プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

宗教は価値のシステムだと思うのですが、これをもう少し
うまく説明できないでしょうか?

僕がいう価値システムとは、価値の生成装置のようなもので
それは、ある一定の洗練された価値観で成り立っています。
人はこれに自らの存在をゆだねることにより、同じように
洗練されていくということです。

上記の説明はわかりにくいと思います。
もう少しわかりやすく説明していただけないでしょうか?
宜しくお願いします。

A 回答 (12件中1~10件)

自分の質問に対して回答してきた人の参考URLから飛んできました^^  僕の質問を下に書いときます。



僕も宗教に対してはあなたと同意見です。
小さいころ親や祖父母が、僕をよく仏教の場に連れて行きました。彼らが信仰しているからです。その教えをよく教えられました。しかし僕にはそれがどうしても納得いきませんでした。たとえば我慢が美であるとかです。何かあると、我慢せなあかんとか言われました。僕は我慢なんてするもんじゃないって価値感にたっています。美しいなんてちっとも思わないです。

まあ今のはたとえですが、宗教は小さい頃に影響をすごく受けやすいと思ってます。親が死んだら、親が信仰していたせいもあって、仏壇に魂があるのかとかさえ思ってしまいます。本当はそんなのくそくらえと思ってるのですが、葬式なんかも仏教形式であげてやろうとおもっています。
そのあと、自分の家から仏壇とかを排除するつもりです。で、僕の子供には一定の宗教など教えません。自分で物事を考えたり批判できるような年齢になってから自分で学んでおくれと思います。

宗教に長いバックボーンがあったとしても、僕の価値とは同列です。あなたの22年の人生の経験則や価値感もです。
僕も宗教を否定なんかしてないです。単に宗教家が、非宗教者の意見を認めないときにその意見に反対するだけです。

前、アメリカ人と話したときに、「人間は神が創った。動物たちはその人間のために作られた。ダーウィンの進化論などありえない」というのを聞きました。
とても人間だけを崇高する意見で嫌悪感を感じました。
仏教は神を一つにしない点で好きです。けど内面を規律してくるのにはやはりなじめないです。

いろいろ書きましたが、親などから信仰を受け継ぐパターンと、途中で自分の指針を探すために信仰を始めたパターンと2種類あるような気がします。(おおまかにです)
前者の人は環境なので何も思わないですが、後者の人はやはりその時に自分に核たる価値感が欲しかったのでしょう。それを他(自分以外)に求めたような気がします。
>>人はこれに自らの存在をゆだねることにより、同じように 洗練されていくということです。
それがこの意見につながってると思います。
以上です

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=650521
    • good
    • 0

>価値の生成装置のようなもので


>それは、ある一定の洗練された価値観で
>成り立っています。
>人はこれに自らの存在をゆだねることにより、
>同じように洗練されていくということです。

「価値のシステム」として、宗教を「説明」する。
ということだと思いますが、
まず、それを説明するには、人間が偶然に発生した
生き物ではないという前提が必要です。
なぜなら、人間が偶然に発生した突然変異のなれの果て
だとすれば、元々創造目的がありませんので、
存在目的がありません。つまり、存在価値が本源的に
ないわけです。ですから、「価値」という言葉を
人間に対して使う意味がなくなってしまいます。
人間の尊厳性もありません。偶然なんですから・・・
性善も性悪もあり得ません。

このことを大前提として、お話させて頂きますと、
人間は神様により創造されたと言うことに成ります。

神様の中に創造の動機があります。これを創造目的と
いいましょう。すると、創造目的=存在目的=存在価値
なのです。即ち、その時計が価値があるかないかは、
その時計が決めるのではなく、その時計を作った方の
目的に合致しているかどうかが、その時計の価値の存否
(=善悪)を分けるのです。
このことが分かれば大抵のことは解決します。

現在最も世界的な版図をもつキリスト教という宗教を
中心にして説明すれば、
人間は、神様によって創造されましたが、人間始祖
アダムとエバの時に、堕落しました。つまり、
善なる存在として完成すべき人間が、その成長途上で
堕落したということになります。完成してから堕落したら
矛盾しますので、「成長途上」だったと言えます。
そこにおいて、人間は、善悪という2つの全く相反する
目的を指向する心を内包してしまいました。
これが堕落です。破滅状態です。コップに穴があいている
のと同じです。矛盾状態です。
良く「この社会は矛盾している・・・」と言う人が
いますが、それは堕落人間である我々の心(=欲望)が
矛盾しているからそうなのです。
("矛盾"とは「本来の状態」からはずれているので、
「矛盾」というのですね・・・。)
人間は堕落した結果、神様の存在がわからなくなりま
した。これを霊的堕落と言います。そして、
神様の真の愛を相続することが出来ずに、
自己中心的な愛を血統的に受け継いできたので、
(=これを原罪といいます。)この問題を解決する為に、
神様が堕落人間の「良心」を頼りに、摂理して来られた
のが、正しく、「宗教」なんですね。

