プロが教えるわが家の防犯対策術!

初めての投稿です。私の親戚にあたる人に特攻隊員がいた事を聞き、ネットで検索した所、辞世の句が納められている事を発見しました。しかしながら、その他の”部隊名”や”目的””戦没場所”等詳しい情報が得られず、困っています。海外に滞在している事もあり、現地へ出向いて探す事も出来ず、奥歯を噛み締める思いです。何方か情報がをお持ちでしたらお教え願えますでしょうか?どんな事でも結構です!
私の方でわかっている情報は:

村山光一
旧陸軍少尉(戦没してから1つ昇進したとみられる)
昭和19年12月20日フィリピン島にて戦死。享年21歳。
多分台湾からの出陣だったとの事です。

辞世の句:
大君の御楯となりて天翔る南の空にたとひ散るとも

15歳頃に所沢陸軍飛行学校に志願したと聞かされております。”ミスミ部隊?”という部隊に所属していたと聞いた記憶がありますが、定かではありません。よく飛燕に乗って家の上空を飛んでいたとの事です。

A 回答 (9件)

再度

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画像添付がうまくいかないようなので、再度3回に分けてアップしてみます。

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飛行第73戦隊のことを調べていて、偶然拝見した者です。


私は以前、73戦隊で村山軍曹と同僚であった青木伍長から、自費出版した従軍記を頂く機会がありました。

青木伍長は、村山軍曹とは特に仲が良かったようで、本の中に互いに語り合ったくだりが出てきます。また最後は特攻の直援機として村山機の最期を見届けたとあります。
その部分のページを画像添付しましたので、ご覧ください。

謹んで、村山軍曹のご冥福をお祈り申し上げます。
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質問者様



お尋ねの村山光一氏は、靖国神社に英霊として祀られている可能性が高いです。神社に照会されてはいかかがですか。所属部隊や最後の出撃情報が得られるはずです(神社では、そうした記録が保管されています)。電子メールを使って問い合わせるのもいいですね。


靖國神社
http://www.yasukuni.or.jp/

靖国神社
〒102-8246 東京都千代田区九段北3-1-1
電話:(03)3261-8326
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この回答へのお礼

有り難うございます。そうですね、確か靖国神社に飛行帽が祭ってあるという話を思い出しました!有り難うございます。

お礼日時:2009/09/26 14:21

 同氏に関する情報は以下の通りです。

お役に立てば幸いです。

 村山光一軍曹は、1942年(昭和17年)11月、少年飛行兵第10期生として大刀洗陸軍飛行学校を卒業後、航空兵下士官として三重県北伊勢(亀山)にて編成された三隅輝男少佐(陸士第51期)を隊長とする飛行第73戦隊(戦闘機戦隊)に所属。その後所沢へ移動したのち1944年(昭和19年)12月4日同飛行場を出発し、台湾台中において整備及び訓練に従事したのち、分散してフィリピンクラーク飛行場群(主としてマバラカット東飛行場)に逐次到着、同月17日ミンドロ島に来攻した米船団に対する爆撃隊の護衛に従事したが、同日第30戦闘飛行集団の隷下部隊から特別攻撃隊精華隊を編成するよう下令され、同戦隊からは村山軍曹、久永軍曹(少飛第7期)を選抜し、同月20日四式戦闘機に250キロ爆弾を牽下し、護衛2機とともにクラーク飛行場を出発、ミンドロ島サンホセ沖の敵上陸船団に対し体当たり攻撃を敢行して戦死。

なお、戦隊長三隅少佐も翌45年1月8日空中戦により戦死。操縦者を主とする生存者47名は潜水艦などにより台湾へ脱出し、地上勤務者の殆どは臨時歩兵第25大隊に編入され地上戦闘にて戦死。

資料:『日本陸軍戦闘機隊』 秦郁彦:監修 酣燈社 73年
    『陸軍特別攻撃隊』モデルアート7月号臨時増刊 モデルアート社 95年
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この回答へのお礼

本当にありがとうございました!!なんとお礼を申し上げてよいかわかりません。どういう風に言葉で表せばこの気持ちがわかってもらえるのかもわからないくらい、感謝の気持ちでいっぱいです。
立派に任務を果たし、日本祖国の為に戦ってきた人が親戚にいた事が本当に誇りであり、また悲しい現実でもあります。
何も納められていない彼の石碑に辞世の句、それからこの記述を大事に保管していきたいと思います。
60年以上経ってやっと彼の弔いをきちんと出来るような気が致します。
本当に有り難う。

