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「歴史は過去のことを学び同じ過ちを繰り返さないために学ぶのだ。」
と誰もがいいますが、私は歴史を学ぶことで同じ過ちを繰り返しているように思います。歴史は一つの事実で、誰にも変えることは出来ません。しかし、その歴史について書いた本を出版するにあたってどうしてもその本の中に著者の考えが混ざってしまうため、結果的に中途半端に歴史を勉強(極端な例だと1冊の本で勉強してしまう等)すると著者の思想、つまり差別の考え方が入ってきてしまうのです。そして特にそうなってしまうのは学校の教科書です。
具体的な例を示しますと、
「○○年にA国とB国が□□戦争をした」
という事実があり、これについてA国とB国が教科書にそれを載せるとします。人間はなんでも人のせいにしますよね。自分の愚行を認めません。政府もそうです。だからA国の教科書では「B国に責任がある」と載せ、B国の教科書では逆に「A国に責任がある」と載せます。A国の生徒は「B国に責任がある」という思想もつようになりますし、B国の生徒は「A国に責任がある」という思想をもちますね。これは将来またA国とB国で戦争をする原因にほかならないとおもいませんか?
だから歴史教科書問題がおきるのですね。

歴史を学ぶのは過ぎ去ったことについて「お前が悪い」言い合うことではないでしょうか?

みなさんはどう思いますか?

戦争の最初の被害者は真実です。

A 回答 (8件)

 自己の合理化、自国の正当化は人の宿命ですね。


 所謂る自虐歴史観と批判もありうる、わが国の大東亜戦争の諸行の批判も、そのように構成しての現今以降の合理化、正当化ですね。
 中国の王朝の正史も前支配の無茶苦茶を記述して、現今王朝の正当化に役立てるそうですね。
 日本の記紀もそのたぐい(類)の面での編集だといわれています。
 私は中国の正史の場合も、日本の記紀の場合も、そういう叙述の背後に真実があると存じますが。
 
 人間の私たちは、多くの観念の批判や否定をすることはとても難しく、自分の置かれている大きな流れと異なることは、なかなかできません。
 歴史教育はそういう流れの見解の吹き込みですよね。
 戦前のも、敗戦直後のも、そして今のも。
 歴史学はどこまで科学でありうるか、つまり学問として成立するのか。
 裁判の事実認定や判決みたいですね。芥川の藪の中はみんな真実であり嘘を言っているのでしょうね。
 ことばの限界、脳みそや見ること、認識の限界もありましょう。
 そういう人間のしがないありようを思いながら、勉強し、言動し、呼吸し、生きていくのが人間の分・際なのでしょう。
 それを在るときは没却して、夢中の言動になる。
 人間のしがない性(さが)ですね。これが人生であり、歴史ですね。
 いつになったら、人間は叡智をもてるか。
 言葉を持ち、言葉的に推論認識する能力を得た。
 こんどはそれを、主なる存在性から家来にできる、用具にすぎないのだと明確な共同認識になることが必要だと存じます。
 それまでは質問者の仰せの愚考を重ねていく事になりますね。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
そうですね。人間はどうしても本能が自己の正当化をしてしまいますから宿命と言えば宿命かもしれません。人間が全てのことを自分の責任に持ってくればその瞬間に世界平和は訪れるのでしょうけど・・・。全ての人間にそれが気付けばいいんですけどね。

お礼日時:2009/10/19 15:42

歴史こそが争いを生むってことも確かにあると思いますがそれが全ての原因ではないです。

争いを生むことがあるからそれが悪だと言うのはちょっと言いすぎでしょう。

歴史ってのは人の記憶です。人という種を一つの生物と考えてみてください。個々の僕らは細胞みたいなものです。
歴史がなかったら、記憶がなかったら僕らは同じ場所から一歩も踏み出せない存在の集まりでしかありません
。個々の歴史事例を取ればいろんな見方ができるからいろんな意見が出るのはある意味当たり前です。僕らの日常でだってそうでしょう。むしろ対立する概念をつき合わせて考えることが多いはずです。

