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 心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。
それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。

 哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。

 そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。

 これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。

A 回答 (83件中51~60件)

 たびたび丁寧なお礼、痛み入ります。

いささか奇妙な盛り上がりである上に、管理部の低能どもによる「妨害」も隠微な形で行われており、ちょっとやりにくいことはたしかなのですが、私自身、この機会に勉強させていただきながら参加いたしております。実は今、『内部観測』という本(青土社・郡司ペギオ幸夫ほか)を読んでおりまして、心身問題にも有意義な示唆が得られそうです。直接的には「複雑系」の問題なのですが、知覚心理学のギブスンが提唱したあほーざんす…あ、失礼、あほーは管理部でした…あほはほっといて…「アフォーダンス」ですね。その、アフォーダンスとの関連もあるらしく、ちょい興奮モノです。
 前回の書き込み、「簡潔」との仰せですが、なに、上っ面をさらっただけです。satonohukurouさんには釈迦に説法というもの。目的は冒頭にも断ってあるように「他の回答者へ向けた情報共有化」です。そのへんが全然読めていないようです。管理部の低能どもには。その「妨害」のおかげではっきりさせねばならない部分がうやむやになろうとしている。…というわけで、halkaさん。「難点として、現段階では唯心論的独我論に陥る可能性があると思われます」とのこと。わかってくれているなら、おぢちゃんはそれでいいんです。「現段階で」、そうなってますね。…と、ここで「唯心論的独我論」の「わかりやすい言い換え」を一旦書いたのですが、消しました。私の残りの質問にお答えいただいた上で(強制はしませんが)、必要があれば申し上げましょう(とか言って「答えがまだだよん」てことをさりげなく確認しちゃったりなんかする…)。
 いやいや、「邪悪なふくろう」の片鱗をお見せしてしまいました。とりわけ「権力を持ったバカ」が嫌いですので、ついつい。さて「幻影肢」の問題。…するとやはり、仰せのように「身体論」からのアプローチになりましょう。
 いったん、喩えとして、自動車の運転をする際の「車両感覚」を思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。とりわけ、バスやトラックのプロ運転手さんたちの卓越した車両感覚。中には後ろから笛の音で誘導してもらう人もいますが、慣れた人なら椅子に自分の尻を納めるのと大して変わらない感覚でピタッと一発、後退で駐車ポジションに納めるでしょう。バスのおケツなど、自分のおケツより十メートル近くも後ろにあるのに。
 この場合、「身体意識」は、客観的に実在している皮膚に包まれた肉体という空間範囲を超えて、箱型の車両全体まで「広がって、延びている」とも言えるでしょう。その意味で、ジャンボジェット機や巨大タンカーの運転手さん、偉大です。でもちょっと延ばしすぎましたから、今度は縮めましょう。足を折りました。痛いです。歩けません。松葉杖をつくことになりました。最初は違和感バリバリです。脇の下が痛くなります。たまに杖の先の接地に失敗して、すってんころりん、あいててて…なんてことにもなります。でも…慣れてみると「身体感覚・身体意識」は杖の先まで延びます。杖の先で地面の感触を「感じる」ことができるようになる。そうなれば、もうR2D2みたいにゴキゲンで歩き回れます。
 もっと縮めます。stomachman症例報告に続き、serpent-owl症例報告になりますが、実は一月頃、バイクで自動車と接触事故やりました(95:5であちらペナルティ)。ぽ~んと投げ出されて、ぐしゃっと着地。擬音語のわりに大した怪我はしてなかったのですが、しばらくは立ち上がれませんでした。のちの診断ではただの打撲で全治二週間程度のもの。ですが「その時」には、意識は非常にはっきりしていたにもかかわらず、まったく身体を動かすことができなかったのです。車道のど真ん中だったので、人に助け起こしてもらって路肩に移動。そこで着地した方の足を恐る恐る地面につけてみて、「あ、折れてないや」と気付き、ようやく少しずつ動かせるようになりました。…きわめて、少しずつでした。
 この場合、瞬間的な自己暗示で「あ、折れたかも…やばいかも…死ぬかも…ここ、天国かも…」とでも思っていたのかもしれません。そうでないかもしれない。けれどとにかく、「意識が身体よりも内側に退いていた」とは言えると思います。
 こうして見てみますと、意識というものは独り「脳」のみに局限して展開されているのではなく、非常に可塑的に伸び縮みするもののようです。すると「幻影肢」というものにも一応の解釈を施すことができそうです。すなわち、自己の肉体は自動車や杖のように取り外し可能なものではなく、生まれてこのかたデカくなるたびにデカくなってきているわけですから、その肉体に関して及んでいる「身体意識」は非常に根強く意識に枠づけられている。だから簡単には消去・変更されないのだ、と。
 症例によっては、存在しないはずの部位に感覚を感じることもあるそうですね。無いはずの貴方が噛んだ小指が痛いとか(古いな…)。切断された付け根で感じるのではなくて、まさにその「存在しないはずの小指」で感じるという。これも不思議なことです。…早計かもしれませんが、やはりこれは、「意識」というソフト的要素(と言って語弊があれば、心的内容ないし観念的要素)が、脳というハードウェアにも刺激を与えうることを示唆するようにも思えます。「脳」の側から説明すれば、脳内に形成された、腕を担当するニューラルネットワークが、腕が切断されたのちもそのままであるため、脳は腕がそのままあると誤認し、意識にもそのように受け止められる、と解釈できます。が、その他方、実際には存在しない「小指の神経」に感覚を感じているわけですから、身体意識の介在も否定できない。その感覚は、脳にではなく身体意識に由来する可能性もある。やはりどうも、脳と身体と意識とは、別々のものでありながら、しかもどこかで分けられない部分があるように思えます。

