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・なぜ天皇の先祖の神社が大和ではなく伊勢にあるのか?

・なぜ歴代天皇で5人しか今までに伊勢参りをしていないのか?

   どなたかお説をいただきたく・・。

A 回答 (7件)

伊勢神宮=アマテラスオオミノカミを皇祖神として祭るようになったのは


ずいぶん後になってのこと(平安時代?)だそうです。
そもそもは伊勢地方の豪族の祭神だったのではないかという考え方もできます。
壬申の乱の時に大海人皇子(天武天皇)が吉野から伊賀-伊勢-尾張方面を
経由していること、アマテラスを皇祖神として描いた史書(古事記)が
天武天皇の命により編纂されていることから考えて天武天皇そのものが
この伊勢の神を祭る豪族の出身ではないかのかと私は考えています。
天武天皇が天智天皇の弟ではないことは平安時代以来指摘されている
ことですし、そもそも天皇家が万世一系であると決めたのは天武天皇自身です
(その思想が古事記、日本書紀となって表されている)。

それ以前の大和朝廷の皇祖神はタカミムスビ(高御産巣日神)の神であり、
それを祭った場所が高天の原(奈良県葛城地方)とのことで、延喜式に
おいても奈良時代まではタカミムスビを皇祖神として扱っている形跡が
あるとのことです。

またもうひとつ宇佐八幡宮は応神天皇を祭った神社ですが、奈良時代の
宇佐八幡宮神託事件のように天皇家の系統を正すのに伊勢でも葛城でも
なく、宇佐に使者が派遣されていますから、こちらも天皇家の重要な
祖先のひとつと考えられます。現在でも宇佐神宮には皇室から使者が
派遣されているそうです。

以上のように天皇家の祖先は大和チーム(葛城)、大阪チーム(仁徳天皇
グループ、宇佐八幡宮)、伊勢尾張チーム(天武天皇)といくつかの
豪族集団があり、それぞれの神話と祖先神を皇祖神と位置づけようとした
結果、複数の皇祖神ができたのではないでしょうか。つまり天皇家の伝統の
中で必ずしも伊勢神宮が至高神と認識されているわけではないということが
理由ではないでしょうか。
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伊勢神宮の起源ははっきりしませんが、地方豪族の信仰(太陽信仰ではないか)の社だったといわれます。


やまと朝廷の東国進出の重要基地であった伊勢の神という事で、朝廷と親密な関係にあったとの事。   魏書で実在がほぼ確かな雄略天皇の時代から「日本書紀」にかかれています。
のちに六世紀ころから、皇女が斎宮になっています。
先賢の記載にある壬申の乱の時、大海人(のちに天武天皇)は伊勢通過の折、望拝し戦勝祈願しました。
天武天皇は神社を立派なものに修改築し、太陽神=天照大神として天皇家の祖先を祭る神社としました。
農業の神の外宮も移して併設し、権威付けをはかりました。

天武天皇系は天皇家の本流でないので、歴代天皇の伊勢参りは少ないのでしょうか。
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sgi1962さんすみません。


ニギハヤヒからサヌが皇統位を譲られた、ということです。そして彼を神武と呼んでいるというわけです。

ちょっと参考に書きますね。

これは国髄を論じているのではなく、天皇はそうだろう。ということで、書いてみます。分からない名前はあらかた古事記か日本書紀から引っ張ってきてますが、例え諱名であっても~天皇とするよりは実があると思います。途中途中に~天皇とありますが記紀の表記なので気にしないで下さい。

 大和国の王(奈良県を起点とする場合。宮崎の場合は異なる。)

