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地獄変について、特に良秀の娘についていくつか疑問があります。

まずは十二節と十三節の、良秀の娘と何者かが争っているらしいところへ丁度"私"が通りかかるというエピソードについてです。
自分には、地獄変の話の中でこのエピソードだけが浮いて見えて仕方がありません。
実際、このエピソードはその場限りの出来事で"私"にも全く事情がつかめぬままになっていますし、最後まで直接的に種明かしがされることはありません。
はっきり言ってこのエピソードを丸々抜いてしまっても話としては成り立つように思います。

このとき部屋の中では誰が何をしていたのでしょうか?
また良秀の娘がうろたえ事情を話さなかったのにはどのような訳があったのでしょうか?


次に十七節の、いよいよ良秀の望み通り車に火がかけられるシーンです。
大殿様は良秀に向かって「その中には罪人の女房が一人、縛めたまま乗せてある。」と説明しています。
実際には良秀の娘が乗せられていたのですが、大殿様は何故罪人が乗っていると説明したのでしょうか?
ただ良秀を欺くためでしょうか?それとも、この時点までに良秀の娘は何らかの罪を犯し実際に罪人であったのでしょうか?
(個人的には十二,十三節の複線が利いてくるとすればこの部分しかないように思います)


さらに言えば、大殿様はどの時点で良秀の娘を焼くことを思いつき決心したのでしょうか?
五節に『どう思召したか、大殿様は突然良秀を御召になって、地獄変の屏風を描くようにと、御云いつけなさいました。』とあります。
この一文を読むと、『どう思召したか』や『突然良秀を御召になって』という言葉から、地獄変を描くように云いつけた不自然な理由があり、つまりこの時点で良秀の娘を焼くことは決まっていたのではないかとも思います。


以上三点について、何かしらの根拠とともにお答えいただけると助かります。

A 回答 (9件)

☆ 前半の2つの疑問は、N0.1さんのように、読者が解釈する、ということが前提になって書かれていますから、疑問の挟む余地が多少あっても、多くの人を説得する様な別の解釈を作成することは難しいでしょう。



☆ しかし、後半の疑問は、芥川龍之介の過誤を、指摘したものです。

 芥川龍之介の作品には、作家が語り手になっている小説と、作家以外に語り手を想定して書き綴られて小説があります。
 
 『地獄変』の場合は、作家以外の、作品世界の時代に生きているある人物が、語っているという形式で、書かれています。

 ところが『地獄変』の語り手は、作家でなくては分かり得ないことを、語ってしまうから無理が生じています。あなたの指摘は、そういう破綻の中でも、ストーリーにかかわる、大きな部分ですが、綿密に読むと、あなたが指摘している箇所以外にもたくさん指摘できる筈です。

 他の作品でもこのようなことがあった様な記憶がありますが、どの作品のどの箇所という様なことは覚えていません。読み進めてゆくのに差し支えないからです。

 過誤は過誤ですが、新聞の連載小説ですから、締め切りに追われて、といったことで容認しちゃって良いように思います。繰り返しますが、一般の読者が、読み進めてゆくのに差し支えないように思います。
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芥川をはじめ、太宰や三島といったひねくれた小説家の手の込んだ小説を読むときは、彼等以上にひねくれて読むか、逆に幼子のようになって作者の手玉に取られて読むかの二つに一つしかないのかもしれません。



「地獄変」にも、芥川は他の多くの小説と同様、各登場人物の性格設定に際し、彼が抱懐していたエゴイズム観をあまりにも過度に投影しているように思われてなりません。
しかも、芥川はこうした人物同士のエゴイズムは所詮お互いに相容れ合うことがないと決めつけていたために、一生悲観主義者としてしか生きられなかったのかもしれません。

>このとき部屋の中では誰が何をしていたのでしょうか?
>また良秀の娘がうろたえ事情を話さなかったのにはどのような訳があったのでしょうか?

おそらく、娘が大殿の意に抵抗したことを暗示しているのでしょうね。
当時の身分制度の常識からすれば、娘の態度は大殿のプライドを大いに傷つけたはず、と作者は暗示したかったのかもしれません。

>実際には良秀の娘が乗せられていたのですが、大殿様は何故罪人が乗っていると説明したのでしょうか?

