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大和とアイオワどっちが強い?なんて話になると必ず出てくるのが大和の鈍足です。
大和は15万馬力27ノットですが、当初の仕様要求ではもっと高速で20万馬力,30ノットだったようです。
「当初の要求通り20万馬力だったら…」なんてことを言う人もいますが、無理なものはしようがありませんよね。
それよりも15万馬力しか出せないと分かった時点で、装甲を薄くするとか主砲を一つ取っ払ってしまうとかいくらでも軽量化/高速化の方法はあったと思うのですが、なぜやらなかったのでしょうか?
言い換えれば高速戦艦としての要求を取り下げた理由は何なのでしょうか?
単純に当時の軍部が愚かだったとは考えにくいのですが…

A 回答 (10件)

自信はありませんが、主砲の射程距離が長いので、あまり速度を重視しなかったのではないですか。

反対に16in砲の反動を吸収するために横幅を広げたのが理由だと思います。

しかしその結果は、戦艦の主砲など及びもしない攻撃距離をもつ空母機動部隊が主力となった時点で誤りであったことが証明されたと思います。短いリーチしか持たない方は動きまわるしかありませんからね。結局使い勝手の悪い艦になってしまいました。実際、長門級や金剛級の方が活躍してます。

あれだけ高い艦を作ってみたものの機動力がないので、結局のところ高価なモニター艦になってしまいました。その点で沖縄特攻作戦は浮き砲台となることを目指していたのですから象徴的です。それすら実現しませんでしたが。

どうせ動きがとれないのだから、連合艦隊の旗艦から外したのは合理的判断です。動かないのなら船である必要はありません。その点で日本で一番利にかなった旗艦は不沈艦ともいうべき、現日吉台キャンパスです。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
しかしどうもよく分からないのは大和建造当時、既に日本軍は足の速い空母を多数揃えた機動艦隊を保有していたことです。これについていけない艦を作ってどうするつもりだったんでしょう。

お礼日時:2003/05/07 06:39

大和の速力については、いろいろ経緯があります。


無条約時代を睨んで、軍令部が艦政本部に出した要求は、18インチ砲8門以上、速力30ノット、航続距離2万海里だったかな・・ちとうろ覚えですが。
ここで防御力が問題になります。
戦艦の防御力は自分の持ってる主砲で決戦距離(この場合3万~3万5千メートル)で被弾しても、戦闘航行に支障がないこととなってます。
艦を全部装甲で覆うと重く、弾が当り易い大きな艦になってしまいます。そのため、大和は機関、主砲、のバイタルパートのみを装甲で覆うこととし、巾に比べると長さが270mほどの短い艦になってます。
機関は初期ディーゼルを半分積んで、航続距離を伸ばすつもりでしたが、大鯨のエンジンが故障が多く、一度積んでしまうと、装甲をはがさないと、積み替えが出来ないってことで、タービンのみになりました。
球状バウの採用で少し伸びましが、航続距離は短かったですよ。
さて、本題の速力ですが、当時の戦艦としては、27ノットは速いです。撃ち合いになれば、速力はあまり問題となりません。なぜなら、初弾が命中すると、相手は速力が落ちるからです。このため初弾命中に必死の訓練がなされました。あのサマール沖で、護送空母に主砲を打った時、初弾は命中しましたと、のちのちまで、射撃の下士官は言ってたそうです。ブリキの空母なので、爆発せずに、貫通してしまったようですが・・・。

ちなみに、日本の海軍は、日本海海戦をモデルにして、アメリカ艦隊が太平洋を渡ってきた時に、西太平洋で迎え撃つということで設計されています。
そのため、航続距離、居住性、速力は二の次にされています。余談ですが、英国は航続距離が長い軽巡を多数持ってました。これは、植民地支配のためです。
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この回答へのお礼

こんばんは
大和は遅くないとおっしゃいますが、同世代に竣工した(若しくは改装された)各国の戦艦は概ね30ノットに達しています。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/713 …
軍令部が30ノットを要求したことは決して過剰な要求であったとは思われません。そもそも日本は各国に先駆けて高速の航空母艦を擁する機動艦隊を持っていたわけですからその旗艦に据えるためにはむしろ最低限の要求とも考えられるわけです。

以下は特に何の文献も調べたわけではありませんので確証はありませんが私なりの結論では、
「機関は何年か後で交換すればいいや」と考えたのではないかと推測します。
兵器は開発にも長期間を要しますが、運用期間も長いのが普通です。(勿論沈まなければの話)そこで途中で大規模な改修をすることを視野に入れて設計するものです。逆に言えば最初は未完成な部分が多少あっても構わないわけです。
大和の場合は多少活躍の場が少なくとも沈められなければよいわけで、強力な大砲と分厚い装甲が譲れなかったものと考えられます。

お礼日時:2003/05/08 22:34

#3です。



空母が速いのは、艦載機を離陸させるための速度が必要だという技術的理由もありますが、艦隊に随伴する必要があるからです。

そもそも戦艦が主力艦であって、それに随伴する艦は、これより速くなければ艦隊を護衛することができません。この当時、空母とは艦隊に随伴して戦艦を支援するための艦だったわけです。つまり空母に戦艦がついて行くのではなく、戦艦に空母がついていったのです。