 「身体論」からのアプローチであれば、ヒントは色々なところにあります。前に挙げたメルロ=ポンティや市川浩さんもそうですし、鷲田清一『普通を誰も教えてくれない』にも関連する話があり、佐伯胖(さえき・ゆたか)さんにも「眼鏡が置き忘れやすいのは、それが置き忘れようがない自分の肉体と、外界に空間定位した諸事物との中間に漂っているからだ」という文章があります(出典失念、調査中)。
 それから、人間には、おそらく動物でも変わらない「安全空間」が身の回りにあります。赤の他人がすっと、例えば自分の首元まで手を伸ばしてくると、思わず首を引いてしまいます。「侵入してほしくない空間」を、他者が突き破ったからです。ゴルゴ13に至っては、「自分の後ろ」という空間がすべてコレになります。思わず殴ってしまいます。
 エリアス・カネッティ『群集と権力』(法政大学出版局)には、これを絡めた話が載っています。互いに安全な距離を保った「群集」は落ち着いている。けれど例えばすし詰めの桟敷席などでは他者と安全な距離が保てず、時に荒々しく、時に妙に明るい雰囲気がかもし出されます。こういう効果を巧みに利用したのがナチスです。集会に集まった群衆を、親衛隊やらユーゲントやらが取り囲む、そして演説がたけなわとなるにつれて、親衛隊は少しずつ前に出る、すると群集は圧縮されていく…いやが上にも興奮が高まる、というわけです。
 さらに冒頭に挙げたギブスンのアフォーダンス。いやぁ、これが今勉強中の複雑系問題に関わってくるとは思いませんでした。その意味でもこの対話は私にとって非常によいきっかけになりました。こちらももう少し考えを詰めてから述べます。

 で、「文学っぽいアプローチ」ですが、これは「哲学ならではの何でもアリ性」に立脚して考えておりますので、ちとやっかいです。少々お待ちを。また「哲学と科学」という問題にも、そこで考えを述べたいと思います。

 
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邪悪なふくろう叔父様に従い私目の立場も叔父様のフィルターに肖りたいと思いま


した。里のふくろう様にとって私のものも邪悪様の示したその他大勢中のひとつと
なるやもとはおもいますがそれも致し方ありません。
私の言っていることは
◆心・命題同一説というのが適切かと思います。
感覚・知覚・思考・感情・意志などの心的事象は意識の命題関数そのものだとする
立場です。難点として、現段階では唯心論的独我論に陥る可能性があると思われます。