神様を民主主義でいるかいないか決められますか?
ですから、民主主義は、過渡的な制度です。
神様は信じる信じないを超えて、いるかいないかなの
です。
「宗教」とは、ですから、人間の邪心を分別することで、
人間の霊性を高めて、「本来の状態」に戻して、価値
ある本然の人間に復帰する為の「手段」のことです。
これを「救い」とも言いますね。そして、最終的には、
人間は、血統的な原罪を清算するために、メシアに
出会わなければなりません。これが、宗教の最終目的
です。ですから、高等宗教であればあるほど、
終末時代には、メシア、弥勒様、マホメット、キリスト
が再臨する・・・という教えに帰着します。
各宗教によって、呼び方は違いますが、要は、同一人物
です。アダムが出来なかったことを、世界的な次元で、
復帰して、完成させるために、こられる方が再臨主です。
第3のアダムなのです。イエス様のことを聖書で
第2のアダムと言ったのはその為です。

つまり、「宗教」とは、神様が、堕落した人間を
救うために、神様を信じて、善悪を分別し、終わりの日に
メシアに出会うために、用意されてきた復帰摂理路程
なのです。ですから、歴史上、宗教を迫害した国は
滅びるようになっています。これが歴史的事実です。
このようにして、人類歴史が進んできたので、
人類は、間違い無くいつの日かメシアに出会うように
なっています。
そして、必ず、地上天国を復帰するように
なっています。

それをサタン側が先行して偽りの世界を
つくろうとしたのが、即ち、共産主義国家でした。
しかし、それも終末時代には滅びるようになって
いるんですね・・・。

説明になったかどうか分かりませんが、
乱筆・乱文ございましたら、お許しくださいませ。
それでは、失礼致します。
    • good
    • 0

えーと・・・私は信仰を持っている者です。

詮索したい方は私の過去回答でも読んでください。

まず質問を読んで感じた事ですが、非常に卓見だと思います。
何が卓見であったか。それは宗教を「価値システムの生成装置」と捉えたところです。非常に科学的な捉え方だと思いました。

宗教とは「全ての現象を価値判断するための定規」のようなものと言えるでしょう。いわゆる「宗教」に限らず、全ての思想には「価値判断の基準」が設定されています。もっと突っ込んで言えば、例えば「無宗教である」と主張する人でも自分なりの価値基準を持っています。

では信仰を持つ人と持たない人の違いは?
信仰を持たない人は「感情」「外的な情報」「人生経験」などを価値判断の基準として大きなウェイトを置き、信仰を持つ人はそれらに「教義」を持ち込むということではないでしょうか。
信心の深さによりその「教義」に置く比重が多くなるということもできるでしょう。

現代の傾向としては、上に挙げた「外的な情報」に最も比重を置いている人が多いように私は感じます。
それはマスコミと教育の存在です。
(個々人で異論はあるでしょうが、マクロな見方として捉えてください。)

イデオロギー(思想)も、宗教という形ではないですが、宗教と言う体裁の有無の問題であって、広義では信仰の対象という言い方も可能でしょう。

そういう意味で、現代もっともメジャーな信仰とは「資本主義」と「科学」の信仰と言えるでしょう。

さて本題ですが、価値論と言えばカントの「真善美」を思い浮かべる方が多いと思います。私が信仰する宗教では「美利善」を価値と置きます。
「美」は好きか嫌いか。「利」は損か得か。「善」は他者に役立っているかどうか。です。

カントの価値論の「真」を「利」に置き換えたのは、「真」とは認識の対象であって、それ自体は「価値」ではないという考えからです。「利」の価値の肯定は、人間の「欲望」を否定しない態度の表れであり、より人間的な考え方だと私はこの価値論を支持しています。

「欲望」を否定する宗教も多く存在しますが、それは人間のあり方自体を否定するものだと思います。
というのは、向上心とか慈悲心も「欲望」の一部であり、「欲望」自体の否定はこれらの尊重されるべき欲求をも否定することに繋がるからです。
「欲望」とは消し去るべき感情ではなく、不幸の原因になる「欲望」を、幸福の原因になる「欲望」に昇華させるべきものであるという考えなのです。

また「善」にはより厳密に「大」「中」「小」の善があると説きます。
乱暴なたとえではありますが、お金に困っている人に、お金を施すのは「小善」。就職の世話をしてあげるのが「中善」。お金に困る根本要因(宿業)を変革させるのが「大善」。という具合です。