・神代知らず
・登美能那賀須泥毘古(義兄)信長や政宗の祖 妻の名知らず
・天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(最後の天照大神●起点とする)妻登美夜須毘売
・神日本磐余彦尊(弟、天饒石国鐃石天津日高彦火瓊瓊杵尊の孫)妻比売多多良伊須気余理比売
・神渟名川耳尊 妻媛蹈鞴五十鈴媛命(事代主娘)
・磯城津彦玉手看尊 妻渟名底仲媛命
・大日本彦耜友尊 妻天豊津媛命
・観松彦香殖稲尊 妻世襲足媛尊
・日本足彦国押人尊 妻押媛
・大日本根子彦太瓊尊 妻細媛命
・大日本根子彦国牽尊 妻欝色謎命
・稚日本根子彦大日日尊 妻伊香色謎命(物部娘)
・御間城入彦五十瓊殖天皇「スメラ」妻御間城姫 以降天皇古事記による
・活目入彦五十狭茅尊 妻日葉酢媛命【※ここで伊勢神宮へ遷宮】
・若帯日子天皇 妻三人 (ここらで養子以下途切れる)
・帯中日子天皇 妻気長足姫尊(神功)
・妻気長足姫尊(神功)
・誉田別命 妻仲姫命 朝鮮半島も統治
・大鷦鷯尊(聖帝)妻磐之媛命  
・大兄去来穂別尊 妻黒媛
・多遅比瑞歯別尊 妻たくさんいすぎ
・雄朝津間稚子宿禰尊 妻忍坂大中姫
・安康天皇  妻中磯皇女 子女なし
・大泊瀬幼武尊(雄略) 妻草香幡梭姫皇女
・白髪大倭根子命 后妃 子女無し
・袁祁之石巣別命 妻難波小野王 子女無し
・意祁命 妻春日大娘
・小泊瀬稚鷦鷯尊(武烈)妻春日娘子
・男大迹王オオキミ(継体)妻手白香皇女 大和越前近江を併合
・広国押武金日天皇 妻春日山田皇女
・建小広国押楯命 妻橘仲皇女
・志帰嶋天皇(欽明) 妻石姫皇女
・沼名倉太珠敷命 妻広姫
・橘豊日命(厩戸の父)妻穴穂部間人皇女
・崇峻天皇(蜂子の父) 妻小手子
・額田部皇女(推古天皇・天皇号最初説あり)
・息長足日広額天皇 妻宝女王
・天豊財重日足姫尊 最初高向王と結婚後息長足日広額天皇の妻
・天万豊日天皇(軽皇子) 妻間人皇女(皇極=斎明娘)

・天命開別尊(天智)百済復興を図る 妻倭姫王 たくさん
・弘文天皇 妻十市皇女
●天武天皇天渟中原瀛真人天皇 妻鸕野讃良皇女(持統天皇)

ここからは間違いなく「天皇号」


  古事記は古漢字和文
  日本書紀は漢文和読み



The U.K. and U.S.A. and Russia and others, guidance to the Great Powers country

 I do not praise former Japan force (Great Japanese Empire and the Pacific Wars) basically. I do not idealize former war. I understand what alliance nation's armed forces are. I write the sentence that I controlled in consideration of it. It which the issue of Takeshima who accompanied this does not tell is a duty of The government and Ministry of Foreign Affairs. About the Emperor, I write it concerning the symbol of the nation.

参考URL:http://blogs.yahoo.co.jp/bbt888s/28858989.html
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天皇に関する補足として



九州より東北を平和的に統一し、奈良に坐す大物主(三輪明神・ニギハヤヒ)の弟に二二ギという方がいて、この方がニギハヤヒが平定した九州に行った(天孫降臨というのはおかしな言い方で、行ったが正解です。)

そうして、ここも定かでない、神話を基準にして当たり前に考えれば、その二二ギの孫あたり(記紀を信じると滅茶)のサヌが大和の君主であったとされるニギハヤヒと会い、神宝を照合して皇位を譲った。

橿原をして初代天皇を号したとありますが、天皇たる言葉も推古天皇か天武天皇だと言われているので、これは九州の王朝起源をでっちあげたい人の意見に過ぎません。

実際、朝廷は桜井市が起源ですが、それよりも古い、飛騨高山の存在、石川の存在、それ以上に古い日高見の存在、そう考えると、一部の勝った側の勢力を尊重し祭り上げていく行為が幼稚で愚かなことだと分かってきます。

各土地の、忘れられた神々や伝説というものが、本当は貴いそれぞれの先祖の奉るべきことに思えてなりません。

天皇家に関しては、間違いなく日本由来の人は皆この皇統の血を引き継いでいるわけですから、神社というものが成り立っているわけですね。

しかし、橿原神宮も富国強兵の国内洗脳のために明治に造ったわけで、それを知らなければ、あの耳成山が何かすら知らない人がほとんどで。さらに大和に気を取られたら、宗像家や三島家、それから岡山や山口、全国のさまざまの拠点に目が行かなくなる。これこそ歴史とは何ぞや。

