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倒幕への流れの中で、尊王攘夷派の薩長土佐では、藩主よりもむしろ、臣下の者の働きが歴史的によく語られております。

当時であれば藩命により人生が左右される程に藩主の力が大きかったと思うのですが、家臣が比較的自由に活動をしているように思います。(高杉、伊藤、西郷、大久保、坂本等)

この点に関し、藩主と家臣の力関係の変化につき、ご見識のある方は、お教えください。

A 回答 (4件)

度々No.2です。


一度にまとめきれなくスイマセン。

薩摩の場合は、藩主が二代に分かれます。
まずは、島津斉彬時代。

全て書くと長くなるので、要点だけで説明しますと、藩のお金を
使って、藩を強くした殿様です。
当たり前に思えますが、当時の考えではなかなか賛同できない
行動であって、金は貯めていくという観念でした。
藩そのものの生産性を上げて、情報を得て、強くなることが、
とても重要なことを知っていた頭のキれる殿様でした。
下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用したのも、この
殿様です。

中央幕府においても、外様という身分でありながら、積極的に
老中などに意見を述べ(それを受け入れる、老中・阿部正弘も
すごい)薩摩の地位を上げていきました。
攘夷を唱えても、国力が弱いので植民地になってしまう。という
先見の明を持っており、まずは外国の力を利用して、国力を
付けるよう活動しておりました。
が、志半ばにして逝去。この跡を、弟の島津久光が継ぎます。
(正確には実子が継いだことになりますが、権限は久光)

ここからの話も非常に複雑になるので、端折って説明してしまう
と、西郷や大久保に操られ(といっても、西郷とは死ぬまで仲が
悪かったので、大筋は大久保の傀儡)藩政を倒幕に置き換え
ます。

久光は倒幕した暁には、自分が中心の島津幕府ができると
思っていた節があり、維新後の廃藩置県や都城県について
激怒していました。
結局、藩の代表でしかなかない(今でいう県知事)身分に嫌気が
さし、廃刀令においても、中央政府に最後まで反抗し、生涯マゲを
切らず、帯刀・和装をしていた。


ということで、薩摩の場合も藩主よりも、実際に活動した西郷・
大久保がクローズアップされるわけです。
久光においては、藩内においても評判がよろしくなかったことから
今でもあまり語り継がれませんね。
斉彬においては、幕末夜明け前に活躍していたこともあり、影が
薄くなっていましたが、「篤姫」の影響もあって、近年活動が見直
されてきた傾向にあるかと。
書き忘れますたが、「篤姫」は斉彬の養女で、外様である薩摩藩
から徳川家へ輿入れすることは、当時とても考えられないこと。
斉彬の薩摩藩の地位向上のための政略でもあります。


以上。ながながとなりましたが、薩長土の藩主が多く語られない
理由です。
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この回答へのお礼

非常に良くわかりました★
まさに、幕府というGreat Powerをめぐる藩同士のBalance of Power の世界ですね。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2009/11/03 07:27

No.2です。


土佐の話が長くなってしまったので、引き続き薩摩・長州の話を。


簡単なところで、長州の話。
長州の藩主である毛利敬親は、この時代に非常に稀有な考えを
していた藩主であり、家臣のやることについて、異議を唱えることが
なかった。
「殿、徳川を潰しましょう!」「うん、そうせい」
「殿、薩摩と手を結びましょう!」「うん、そうせい」
と、家臣が言うことに対して、なんでも「そうせい」と言っていたことから
「そうせい侯」と呼ばれています。

家臣を信じており、人物眼が優れており、物事の理解力に富んだ殿様。
という意見や、まったく何も考えなかった殿様。とも言われています。
世評では、後者をとられがちです。
小説家の清水義範さんは、「この殿様がもっと馬鹿でも、もっと利口でも、
長州藩は途中でつぶれていたであろう。無能な名君、という不思議な人も
歴史の中には存在するということだ」と言っていました。
僕も同感です。