まさに空母機動部隊というのは、それを逆転させたコペルニクス的転換だったといえるでしょう。

アイオワ級が33ノットと速かったのは、空母機動部隊に随伴する必要があったからです。本来速い空母に随伴するためには、その速力が必要でしょう。すでにその考えのなかには主力艦という発想はありません。単に護衛艦艇の一つです。しかしその座も巡洋艦などに奪われます。次の役割はモニター艦です。モニター艦なら沿岸に移動するための速力があれば十分です。高速の機関は必要ありません。したがって高価な戦艦はもう必要なくなり、作られなくなったわけです。
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この回答へのお礼

空母こそが艦隊に随伴する艦であるとは、あまり聞いたことのないユニークな情報ですね。「一般人」とされていますが実は「専門家」では?
大変参考になりました。

お礼日時:2003/05/07 20:19

あ、そうでしたか。

m(__)m
出どころは、能村次郎(字が不詳)海軍大佐、戦艦大和副長の著書「戦艦大和の最期」の記述だったもので、真にうけておりました。

となると・・・強行突破でもするつもりだったのかな??(爆)
取り合えず該当部分を取り消します。m(__)m
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 No.6のご回答について。



 当時のパナマ運河の通行制限幅は33メートル、大和の全幅は38.9メートルです。

 パナマ運河というボトルネックを意識したのはアメリカ海軍で、アイオワを全幅33メートルで設計しています。

参考URL:http://www.h3.dion.ne.jp/~teioh/senkanmeikan10.h …
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こんばんは。


戦中、最も活躍した戦艦は金剛級4隻ですが、金剛、比叡、霧島はあまり大した被害を受けなくても沈んでいますね。魚雷1本とか2本とか砲弾数発で操艦不能とか。

これはユトランド沖海戦での巡洋戦艦の防御力不足として第一次大戦後、列強各国に教訓として伝わりました。
その結果、重装甲の戦艦が作られるようになったわけです。金剛級は当時の艦ですからね。
実際、大和、武蔵ともに沈没に至るまでの被弾数を見てもいかにその重装甲自体は成功したかは見て取れます。
金剛級とは比べ物になりませんね。
長門に至っては水爆を受けて浮いていました。

この様にユトランドの戦訓から考察された重装甲自体は一定成功を修めてたわけです。
問題はそれが不要or無意味になっていく時代の推移を見ることができなかったという事でしょう。

ついでに大和級については、ついに通る事ができなかったパナマ運河の幅が影響したそうです。
速力を出す事はできるのだけど、パナマ運河を通れない幅の艦になっちゃうので、沢山船を作ることができない日本は将来、パナマ運河を通って大和、武蔵を運用するつもりだったようです。

もし通るつもりがなかったら6軸にでもしたんでしょうかね?
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
大和については装甲が単なる貼り付けではなく構造材の一部だったようで、単純に剥がすわけにはいかなかったようです。

お礼日時:2003/05/07 20:41

 速度を追求するために装甲や火力を犠牲にするのは本末転倒だからです。

大和は艦隊決戦の切り札として、アメリカの保有するあらゆる戦艦に対して、砲撃戦で勝つ事を至上の命題として設計されました。したがって装甲を薄くする事も主砲の門数を減らす事も、軍部にしてみれば論外だったと思われます。ただでさえ戦艦の「数」では負けていたわけですから。

 蛇足ですが、大和がそれほど鈍足だったとは思いません。大和より高速だった日本戦艦は金剛級の4隻だけで、扶桑級、伊勢級、長門級は金剛級より新しいにもかかわらず、速力は25ノット止まりです。金剛級は夜間、水雷戦隊の突撃を援護する目的で特に高速が要求された艦で、当初は巡洋戦艦として建造されましたから、当然といえば当然ですね。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
アメリカの戦艦は当時もっと足が遅かったのでこれでよかったのかもしれませんね。

お礼日時:2003/05/07 20:35

 次の本に、一つの答が示されています。



北村賢志『虚構戦記研究読本 兵器・戦略篇』光人社

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4769809 …
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この回答へのお礼

有難うございます。
早速読んでみます。

お礼日時:2003/05/07 06:40

ひとつには「大艦巨砲主義」にこだわった思想があったこと。


戦艦対戦艦としての戦闘には、機動性よりも強力な
放火を搭載する方が有利という理論もあり、
最高巡航速度よりも旋回性を重視してありました。

末期になって姉妹艦の武蔵にはあった「側砲」を降ろし、
大和のみは対空砲に換装しています。

さらに失敗は、品質の良い重油を確保出来なかったこと。
これは航空機でも同じで、戦時中期から深刻な問題だった
そうですので、とても設計当時の性能を発揮するのは
無理だったと思われます。

やむなく仕様を変更して、粗悪な燃料でも可動出来るように
手を加えたものではないでしょうか?
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

余談ですが大和は当初予定していた大型ディーゼル機関の開発に失敗したのがパワーダウンの原因と聞いています。

お礼日時:2003/05/06 23:56

そのころの軍部は空母よりも戦艦だと戦艦に力を入れていたんです。

やはり速力よりも火力を優先したんじゃないでしょうか。アイオワの主砲は確か405ミリでしたっけ、自信がありません。一方、大和の主砲は460ミリです。火力においては(火器統制システムなんかは比べ物になりませんが)大和が上です。なぜ大和を高速船にしなかったかは、私が思うにその役割は巡洋艦や空母艦載機がやればいいと思ったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

夜分遅くにもかかわらずすばやい回答有難うございます。

お礼日時:2003/05/06 23:48

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