心・命題同一説ではまず意識が前提となってそのうえに命題が三区分されます。
すなわち事実世界、可能世界、価値世界です。ふくろう叔父様の述べた各学派は
おおよそ事実世界を基礎として真偽判定の命題関数が展開されますが、ここでは関
数の展開される議論領域がはじめから三つに分かれていると言うわけです。
事実世界とは意識が時空という議論領域を背景として物質の存在の「Aがある」を
真偽判定する一つの体系であると定義されます。
主に感覚が「Aがある」の判定の基準となりますが、時間という現象の展開の前後
に無矛盾性を介在させることが必要です。
瞬間の感覚が「見た!」と告げても時間の前後にあるはずのないものをいっても
それは幻覚とか錯覚として処理されます。

ここで主観客観という事を命題Fの真偽判定に拘わり定義してみたいと思います。
事実世界を時空連続体として任意の時間(tm,tn)を取り出しその時点のFが
客観的に真は(1、1)とします。すなわち普遍とはいつでも、どこでも誰にで
も一致する真偽判定ですが客観と普遍を同義に考えるわけです。
一方主観性については(1、0)を認める判定ということにします。

次の可能世界ですが、ここではラプラスのものを採用し、確率という概念に限定し
て考えることにします。
「ある事象の確率とは(1)其の事象を構成する基本事象に遡り、互いに背反で総ての
可能性を尽くす同等に可能な一群の基本事象に同定し、次に(2)其の事象を基本事
象が何個あるかを決定し、最後に(3)其の数と基本事象の総数との比によって定義
される。」

さて価値とはどのように定義されるでしょうか?それは主観の要求を満たすものと
言うのが一般的です。いま少し厳密にやってみましょう。対象命題Fがあるとしま
す。Fは意識上の命題ですから事実であるとは限りません。さきに主観の要求を満
たす、ということを「私はよい」が真であるという風に言い換えます。
すなわち「Fに価値がある」とは「Fが事実であるとき、私はよいは真」と同値と
します。ところでFの資格を考えると単にFが事実であるか否かというほかに、F
になるかもしれない、という可能性のうちに語ることが出来ます。よって命題を
事実を可能にまで敷衍して「Fが事実であるかもしれない時、私はよいは真」を導
出する対象命題Fについて「Fに価値がある」ということにします。
これを記号化すると「価値を表すF」をVF、「可能性を表すF」をPF、「私は
よい」VSとして(VF∧PF)⊃VSが価値の一般式として設定されます。
もともとこの公式は「価値とは主観の要求を満たすもの」ということを命題三区分
の立場から言い換えたにすぎません。

さて以上の区分の世界に対して主観的判断と客観的判断とはどの様に適合されるで
しょうか。すこしまとめて見ますと・・・。
・客観的判断
任意の(tm,tn)においてF(1、1)またはF(0、0)である判断。
・主観的判断
任意の(tm,tn)においてF(1、0)またはF(0、1)である判断。
主観的判断とは意識がその時限りにおいて真偽いずれを判断したかということです
から客観的判断を含むといえるかもしれません。
錯覚の事例で具体的に見てみましょう。
月が水平線上にある時と中空にあるときでは大きさが違って見えます。
tmにおいて、F{水平線上の月}>{中空の月}は真と判断した。
tnにおいて、F{水平線上の月}>{中空の月}は偽、すなわち両者は同じ
と判断した。このとき主観的判断は、主観がそのときFに対してした真偽判定
ですから{1、0}と記述。
対して客観的判断とは、tnにおいて改めて角度を測定機により計測した、ある
いは前後の論理的矛盾を確認してtmに変更を迫るのです。あれは錯覚だった。
結果{0、0}と記述。さてこの二つの判断を可能命題に対して適応してみます。
tmにおいて意識はサイコロを振って1の目の出る確率を1/2と判断した。
tnにおいて意識はラプラスの定義に基づき、1の目の出る確率を1/6と判断した。
ここでFを「サイコロで1の目の出る確率は1/2である」としたとき主観的判断に
おいて{1、0}、客観的判断では{0、0}となります。
さて確率の法則のような可能性に対して普遍的な判断はそうざらにあるわけでは
ありません。実際、互いに背反で総ての可能性を尽くす同等に可能な一群の事象
がまったく見当たらないものもあります。しかしながらあらゆる場面で行う可能
性に対する主観的判断はまったく意味のないものでしょうか?
というのは、先ほどの価値の自己満足の公式を思い出すと、目的的活動において
次のようなことが言えるのではないかと考えられるのです。
いま出したサイコロの例をでいえばVF{1の目が出ることは良いことである}
PF{1の目の出る可能性は高い}ならば、そう判断する意識のFの目的的行為
の実行頻度はPF{1の目の出る可能性は低い}に対して高くなる。
この場合、主観的判断のPFが結果であるFの発生頻度という事実に影響を与える
と考えられるのです。
ここでは、tmにおける客観的には偽であるところの主観的判断が事実であるFに
連関性を持ち有意味である、ということが言える。


