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蓮如の信徒組織の特徴(講?)

蓮如の布教の強みは、かなまじりの手紙と、信徒を組織化した点にあると聞きました。
その認識は正しいのでしょうか。

蓮如の信徒組織の特徴および功罪を教えてください。

A 回答 (1件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>蓮如の信徒組織の特徴および功罪を教えてください。

これには、一言では言い切れず、浄土真宗の歴史から見ていく必要があるように思います。少し長文ですが・・・。

(1)親鸞が生前、布教に努めた関東では、弟子の真仏坊(しんぶつぼう)に始まる「高田門徒(たかだもんと)」。

(2)同じく弟子の性信坊(せいしんぼう)の「横曽根門徒(よこそねもんと)」。

(3)やはり弟子であった順信坊(じゅんしんぼう)の「鹿島門徒(かしまもんと)」。

(4)これらの勢力が拡大していきましたが、特に、「高田門徒」は下野(しもつけ=栃木県)の専修寺(せんしゅうじ)を中心にして奥羽地方から東海地方にまで教線を伸ばし、初期の宗教団の主流を形成した。

(5)しかし、その後に三門徒派からは、数々の分派が形成されていった。

(6)一方、京都では親鸞の末娘覚信尼(かくしんに)が、大谷の地に建てた親鸞の廟堂を夫の小野宮禅念(おのみやぜんねん)と共に管理をしていた。

(7)関東各地の諸派が勢力を拡大していたため、覚信尼は、関東の門徒たちと結束することで自らの地位を守ることを決断し、廟堂と土地、親鸞の彫像を関東の門徒たちに委ねる替わりとして、自分自身やその子孫は廟堂管理の「留守職(るすしき)」に祭り上げられることとした。

(8)しかし、覚信尼の孫の覚如(かくにょ)は、廟堂に「本願寺」の額(がく)を掲げて寺として整備をし、独立した教団とし、本願寺中心主義を推進し、関東の門徒たちとの糾合(きゅうごう)を目指した。

(9)覚如は、まず、「親鸞伝絵(でんね)」とする多くの「親鸞賞賛」の著作を行い、宗祖の「徳」の宣伝に努めて関東門徒たちとの交流を開始した。

(10)しかし、一方では、血統だけではなく法脈の中心を親鸞から如信(にょしん)、そして、覚如自らであるとする「三代伝持(さんだいでんじ)」を唱え、自派の「正統性」を主張した。

(11)これに対して、高田門徒の分派で京都を中心にして教線を広げていた「仏光寺門徒(ぶっこうじもんと)」は、これを強く非難し、覚如と対立を始めた。

(12)また、高田門徒の中でも覚如と意見が対立していた顕智(けんち)が三河や北陸と東西に渡って教線を拡大し、覚如を激しく非難したため、覚如は止む無く長男の存覚(ぞんかく)を「義絶(ぎぜつ=破門)」して、和解の道を模索したが、以後、本願寺派は低迷の時代に入ることとなった。

(13)こうした中で登場したのが「本願寺派」の「蓮如」で「真宗中興の祖」と呼ばれた人でした。

(14)蓮如は、高田門徒などとの対立を避けながら奥州にまで布教活動を広げ、43歳の時、父存如(ぞんにょ)の跡を継ぎ、本願寺第8代法主(ほっす)に就任。以後、本願寺中心主義の完成を目指して一大活動を展開し始めた。

(15)蓮如は、まず、琵琶湖の湖上交通特権を与えられて豪族化していた「堅田衆(かただしゅう)」を門徒に引き入れることに成功し、これにより教線は近江、摂津、三河などまで拡大した。

(16)しかし、対立する高田門徒の真彗(しんすい)が比叡山を動かし、本願寺派を「異端派」と宣言。

(17)蓮如は止む無く、文明3年(1471)に越前の吉崎に本拠を移した。

(18)この地で、蓮如は頻繁に「御文(おふみ=手紙)」を本願寺門徒たちに送り、指導を継続すると共に、「講」や「寄合」という末端組織作りをし、本願寺派による中央集権体制を確立していった。
(これが、あなたのおっしゃる>>蓮如の布教の強みは、かなまじりの手紙と、信徒を組織化した点にあると聞きました。です)。

(19)その後の蓮如としては、本願寺派が急成長したが、応仁の乱(応仁元年・1467)に呼応する形で門徒たちが「一向一揆」に巻き込まれて、地方豪族や大名たちに非難を浴びせられる中、蓮如は吉崎を退去し、京都の山科(やましな)に本願寺を建立し隠棲(いんせい=隠居)した。

(20)しかし、隠棲はしたものの仏光寺第12世の長男の経豪(きょうごう)を説得して、本願寺は54寺のうち42寺を傘下に収めている。その結果、本願寺派は真宗の主流となる。

(21)その後、明応5年(1496)に蓮如が建立した石山本願寺(大阪)へ16世紀になって第10世法主証人(しょうにん)が本拠地を移転すると、本願寺派はさらに強固な勢力となった。

(22)しかし、織田信長と石山合戦が勃発し、本願寺派は大打撃を受け、以後、本拠地を転々と移した。

(23)豊臣秀吉の代になり、本願寺は京都に寺領を寄進され、やっと、安泰の日々が送れるようになった。

(24)徳川家康の時代に入ると、本願寺派は巨大化し過ぎたためか、東西の2派に分かれてしまった。

結論:(功罪)
(功)「阿弥陀如来」に、ただひたすら念仏を唱えるだけで、誰もが「極楽浄土」に行けると、民衆に分かりやすく説明した。
従って、教線が飛躍的に拡大していった。
(罪)一向宗(浄土真宗)自体には、土豪や大名に「反抗」する「反抗集団」ではなかったが、浄土真宗の教えの中に「同朋(どうぼう)」という集団自衛権の確立を思わせる教えがある。
一向一揆は決して一向宗門徒が集団自衛権を求めて起こした一揆ではないが、土豪や大名たちの圧制に反抗した者の中に「たまたま、一向宗門徒が多く居た」。つまりは、一向宗を信奉する人々が多かった中での一揆であったため、「一向一揆」=「一向宗の人々が起こした」と捉えられた。
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