常識的に考えれば、「良秀の娘」であることを前もって知らされていたら、娘思いの良秀だけに娘に火を放つなんてことは決して承知しないはずと大殿も予想したたからでしょうね。
また、迫真性ある絵を作るためには如何なる犠牲をも厭わない良秀とはいえ、まさか人の命を犠牲にすることまではなかろう、いや非情な良秀のことだから承諾しかねないかも、とさんざん悩んだ挙げ句に、こういう手の込んだやり方で、大殿なりに良秀の人間性の冷酷非道な正体を暴いてみようとしたのではないでしょうか。

>大殿様はどの時点で良秀の娘を焼くことを思いつき決心したのでしょうか?

「良秀の娘」を焼くかどうかは最終的に良秀の人間性の如何によって決まると大殿は判断していたのではないでしょうか。
だとすれば、自分が「決心」するなんてことは考えもしなかったはずで、むしろ良秀を試しているという意識しかなかったのではないでしょうか。
結果的には、自らの謀略によって眼前に実現した地獄さながらの光景に震撼させられたのは良秀ではなく、大殿だったにせよ。

>娘は焼かれ、良秀は首を括り、大殿様だけが完成した屏風を手にして生きている、これではあまり素直に納得できません。

良秀は一世一代のライフワークを完成させた以上、しかも娘もいない以上、娑婆に残っている意味はないから縊死したにすぎないのではないでしょうか。
ただし、このことが決して良秀の敗北とばかり言えないのは、良秀の画家としての精神は現実で死んで、絵の中で永遠の生命を獲得した以上、しかもあれほど良秀に批判的だった「横川の僧都」をも含めた後世の人々がその絵を賛美するとしたら、実質上は大殿をはじめ誰もが絵の中に生きている良秀そのものを賛美していることになるからです。
そうでなければ、芸術家は虚構の芸術制作などという愚行に、あたら一度しかない人生を犠牲に供したりするはずがないような気がします。
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「大殿様は何故罪人が乗っていると説明したのでしょうか? ただ良秀を欺くためでしょうか? それとも、この時点までに良秀の娘は何らかの罪を犯し実際に罪人であったのでしょうか?」のご質問に対し、補足をさせていただきます。




「…私は総じて、見たものでなければ描けませぬ。もし描けても、得心が参りませぬ。それでは描けぬも同じ事でございませぬか」
これを御聞きになると、大殿様の御顔には、あざけるような御微笑が浮かびました。
「では地獄変の屏風を描こうとすれば、地獄を見なければなるまいな」

良秀にとっての≪地獄≫とは、常人の想像を絶する凄まじいものでした。
以下のやりとりからも、尋常ならざる良秀の逼迫感が伝わってくるかのようです。

「…さらば罪人の呵責に苦しむ様も知らぬと申されませぬ。又獄卒は──」…「──私の描こうとして描けぬのは、そのようなものではございませぬ」
それには大殿様も、流石に驚きになったのでございましょう。暫くは唯苛立たしそうに、良秀の顔を睨めて御出でになりましたが、やがて眉を険しく御動かしになりながら、「では何が描けぬと申すのじゃ」と打捨てるように仰有いました。
「私は屏風の唯中に、檳榔毛の車が一輛空から落ちてくる所を描こうと思っておりまする」
良秀はこう云って、初めて鋭く大殿様の御顔を眺めました。
あの男は画の事を云うと、気違い同様になるとは聞いておりましたが、その時の眼のくばりには確かにさような恐ろしさがあったようでございます。
「その車の中には、一人のあでやかな上臈が猛火の中に黒髪を乱しながら悶え苦しんでいるのでございまする。顔は煙に咽びながら、眉を顰めて、空ざまに車蓋を仰いでおりましょう。手は下簾を引きちぎって…」

こののち良秀たっての願いに対し「おお、万事その方が申す通りに致して遣わそう。出来る出来ぬの詮議は無益の沙汰じゃ」と述べる大殿様の様子が≪良秀のもの狂いに御染みなすったのかと思う程、唯ならなかった≫場面に至ります。
ここは良秀の欲望と同調していることの表れであり、従って良秀の娘は「必定肉を焼き骨を焦がして、四苦八苦の最期を遂げる」ために「罪人として縛められなければならない立場に追い込まれてしまった」としか言いようがありません。


さらに良秀が自縊した理由についてです。
「一人娘を先立てたあの男は、恐らく安閑として生きながらえるのに堪えなかったのでございましょう」と奉公人の「私」が最終頁で述べています。
ですが、はたして愛娘への倫理的・道徳的感情、つまり、人としての自責の念「だけ」だったのでしょうか。