ということで、長州に至っては藩主が評価されていないわけです。


次は薩摩の場合ですが、これがまた複雑な事情が・・・。
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回答者No.1の方もおっしゃっていますが、薩摩、長州、土佐では


それぞれ、藩主と臣下の対応が異なります。


まず、土佐から。
土佐の歴史は複雑で、関が原以前は長宗我部家が支配をして
おりました。しかし、関が原で東軍が負けてしまうと、長宗我部家も
土佐の地を没収されて、変わりに土佐を収めたのが、山内家です。

長宗我部の家臣は厳しい身分制度にさらされ、武士でありながら
権限を剥奪された「郷士」という身分でした。
勝ち組の山内の家臣は、そのまま「上士」という身分です。郷士は
なかなか出世ができません。

郷士出身の武市瑞山という者が、藩を動かそうと尊皇攘夷のまと
まり「土佐勤皇党」を結成します。(坂本龍馬も一時期加入)
上司組である、後藤象二郎、福岡孝悌は郷士の活躍が面白く
なかったでしょうが、長州に非常に強いパイプを持つ武市の影響力
を無視できず、土佐はしばらくの間、武市の頼りに藩政を委ねます。

が、八月十八日の政変によって、幕府が長州を追い落としてからは
世論が一転し、尊王派の勢力が弱まります。
そこで、武市は藩政を勝手に動かした、などの罪にさらされ切腹。
土佐はあくまでも、徳川寄りの姿勢を保ちます。

が、またまた情勢は一転。尊王派の長州・薩摩が力を付けてくると
土佐も藩政を尊王倒幕派に移行したい。でも、長州のパイプ役で
あった、武市は殺しちゃったし、どうしよう。。。。そこで目を付けたの
が、坂本龍馬と中岡慎太郎。この二人は、藩に頼らず、脱藩し、個人
の働きのみで、長州や薩摩から信頼性を得ました。
土佐藩として、今後長州や薩摩と手を結びたい。当初は、上司の
後藤や板垣退助を用いていましたが、今ひとつ効果をあげれずに、
坂本・中岡に泣きついたわけです。

坂本・中岡は藩を利用して倒幕を遂行。藩としては、坂本・中岡を利用
して、藩の地位を上げたい。
結局は、坂本・中岡が維新前に死んでしまったので、藩が二人を利用
して、薩長土肥の位置に就くことができました。

徳川が潰れずに、権力を朝廷に返す、「大政奉還」は坂本の案であり、
それを上司の後藤に伝え、後藤が藩主の山内に伝えました。
山内は喜び、徳川に「大政奉還」を建白し、歴史の一役をかったわけ
です。
もともと藩主山内は、徳川擁護派でもあったので、明治維新後は、
酔っ払いながら、徳川を大声で擁護したために、新政府から疎まれ
意見が尊重されることはありませんでした。


土佐の場合、藩主の力によって倒幕が遂行できたわけではありま
せん。倒幕派の力が強い時には、倒幕派。徳川の威勢がいいときは
徳川派。その様は、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されました。
最後には、個人で活躍する坂本・中岡が土佐藩出身ということを
利用した形になるかと。
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この中で土佐は薩長とは全然違いますよ。


藩の中で尊皇攘夷を訴えた武市半平太は切腹となっています。
坂本は脱藩して早くから尊王活動(攘夷とは程遠い)をしていて、最後になって時代の流れが倒幕で決まりかけたところで、藩が坂本にうまく乗っかった形です。

薩摩は西郷が前藩主斉彬のもとで藩内での力をつけました。
その後久光は西郷を流罪にしたりして押さえ込みを図りますが、結局彼の力を使いこなそうとして失敗しています。朝廷工作等藩外交を担っていたのが西郷大久保小松で、ある程度の段階になるともはや外すに外せないといった感じですね。

長州は、なんか家臣のコントロールが利かずに勝手に勢力争いをやったり倒幕活動をしたりしている感じですね。倒幕意識だけはお家柄で強いようですが。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます★

お礼日時:2009/11/03 07:28

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