先ごろよりクオリアエイジェントの方がいらしているようなのでクオリアについて
ひとこと。
上記の例でいえばクオリアとは事実命題の主観的判断ということがいえます。
水平線上の月と空中の月のどちらが大きいかということで、賭けをしました。
「水平線上の月のほうが大きい」は質感を伴う実感であり主観的判断です。
結果、計測器を用いて視野角度は同じ、命題Fは客観的判断において偽となり
ました。ここで主観的判断F=1は有意味性を持つのでしょうか?
Fは結果としての事実命題であり、その主観的判断がVF、PF、VSの如何
なる連関をもつこともない。よって、それが結果としての事実に影響を与える
こともない。事実世界における主観的判断F{1、0}は強制的に客観的判断
{0、0}に修正される。

よってクオリアは有意味性を持ち得ない。    証明終り。
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この回答へのお礼

 お姉さまが、「心・命題同一説」とご自分の立場を明確に表明されて説明されたことに敬意を表します。心の問題で立場を表明することは欠陥を指摘されることを意味するように思われるからです。ご自分でも承知されておられるようですが。
 さて、お姉さまの論理は、「判断」もしくは「思考」の過程を説明する論理、または、錯覚等の感覚の過程を説明する論理と理解しました。
 しかしながら、クオリアを、お姉さまは有意味性を有しないことを証明されて排斥されていましたが、私は、心についての説明で哲学でも科学でもその説明の困難性が「感覚質」や「志向性」を説明せざるを得ないところにあると理解しております。例えば、お姉さまは、最初に意識を前提していますが、その意識そのものを説明する必要があるように思いますがいかがでしょうか。「真偽判定する一つの体系である」と定義することによって、さらに主格を前提にせざるを得なくなります。
この主格についての説明が為される必要を感じるのですが。

お礼日時:2001/03/31 21:48

 serpent-owlさんが唯物論的「心の哲学」にまとめてくださったので、一般論を展開しているときに非常に気が引けるのですが感想を



 自然科学の立場からいえば唯物論的「心の哲学」としてはどれでもいいのではないでしょうか?(非法則論的一元論はちょっと異質ですかね)
 というのは、たとえば、
 心を物質の運動として捉えたとして、たぶん行動主義で規定しうる心の振る舞い(現象)を説明できなくてはならないし、物質の運動論が十分に正しそうであれば行動主義の結果に対してチェックが入ることになります。つまり、お互いの方法論から得られた結果に整合性が要求されるわけで、そこがどっちが合っているか間違っているかなんて、研究の出発点としては(お金や時間の問題は別として)そんなに気にしなくても良いところが哲学との大きな違いかなと思いました。これまで哲学の諸説の間で説の間の整合性が得られない(各説の展開の仕方が論理で閉じいるだけで、それを超えたチェック構造がない)ことが自然科学をやっている人から見た欲求不満のもとなのではないかと思いました。
 あと、還元主義的な分析方法(心脳同一説や機能主義がこれにあたるのでしょうか)に関する批判(?)ですが、分析の対象とする要素の集合の状態をより高次の状態に対応づけ、高次の状態間の関係をミクロな要素の法則で説明できたとき、そのとき自然科学をやっている人(といより、自然科学の研究システム)がそれを説明できたと考え、研究を止めるとは思いません。おそらく何でそんな複雑なものが上手く説明できてしまったのだろうと考え、なにかあるはずだと思うはずです。(複雑な方程式が上手くとけてしまったときには、そこにはまだ見つけていない何か対称性(不変性)が潜んでいるはずだと考えるのはよくあることだと思います。逆にそういう不変性を見つけたときに分かったような気持ちになるという非常に強い人間の認識の癖があるように思います。)たとえば、社会学における因子分析(でしたっけ?個人の多元的データの統計をとって統計的データの独立要素を抽出するというようなこと)は個人のデータを取っているからといって還元論的な方法かというと私はそうは思いません(この方法で出てきた因子がどれほどであるかは別として)。こんなに単純ではないでしょうが、細かい要素に分解して心を説明をするということの最終目的は、この因子のようなものを見つけて因子によって心を説明するということだと思います(というか、そういう単純化されないと分かった気持ちにならないと思います)。そう思うのは「心」というものがあると私たちが素朴に思えるからです(仕組みはわからないけど脳の中で単純化されているから、自然科学的な理屈でも単純化できる(因子のようなものがある)だろうということですね。きっと・・・ということは私たちの理解の仕組みをしらないと・・・ということになって、ぐるぐるめぐるのでしょうか)。
 やっぱり哲学には「心」というものがあると私たちが素朴に思えることをきちんと説明して欲しいです(それは例えば錯覚だ!という答えなのかもしれませんが、錯覚だって素朴にあると思う気持ちは変わらないので、錯覚という切り口で素朴にあるということの状態を明らかしにて欲しいのです)。そして、その過程で「仕組みはわからないけど脳の中で単純化されている」一端が見えるかもしれないと思うのです。
 ちょっと皆さんが繊細/微妙な話をしているときに議論を蒸し返しているようで申し訳ないのですが、困ったやつだと笑ってくだされば幸いです。
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この回答へのお礼