この物語を通じて、良秀と芥川本人の姿がどこか重なるように感じてしまうのは、単なる気のせいでしょうか。

「その火の柱を前にして、凝り固まったように立っている良秀は、──何と云う不思議な事でございましょう。あのさっきまで地獄の責め苦に悩んでいたような良秀は、今は云いようのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮かべながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしっかり胸に組んで、佇んでいるではございませんか」

奉公人の「私」の眼にすら、良秀をさながら「開眼の仏」のように映ったのです。
その瞬間とは、絵師としてまさに≪無我の境地≫に至った≪エクスタシー・法悦の絶頂≫だったのです。
そうしてこれにより己の表出に全ての心血を注いだあとは、ただもう己の喪失に他ならず、「良秀はもうこの世に無い人の数にはいっておりました」という躯となり果てるのも、極めて自明なことのように思えてくるのです。


この点につきまして、「描けない良秀の焦燥感・苦悶の様相」同様、芥川本人にもかなり通底する部分が認められるのではないでしょうか。
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こんにちは。


この小説の最高潮は言うまでもありませんよね。
阿鼻叫喚の渦中で身悶える良秀の娘をめぐって、良秀、大殿様との三者間で極限の心理が壮絶に絡み合っている一大スペクタクルではないでしょうか。

ほとばしる愛憎、残虐極まる死に対する耽美な予兆、そしてそれに伴う絢爛たるエロスと歓喜とが。

この点からも「その晩のあの女は、まるで人間が違ったように、生々と私の眼に映りました。眼は大きくかがやいております。頬も赤く燃えておりましたろう。そこへしどけなく乱れた袴や袿が、何時もの幼さとは打って変わった艶めかしささえも添えております。これが実際あの弱々しい、何事にも控え目勝な良秀の娘でございましょうか。」は、大人しく孝行な娘が垣間見せた「美しさ、妖艶さ」という意外な一面であり、後の悲劇を予感させる絶妙なシーンのように思われます。
個人的には、このエピソードがあっての『地獄変』だと思うのですが…。
なお、事情に関しましては、わたくしもNo.1様同様、手籠に絡むものだったと考えます。

牛車に火がかけられるシーンにおいて、大殿様は三度口を噤みつつも、ついに「「愛娘が罪人として乗っている」とは告げませんでした。
暫しの猶予を与えなかった非情さに抗ってまで、なおも「良秀の真の欲望」を察知していたかのようにも思われます。
以下の場面です。
──「ああ、それが、その牛車の中の上臈が、どうしても私には描けませぬ」
──「そうして──どうじゃ」
──「どうか檳榔毛の車を一輛、私の見ている前で、火をかけて頂きとうございまする。そうしてもし出来まするならば──」
大殿様は御顔を暗くなすったと思うと、突然けたたましく御笑いになりました。…「檳榔毛の車にも火をかけよう。又その中にはあでやかな女を一人、上臈の装いをさせて乗せて遣わそう。炎と黒煙とに攻められて、車の中の女が、悶え死にをする──それを描こうと思いついたのは、流石に天下第一の絵師じゃ。褒めてとらす。おお、褒めてとらすぞ」

つまり、大殿様はどの時点で良秀の娘を焼くことを思いつき決心したのは上記の場面だと思われます。
「良秀の娘を焼くこと」以外に天下随一の地獄変を完成し得ないと承知していたから「突然けたたましく御笑いになった」のではないでしょうか。
むろん、良秀もその以前にそれらしき予兆の悪夢に魘されていた場面が弟子に目撃されていたかと思われます。

その意味において、地獄変という類まれな芸術を完成させる「犯行」に際しては実父良秀も大殿様も、確固たる「共犯者」だったのではないでしょうか。

なお、奉公人の回想において印象深かったのは以下の場面です。
「それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有様が映っていないようなのでございます。 唯美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人との姿とが、限りなく心を悦ばせる──そう云う景色に見えました。」
「鳥でさえそうでございます。まして私たちは仕丁までも、皆息をひそめながら、身の内も震えるばかり、異様な随喜の心に充ち満ちて、まるで開眼の仏でも見るように、眼も離さず、良秀を見つめました。──何と云う荘厳、何と云う歓喜でございましょう。」