とりとめなく長くなりましたが、つまりは価値と思想は密接に繋がっているのです。
故に思想の正邪には厳格であるべきだと思います。

思想、信条の自由とは本来その正邪を同じ土俵で論じ合う競争の場でなくてはならないと私は思います。

哲学の発達した時代は少なくともそういう風潮があったようですが、現代はそういった論争すらも「思想、信条の自由の侵害だ」と過敏になりすぎているような気がしてなりません。宗教の話題がタブーになってしまっているのは非常に危険なものを感じます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

僕は現在無宗教ですが宗教を完全に否定しているわけではありません。
むしろ、尊重しています。自分の価値決定の動機として
kee_yanさんのおっしゃられるような身近な要因を用いている
わけですが、これではいつも揺れ動く自我に耐え切れません。
いつも不安定なのです。

生きる支柱として宗教が役割を果たしてもいいような
気がします。現在のように価値観が多様化した世界では
そういう強い支柱がないと、根無し草のようにさまようだけの
人生を送ることにもなりかねません。

以前「ポーラX」というフランスの映画を観たのですが、
そこにはカルト的な集合音楽と宗教の複合体のような
思想を信仰する人々が出てきます。彼らは言ってみれば
カルトなのでしょうが、僕は生きる目的を持った彼らを
うらやましくさえ思います。


パナウェーブもカルトかもしれませんが、同じような思想で
終末思想を唱えず、似非科学を信仰せず、できるだけ
清潔にして周辺住民から非難を浴びないような宗教だったら
信仰したいとさえ思います。たまちゃんのセンスはいい
と思います。


とはいえ、僕は日本ではいかなる信仰をもすることは
ないでしょう。(よく調べてはいませんが仏教なら少し
可能性はあります。)なぜなら、日本には無批判に宗教
=わけのわからないもの、危険なもの。と、なってしまう
からです。僕は少し世間体を気にしますから、日本で
宗教に手をだすのは危険かなぁと思います。しかし、
外国で信仰を始める可能性はあります。今のところ、
無宗教でいるつもりですが。。。



回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/10 05:14

お答えします。

時間が無いので「五重の相対」検索して下さい。
    • good
    • 0

 価値システムとしてとらえると、あらゆる思想や主義もその範疇に入ると思われます。


思想体系を持ったもの、例えばマルクス主義なども、ある意味、一つの価値システム(宗教)と呼ぶことができると思います。

 宗教はアヘンであるという言葉があります。
最近の脳科学は、宗教や信仰が脳の報酬系=快感系に作用することを明らかにしつつあります。

 私見としましては、洗練された価値でなくともミームのように広がっていくこともあると思います。(例えば、ドイツにおけるナチスの浸透過程)

ミームについて
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2989/meme.h …

参考URL:http://www.es.dis.titech.ac.jp/~park/book/meme.h …
    • good
    • 0

まぁ、なんだかんだ言っても、


君は少なくとも、150億歳だからなぁ(笑。
最古にして最新。
価値観のはかりにかけるにも、そんなはかりは存在しない。
その歳月の中で、いろんなものが生まれて、生んで、してきたわけだ。
 
>人はこれに自らの存在をゆだねることにより、同じように洗練されていくということです。
 
そんな都合のいい精神構造を持っている人は、かなり少ない。
宗教的なものに惹かれやすい性質の人は、程度の差はあれあるだろう。
が、
桜には桜の、生き方があるわけだ。
人には人の、生き方があるわけだ。
その人が、その人の道を歩むことを邪魔し、その道を最高に細くし、いかにも危ういことのように騙すのが、もろもろの価値観だ。
弱った人、弱い人、そういう人は、食われやすい。
価値観を逆手に見れば、そいう価値観が何を意図しているのかが分かる。
それがあなたにとって必要なもの、魅力あるものならば、その対象を選択すればいい。

価値観、とは自律するものではなく、常に比較によって成り立っている。
それに対して判断とは、ある程度の比較も含み、それに対し、現状に適した行為を決定する。
 
固定相場の為替は無くなり、変動相場になり、さらに、価値の不平等が消えてゆく。

見たことの無いものに、価値観は適応しない。
判断は、適応できる。
そして、今、君の目の前に現れている世界というのは、今まで、かつて、誰も見たことが無く、誰もどころか、君が初めてみる世界なのです。
そういう世界に生きているんだから。
 
>宗教は価値のシステム
宗教だけじゃないんじゃない?
経済がそうだろう。
宗教は、端的に、こういう考えがあります。
そして、「これが真実だ!」
と言い切るところが宗教の特色だ。

イエスも釈迦も、梵も、イスラムも老も、神道も、深い浅いはあれ、詩的か論理的かはあれ、同じことを、各々流の表現で言ってるんだが、生き残るために、君の言う数百年、数千年の間にいろんな不純物、ノットオリジナルを取り込みながら生き残ってきたわけだ。
 
そのうち金になると思いきや、ガンモノがでてきて、そのうち勘違いが出てきて、その輝きよりも、汚れの方が目立ってきている。

何が大切かは、宗教の教義には書いてない。
ここには書いてないということを、自明であれやこれやと狭義に、懸命に説明しているのが教義だ。

今のあなたの大切なもの、それは、今のあなたのみが知りえるのです。
    • good
    • 0

ご質問の意図に反対します。



価値は主観的なものだと考えています。
宗教は価値観を制限して、安穏を保障するのではないでしょうか?