初めまして、よろしくお願いします。

新しい視点での回答があったと理解しました。
すなわち、哲学と科学の説明の仕方の違いについて、唯物論の立場では、科学では各種の立場で説明される事象についてチェックを受けることから普遍性が確認される。還元主義では、原子論としての究極の因子の追求により説明が為される。
しかしながら、哲学は自己の論理だけで閉じてしまっているのでチェック機能がない。
 説明する、もしくは論理を展開する、さらに説明や論理を納得する(納得できたという気持ちになる)ということのきちっとした理解が私には不足しているようです。

お礼日時:2001/03/31 21:19

serpent-owlさま:



貴方の指摘はとても興味深いと思います。
ところで、心脳問題MLでは「第1回心脳問題研究会」
を4/7(土)午後、新宿歌舞伎町のルノアールで
行います。もし良かったら顔を出してみてください。

参考URL:http://www.qualia-manifesto.com/forum1.html
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fwappyさま


 まず「不可知論者」と誤解した点につき、謝罪します。すみませんでした。それと、あの質問、「当局」による削除だったのですか。いかにも無知無教養な低脳がやりそうなことですね。未来の、世界なんたらかんたらなんて十年早い…いや、もうちょっと…だいたい五十六億七千万年ほど早いでしょう。面白くなったかもしれないのに。それから、「コンピュータと人間の脳・心は同じではない」というご指摘、おっしゃる通りです。私もそういう思いから書きました。このアナロジーは機能主義の立場に立つ人が説明上の便宜をはかるためのものだったのでしょうが、アナロジーによる「わかりやすさ」は、時に多くのものを犠牲にします。この場合、シナプスやらニューロンやらの物質的実在と、心的内容という書き換え可能で物理的法則に必ずしも縛られない要素と、分けられるようで分けられない部分というのは確実にあるように思います。逆に言うと、この「分けられるようで分けられない部分」というところをクリアすれば、コンピュータやロボットにも、外部からプログラムされるのではない形で内発的に快と不快を感じたり、「心」を持ったりする可能性が開かれるのかもしれません。

   *

 それから、前回書き落とした点が一つ。天才的な数学者・物理学者であるロジャー・ペンローズ氏が「心」には脳内の量子論的過程が介在しているのではないかと問題提起しています。『皇帝の新しい心』とか『心の影』とかで。(『皇帝の…』はみすず書房。手に入りやすいものに、講談社ブルーバックスに『心は量子で語れるか』があります。)
 私にとってはかなり難しいので、充分に理解した上で言うのではないのですが、「そりゃいくらなんでも無茶だろう」というのが率直な感想です。おそらく、またぞろ「素朴実在論」にどこかで足をすくわれているのではないかと…。
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この回答へのお礼

ペンローズの「心は量子で語れるか」は、私も読みました。量子論についての説明は理解困難でしたが、意識の在処を微小管に求めて説明しているその説明の仕方が、実に科学的で、そのためか理解がしやすく、また心についての説明(仮説)がこれほど具体的にされているのを見かけなかったので、衝撃的だったことを覚えております。
このような説明のされ方をすると、哲学的説明の役割もしくは意義というものに疑念を覚えてしまうわけです。

