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関ヶ原の戦いが終わり敗者となった上杉。
その後家康に恭順し恩のある豊臣家を攻撃します。

どうして義の軍団の上杉が豊臣を攻撃したのでしょうか?

A 回答 (9件)

そうそう忘れていました。



徳川家康が征夷大将軍になって、幕府開いたのは1603年です。
上杉が米沢に押し込められたのは、1601年です。
関が原以降、徳川家康が大きな権力を握っていたのは確かですが、それは、豊臣政権の五大老筆頭としてです。秀頼の未成年後見人としてです。関が原直後、大阪城に入った家康ですが、すぐに、大阪城を秀頼に明け渡し、自分は伏見城に移っています。
ですから、上杉を故郷の越後を追いだし、米沢に押し込めたのは、家康が大きな力を持っていたとはいえ、豊臣政権です。

家康を五大老の筆頭にしたのは、秀吉ですが、上杉に会津120万石を与え、関東東北の要としたのも、秀吉です。豊臣家が、秀吉の政策を継続するなら、秀頼が「上杉の会津(佐渡、出羽)120万石はそのまま」っていえばよかったんです。
天地人でのせりふの「上杉を潰すな」くらいじゃ、全然だめです。

会社の東北支店長だったのに、解任されて、米沢出張所に飛ばされ、一生出世なしって待遇されたら、恨みますよね。首にしなかったから、恩を感じろなんて、めちゃくちゃじゃないですか?

上杉は、京都との交易による関銭が大きな収入源です。アメリカと貿易して関税でもうけるみたいなものです。北の関が原で、出羽に出兵したのは、直江津港に代わる、もらったばっかりの庄内の港を最上から守りたかったからです。

上杉が越後から出たのは、直江津港(当時は今浜)の代わりに佐渡の港と、庄内の港をもらえるからでした。それを、反故にされし、港の無い米沢に押し込められちゃったんですよ。豊臣家を恨みませんか?
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戦の後、家康は幕府を開くことで伝統的に諸大名を束ねる立場の


「征夷大将軍」となります。ここがポイントです。公家の序列で
諸大名を支配した豊臣に対し、徳川は武家を束ねる「将軍」の権
威で諸大名を支配しようとします。
諸大名はあくまで武家です。「将軍」の誕生で公家政権・豊臣の、
諸大名への影響力は大きく低下します。

幕府は三か条の法令の遵守を諸大名に誓わせます。これは、大名家
の幕府への従属を誓うものです。豊臣家はこれに加わっていないた
め幕府の組織外に置かれた特別な存在となります。
豊臣家を立てたまま、非常にスムーズな政権移行です。

やがて鐘銘事件が起きますが、豊臣側の僧侶はあえて「豊臣」「家
康」の文字を入れたことを証言しています。両家の繁栄を願ったと
釈明しましたが、本当でしょうか。諱の「家康」は他人は使用を避
けるべきもので、呪詛を疑われても仕方ありません。言い掛かりで
はなく、落ち度は豊臣側にありました。

豊臣方に味方したのは浪人ばかりで、大名はみな徳川に従いました。
古田織部は内通したとして豊臣滅亡後切腹させられますが、冬の陣に
出陣して負傷するなど表向きは幕府方です。
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義というのは、ちょっとね? もともと身内または協力者同国人たち同士の相互扶助ですので、他国は無関係です。

関東出兵の多くは、飢饉対策の口減らしです。ただし、看板は横領者北条をこらしめる、ということになっています。日本の農業史をみれば、戦国100年は飢饉の歴史ともいわれています。謙信のうまいとこですね。川中島も信濃の米を狙ってのことです。悪いわけではありません。今のこの法治時代からみればよその県に組織立って盗人にいくわけですからね。それでも無傷で帰るためには、出来るだけ決戦は避けて避けてのことです。後の上杉が関が原で西軍に付いたのは、兼続が色気をだしたということでしょう。まあ、そこに今風の義を持ってこなければ、テレビの視聴率は稼げませんからね。さて、他の者が、戦国の風情を色濃く残す、貫禄の家康についていくのは、秀吉亡き後、当然の選択でしょう。引いたとおりのプランで戦ができるのは、三成でも兼続でもないということを、多くの武将は考えていたということですよ。だから南宮山から家康の背後を攻めない。恩があるとすれば、秀吉にであって、豊臣でも秀頼でもないでしょう。この時代の人は、そんな概念は持ち合わせていないでしょう。
あくまでも、身内の結束の証としてのもので、その範囲を出ないでしょうし、いまでいう義とはほど遠いものでしょう。
すこし極端ですが、火事場に閉じ込められて、出口を争う時、人を踏みつけても、との行動は時代に関係なくあります。生きていくことがすぐ家の存亡と自身の死に直結していたとしたら、おのずと、戦いを避け
どうしていきのびるかを考えるものだとおもいますし、その積み重ねが歴史だとおもいますわ。死が再生されるケ゜ームのようにはね。
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みなさんのご意見は、現実的でわかりやすいですが、きっと質問者さんは納得なされないでしょう。

そのくらいの事実は知っていてのご質問でしょうから^^

質問者さんの質問に答えがあります。

義と恩を混同なされておられるようです。

関ヶ原の時点における義と大阪の陣における義を検討ください。

10年という時間は状況を変化させます。関ヶ原時においては、豊臣に義があり大阪の役では徳川に義があると、上杉は判断したということです。なんの問題もありません^^。

ま、かっこよく言えば「義は公、恩は私」ですか。そもそも、皆さんが言うように上杉は豊臣から恩を受けているとは思いませんが、、、
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景勝や兼続が掲げた「義」は、あなたや脚本家の小松がイメージする、メロドラマに出てくる「義」とは、まったく異なります。