奉公人は「この事件により露見した≪身分によらぬ人間の深層にひそむ空恐ろしい本性の一端≫を十分理解していた」からこそ、あのように淡々と慇懃に述べるにとどめざるを得なかったのではないでしょうか。
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まず、良秀の娘と何者かが・・・という場面について、no1の方と同じ解釈です。


ただし、娘を焼き殺した理由はこれそのものではありません。
良秀の娘は大殿と良秀の対立の象徴であり、その葛藤は牛車に火をかける場面で最高潮となります。
大殿は「権力によって」良秀は「画力」によって神秘の世界すら圧倒させるほどの力を持っている。そして、両者とも自負の裏に残虐な心を持っている。
火をかけてからの良秀の描写を細かく追っていくと、芸術が権力を屈服させたようにも思える場面がある。
が、芸術のためにはあらゆる非人道的行為をも許した「芸術至上主義」もそれが完成したとき、「死」という犠牲を要求された。

芥川の「芸術至上主義」は「死」を伴うものであったと考えます。
答えになっていなくてごめんなさい。
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「藪の中」と合わせてお読みになられてはいかがでしょう。


この小説のテーマ以前に、この時期の芥川作品の底流にある、真実はどこにもない、というニヒリズムに支えられていますゆえ。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。
「藪の中」は昔から何となく好きなのですが、今までに読んでいてピンと来たことがありません。
次こそ何か思うことがあるかもといつも期待して読み直すのですが。

お礼日時:2009/11/25 21:33

芥川大好きな者です。


お役に立てる程の知識等ありませんが、お邪魔させてくださいね。

地獄編。。。何とも不思議で奥深い描き方をしている作品だと感じております。
「嘘?を描く事で真実が如実にあぶり出される」と言った感覚です。
語り手の「私」は、海千山千、と言うか、世渡りに長け、言葉巧みに他人(特に上の立場の者)の心をつかむ術に長けている、と感じられます。
嘘だの真実だの、と言うよりも「聞き手の心をつかむ為の語り方」に長けている、と言った感じがします。

まあ、この手の「大人らしい大人」って、思春期や反抗期にある人間には結構嫌われますが、、、苦笑
未だ反抗的な「子どもっぽい大人(汗)」である私は、この手の人間が苦手ではあります。
。。。あ、余談です。汗

私事になりますが、
世の中には真実よりも嘘よりも大切なものがある、と私は考え始めています。
正しいか?間違っているか?よりも大切な事がある、と考えています。
そして、この「地獄変」もそのような視点で書かれた物語だ、と感じます。

確かに質問者様のおっしゃるように
>これではあまり素直に納得できません。
その通りかもしれません。現に私も同じように納得出来ない、と感じます。
納得出来るか否か?納得すべきか否か?、、、そんな「自問自答」を迫って来る作品、
それって、それだけで凄まじい威力を持っている作品だ、と私は感じるのです。

文学作品は世に溢れ返っておりますけれど、
ここまで「執拗に受け取り方(解釈)の選択を読み手に迫って来る」作品/作家はなかなか出会わないように感じます。

納得するか?しないか?の選択を、ひたすらに迫られている、
そう感じませんか?
そして、その選択を棚上げにして仕舞う事を許してくれない。

似た感じで「しつこい」作品として私が思い浮かぶのは
志賀直哉の「赤西蠣太」です。
芥川の他の作品も似た感じではありますが。

何で此処で終わっちゃうんだよーー?
ちゃんとオチ付けて終わらせなさーーい!!怒
って気分になる終わり方でもありますよね。笑

人生の複雑さ、一筋縄では行かない苦しさ、
だけど、そうだから面白いのだ、と言う妙な明るさ?を持った作家だと私は考えています。

書きたいだけ書いてしまい、申し訳ありません。
解釈と言う点では全然と思いますが、この作品の「読み方」と言う点で少しお役に立てるかしら?と思ったのですが。。。
書きながら、自信消滅です。。。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。
実は私大学卒業までバリバリの理系で、学生時代は「国語って何のために勉強するの?」「文学って何のために研究するの?」と思っている人間でした。

そんな自分が社会人になりふとしたことから「藪の中」「竜」「地獄変」と読んでみて芥川の世界にはまりました。
その他にも「蜜柑」「開化の良人」「河童」「歯車」あたりを読んで、再びしっかりと「地獄変」を読んだときに感じた疑問の波が今回の質問です。
はっきり言って今までは物語の筋をなぞるだけで、ここまで話の中に入り込んで読み込むという経験をしたことが無かったのです。

今まで科学や論理のことばかり興味を持っていた私に一つの物語をここまで考えさせた、「地獄変」やそれを書いた芥川という人はそれだけ凄いと今さら感じています。
今よりももう10年早く、教科書の物語をいまのように読めていたらと悔やまれます。

始まりから終わりまでただそこにあるだけでなく、その受け取り方まで迫ってくる、確かにその通りです。
今の私自身狙い通りそこにはまってしまっているようです。

お礼日時:2009/11/25 20:57

これらの説明はあてにならないのでしょうか?