お礼日時:2001/03/31 22:02

些細ではあるが、個人的に興味がある点についてとりあげます。



serpent-owl様:
>「脳にせよ心にせよ、ハードとソフトに分けられるとは思えない」

脳におけるハード・ソフトの区分けと
計算機におけるハード・ソフトの区分けは
異なりましょう。

意識・無意識の境と、ハード・ソフトの境の間に
なんらかの関係があるかどうかはわかりませんが
もし関連があるとすれば、同じ機能だから同じ心
とは言えないでしょうね。ただ、それを確認する
のは非常に困難でしょうけれども。
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 回答者各位と情報を共有化するために、「心の哲学」の流れと主要な立場を概観しておくのも無駄ではないでしょう。


 「心の哲学」は、デカルト(もっと遡ればプラトン)以来の心身二元論に端を発する哲学の根本問題の一つです。これ以来、おおまかに言うと二元論、唯心論(観念論)、唯物論など、三つの立場に整理できます。が、ここでは、自然科学が発達した20世紀後半に主流となった、唯物論的「心の哲学」に限定して概略を紹介します。「行動主義」「心脳同一説」「機能主義」「非法則論的一元論」…と、いきます。

◆行動主義
 心理学における行動主義は、ワトソンらに提唱され、スキナーらに引き継がれて、一応今日の「使える」心理学の土台になっています。stomachmanさんがご指摘のように「パブロフの犬」の実験、すなわち、本能的反応(無条件反応)とは別に、学習による条件反応(レスポンデント条件行動)が形成されうるという発見が出発点になります。
 これとは別に、心身問題を哲学的に検討する立場の一つとしても「行動主義」があります。『心の概念』(みすず書房)のG・ライルらが代表的。
 この立場の考え方を一言で言うと、「心の内実そのものを説明することを回避し、外から観察できる行動を表現する言葉に置き換えて理解しようとする」ものです。例えば誰かが笑っているとします。ここで「彼は喜んでいる」と言うことも可能ですが、その喜びを彼の心の中の出来事として捉えるのではなく、「彼は感謝の気持ちを伝えようとしている」とか「場の雰囲気を明るくしようとしている」とか「喜ぶべきと解釈し、それにふさわしく振舞おうとしている」とか、行動レベルに置き換えて説明しようとします。
 この立場は、誰にでも観察・実験できる心への視点を切り開いた点では評価されています。が、難点もあります。行動そのものは観察可能でも、その解釈は恣意性を脱却できない、という。心の内実に踏み込むことを避けながら機械的な因果関係で行動を解釈しようとしますので、ともすれば「空振り」になります。はなはだしくは「勝手な理屈を先に立てて、それで現実を裁断して納得したつもりになる」危険もある。幼児殺害を「鬱憤晴らし」と解釈するのと同レベルの貧しさです。

◆心脳同一説
 読んで字の如しでしょうか。感覚・知覚・思考・感情・意志などの心的事象は大脳の物理的過程そのものだとする立場です。ファイグル、スマート、アームストロングらにより、20世紀半ばに唱えられました。
 原子・分子の物理化学過程を実在と考え、その土台から心を考える立場ですので、はっきりと唯物論的です。この土台に立って、人間の心を刺激と反応の関数として捉えようとします。
 私自身、テレビででしたが、猫の脳のある部位に電気刺激を与えると、猫が怒り出すという実験を見たことがあります。「感情とは脳のある種の興奮である」というのは裏付けがある。事実、「科学的」です。が、現実の中での因果関係と切り離して脳の興奮として感情を捉えて何の意味があるのか、疑問も感じます。やはり「心の内実」は説明できない。この立場は行動主義から派生していますので、その流れに沿っているとは言えますが。
 また他にも指摘される難点は、脳という器質的説明に還元すれば単一の関数が得られるものの、それでは同一刺激(現実の)に対する感情の多様を説明できないこと、また逆に、多様な刺激によって同一の感情が生じうることを説明できないこと、などが挙げられます。よーするに、つまんない。