あなたや脚本家小松のいう「義」では、そもそも、上杉謙信の第一の養子である景虎を殺して、上杉家を継いだことを説明できないじゃないですか。
もうちょっと、まともに考えてくださいね。

まず、恩があるのは、豊臣秀吉です。豊臣家じゃないです。
豊臣秀吉だって、織田信長には、恩がありますから、織田信長は殺ろしてないことになっていますが、その子供たち、妹、家臣たちを殺して、天下を盗りました。

織田信長は、家臣たちに指示して、上杉景勝、直江兼続を攻め滅ぼそうとしました。途中で本能寺の変が起きたから、景勝と兼続は命拾いしたんですよ。秀吉はその信長の家臣だったじゃないですか。そんな、昔のことは水に流すんです。

秀吉個人にだって、越後を追い出されてるじゃないですか。国替え直後のゴタゴタを、千載一遇のチャンスとみた家康に攻められて、防戦一方になったんじゃないですか。

家康が春日山に攻めて来たのなら、返り討ちにしてますよ。そもそも、春日山にいる景勝と兼続を攻めるなんて、無謀なことは家康はしなかったでしょうが。

春日山にいれば、前田家の様に、越後120万石で、大大名で残っていますよ。

また、秀頼は、どちらかというと織田です。
秀吉と血縁のつながりの濃い、北の政所、秀次、秀秋なんかは大阪城にいません。淀君は、おじさんや父の織田家浅井家の系統です。とても大柄だった秀頼は、大野修理と淀君の子だったらしいですから、そうなら、上杉の仇敵の織田家です。

攻撃するのになんの躊躇もありません。

一所懸命というのは、領地をもらうのと引き換えに命をかけて働くってことですが、義の精神に近いですが、狭いとはいえ、米沢をもらったのは徳川家康からです。義の精神では、家康のために命がけで働きます。

淀君や秀頼からは、寸土ももらってません。
秀吉からもらった、佐渡、庄内、会津は取り上げられちゃってます。
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そもそも上杉家=義というのが誤解なのでは?


確かに上杉謙信は義将とされる人でしたが、それで上杉家全体が義ではないと思います。たとえば、謙信の父・長尾為景は主君を弑逆した人で義とは対極の位置にいた人です。当然、その時は義の軍団ではありません。謙信の時代でも、謙信が義の人だったからその軍団も義となっただけです。
で、直江兼続ですが、彼は確かに陪臣の身では破格の待遇を豊臣家から受けており、豊臣家には恩があります。しかし、彼は何よりも上杉家を守っていかなければならない立場の人間です。しかも、自分のせいで主家が大減封された後ではいやでも現実的な対応をしなければなりません。余談ですが、兼続は上杉鷹山に再評価されるまで主家を衰退させた奸臣として評価が低かった人です。確かに、直江状に見る外交的もしくは対最上戦での軍事的無能からして妥当な評価でしょう。上杉鷹山の評価も行政面での再評価です。
最後に、恩、恩といいますが、徳川に対しても直江状での非礼や動乱のきっかけを作った罪、そして敗者の側についたことから本来は景勝は処刑、上杉家も改易になるべきなのに90万石の削減だけにすませてくれた恩があります。これは島津家と同じ立場といえます。島津家は豊臣家から助勢を要請されたときに「豊臣家への恩は関ヶ原の時に西軍についたことで果たしている。いまは、そのことを許してくれた家康公の恩に報いる時だ」と断っています。上杉家も御家の存続を許してくれた家康の恩に報いるべきで、それを裏切ることが果たして義といえるでしょうか。それに、大坂の陣の時点で全国の大名に恩を与えているのは徳川幕府であり、大名の奉公も幕府に対してのものであり、だからこそ、豊臣家には大名がひとりも加勢しなかったのです。
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いくら義の軍団とはいえお家があればこそです。


現代で言えば前社長の急死による前社長派と専務派との社長の座をめぐる派閥抗争でしょうか。
上杉家は支社長で前社長派でしたが派閥抗争によって実権を握った専務による報復人事で支社の社員全員規模の小さい営業所に配置転換されましたが
専務が今度は前社長派を追放するとなった時専務派に恭順しなければ営業所の社員全員リストラだといわれればどうします。
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>直江兼続は恩のある豊臣家を何故滅ぼしたのですか?



            ↓
<私見>
◇下剋上、群雄割拠の戦国時代にあっての、恩・臣従は所領安堵がベースだと思います。

◇兼続&上杉家の置かれた状況、プライオリティを考えれば→「藩の安泰>豊臣家への恩顧>徳川との対決玉砕」だったと思います。

◇藩の安泰、藩士や領民の安寧こそが、乱世から覇権の定まる時期に於ける“義”の立場、発揚であったと推測&解釈が出来ます。


<余談>
話は時代は移りますが・・・
赤穂浪士討ち入りの時の上杉家:千坂兵部の対応にも相通ずる所が大と思います。
当主の実家・吉良家への配慮と判断→襲撃予防の上野介警護と紛争巻き添えの回避(救援に向かう当主への諫言と阻止行動)。
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一旦家康に恭順し30万石に落とされた以上は命令に従わないと取り潰しになります。

(相手は形式的であっても朝廷に任命された征夷大将軍であり、朝廷への逆賊にもなります。任命される前でも全国制覇の実力者です)
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