戦争の最初の被害者にしたって死んだから被害者なのか、殺さざるを得ないほど追い詰められたほうが被害者なのか見方は様々別れるでしょう。

少なくとも僕らは戦争は悲しく、忌避すべきものという認識を過去の戦争の歴史から学んでますよね。

ただ、歴史は政治道具に利用されがちです。
偏った間違った歴史を刷り込むことは非常に危険です。中立的などっちの事情も勘案した歴史教育があればいいんでしょうけどね。(今は情報が多いので相反する理由をいくらでも見つけられますけどね)
しかし、それは本来の歴史のあり方ではない訳で、それを持って歴史を学ぶのは良くないってことにはならないでしょう。
偏った歴史を学校教育のような場所で教えるのは危険かって問いであればYESですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。でも、本当の真実を知る人は誰もいないのでそれを学校でテストする、言い換えれば第3者が作った物語を丸暗記させるようなことはいけないと思います。

お礼日時:2010/02/07 13:12

非常に興味深い意見だと感じました。


確かに教科書を使用して、「歴史」を学ぶということは自国を正当化していくことに繋がるかと思います。古代の中国なんかは、そのために史書を王朝ごとに編纂していましたものね。

ただ「歴史」ではなく「歴史学」として学ぶ場合、上記のような事例はあまり無いのではないかと思います。(いわゆる修正主義に則った擬似「歴史学」は別ですが・・)
ウォーラーステインに見られるような世界システム論なんかでは、国家という枠組みを取っ払って世界史を構築しているため、すくなくともナショナリズムの争いは起こりにくいのではないように思われます。世界システム論も現在の世界史の教科書にはようやく散見するようになりましたが、出来るだけこうした見方が出来るような人が多くなることを願うばかりです。
過去を振り返って憎しみが再生産されていくというのは、哀しすぎます。私達は歴史を通じてこそ、そのような悲劇を乗り越えていかなければならないと思うばかりです。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。

>ウォーラーステインに見られるような世界システム論なんかでは、国家という枠組みを取っ払って世界史を構築している
これは初めて聞きました。学校の教科書も同じようになるといいんですけどもね・・・

>過去を振り返って憎しみが再生産されていくというのは、哀しすぎます。
私もそう思います。歴史を通じて世界平和が訪れるといいですね。

お礼日時:2009/10/16 16:42

 返答ありがとうございました。

ええと、別に誤解してるつもりはないんですよ。ただ、私の方があなたよりも若干達観しているだけなんだと思いますよ。

>地球の時間を逆さまに進めてそのときのありのままに起こったことです。

 これのみが事実であって、他はある程度推測的要素が入ってしまいますからね。当然事実そのものよりは純度は落ちてしまいますね。ただ、人として真実を知りたいと思う気持ちをどうすることもできませんから、わかる範囲内で恐らくこうであったろう・・・と考えてしまうんです、半ば本能的に(笑)。

>確実に分かりもしないのに、それを「事実」と偽って平気な顔で書く教科書はむりやり人に説くものではないということです。

 そう思います。
 あなたの言うように本当の事実というのはひとつしかないんです。しかし、あなたの言うように本当の事実というのは誰にもわかりませんよね?解釈する人によって事実の捉え方に誤差が生じてしまい、場合によっては対極的な事実が複数生まれてしまうんです。
 歴史の勉強、過去がどのようなものであったのかというのは、いろんな考え方の中から「自分はどう考えるか」を見つけるものではありませんか?一つの参考意見もなく事実を想像するのは不可能です。

 また、あなたの言うように、ひとつの解釈を事実として教科書で教えることは好ましくありませんね。歴史に正解はないのですから、様々な価値観を知らなくてはならないと思います。しかしそれでも、真実がわからないから何も教えるべきではないとは、私は思いませんよ。偏った価値観は教育で用いるべきではないですが、問題は教育の偏狭さにあるのであって、歴史教育そのものではないと思います。
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この回答へのお礼

ご返事ありがとうございます。
そうですよね。私も歴史は好きです。色々と推測しながら昔のことを考えるのはおもしろいです。もともと確実に分からないものを論じたら個人の意見が出てしまうのは仕方ないですね。教え方に問題が有るだけだと思います。