あてになりません。小説中の登場人物の発言は、すべて真実を示しているわけではありません。大殿様の実態は、主人公の奉公人から見るのだけがすべてではなかったのです。何度もそのことは匂わせていますが。

良秀への嫌悪感も募っていたでしょう。何でも「はいはい」と描くイエスマンばかりの暮らしに、たった一人(二人)意に添わないやつがいる。そいつの娘も自分の思い通りにならない。何とかやり込めたいが絵のことでは太刀打ちできない。

今でも役場の中間管理職で民間に査察に来るやつらなんてそうですよ。ちょっとでも意見を言おうものなら、そのプランすべてを予算も含めて削除。次の異動で左遷。そう、権限を持っているのに薄っぺらいです。大正時代ならなおさら。
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この回答へのお礼

再びお答えありがとうございます。

>小説中の登場人物の発言は、すべて真実を示しているわけではありません。
これについては理解しています。とくに語り手がいる文章は地の文であっても必ずしも真実とは限らないですからね。
ですがいま聞きたいのは、"私"の諸々の説明が信じるに値するかということだったのです。
あてにはならないという回答なのですね。

では、"私"は何故ここまで大殿様を擁護し虚構を語るのでしょうかね?
自分が仕える大殿様を擁護することは当たり前かもしれません。
または、本当に真実が見えておらず大殿様を信じきっているのかもしれません。
たとえそれが真実であっても、大殿様の娘に対する感情をありのまま語ること自体がタブーであるからかもしれません。
ただ建前と本音の世界なのでしょうか。

もう一つ、大殿様がただそのような感情で良秀の娘を焼いたのだとしたら、倫理的には大殿様こそ罪人ですよね。
娘は焼かれ、良秀は首を括り、大殿様だけが完成した屏風を手にして生きている、これではあまり素直に納得できません。
屏風に描かれた地獄は良秀自身が落ちていく地獄だと書かれていましたが、これではその地獄に落ちるべきは大殿様の方であるように思います。

sosdada様の回答は理解できました、が、「地獄変」に対して少しがっかりしたような気もします。

お礼日時:2009/09/21 04:54

まずは十二節と十三節の、良秀の娘と何者かが争っているらしいところへ丁度"私"が通りかかるというエピソード


このとき部屋の中では誰が何をしていたのでしょうか?
また良秀の娘がうろたえ事情を話さなかったのにはどのような訳があったのでしょうか

12で、
大殿様が御意に従はせようとしていらつしやるのだと云ふ評判が立ち始めて、夫からは誰も忘れた様に、ぱつたりあの娘の噂をしなくなつて了ひました。

とあります。タブーとなったのです。これが伏線となり、
13で、殿様が手篭め未遂。

自分の意を拒んで、恥をかかせた娘は罪人。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

大殿様と娘の関係については三節の途中で、『決して世間でとやかく申しますように、色を御好みになった訳ではございません。』『絵師風情の娘などに、想いを御懸けになる方ではない』と説明されています。
また五節でも繰り返して『地獄変の屏風の由来も、実は娘が大殿様の御意に従わなかったからだなどと申すものも居りますが、元よりさような事がある筈はございません。』と書かれ、続けて弁護の言葉が並んでいます。
地獄変の文章全体は奉公人(私)の回想によるものですから、"その時点ではそう思っていた"というようなことはないはずです。
自分はこの"私"の説明を概ね信用して読んでいたのですが、では、これらの説明はあてにならないのでしょうか?
ただ大殿様への盲信からくる希望的説明でしかないのでしょうか?

だったら、大殿様が娘を焼いた理由が(このことが全てではないでしょうが)薄っぺらく感じてしまいます。
個人的には、世間の噂からもう一歩踏み込んだ深い理由があると思っていたのですが。

お礼日時:2009/09/21 02:56

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