当然朝廷に害されてきた地方の人々は天皇への怨念の中で生き、本当に和すことは無い。結局神社の意味が無い。

だからこそ、神社存在は何であるか明かす時はかならず来るだろうし、今はもうその時かもしれません。

神社とは起源に至る道標。

安っぽい宗教とは一線をかくす、神社は神社という、各家の仏壇のような大事な存在なわけです。

しかし、その神社、伊勢神宮に人生一度はお伊勢参りと、人々が往来してきているのには、観光(=華厳=修験)して日々の無事を祈る、親神への篤い信仰が子の国にあるからです。

朝廷が出来るよりはるか昔、垂仁天皇の時代に遷宮して内宮に最高神天照大神を祀り、近くには外宮として豊受大神を祀る伊勢神宮。

内も外も、大事だとするその心が何より宝物であると感じます。
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天皇の先祖といっても、神武天皇の神社は橿原(奈良)にありますし、応神天皇(及び神功皇后)の神社は宇佐(大分)にあります。



そもそも神武東征の前からずっと天皇家は大和に居たわけではないでしょう。初代と言われている神武天皇は高千穂に居た訳ですし。

その上で、倭姫命(11代垂仁天皇の娘)が伊勢の五十鈴に建てたのが内宮だと言われており、さらに壬申の乱の天武天皇側に伊勢神宮が関わっているのが重用の理由でしょう。#1さんと同じ考え方です。
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 sgi1962さんこんにちわ



 ・大神神社の氏子です。三輪族の者ですが、その質問に答えたいと思います。

 古代は特に、三輪山を神体として、ここが政治の中心でありました。ご周知の通り、三輪王権が大和朝廷になったのです。この和邇氏の三輪、すなわち大和の勢力と、また力があったのが出雲の勢力です。

 垂仁天皇の時代に、出雲が三輪を取り込みました。この時、垂仁天皇の叔母や皇女が、皇室の神宝を出雲に奪われてはならないということで、丹後や大塔など27箇所以上を巡り、やっとたどり着いたのが、今の伊勢神宮です。

 その時より、祭祀の拠点は伊勢へと移され、天理石上神宮から斎宮が行くようになりました。政治と宗教は、伊勢神宮の成立によって別れたのです。ここに、伊勢神宮の意義があります。


 ・なぜ歴代天皇が、ということに関しては、例えば現在の皇室は出雲に参っても三輪へは上がりません。これはしいていえば皇室が外国との交流を重視している象徴です。ご周知の通り、出雲は三輪より後の王国です。その出雲の勢力を珍重するということは、何を現すかということで、出雲はスサノオに従った西国の技術者が後ろ盾となっています。出雲とは外国との交流の窓口だったのですね。

 三輪は何かと言えば、これは元々は石川県の神であり、北方の人々です。皇孫は石川、岐阜、奈良へと移住してきたわけながら、奈良へ至る時、スサノオは幼少であったため、姉のオオヒルメを皇統につけたのが過ちのはじまりです。

 スサノオと恋人の間にややこができて、それをオオヒルメは歓迎せず、スサノオを国外追放にしました。スサノオの恋人は腹に子が居るにも関わらず、箸を刺して自害したのです。

 この哀しみや諸々の罪とがを鎮めるべくして、生まれたのが大祓祝詞ですが、速くしてさすらった姫、すなわちスサノオの恋人の菩提を祈ることが、子の国のはじまりの遺恨を癒すことだという話です。

 正式には三輪の拝し方は、出雲の拝み方となっています。すなわち四拍手です。祇園の民が日本に移住してきてからは、出雲が国の祭祀の頂点となっています。これは、速さすら姫を亡くしたスサノオの魂を癒すための行事の表れであり、二度と過ちを繰り返さないという、日本の教訓でもあります。

 つまり、愛を大事にしなさいよという先祖からの教えです。

参考URL:http://www.geocities.jp/soleilmaster/susano.htm
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「伊勢-大和-出雲」というラインを指摘する説があります. つまり, 大和に真の最高神である高御産巣日神を祭り, 日の出る方角 (東) である伊勢には天津神である天照大神を, 日の沈む方角 (西) である出雲には国津神である大国主命を置いた, という説です.


あと, 平安京にも高御産巣日神を祭る神社はあったという記述を見たことがあります>#1. ただし, 後になってこっちには社格を贈り, 一方で伊勢神宮には贈らなかったために伊勢神宮の方がより上位の神社として特別視されるようになったとか....
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