学校で狭苦しい教え方じゃなくてしっかりと教えてそれが生徒の興味を引くきっかけになればいいですね。

お礼日時:2009/10/16 16:28

ところで、歴史教育でも教科書にも同性愛は出てこないよね。


同性愛は古代から戦争でよく聞く話です。

教科書問題でもめる場合、この話が出てきた事がありません。
歴史教科諸問題とはすごく程度の低い問題でどうでもいい問題なのです。
そんな問題に金が流れているのが問題なのです。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
>歴史教科諸問題とはすごく程度の低い問題でどうでもいい問題なのです。そんな問題に金が流れているのが問題なのです。

ですがそんな細かいことでも差別に繋がりかねないことだってあります。
だから私はこのような質問をしたのです。

お礼日時:2009/10/16 19:23

こんばんは。


たいへん面白い意見だと思いました。

「歴史は過去のことを学び同じ過ちを繰り返さないために学ぶのだ。」
とはよく聞く言葉ですが
私は歴史を学ぶ意義はそんなところにはないと
つねづね思っていました。

人間は何度も何度も同じ過ちを繰り返しています。
例えば歴史の本を紐解けば、戦争について記されています。
しかし、いまだに戦争はなくなりません。

私は中世の夙に興味があって調べていますが
誰かに「ここには昔夙があったんだよ」と言ったとしましょう、
するとそれをきっかけに
話を聞くまではもっていなかった差別意識をもってしまう人もいると思います。

なので
「歴史は過去のことを学び同じ過ちを繰り返さないために学ぶのだ。」
という言葉を私は信じていません。

差別的なものの見方をする人は歴史を学ぶべきではないかもしれませんね。

けれど私は歴史が好きですし、学ぶ意義はあると思います。

歴史は暗記する学問ではなく、考える学問だと私は思っています。

現代人の中には奈良時代や平安時代に生きていた人はいないので
歴史の真実がどうだったのかを明確に答えることができる人はいませんが

残された文献や遺跡などから推理していくことは楽しいことです。
それは現代社会を見る目を養うことにも繋がると思います。

要は学び方しだいだと思います。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
歴史に学ぶ意義は全くないとは言いませんが、教え方に問題があるようですね。私も歴史が好きで時代の流れを見るのが楽しいのですが、少なくとも今学校で教わっている歴史は暗記の歴史になっています。そもそもが何が正しいのか分からないのにそれをテストするというのは・・・。

教え方・学び方次第でしょうね。

お礼日時:2009/10/16 16:37

 大部分において同意します。



 全員が主観的思考しか持たない愚かな存在というわけではないと信じていますが、この掲示板を見ていても特に太平洋戦争の戦争責任については、同様の争いが未だにあります。少なくとも朝鮮・中国に対しての差別意識を明確に持った上で侵略戦争を起こした日本がそれを認められないのはとても痛い。また、戦争被害に関して少しでも多く羅列して、日本の罪を過大に見せようと思う各国の主張もまことに痛い。
 私はどちらの国が悪かろうが、どちらも私ではないですからいいんです。過去の人間の罪がどうであったかということだけが興味の対象です。

 ただですね、あなたの書かれていることで
>歴史は一つの事実で、誰にも変えることは出来ません。

 これに関しては異論があります。
 もちろん、あなたの言うことが正しいのはわかるのですが、正式な記録というのは残っていないんですよ。断片を整理して事実を推測することしかできないんです。何故そうなってしまったのかは明白です。誰でも自分に不都合な証拠は残さないからです。しかし、証拠は残さなくても別の人には証言が残る。そして、根拠なく証言をする人がいる。っとなると、事実とは誰が主張することを持って確定することでしょうか?