◆機能主義
 心脳同一説の難点を補う形で構想されたのが機能主義になります。脳と心的内容の関係を、類比的に言えばコンピュータのハードウェアとソフトウェアの関係と同様のものとして捉えています。
 この立場は、心的内容が脳という物理的基盤の上に成り立っていることを認めますが、心的内容の変化や推移そのものは物理化学的過程には還元しえず、現実的・日常的な出来事と心理との関係に立脚する法則性にしたがうと考えます。このことによって心脳同一説の難点を回避しています。
 この立場に関しては、さまざまな批判が向けられているものの今なお多くの支持者がいるようです。決着がついていないのが現状らしい。
 批判の論点を私なりに要約します。一つは「同じような出来事に対する人による反応の違いはどう説明できるのか」ということ、もう一つは「神経科学の今後の発展により、日常的・現実的経験に基づく法則性の記述は、意志や感情といった曖昧な言葉ではなく、もっと科学的な用語に取って代わられるべきだ」ということのようです。
 また、私なりの文句もあります。「脳にせよ心にせよ、ハードとソフトに分けられるとは思えない」という点です。例えば、新生児の脳内におけるシナプス結合の進行は、外界からの刺激に左右されることが知られていますし、成長してからも反復学習によって新たなシナプス結合がなされることも知られています。ソフト的な刺激がハードを構成しうるわけです。コンピュータとはワケがちがう。また、物の見方・考え方を自覚的に変えることで、同じような出来事に対する感じ方を自ら変えることも可能です。一度仕事をクビになったとして、別のところに再就職、この間に俗な言葉で言えば「人間的成長」があったりすれば、またクビになっても案外動じなかったりするわけです。プログラムのバージョンアップ? …でハナシは済むのでしょうか。

◆非法則論的一元論
 D・デイヴィドソンが『行為と出来事』(勁草書房)などで提唱。これはstomachmanさんが言われる「一つの原理で多くの現象を説明」するという哲学的説明の目標定立に対するアンチテーゼと言えるかもしれません。
 彼の意見は、宇宙に存在するものは結局は物質のみであることを認める点で唯物論的です。そこに物理的な因果関係の法則性があり、それを説明可能とする点において科学的であるとも言えます。ところが彼は、信念や知覚や行為といった心理的・志向的現象は厳格な法則的説明を受けつけないとします。「心が物質的基盤に立脚すること」を認めつつも、心を物質的基盤および法則に還元することを拒否しているわけです。心的内容は、いわば心的内容自体の自己原因や他者との関わり、現実との交渉の中で、独自の因果関係に基づいて内容を獲得し、変化・推移するということでしょう。
 これに比較すると、先に挙げた「心脳同一説」などは「心を脳に還元して器質的に説明可能」とする点において「法則論的一元論」と呼べるでしょう。脳と心的内容を区別した上で、両者の相互作用の法則性を説明可能と考える「機能主義」は「法則論的二元論」。デカルトのように「心」と「物」をまったく別個の実体と捉える立場は「非法則論的二元論」となります。

 だいたい以上です。この他にも、やはり「身体論」から心を見ようとする試みも始められているようです。
 また、「他者の心の観察可能性」というポイントも不可欠ですね。これはこれで、またしても哲学の根本問題である「他我問題」と密接に関わります。行動主義なんかは、この「他者の心をいかにして観察するか」という課題に対する、一つの回答だったわけですから。
 「他我問題」に関しては、エマニュエル・レヴィナスの「他者の思想」やユルゲン・ハーバーマスの「コミュニケーション理論」がヒントになるかもしれません。
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この回答へのお礼

 重ねて、感謝申し上げます。私も、一応は心身問題に関する現代哲学史は勉強しましたが、このように簡潔にまとめた形で自分のものに消化できていませんでした。
 私は「幻影肢」を取り上げて、哲学のテーマとしようとしております。
感覚器官が作用しない状態で、無いものがあると感じる(無いはずの手足があると錯覚する)、すなわち「感覚質」のみが発生するというこの症状にアプローチすることにより心と脳の関係について考察しようとしています。
 ところが、ここであらためて考えてみると、哲学で説明できていない問題となっているのは、まさしく「感覚質」、「志向性」ですね。
 この問題に挑戦するということは、私の力では無謀としかいいようのないものだったかも知れません。考察の視点をもっと足元を見るようにすべきなのかも知れませんということを、今感じております。

お礼日時:2001/03/31 19:44

stomachman様:


>大前提として、人に心がある、ってことは素直に認めて良いんじゃありませんか。

ではこれを”客観性のある手段”で”文脈から或る程度独立に”
”手間を掛けて””少しずつ”でもいいから今ここで”説明”
してみてください。

もちろん”でたらめに言葉をこしらえる”のではなく、
”概念ひとつづつを出来るだけ検証可能な仮説にまで洗練”
して”観察・記述するための確たる足場”を”地道に組んで”
いってみてください。できますか?