もっとも、私も無宗教で宗教のことも価値のこともよく分かりませんが。

小人閑居為不善 いたずらです。ごめんなさい。
    • good
    • 0

私も無宗教なので質問内容については、多々考える事が多く私的には、人が何を望むかによって、その望みを支えてくれるものにすがろうとしているのが宗教かと思っています。



みんなが、幸せになるためにどうしたらいいのか?っていうのでみんなが納得できるような内容ならば、その宗教が成立し、普及されているのでは?と思います。

一言で言うならば。価値システム!良い表現だと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ああ。。。お褒めの言葉ありがとうございます。。。


宗教は元来みんなが納得できるようにできているのでは
無いと思います。皆、学びながらその語るものに近づいて
行くような気がします。

お礼日時:2003/05/04 01:17

だいぶ悩まれているようですね。

何があったのかは判りませんが、宗教について論争する事は出来ませんので、もう一言だけ、聞いていただければありがたいです。
 価値観に強弱はないと思います。平等に対等にあるものだと思います。強弱を感じるのであれば、それは多勢に無勢の力の方程式によるだけの話であり、宗教だから、という訳では無いと思います。強い価値観は、即ちひずんでいるのだ、と思います。1億対1でも、価値観は対等。力関係だけが脅威となります。
>強力な価値観に対面したときに自分の非力さを感じてしまいます・・・こういう場合は、究極の所、大見得を張って、戦うしかないのだと思います。ひるむから、ゆれるのではないですか?ひるまなければ、ゆれる必要はなく、DEAD OR ALIVEです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私は価値には強弱があると思うんですよね。
それは「あれが好き、これが好き」「医者と旅人」という
種類の価値観ではなく、もっと生の根本に関わるところ
の価値の問題です。システム。うーん。私の中でも
うまくまとまっていませんので以下の説明は、読みにくい
ものになってしまうかもしれません。
私は22年間生きてきました。私が物事を判断する
時に用いる価値観は私の22年間の環境と経験を
土台とした価値観に支えられているわけです。
しかし、宗教のような価値の場合それは、場合によっては
数百年単位の環境と経験を経、そして、数万人規模の
人々の実践の結果だと思うのです。そういう場合、数万回の
試行錯誤を経て、間違っている(?)にしろその種の
価値はとても強固なものになっていると思います。
彼らには自信があります。彼らの価値判断の土台は
上記のような括弧たる基盤の上に立っているからです。

「彼らはその価値観に飲み込まれてしまった」ということ
も可能かもしれませんが、私のこの小さな価値観でも
同じようなことがいえるでしょう。私は私だけの小さな
価値観で決定をしているが、彼らは彼らの宗教を通した
巨大な価値観において決定をしている。全く同じでしょう。
どちらの立場を取るかという問題だと思います。


上の議論で穴がありましたら、何なりと批判してください!
宜しくお願いします。


ちなみに、私は高校時代の友人がある宗教に入会まして、
今勧誘を受けていますw。私は宗教をやる気は無いと彼に
伝えていますが、同時に、宗教を批判するつもりは毛頭ないと
伝えてもいます。それは上記のように私が思うからなのです。

お礼日時:2003/05/04 01:14

回答に対する詳細な回答をありがとうございます。

価値システムは大切です。そこでの基は、工場で言えば工場長方針、大きな目でみれば、社長の方針で決まります。宗教は大切だと私も思います。自分は自分の宗教の教祖である、という気持ちで生きています。Evianusさんが、どこかに組み込まれる事で幸せを感じるのなら、それで良いと思いますが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私は実はゆれています。宗教を信仰するかしないかで
ゆれているのではなく、存在自体が不安定なのです。
そして、それに自覚的だからなおさらゆれるのだと思います。
私は私教の教祖でありたいけれども、私を作っている
思想的要素は、私が作り出しわけではなく、外部からの
影響をもろに受けているのです。というよりも、むしろ
外部しかない。そんな中で、何とかちっぽけな私は
生き延びているわけですが、やはり強力な価値観に
対面したときに自分の非力さを感じてしまいます。

(何度も言いますが、私は無宗教で、これからも宗教を
信仰するつもりはありません。)

お礼日時:2003/05/04 00:21

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す