お礼日時:2009/09/26 14:53

JP_Samuraiさん、こんばんは。



私の祖父も当時陸軍航空隊に所属(飛行士見習いから整備士へ転属)しており、同期の戦友を何人か特攻で亡くしたそうです。

さて、ご質問の村山光一さんの件ですが、当方手持ち資料によりますと、
昭和20年12月20日に、フィリピン・ルソン島クラーク基地を四式戦「疾風」でミンドロ島サンホセ付近に向け出撃(目標は不明です)。
所属部隊は精華隊第30戦闘飛行集団(部隊名は特攻の為、臨時編成されたものと思われますので、それ以前の所属部隊は不明です)。
村山さんが散華される前の階級は軍曹で、久永軍曹、三浦軍曹と出撃された様です。

どの様なご最期を遂げられたのかも解かりませんが、ご冥福をお祈りしますとともに、ご参考にして頂ければと思います。
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この回答へのお礼

とても参考になる資料を有り難うございます!
志願しての特攻なのか選抜での特攻なのかわかりませんが、辞世の句から感じる限りでは悔いは無かったのでは?と思いたい限りです。何はともあれ、心に残っていた痼りが溶けて無くなった感じです。やっときちんとした弔いができるような気がします。
有り難う。

お礼日時:2009/09/26 15:03

お気持ちを考えると、回答できないことを知りながらタイプしております。


私の父も志願兵として15歳の頃、薩摩の地の特攻隊の通信兵でありました。幸い私の父は無事帰還し、現在も健在です。しかし、あなたのお気持ちは痛いほど分かります。

>ネットで検索した所、辞世の句が納められている事を発見しました

まず、この点に関してですが、そのサイトの管理者が「辞世の句」をネット上で公開していることを鑑みると、何らかの情報を有している可能性があります。この点について、サイト管理者に対して情報を求められたでしょうか。

個人情報ですので、戦没者の方のお名前を書き込むのは多少の問題があると存じますが、ご文面から苦渋のご質問であったことは察するに余りあります。

海外に在住されておられるとのことですので、日本国内にいるような形で行動できないと思われますが、情報を集めるために、私は次のご提案をいたします。

1. そのネット管理者と連絡が取れるのであれば、情報を求めるメールを送ること。

2. 戦没者の情報は、市区町村が把握しており、まず、その方が出征された市町村に問い合わせをするのがよいかと思います。

3. 厚生労働省は、現在でも戦没者慰霊事業を行っており、1と2で情報が得られない場合、厚生労働省に問い合わせることもできます。厚生労働省の戦没者慰霊事業のサイトは、次の通りです。

【戦没者慰霊事業の実施】
http://www.mhlw.go.jp/bunya/engo/seido01/index.h …

お名前、出征地、曖昧ながらも部隊名が判明しているわけですから、必ず情報は得られると思います。

微力ながら、日本国内に住んでおりますので、私にできることであれば、お力になります。

回答になっておりませんが、お許しください。
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この回答へのお礼

心温まるお言葉を有り難うございます。
早速サイト管理者へ連絡のメールを入れました。とても参考になる情報で目から鱗でした。
戦争というのは本当に辛く悲しい思いを募らせます。戦没後65年あまりたった今、光一の生涯を辿る事が出来るという事は本当に驚きでいっぱいです。
本当にありがとう。

お礼日時:2009/09/26 14:51

次のような機関で旧軍人関係の情報を管理しているはず。

問い合せられてはいかがですか。


◇厚生労働省:

厚生労働省の社会・援護局
http://www.mhlw.go.jp/bunya/engo/index.html

厚生労働省:
〒100-8916 東京都千代田区霞が関1-2-2
電話:03-5253-1111(代表)(平日18時まで)


◇自衛隊:

自衛隊の朝雲新聞を出版している朝雲新聞社
http://www.asagumo-news.com/

朝雲新聞社
〒160-0002 東京都新宿区坂町26-19 KKビル


◇靖国神社:

靖國神社
http://www.yasukuni.or.jp/

靖国神社
〒102-8246 千代田区九段北3-1-1
TEL:03-3261-8326
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この回答へのお礼

沢山の情報を有り難うございます。この情報を参考に連絡してみるつもりです。
12月20日までになんとか資料が揃うと思います。
本当に感謝致します。

お礼日時:2009/09/26 15:07

〒 208-0031


東京都 武蔵村山市岸287 禅昌寺 Tel.0425-60-3417
陸軍少年飛行兵の供養塔が建立されています
 こちらに問い合わせれば何か解るかも

小生も一昨年に伯父(軍属)が亡くなったトラック諸島の海へ行って来ました
 多くの人から情報とお世話になり念願が叶いました
  母の33回忌(昨年)に報告が出来ました
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この回答へのお礼

そうでしたか。私も何時か村山光一が戦没した場所へ行き供養をしたいと考えております。21歳の若さで、戦う為だけに青春を費やしてしまったのかと思うととても悲しく辛い気持ちでいっぱいです。
特攻を言い渡され、その間3日の猶予の間、いったい何を考え、何を感じたのかは今は知る由もありませんが、辞世の句から感じる限りでは本人は誇りを持って南の海へ散っていったのではと思います。
本当に有り難うございました。

お礼日時:2009/09/26 15:17

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