#思うに、すべてが自己言及なしに語り切れると結論するのは、
#数学と超数学を「区別」できるというのと同列の「信念」に過ぎないでしょう。
#このテーマは、貴方に「殻を破る」チャンスを与えてくれる筈。
#実に幸せなことですね。
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fwappyです。



serpent-owl様:
>ところで、「どんな命題でも証明可能で、しかも無矛盾な論理体系の存在について」というご質問は、
>どうして消されてしまったのですか? 書き込み、用意してたのに…

ああ、そうですか。でも、私が消したのではありませんよ。

gooの担当者が「不適切」ということで削除されたのです。

大方、某君の某所掲示板との比較評価の箇所が
当局のお気に召さなかったのでしょう。

>「心に関する仮説を証明する実験はできるのか」というsatonohukurouさんの問いに対して
>「絶対に出来ないのでしょうか」との問い。…こういう言葉の返し方はちょっといかがなものか
>と思わなくもないですが、

私はそうは思いません。

質問する人間が、無意識に前提していることについて、
解答者が問うのは当然です。質問が真摯であるならば、
そのような質問を歓迎こそすれ拒否する理由がない
でしょう。

ところで、他者の心に対して、世界を持ち出したことについて
serpent-owlさんは、私が不可知論者だとみなしたようですが
それは、まったく逆です。

私がいいたいのは
「他者の心が観察できないなら、世界も観察できない筈だ」
すなわち
「世界が観察できるというなら、他者の心も観察できる筈だ」
ということです。

>よろしければfwappyさんにも一緒に考えていただければと願うものです。

私は考えていますよ。もう随分と長い間。
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1「説明」について


 心という現象(これが存在するかどうかも問題ですが)の法則性について推論すること、として使用しております。


2「立場」について
>「立場のないものが哲学することである。」は、立派な立場ではないでしょうか。

ですから・・・その「立派な立場」というものがそもそもないものを哲学と呼びましょう。

>この立場に立つということは、その立場に見合う論理展開の方法があると思うのですが。さらに、心に関する哲学のジャンルだけをとっても、「心身二元論」、「論理的行動主義」、「観念論」、「唯物論」、「機能主義」・・・と際限となくあります。

「立場に見合う論理展開」とはその「立場の擁護」と同義であることは承知していたほうが良いと思います。
また際限なくあるとどうだとおっしゃるのかよくわかりません。

3「内包」について
>「心について哲学する」ということを、「心の概念分析をすることである」とした場合、心についての概念を「理解」するためには「経験的知識」が必要とされます。この「経験的知識」は「科学」によって得られる知識である、ということです。

「知識」と呼ばれるものを曖昧に定義されているようですが・・・あなたにとっての「知識」とは何か?・・・お聞かせ願えますか?


4哲学の思考展開について
 >哲学も科学も説明は「理論」によります。

哲学の場合そもそも説明をする必要のないものです。そもそも説明の必要のないものに理屈を付ける場合のその「説明」とはその「必要」に対する説明と相成ります。これはロゴスに対する軽侮ということでしょう。科学についても同様です。

2項で述べたように、哲学と科学はその理論の展開の仕方が異なるのではないかと考えております。

>どう異なるのですか?

科学では、「仮定」、「実験」により推論を進めることにより「論理性」が担保されています。
哲学では「概念分析」だけです。しかし、その概念は科学の知識をも根拠としております。
 

>ここまでくると、私は「自己矛盾」に陥ってしまいます。哲学と科学はその説明の方法(論理の進め方)に違いがあるはずだ。でも、その違いがよく判らない。というところにです。

「自己矛盾」を感じておられるのは結構なことだと思います。

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 以上、補足させていただきます。つたない説明のために、多くの理解困難な内容を提供していることをお詫び申し上げ、再度ご教示をお願いします。
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