 私は今、自分にとっての真実を他人と戦わせる必要を感じません。侵略戦争がなかったと主張する人間がどれだけいたとしても、それは確実にあったと私は思っています。また、私がどれだけの材料をそろえて過去の事実を証明しても、それとは違う手法で事実を否定する人もいるでしょう?だから、真実の追究とは自分なりの作業なんだと達観しています。

 公平な判断力を育てる為の教育とは、様々な見方が存在しているのだということをそのまま教えることだと思いますよ。教科書を作った人間の思う事実や教壇に立つ人間の思う事実を教えるのは間違いですね。様々な事実を出されて、その中で「自分はどう思う」と言える大人になればそれでいいと思います。それ以外の教育は偏ったものになると思います。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
ちょっと私の説明不足で誤解されている部分がありますのでちょっと説明させていただきます。
>歴史は一つの事実で、誰にも変えることは出来ません。
この「事実」というのは、誰かが証拠を基に示したものではなく、その時のありのままの、もう少し分かりやすく例えますと、地球外に人類が生まれてから現在までずっと見届けている宇宙人がいたとして、その宇宙人の証言のことです。ほかの例えだと、地球の時間を逆さまに進めてそのときのありのままに起こったことです。当然、この時代に自分たちが生きているわけではないので、誰かの言い伝えにそれを知るしかありません。しかし当然伝言ゲームを続ければ情報は変わります。私が言っているのはこの伝言ゲームの結果ではなく、その当時のありのまま、すなわち現在は「誰も正しいことが分からない」事実です。
ちょうどあなたの言う本当の本当の「正式な記録」というところでしょうか。人にとっての事実ではなくて、あえて言うなら神さまのみが知る事実といったところでしょうか。

で、私が言いたいのは、確実に分かりもしないのに、それを「事実」と偽って平気な顔で書く教科書はむりやり人に説くものではないということです。歴史以外の教科、数学、英語、国語、科学は現在はっきりと「事実」がでる。英語は英語圏の人が使っているので事実になりますし、数学は1+1=2という仮定の上で成り立っているのでこれも事実です。科学も太陽の上る位置は決まっていて予測することが出来ます。事実です。国語は古文があるので怪しいところですが、少なくとも言語は人の手によって作られたものなので事実になるでしょう。しかし歴史だけは違います。それが真の事実かも分からないのに教育するのはおかしい。私はこれが言いたいのです。

分かりづらい文章で大変失礼しました。

お礼日時:2009/10/16 12:17

少なくともあなたは、「著者の思想、つまり差別の考え方が入ってきてしまうのです。

そして特にそうなってしまうのは学校の教科書です。」という事を知っているのですよね。
それを知っているあなたは、他の人に比べ、特別優秀な人間なのでしょうか?私は違うと思います。少なくとも日本の教育を受けたほとんどの人は、あなたと同じように「本がそういうものであること」を知っていると思います。

であれば、あなたが考えるのと同じように他の人達も、教科書を盲目的に信じている人はいないでしょう。

「歴史を学ぶこと=教科書を盲目的に信じること」ではないと思いますが。
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この回答へのお礼

貴重なご意見ありがとうございます。
>少なくとも日本の教育を受けたほとんどの人は、あなたと同じように「本がそういうものであること」を知っていると思います。
大人になってまた学ぶのなら話は別でしょうけれども、歴史の授業は小学校から行われますよね。小学生や中学生が「本がそういうものであること」を知っていたとしても、知らない人のほうが多いと思います。小さい時に刷り込まれたものは大人になってもなかなか抜けないですよね。
生徒は、教科書によって知識を得ます。少なくとも教科書以外の本からほかの考え方を得ようとする人はそうでない人よりも少ないです。
大人なら「本がそういうもの」であることを知っているでしょうけど、中学生や小学生は知らない人のほうが多い。むしろその時期には遊びに集中しています。私は自分が特別優秀だと思ったからこのような質問をしたのではなく、知らない人もいるから歴史の勉強はまずいんじゃないかと思ったのです。

少なくとも、あなたがほとんどの人間はみんなこれを知っていると断言するのはあなたが他人を見下しているようにも感じ取れかねません。
みんながみんな「あなた」のように事実を知っているわけではないのです。それに気づくか気づかないかは個人の生き方ですから。

お礼日時:2009/10/16 11:57

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