にここまで回答してくださり頭が下がる思いです。まだ1回ざっと読んだだけなので、これから再びよく読んでみます。
私も江戸時代には興味があるのですが、藤沢周平の小説を読むぐらいで、なかなか研究までは至りません。質問して良かったです。ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/18 21:33

規模的には江戸の発展の方が大きいと思う。


また街道関係で言えば、沿線の人足需要の経済効果が大きいかと
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参勤交代の本来の目的とは異なりますが結果としては、そう言う事にもなっていたと思います。


(本来の目的は地方大名に幕府に逆らうような財力を蓄えさせない為に財を浪費させることに有りました)

毎年、将軍家に献上される特産品などの献上品の行列にも同じ効果が有ったと思います。(お茶、生糸、和紙、酒など)

また結果として、街道筋や宿場町の発展が国内全体の経済や流通の活性化にも繋がっていたと思います。
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